葦津泰國の、私の「視角」

 私は葦津事務所というささやかな出版社の代表です。日常起こっている様々な出来事に、受け取り方や考え方を探ってみます。

>東北関東大震災に思う3

2011年03月26日 07時35分06秒 | 私の「時事評論」

 世界が注目する日本人の特性

 地震や災害など直接人々が本性むき出しで動かざるを得ない事態に直面すると、日本人は世界の諸民族とは少し違った「日本人らしさ」がそのまま表に出てくる行動をする。

 今回の東日本大地震での日本人の動き、それが我々とは異なる外国の人々の目にどう映ったか、読まれた方も多いだろうが、これは日本人が自分らの身についている特性として、知っておくのがぜひ必要だと思って、この一章を先ず記しておこう。

 総じて、世界の人々は、とっさにどう動いて用のか分からぬパニック状態が生じた時は右往左往して、正常な時なら当然と思われる冷静な行動は取りにくいと受け取るのが常識だと思っている。各地で起こった震災は、居合わせた人々のこんな騒ぎを伴っていた。

 しかし、それが常識と思う人の目に、日本人の対応は以上であった。一言でいえば、集団としての規律がどこにおいても維持されていたのである。それはあの惨事が起こった非常事態において、収拾がつかない混乱を抑える力として大いに効果があったとみて差し支えないだろう。中には想定されないほどの大きな津波に襲われて、日ごろの指導によって校庭に集まった学童たちが、次の事態への対応ができないでいる間に波にさらわれてしまった痛ましい事故のようなものもなかったわけではないが、少し、ネットに紹介されている外国人の報道の中から、私の目に触れたいくつかの外国のメディアの報道を掲載してみよう。

 この種の情報をあまり詳細に調べるのには私の取材技術に限界があるので、失礼ではあるがインターネットの今井明徳氏の「ブレークタイム・目にとまった新聞ニュース記事」などいくつかの記載の一部を、そのままここに紹介する御無礼をお許しいただきたいとお断りをしておく。

 ○ 「震災後も整然」=3・14日 上海時事(時事速報)

 中国各紙は13日、東日本大震災で大きな被害を受けながらも、日本人が整然と行動し、街の秩序が保たれている様子を驚きをもって伝えた。

 上海紙・東方早報は、仙台市に入った記者が「わずかに営業しているスーパーの前に、住民が整然と列を作り、便乗値上げもない」、「停電で信号が消えても、車は譲り合って走行している」などと伝える現地ルポを掲載した。

 中国最大の夕刊紙・揚子晩報は「東京では多くの市民が駅に足止めされたが、階段で両端に座り、人が通る道をあけた」と、写真付きでマナーの良さを紹介した。有力経済紙・第一財形日報は休刊日にもかかわらず大震災の特集号を発行。「未曾有の自然災害に直面した日本人の冷静さが我々に深い印象を与えた」とし、背景には日ごろの地震への備えやテレビによる迅速な情報提供があったと分析。工場の操業停止を相次いで発表した日本企業の情報公開姿勢も評価した。

  ○「日本人には道徳の血」-3・14日 asahi・com(北京・古谷特派員)

 東日本大震災について、中国メディアが「日本民衆の『落ち着き』が強い印象を与えている」(前記第一財形日報)「日本人はなぜこんなに冷静なのか」(新京報)といった記事を相次いで報じている。2008年の四川大地震では一部で混乱も伝えられており、市民の驚きをもって報道に注目しているようだ。

 国際情報紙の環球時報は12日、「日本人の冷静さが世界に感慨を与えている」。普段は日本に厳しい論調の多い同紙だが、「(東京では)数百人が広場に避難したが、男性は女性を助け、ゴミ一つ落ちていなかった」と紹介した。

 中国中央テレビは被災地に中国語の案内があることを指摘。アナウンサーは「外国人にも配慮する日本に、とても感動します」と語った。

 報道を見た北京市の女性(57)は「すごい、日本人の中には『道徳』という血が流れているのだと思う」と朝日新聞に語った。

  ○「日本人は冷静、不屈」-3・15日経 秋田編集委員

 「日本人の威厳ある対応に海外から賛辞が集まっている。中国も例外じゃない。そのことを知っておいてほしい」。東日本大地震が日本を襲った直後、海外の知人から安否を気遣うメールがいくつか届いた。なかでも印象的だったのは中国系メディアで働く旧友からのこんなメールだ。

   ○「我々はあなた方と共にある」-ロシア独立紙「ノーバヤ・ガゼータ」

  この中でタス通信のゴロブニン東京支局長は「(日本にとって)第二次世界大戦直後に匹敵する困難」と今回の地震を指し、「日本には最悪の事態に立ち向かう人の連帯がある」と日本の特徴を強調している。

  ○「日本の防災意識の高さ」=パキスタン英字紙ネーション 3・13

 日本の防災意識の高さと規律正しさが救いであったと指摘。「日本は第二次大戦の荒廃から見事に復興した。また、新たな奇跡を起こしてくれるだろう」と結んでいる。

  ○「日本以外で地震が起きたら」-インド経済紙ビジネス・ライン

 「日本以外で(この地震が)起きたら、これだけの対応は見られないだろう」と粛々とした被災地での対応を驚きをもって伝え、「日本人はこの悲劇から立ち直る」との駐大阪総領事ヴィカス・スワルプ紙の断言するコメントを掲載した。

 実際、海外メディアでは略奪や暴力が起こらず、秩序を保って対応する日本社会への激励や賛辞であふれている。14日付の日本の主要紙朝刊によると、米紙ウォール・ストリート・ジャーナルが「不屈の日本」と題する社説で、日本の底力を評価した。英紙インディペンデント日曜版は「がんばれ日本。がんばれ東北」とのメッセージを一面全体に掲載。ロシアや韓国、インド、パキスタンからも日本人の冷静な対応をたたえる論評が相次いでいる。



 このほかでもシンガポールのストレイツ・タイムス、は「静かなる威厳」との論説を掲げ、この危機的状況下でも礼儀と忍耐を忘れない日本人の姿を伝え、日本は自然の引き起こした混乱の中に、秩序を保とうと取り組んでいると伝え、ベトナムやインドなどの新聞にも、「怒号や喧嘩もない。こんな時でも長い列を作って公衆電話を待つ姿」などに、また「天井や壁の完全に崩れ落ちた災害の中にあっても、すべての規律は保たれていた」、「避難民は暗闇の中でも、秩序正しく並んで救済の物資を受け取っていた」ことなどを特筆して伝え、中でも中国の新京報(前出)などは、被災地の学校の校舎や公共建物などが避難所として活用されている姿にまで目を向けて、耐震性がしっかり守られて立てられているから、こんなときに活用されるのだというところにまで触れている。

 ここに紹介するものはとても世界の情報というのには範囲が狭い。だが丹念に調べれば、これは他の国のメディアも同じような潮流が主力なのだと推測する。私は退職をするまでは、通信社より、世界の主要各メディアの日本に関する論評などのデータを参考のために配信を受けて購読していた。阪神淡路大震災など、日本の震災に対する世界の報道もこれによく似た論評であったのを記憶している。



 復興への大切な宝は日本の民族性

 度々襲ってくる震災は、地震国日本にいる限り、我々はその発生を防ぐことができない。人間のいまの技能で自然の動きを食い止められないかと考えるのは、自然の威力と人間の営みとの差を冷静に見ない発想である。それどころか、震災を予知する能力も、まだまだ我々は身につけていないとことを知るべきである。

 そこで大地震が起こったときに、それに耐えうる構造はどの程度まで可能かを考えて準備することになるのだが、今回のように、いままで経験したこともない大きな地震に直面する場合、備えを完備して対応することは不可能であろう。どこまで猛烈な衝撃が想定できるか、それを予想するのは可能であっても、地震対策のみに無限の費用をかけるわけにはいかない。経済性などからもおのずから限界がある。

 そんな条件の下で、万一の事態にどれだけ被害を少なくするか。それを考えると、精いっぱいの物理的耐震条件を整え、あとは人々がどうやってうまく動き、被害を最小限度に抑えながら対応するかの防災のソフト面での充実以外にないことになる。非常事態に対応する効率的な避難計画と訓練、避難した人々をどう支えていくかの支援訓練の問題、起こり得べき混乱をどう防ぎ、皆が統一をとったままに行動できるかの問題である。

 そんな問題を考えるとき、先に紹介した日本に対する評価は、日本がこれらの防災に関しても、すでに高い能力を持っていて、世界の諸国の中でも特徴ある国であることが示されているように感ずる。



 積み重ね練られてきた民族性

 最近のわが国内での日本人の自己評価には、客観的に見た我々の姿とは思えないふしの論も多いようだが、私は日本人は歴史的にも、共同して事態に対処する能力を持ち合わせた珍しい民族であると思っている。だがそれは、日本自身がその美点を評価するのに鈍感で、そのため従来の日本人の持っていたそれと比べて、必ずしも進歩しているとは思えない。せっかく備わっていた大切な長所が、最近は充分に発揮されなくなっているのではないかとさえ思っている。

 日本人の持っている長所、それは何も日本人が体質的に、あるいは遺伝因子的に優れたものを生来備えているということではない。ただ日本の長い一貫した歴史が、そのような民族性を形作るものであったこと、そんな歴史の蓄積が我々日本人の生活の中に色濃く沁み込んで、日本人の民族性を作り上げたのだと私は考えている。日本人は自分が生きている共同社会を大切にし、社会の中で協力し合って生きてきた。それは日本列島の地形や日本に長く定着していた日本型の米作文化、その文化が作り上げた日本の信仰、生活感、家族観、そして天皇制度などとも深くかかわっている。

 日本列島とアジアの大陸とは実に微妙な距離があり、それがこんな日本人を作り上げる基になったと私は思っている。日本に住みついた民族は、大陸から異民族が、大量に海を押し渡ってくるのには海が防波堤になり、簡単に民族が征服されるのを免れた距離にあり、かといってその距離は、船に乗って少数のものが大陸と交流し、海外との文化交流の道を閉ざすほど離れてはいなかった。

 そのため数千年もの長い間、日本は大陸文化の恩恵に浴しながらも天皇という祭祀王のもと、独自の文化をはぐくみ暮らすことのできる条件下にあった。日本人は民族がまとめて大陸の異民族につぶされてしまうとの危機感を深刻に持つ必要はあまりなく、かといって、外国文化から格段に劣る水準の暮らしをしなければならないこともない、独自の文化を築いて今まで来れる条件に合った。これが大陸に接する諸民族のように、深刻な危機意識や恐怖を経験することもなく、穏やかで平和的な日本民族が独自の文化を支える基礎となった。日本人の共通の信仰であった神道には、外来者を客人(まろうど)として格別に大切にする侵攻までがある。これは日本の性格をよくあらわしている。

 だが、この列島はほとんどが山地で、人が暮らし、耕すことのできる平地はわずかしかない条件のもとにあった。そんな条件下でもかなりの数の人口を養い、文化を育てることができたのは、徹底的に磨き上げられた稲作技術を人々が身につけていたからであった。

 先祖の先祖から子々孫々まで、一貫して同じ土地に暮らす日本人は、山の頂きから河口まで、いたるところを集団で治山治水して集約型の連作稲作で生活を支えた。そこでは家族、地区、、字、県などの集団が大きな役割を果たし、自然の神に豊作を祈るまつりも集団で行われ、そのまつりの組織を通じて政治も生活も行われた。日本ではいまでも政治のことを「まつりごと」と言い、そんな祭りごとを束ね、全国の祭事の頂点に立つ天皇を「まつりぬし」という。そんな集団を大切なものとする生き方が自然になっていた。

 短い文で細かいことにまで触れられないのは残念だが、震災などにおいての日本人の集団の秩序を守って行動する民族性は、こんな日本に積みかさねられた蓄積の上に出来上がっている規範意識がある。それは一朝一夕で身に付くものではない。



 西欧化のために混乱はし始めたが

 日本はここ60年ほど、そんな自国の生活が生んだ思考方法と、自分個人の我を追求する大陸型の思考方法を比べて、従来の日本型の思考法は、時代遅れの封建思想として否定する風潮の中に過ごしてきた。だが、そんな簡単なことで日本人の生活にしみこんだ生活臭は消しされるものでない。その日本らしさが、今回の日本独特の対応法として世界の注目を浴びたことを知るべきだと思う。

 少なくとも人々が個人個人で即座に対応できないような危機を迎えてパニックになったとき、雲の子を散らすように皆がばらばらに勝手な動きをするがよいか、あるいは平常時に充分検討したマニュアルによって、秩序正しく動いたらよいか、考えたほうが良いのではないだろうか。またよく「日本人は勤勉だ」、「奇跡の発展を成し遂げた」、「人に対して親切だ」、「自然とともに生きている」など、様々な評価を受けることが多い。しかしそれを突き詰めてみると、それらがいずれも、日本が従来より育んできた古い型の日本の伝統的な文化の産物で、我々がいま、軽視して捨て去ろうとしているかに見えるものの名残によるものであることに気がつく。



 国の組織が破壊された中において

 いまの日本は、政治の制度、社会制度がスッカリ自立する方向性を失って、どちらを向いているのかさえもわからないような時代と言える。これが戦後民主主義という風潮の当然たどるべき道筋であったことは否定しきれない現実となってきている。短い文でそこまで書き進むわけにはいかないが、それは私がいま、発行している「葦津珍彦いリーズ」などで確認していただきたい。

 日本は従来の良さを古いもの、時流に合わないものと脱ぎ捨てて、家庭の崩壊や近隣のものとの親睦の否定、努力しないで生活だけは豊かにしよう、弱肉強食、郷土の喪失、争い合って生きていく生活感を求めていこうとする潮流の中にいる。政治の混乱も、こんな空気が投影された姿と見ることができる。

 そんな中でこの大地震が起こった。そのことをしっかり眺めて、我々はこれからいったい、どう進んでいけばよいか、考えてみたいものだとだけ書き残し、このシリーズを締めくくりたい。                                   完


東日本大震災に思う2

2011年03月24日 11時00分57秒 | 私の「時事評論」
 天皇陛下のお言葉

 東日本大震災に襲われた翌日、天皇皇后両陛下は宮内庁長官を通じ、首相に対して、犠牲者へのお悔やみと、負傷者や被災者に対するお見舞いのお気持ちを伝えられた。

 また陛下よりのご指示で、「春の園遊会」はこの時期にふさわしくないとお取りやめになり、陛下は都内などへのお出ましもすべてお控になられ、「困難を分かち合いたい」と、皇居は今回は指定除外区域になっているのだが、計画停電にも自主的に協力されると参加され、宮中での国事行為などの時間を除き宮殿を閉鎖、節電されるとお決めになった。また、被害に遭った人々を励ましたいと、被災地へできるだけ早く訪問して、お見舞いをされたいとのご意向を伝えられた。

 今回の首都圏の計画停電、通信社、テレビ、政治機能、自治体管理、金融機能や海外連絡機能などの主要施設が集結し、エレベーターがなければ利用もできない超高層ビルが並ぶ東京の23区の主要部には適用から除外されている。一見、合理的に思える面もあるのだが、これに対しては、毎日何時間かずつ停電に協力している周辺の国民から「節電の不自由を忍んで協力するのはやぶさかではないが、住んでいる地域によって不平等が生じているのは望ましいことではない。都市の中心であっても、同じ不便さを共有することが国民一致協力のためにも必要ではないか」との声も起こっている。国民が一つになって協力する時には、形式に流れず、そんな精神的な配慮はぜひともしなければならない。周辺の住宅に住む人たちは、さらにこの上、東京など中心部に通うために、節電のため間引きされた電車に乗ったり、ガソリンスタンドで長い行列の末給油をしながら通っているのだから。一致して共通の目標に我慢して協力する精神が崩れたら、少々電力を節約しても何もならない結果になる。

 脱線をした。本旨に戻そう。そんな中で、首都東京の中心にある天皇陛下のおられる皇居の中だけはすっかり明かりが消されひっそりとしている。どんな時でも国民とともに、同じ苦労を共有したいという天皇陛下のお人柄がはっきりと示される形となっている。

 さらに陛下はこれに続いて震災の五日後には、異例のビデオメッセージを発表された。

「震災の報道など、緊急のニュースなどが入った時には、いつでも中断して残りはあとで放送ができるように」とわざわざ内容をコピーされ、細かい配慮をされた上のメッセージであった。テレビ、ラジオなどを通じて被災者に、そして全国民に「いたわり合い、分かち合いによって災害の克服と復興をしよう」と直接呼びかけられる内容で、また被災した五つの県に対してはお見舞い金を贈られた。

 震災やその他の危機、日本に危機が訪れた時には、毎日を国民のためにひたすら祈りに過ごされ、まつりをしておられる陛下、「無私の陛下」、どんな時でも全てをなげうって国民のために祈り続けられるのが陛下である。国民に一つになってまとまって危機を乗り切ろうと訴えられ率先垂範される。国民は天皇陛下のこんな御性格をよく知るだけに、陛下のお言葉は全国民に格別の重みをもって受け止められる。御即位以来二十数年、全国で起こった震災に関しても、いつも国民に強い精神的な支えとなって被災者たちの立ち直りと被災地の復旧に力を入れ、それを神々に祈ってこられたのが天皇陛下である。それは御即位の際に、昭和天皇の御心を継がれて、国民のためにひたすらお勤めになることを誓われた陛下の、そして陛下を支えられる皇后陛下のお姿である。それは昭和天皇のお心でもあり、何千年も続いてきた日本の天皇の、守り続けてこられたお心でもある。こんな歴代の天皇に一貫して流れ伝わってきている帝としての心を、我々は大御心(おおみこころ)と呼んでいる。

 ここに日本の皇室の特徴がある。



  スイセン通り

 震災ついでに、話は平成5年の阪神淡路大震災の時にちょっと戻る脱線を許されたい。当時の両陛下にまつわるエピソードは多くがまとめて発表されたので、それらを覚えておられる方も多いだろう。最近でも、伊勢雅臣氏のメルマガ「国民の幸を願われ20年」、斎藤吉久君のメルマガ「誤解だらけの天皇・皇室」などは、こんなエピソードに時折焦点を当てて記述している。そんなものも参考にして、少し両陛下の震災へのお取組みなされたお姿の一端を紹介したい。

 まずここに一つの御歌を紹介する

 なゐ(地震)をのがれ戸外に過ごす人々に雨降るさまを見るは悲しき

阪神淡路大震災の直後、天皇陛下がおよみになった御製である。陛下の御製は一般の人の歌とは違い、人に見られるといったことを意識される虚栄の飾りがなく、ストレートに人の心を打つ力がある。己の欲望や気取り、飾りなどを捨てられ、無私の御心で、祖先や神々にお祭りを続けられるたった一人のお方、天皇陛下にしかおよみになれない独特のものが、御製というものの特徴である。

 刻々と入る大地震の報告を受け、一刻も早く現地に行って、人々を見舞い励ましたいと思われたのだと拝察申し上げる。地震から二週間後、陛下は皇后陛下とともにヘリコプターで現地にお入りになった。両陛下は被災者たちの前に座られ、手をとって、心の底から彼らを激励された。そのお姿に被災者たちに大きな感激を受け、この震災の被害に立ち向かい、それに打ち勝とうとの決意を強く感じさせることになった。米国誌・タイムは、泣き崩れる若い女性を優しく抱かれた皇后陛下のお写真を掲載、「人々は村山首相の視察には冷淡であったが、天皇皇后を希望の象徴だとお迎えした」と両陛下のご慰問の姿を報道した。

 この御訪問の前に、両陛下はお車に乗り換えられ、この神戸市長田区の被災者の集まる場所に到着される直前、ちょうど商店街のアーケードが火災で焼けたところの前で、突然行幸の車を止められた。

すると、皇后陛下がそっと車を降りられ、お持ちになったスイセンの花をそっとたむけられ、手を合わせて震災に伴う火災で亡くなられた人たちにであろう、慰霊されておられる姿が目撃された。あとで秋篠宮が話されたところによると、皇后さまはこの日、皇居のお堀の傍らに咲くスイセンの花を摘まれ、持って行かれたのであろう。何の説明もなく予定表にもなかった一時の出来事、これを見て罹災者一同はそのお姿に感激し、「いやもう、これは我々が頑張る以外には無いではないか」と決意を新たにしたという。

 両陛下はその後、罹災者の仮設住宅がなくなるまで、常に被災者の身を案じてお言葉を述べられたし、記者会見などでは、必ず被災者の立ち直りを案じている言葉を述べられた。皇族方も陛下に続いて、相次いで被災者のお見舞いに来られて、皇族方のご慰問の数は10年間で17回にも達した。被災者たちは、不幸な境遇に立って、悩み苦しんでいるのは自分たちだけではない。両陛下をはじめ、みんなが見守ってくれているのだと、強い自信を持つことになった。

 震災から十年後の平成17年、震災からの復興の式典に両陛下は三度目の被災地のお見舞いをされた。お出迎えに居並ぶ被災者たちはみな、スイセンの花を持って沿道でお迎えした。そして両陛下のお車の車列が見えると、そのスイセンを高くかざした。

お進みになるお車は、それを見て速度を緩め、お車の窓を開けられて、手前に皇后さま、そして奥の席の天皇様が笑顔で手を振られた。両陛下のお姿に皆はちぎれんばかりにスイセンの花を打ち振り、お車が去ったあと、皆の持つスイセンの花は打ち振られてほとんど折れてしまっていた。あらかじめ予定されたことではなく、こんな心の通じた交流が展開される。これが日本という国の国民と天皇陛下の姿である。

 神戸市長田区、皇后陛下がスイセンを手向けられたその場所は、大震災からの復興のシンボルとしてコミュニティー通り「スイセン通り」と名付けられ、美しい神戸の震災復興の象徴となっている。



 震災復興と天皇陛下―関東大震災

 天皇陛下の震災復興のご活躍は、平成18年の中越地震でも示された。両陛下はこの時もヘリコプターで被災地山古志村をご訪問になり、被災者たちを親しく見まわれた。当時の村長長島忠美氏は次のように語っている。

「私たちはあのとき、絶望の中にいました。場合によっては一人ぽっちになるかもしれないと思っていました。しかし両陛下がおいで下さった。私たちは一人ではない。これだけで勇気につながったとおもっています。――天皇皇后両陛下は、私たち政治家にはできないことをやってきて下さっていると思うのです。それは大きな御心で国民全体を愛するということです。そのお気持が国民に伝わるから、勇気になったり、感謝の気持ちになったりもするのだと思います」。

 この時も被災者の国民は天皇陛下・皇后陛下のお気持ちに支えられて復興の事業に専心することができた。地震は日本にとっては避けられない天災で、多くの痛ましい被害を生みだしている。だが、そのような被害から日本人が立ち直り、もう一度繁栄のために努力する力の一つとして、天皇・皇后陛下を中心とする日本の皇室が機能していることを忘れてはならない。

 こんな天皇陛下の地震被災者に対するお気持ちは日本の皇室に脈々と伝わる皇室の心そのものであると言える。日本の国に起こった様々な災害、それに対する歴代の天皇がいかに心を痛められ、その回復を祈られてきたか、そしてまたその差異化からの復興のために身を捨てて努められてきたか、それを物語る資料は多い。いまの陛下の震災に接するお気持ちの、御父君の昭和天皇から継承されたこの日本のまつり主である天皇のお心と受け取ることができる。

 大正12年の関東大震災のとき、当時昭和天皇は皇太子で、大正天皇が御不例であったので摂政の宮にご就任中であった。東京、横浜はちょうど昼時であったので各地で火災が発生、運悪く強い風も吹いていたので火の海となり、皇太子の高輪御所も全焼したが、皇太子は直ちに被災者に一千万円の御内帑金を下賜され、自ら進んで被災地を視察され、首都東京の一刻も早い復興をと奮闘された。

 また、民の惨状を見るに忍びないとこの秋予定されていたご自身の御結婚を延期され、その資金も災害復旧に支出。皇居前に避難した十数万人の罹災者にも御内帑金を下賜され、政府に「自分らはたとい一汁一采でもしのぐから復興に励め」と述べられて、日夜罹災者の慰問や犠牲者の弔問に当たられた。この摂政宮殿下の積極的な御活動は、当時政府は加藤首相が急逝し、山本権兵衛首相のもとに新内閣を組閣中であった政府にも影響し、流言飛語が飛び交う当時の震災地の混乱を最小限度の混乱にとどめ、人々を失意と放念のどん底から立ち直らせる大きな力となった。

 こんな関東大震災の際の御父君のご活躍を見習われた今上陛下は、震災のたびに率先してその大きな痛手から皆が立ち直るのを励ましてお歩きになっている。

人災と天災

2011年03月23日 06時33分27秒 | 私の「時事評論」
東北関東大震災 1


 平成23年3月11日に宮城・福島県沖の太平洋近海で発生した東北関東大震災は、明治になって我が国に気象台ができていらい最大の震災となり、その犠牲者は津波だけでも一万人を超えた。一万人を超す人々が住宅もろとも大津波で海上に持ち去られ、流された車などのガソリンから火災も発生、しかも工業の近代化で海浜に設置されていた原子力発電所が、耐震想定を超した震度のために安全保安機能を破壊され、従来の地震災害ではなかった(中越地震でも一例、震災で施設が傷つく事故はあったが)新たな放射能漏えい災害の危機までを生みだした。被害がいったい、どの程度の大規模なものに達するのか、復興までの道のりにはどれだけ時間がかかるのかなど、その震災被害の全容をまとめるのには、現在はまだ、救助活動の最中であり、交通や通信手段も混乱し、錯綜しているのでかなりの時間を要するものと推察されるが、現代生活を生きていく我々に、いままでは顧みなかった様々な側面を、もう一度根底から眺めなおして生活を点検見直す必要を痛感させるものだった。

 日本は地形的に地層の構造が複雑で、たびたび地震が襲う地震国である。過去の文献などにも多くの震災の記述がある。そのため国にとっても震災対策は重要な課題で、耐震建造物や防波堤、道路橋梁技術や、地震が起こったときの対応施策は、世界でも最も進んでいるとされていた。だが残念ながら、時には、いままでかつて経験したこともないような規模の大きい地震、従来とは異なった性格の被害を出すものなども含まれていて、そんな時には予想もしなかった大きな被害や犠牲者を生じてしまう。

 特に今回の地震は、世界でもまれにしか記憶されないマグニチュード9.0という世界史上最大級のなものであった。しかも海底のプレート上に大きな地震が生じ、それが連鎖的に同一プレート上の次の地震を連鎖的に誘発するものとなり、牡鹿半島の形が歪み、海底や沿岸の大規模な地盤低下も生じたために津波の被害が大きくなって、過去に我が国に多くの犠牲を生んだ関東大震災(M7.9、死者行方不明14万2000人)や阪神淡路大震災(M7.3、死者行方不明6400人)などに比べても、遥かに規模の大きなものだった。

注・地震のエネルギーはマグニチュードという尺度で測られる。これが一つ増えると地震の力は32倍、2つ上がると1000倍近く激しいものになる。今回の地震は、有史以来、チリ地震(1960)、アラスカ地震(1964)、カムチャッカ地震(1952)、スマトラ沖地震(2004)に次ぐものとされている。



 日本の地震対応策

 日本の震災対策は、揺れや火災や津波で被害の激しかった関東大震災を備えるべき最大規模のものと想定して、それに阪神淡路大震災などの苦い経験が加えられ対応が進められてきた。ちなみに近年、日本では東海大地震の発生が近いとされ、膨大な予算を投入して万一発生した場合に備えようと様々な対応が進められているが、この東海大震災も最大ではマグニチュード8程度を想定して対応が検討されている。だが、今回の地震は、これとも比べようがないほどに大きくて、しかも揺れによる崩壊よりも、発生した津波の恐怖が大きいという津波型であった。

 東北地方の太平洋岸は、遠い大陸で発生した地震の津波、たとえばチリの大震災などで過去に被害を受けた例も多く、死亡したものも多いため、ほかの地域よりはるかに対応策は進んでいた。だが、それも今回の津波には不十分であったのが目についた。町や村が、山のように盛り上がって襲い来る大津波の前に、悉く全滅する例が各地に起こった。

 地震の被害はそれにとどまらなかった。考えられる限りの万全の対応をしたので安全であると国も胸を張っていたはずの原子力発電所が、いとも簡単に機能麻痺するばかりではなく、さらに大きな事故に発展する危機を迎える騒ぎを招いた。また、すぐ明日にでも大地震が起こる事態を想定して、国は首相官邸に本部を置き、首相を責任者とする専門機関を作って万全の対応をする準備をし、毎年関東大震災の起こった9月1日を防災の日として大規模な予行演習までしているのだが、決して成果があったとは言い切れず、加えて政界は与野党対立で法案一つまともに通すことができないような状態で、こんな事態が起こっているのに、協力をして事故に対応しようという姿勢は見えない。こんな政治の人災により、加えて行政機構などの非効率な対応により、人災による二次災害としか言えないような、多くの特殊の災害までを生んでいる。

 そんな影響もあるのだろう。あるいはお互いに相手をけなし合い、少しも国民のためにまじめな政治をしようとしない国会のいまの姿や、それをおかしいとも思わずに眺めてきていたマスコミの風潮が伝染したのか、今回の地震が、想定しなかったほどの大きな騒ぎになっている点などを挙げて、巷では「この種の災害を想定して準備をしなかった国や行政府の責任」を追及する声も出始めている。

 「もういい加減こんな建設的でないふもうなろんぎはやめてくれ!」と言いたい。それをいまさら言いだしてみて、何のプラスがあるというのだろう。地震対策が役に立たなかったとの論は、「言うは易い」が、現実問題として、そんな大規模な事故を想定しなかったあらゆる部門の責任を、ここにきて急に追及するようなものではないか。私は寡聞にして、この震災の前に、現在想定しうる限度をはるかに超えた対応策を準備するため、堤防を高く張り巡らせ、津波への対策を根本的に見直すべきだとの論を聞いたことがない。第一に、人間は過去の記憶や経験を基に、来るべき時に再度起こる事態に備える能力はかなりの程度持っているが、以前に経験したこともない事態が将来起こることに関しては、ほとんどと言ってよいほど予知能力は持たない生き物だ。震災前に示されてきた各データを見ればわかるが、ほとんどすべてのデータが、将来の地震を、最大でもM8程度と定めて練られているものばかりだ。

 中心となる気象庁の地震に対するデータだって、最も強い地震はM8に定められている。地球上で想定される地震の最大はM10で、それは地球に他の惑星が衝突でもしたときにおこるだろうと言われているが、万一、そんな地震がいつかは来ると予想できたとしても、現実問題として技術と費用を駆使してそれにまで立ち向かうとすれば可能なのかもしれないが、実際にそれだけの費用を地震だけに備えなければならないと決めたら、道路も岸壁も家屋も橋も、それだけでいまの何倍、何十倍の費用がかかり、それは経済的に無理な日本沈没の条件となり、実際、岸壁も家も道路も鉄道も発電所も作れないことになる。慎重に精いっぱいの対応はするが、経済的な面にも我々が暮らしていける実現可能な道を求めざるを得ないのが、人間の業(ごう)なのではないだろうか。

 この種の災難が来ると、それが「人災」であるとして、政府や事業や自治体の責任者など、自分以外のものに責任を押し付けて批判する論は必ず起こる。だがそれは無責任で意味のない論だと思う。世の中には我々人間の知識などではとても対応しきれない大きな力があるものである。それを認めて、これは「天災」に属するものと発言したほうが良いのではないかと思う。

 我々が人間というものの欠陥として、予想することのできなかった弱点を充分に知ること。そして我々の力が足りずに喪ってしまった多くの人々の御霊に深く哀悼の意をささげ、現段階でできる対応はどうあるべきかを考えながら、今回の事件においても目に付いた、お互いにもっと人間としての、共同社会の一員としての行動に力を入れれば、たとえば被害者の救済などにもっと大きな成果を上げ得るという、別の側面に目を向けるべきなのではなかろうか。

 まだこれからの調査を待つべきなのだろうが、今回の津波の人的な被害が最も大きかったのは、チリの大津波などの例を参考に、最も強固な防波堤を設けた地区だったなどとも言われている。物理的には最大級の備えをしたとの甘えが災害への警戒感を薄れさせ、それをも上回る不測の事態への警戒心を弱める結果として作用した。そんなこともあるのかもしれない。また、スーパーなどでの災害に遭わなかった人々の物資の買いこみ、ガソリンの買い漁りなどが、被災地の救済活動に無用の妨害になっている。そんな面でも、もっと考えなければならない面はたくさんあると思うのだが。地震などの災害対策は、考えてみればもっと広いものであるべきなのだろう。



 どこまで準備をして良しとするか

 今回の私のコラムは、必ずしも地震への技術対策に関して述べようとするものではない。それは我々がこれから、安全に生きていくために、また安全であるのと同時に、経済的にも生きていくために、耐えられる範囲の費用をかけて努力するという、安全と現実の二つの相反する方程式の、どのあたりを妥協点として暮らしていくかを決める問題として重要な課題になるだろう。世の中には「角をためて牛を殺す」とか、「羹に懲りてなますを吹く」などという名言がある。ほかの条件を考慮することなしに、無責任に論評するのは簡単である。だが、考えても見てほしい。これから類似の被害を繰り返さないために、一億数千万の国民がこの狭い国土に暮らすことは、物理的に考えて不可能である。精いっぱいに技術上の工夫はしても、それ以上は物理だけでは補いのつかない側面を、暮らしている我々が、どのように連携してまとまって事故を大きくさせないかという、物理以外の側面に足りないものをゆだねるべきではなかろうか。大きな流星が地球に飛んできて、衝突する事態だって現実に考えられる環境にある。だが、そんな被害に対応する準備を日常からしておくべきだとの論を基礎にして生活設計をしたら、現状では結果的に人類世界は破滅する。

そんな観念の遊戯にならぬよう、冷静な論議が進められることを望んでやまない。

 今回の東北地方の太平洋沿岸を呑み尽くしていった津波の恐ろしさは格別であった。通信技術が以前とは比べ物のないほどに発達したので、被災をまぬかれた国民も、津波の恐ろしさを、テレビの画像でまざまざと眺め、恐怖を共有することができた。海に面した平らな土地に密集して暮らしていた人々の多くが家ごと、いや街ごと押し寄せる大津波に呑まれてしまった。日本列島は海に囲まれ、その恵みを受けて生きる立地条件にある。だがこれが、ほんの少し条件が変わると、海の恐怖に取り囲まれた島国に豹変する。

 私は震源地からはかなり離れた神奈川県の湘南海岸・鎌倉市に住んでいる。ここの震度は5強であった。震度7以上を記録した東北や北関東からは少し離れた土地にいたが、その揺れは立っていられないほどの激しい横揺れで、地震がただものでないことを感じさせられた。被害に遭われた方々にこんな言葉を使って申し訳ないが、とっさに恐れたのは津波であった。関東大震災の際は、当地も高い津波に襲われている。地震の直後に停電になったので、あわてて駐車場にあった車のラジオをつけ、震源地が東北の太平洋沖であり、地形上、津波直撃の危機は大きくないことを知った。

 ラジオでは、押し寄せる大津波が東北地方の太平洋岸の諸都市を次々に呑みこんでいく様を報じていた。堤防を越え盛り上がってきた大津波が、ビルの三階四階までを洗い尽くしている。夜になって停電が回復し、早速テレビをつけてみたら、津波の去った後の街があったところには何もなく、ところどころに船や自動車や破壊された家の建材などが山になっている。まさに地獄絵であった。

 だが、テレビで襲ってくる津波のビデオ映像を見ながら考えた。これらの被害を防止するための堤防を海岸線に築き、河口にも防波堤を設けるとしたら、日本列島は全国土を十メートル以上の高さの防波堤で囲んで暮さねばならなくなる。そのさまは、まるで日本中が刑務所の壁の中に入るような形になる。そんなことができるのだろうか。

 地震以外にも我々は備えながら暮らさなければならないのはもちろんである。そのバランスは、その妥協はどのあたりで決着をせねばならないのだろうか。一万人を超す多くの方々が犠牲になった今回の地震である。この経験の中から、できるだけ多くのことを学ぶのは、残された我らの義務と言えるだろう。だがそれとともに、地震の被害は避けることができないことも知り、そんな天災に対しても、どうすれば我々が最も被害を少なく生きていくことができるのか、土建工事以外の暮らしの側面から、積み重ねることが多いように感ぜられた。


東北関東の大震災

2011年03月13日 08時50分39秒 | 私の「時事評論」
突然やってきた騒ぎ


 突然あたりがぐらぐらと揺れ出して、それもいままでに経験したこともない激しいもの。堅牢な鉄筋コンクリート造りのマンションだから安全と思っていたのにギシギシと横揺れして、外を見ると庭木の大揺れ。そのうち災害用の表の街頭用スピーカーが、津波の恐れがあるから海岸から退去し、津波に備えて準備せよとの放送。


 激しいが揺れは縦ではないようだ。横揺れだから少し震源地と距離があるのだろう。電気は止まり電話も携帯も通じない。そうそう、こんな時のことを考えて、いつも使うデスクトップのパソコンのほかに、緊急用のサブノートパソコンを持っていたっけ、と思って引っ張り出してスイッチを入れる。


 緊急事態を考えてが無線で接続にしておいたのだがつながらない。そこで初めて気がついた。私はネットをADSLでつないでいる。これが駄目な時にと購入したノートには、そのADSLモデムに無線機をつけて、これで無線で受けていた。モデムは電気で動くし、電話線がつながらなければ、二重につながらないことになる。なんという私の頭の回転の鈍さだ。せめて、AMラジオでも聞くソフトをパソコンに入れておいたらよかったのに。


 でも情報は必要だ。鎌倉に住んでいるので津波が来たらどうするのだ。十メートルほどの津波なら、家から出ずに屋上に避難したほうが安全だろう。だがそれ以上のものが来たら、我がマンションは若干高い丘陵地にあるが三階建てしかない建物だ。余震に揺れる中を駐車場に行き、車のラジオをつけると、つながった。


 東北地方に未曾有の大地震がきて、東北地方では津波がビルの惨害四階を洗っているという。アナウンサーに冷静さが見られず、事前に準備を練ってあるのだろうが、欠点ばかりが目につく放送だ。





 役に立たないラジオの放送


 スイッチを入れたのはNHKのAM東京第一放送。首都東京圏をカバーする最も標準的放送だ。おそらく誰もが情報がほしい時は先ずこれを聞く。テレビは停電になれば見ることができない。頼りはラジオ。情報で動く指針を決める素。だが、ラジオは震源地に近い東北地方のことばかりを繰り返し伝え、肝心の首都圏がどんな様子なのかは全くと言ってよいほど伝えない。


 聞いているのは関東地方の人だ。それがこのラジオの電波の届くところ。首都圏に暮らす3000万以上の人々が、首都圏の交通はどうなったか、道路はどうか、いざとなったらどうするか、家に残した家族の様子は、自分で対応しなければならないことは何か。そんな身近な情報を求めているのに、全くそれにこたえない。これではラジオはとっさの役には立たぬ。つながらない地域に電話して、揺れましたかなんて聞いている。放送局の連中に、誰のためにどんな情報がまず大切かを考える余裕がなくなっている。「ああ、よその地震のことばかり考えてマニュアルを作り、報道の第一の任務を忘れている」と思ったが、まあその中から、断片的に何とか自分に必要な情報をおぼろげながら身に付けた。





 まずやるべき基礎だけ機械的に果たし


 小さいながらマンションの管理組合の役員をやっている。地震に備えてそれなりに準備もしてきたつもりだ。昼間だけいる管理人に話して用意していた防災倉庫の鍵を開け、役員とともにまず各家庭に飲み水用のペットボトルを配布して、マンションで使えるようにしておいた井戸にひも付きのバケツを放り込み、各部屋用にこれも準備したポリバケツに水を満たして配水をした。電気がこないと、どの家の蛇口からも水が出ない。モーターが動かないためだ。水洗便所も水が出ない。せめてこの二種類の水を上手に使い分け、飲む水と手洗いなどを確保すれば目先は過ごせる。気象庁は大洪水警報を出している。あとはそれに備えるだけだ。食料などの備蓄も持っているが、それを必要とするのはかなり時間がたってからだろう。


 そんな手配と同時に、ラジオを聞くと、すぐにここまで五メートル十メートルの津波は来ないと判断し、学校まではつくだろうと嫁さんに小学校に通っている孫を迎えに行かせ、さらに詳しい情報をとラジオにかじりついた。


 そのうち津波警報は大津波警報に切り替えられた。大津波警報とは五メートル以上の津波に対する警戒だそうだ。「ちょっと迎えに行きなさいと言ったのが軽率だったかな」という気がしないでもなかったが、もう学校に着いたころだ。子供が心配な親心を思えば、あとは学校に任せたほうが良いのだろうと思った。下の子は、まだ歩かない子供なので爺さん婆さんが預かっている。





 災害の教え


 災害に対しては、事前からの備えが必要だとされる。そのため災害訓練をしたり、日ごろの点検などに力を入れるのだが、じっさいに災害に遭遇してみると、準備していることとの違いに気づく面が多々ある。


 今回の地震は、明治の気象台始まって以来最大の規模だと言われる。夜遅くなってこのあたりは直接被害地ではなかったために電気もつき、テレビで東北の災害現場を目の当たりにしたが、ビルの屋根よりも高い津波が襲ってきて、去った後には家がびっしり立っていた土地にほとんど何も残らなくなり、残ったビルの屋根に車が残っているシーンなどを見ると、あの災害が身近に起こったら、いったい私なら何ができたのだろうかと思うと、背筋が寒くなる。事実今これを書いている翌日になって、津波に呑まれて無くなった何百体もの遺体が各町村から見つかっている。それは何も都会から離れたところばかりではない。仙台市をはじめ東北の主要都市からも続々と報告されている。


 これはもう、現代の人間の対応できる限界を超えている。本当の大災害に遭遇すれば、我々の力や技術には限度がある。人間は人間としてできる限りのことを考えて精いっぱいに備えて生きる。だが、人知を尽くして最善を尽くしても越えられない自然の営みに関しては、従う以外には方法がない。そのことは常に覚悟しておかねばならないのだろう。

 それにしても、まだ我々のできることで、真剣にその時のことを考えて動けばできることがたくさんある。それをしないで安易に過ごすことは、ただの怠慢に過ぎないのではないだろうか。そんなことを考えた今回の震災だった


 





          

中東デモで天皇制度を思う

2011年03月09日 21時18分57秒 | 私の「時事評論」
中東に吹き荒れる制度否定の住民パワーの嵐

 いま、中東でネットなどにより呼びかけられたデモによる政府打倒への大衆エネルギーの爆発が、数十年続いてきた長期独裁政権を危機に追い込み、その波及連鎖が周辺諸国にも広まる一つの流行の様相を見せ、世界の注目を集めている。

 これは昨年暮から始まった。チュニジアで一人の青年が街頭で商売をしていたのを官憲に取り締まられ暴行を受けた。彼はそれに反抗して焼身自殺をした。それがきっかけとなって、ネットのFacebook, Youtobe,Twitter、Wikileeksなどネットメディアを利用しての報告や抗議の呼びかけなどが盛り上がり、抗議をするデモ騒ぎが起き、それがついに25年続いてきたアリー大統領打倒の「ジャスミン革命」に発展した。騒ぎはどんどん広がって、ついには大統領は失脚してサウジに亡命、独裁政権がひっくり返った。
 このネットをきっかけにしたデモの抗議の成果に勢いを得て、同じような動きがアラブ諸国に飛び火して、エジプトではムバラク大統領の35年間続いた独裁体制がデモにより崩壊させられ、次いでいま、40年間の独裁体制を続けてきたリビアで激しい独立を求めるデモ隊と政府側との内戦状態に発展している。騒ぎはこれに続いて、バーレーン、クウェート、イエーメン、イラン、サウジアラビヤなどに飛び火して、中東各国で大きな騒ぎになっている。

 インタネットを利用して独裁体制打倒のデモを呼びかけるやり方は、数年前から中国の政府に対しての抗議デモ呼びかけにも頻繁に見られるようになった新しい方法だとされている。ネットという規制のしにくい新しい通信メディアが発達し、多くの者がそれを世界で共通の抗議の道具として利用するようになると、そのネットが一国政府の規制だけではなかなか取り締まりができにくいこと、発信元がどこの誰であるかの把握が困難で調査に手間がかかること、大量に一挙にしかも瞬時に世界に広まることなどを利用して、一躍自由な通信メディアとして注目されるようになってきた。

 だが、中国などでは、このネットに対して、それが民間大衆爆発の道具として利用されやすく危険だというところから、従前より厳しい検閲や規制が加えられてきていた。
 またそれと同時に、政府自らが反政府の敵側になり済まし呼びかけの情報を流して、それに応ずる連中を捕まえる道具としても利用されるようになったともされている。たとえば今回、チュニジアの「ジャスミン革命」やそれに続く中東でのデモなどは、中国では一面では公然と自国への波及を恐れ、国民の目に触れさせぬように厳しいチェックを続けると同時に、逆に利用もしていると伝えられている。天安門事件での迫害をのがれ、アメリカに逃れた「法輪功」のネットなどでは、チュニジアの成果を見て、一月に中国でのネットに出された「中国でも主要数都市でのデモをしよう」と呼び掛ける文章自体を、中国官憲の同調者を一網打尽にしようとの罠である可能性が高いと指摘している。実際、この呼びかけでネットが指定した数地点では、物々しい警察や人民軍の監視がなされ、デモを見ようと集まった人々が多数検束されたと伝えられている。

 また、ネットによる呼びかけは、その発信者が匿名などで隠れているため、信用できない多くの危険性も含まれている。単に自分は野次馬で、人を煽動することを目的の無責任な呼びかけと、真剣な呼びかけの見分けも簡単にはつきにくい。厳しい独裁政権への反抗の意思表示は、行動に参加する者には大きな危険が付きまとう。これが新しい政治行動の武器として定着するまでには、かなりの検討が加えられなければならないだろう。



 騒乱を起こすだけでは事態は解決しない

 そんな、いまだ成熟した武器とは認めがたいとの認識も強いため、私もいま流行っているネット呼びかけデモに対し、それが効果的な新戦術であるとの明確な結論を出しにくいと思っている。必ずしも呼びかけが、大きな成果につながる道具とは断定できない要素もあると思うからである。だが、これだけは言える。呼びかけが真剣なものであっても、単なる扇動目的の無責任なものであっても、それに大衆が動かされ、一旦多くの野次馬までも加わって大きな波動になったとき、それは巨大なエネルギーとなり、考えられないほどのものに発展して威力を加える。



 だが本欄で私が述べたいことは、この問題に関してではない。中東での紛争を見て痛切に感ずるもう一つの側面である。それは国情によっては、それが国民の期待する政権の交代どころか、国という大切な組織を崩壊させる危機もあるという、実現性の側面から見た問題提起である。

 リビア。特にこの国の紛争を見ていて強く感ずることであるが、この国の騒動はどんな顛末をたどるのだろうか。

 リビアは歴史的に多くの民族が往来し、民族の集団的移動が繰り返された地区であり、多くの政権のもとに組み入れられ、多様だが独立国家としては安定しがたい歴史を歩んだ地であった。二十世紀になってからも、初頭にイタリアの植民地にされていたのがイタリアの敗戦で第二次大戦後は英仏共同の統治権のもとにおかれ、1951年になりキレナイカ、トリポリタニア、フェッサーン三州連合のリビア王国として独立したのだが、やがて1969年にナセル主義者であったカダフィー大佐のクーデターにより王制は廃止されて彼の指導のもとにおかれ、40年間にわたってそれが続いて現在に来た。

 かくして国は現在、カダフィーの独裁体制のもとにあるが、カダフィーによれば、直接民主主義をとる国とされ、しかも一党独裁、憲法もなく、実質的にはカダフィーの思いつきのままに動いている。北朝鮮によく似た体制の国とされ、事実北朝鮮とは友好関係にある。
 国民はいまではアラブ系諸民族が中心だが、アフリカ系など多くの部族が混在し、共通となるのは国民の大多数が回教各派の信者であるということ程度だ。また植民地であった経験から、イタリアや英国系の人も多い。国内で石油が大量に産出されるので、カダフィーはその収入で国民を統治、石油収入で維持されているような情勢にある。

 今回、チュニジア、次いでエジプトの独裁政権が倒れたのを見て、こんな具合に進むのならカダフィー政権打倒も可能かとの動きが出てきてデモが起こり、それが発展して大衆が蜂起、カダフィーの軍とデモや群衆がぶつかって激しい主導権争いに発展している。だが、カダフィーが倒れた後、どのような政権が樹立され、それがどうやってその後のリビアを纏めていくかを考えるには問題が多い。

 先ずカダフィーは、ようやく始まった新しい王制を倒して統治をはじめ、憲法も法もない政治を行ってきた。国民自体が定住性に乏しい歴史があるので、ここにはカダフィーの定めた規則以外にリビア国民なら共通して守るという概念が乏しい国だ。デモ騒動の結果、国民評議会という反カダフィーの連合組織は結成された。しかしリビア国内では、いままでカダフィーに反抗する勢力はいずれも非合法で微力で、しかも厳しい圧力のもとにあったので、いずれも大きな力を持たない状態にある。

 評議会ができたといっても、その戦う主力はカダフィーのリビア軍から寝返った兵隊ぐらいが中心で、ほかの連中は軍の持っていた銃などを取り上げて、にわか仕込みで扱い方を教えられた群衆と、石ころで武装したような連中だ。対するリビア軍は訓練をした正規軍だ。おそらくよほどのことがないと互角に戦う力がないだろう。結束して戦う力がないので、リビアの国軍がアフリカや少数民族などの外人部隊などを使って、国民に遠慮なく攻撃してくるので、せめて爆撃や機銃掃射など空軍の攻撃力をつぶそうと、国連や欧州連合などに制空権の制圧や、外国による援助を求める声が評議会の中からまで起こっている。このままでは「外人部隊で自国民を殺す非情なカダフィーを追放せよ」と言っていた反政府軍までが、自らも外国の力で戦おうとすることになる。

 しかも評議会が仕切りに援助を求める主力の西欧の中心は、リビアの国民のたった一つの共通性、97%の国民が回教徒だという点とどう言う関係があるのだろう。評議会の主力である回教者の心情は、キリスト教やユダヤ教の排斥だったのではないか。ところがいま、彼らが助けを求めている相手はキリスト教国のアメリカ、イギリス、フランスなどが中心なのだ。

 まだある。リビアの現状はカダフィーがいなくなったらどうなるか。残るのは無数の分裂した部族がてんでに支配する荒野である。この地域は昔から様々な土地から来る各種人種の激しく入れ代わる原野であった。カダフィーが倒れたら、国民をまとめる核になる歴史を持たない国なのだ。


 こんな国の体制を大きく変えて、しかも安定した一国を作るには、事前にこんな国を作ろうという確りした理想的青写真が必要なのではないか。それの準備もなくネットに乗せられ暴発した今回の騒ぎは、どんな国にリビアをしようと思ったのだろうか。私が無知なのかもしれないが、きわめて疑問に思うところだ。

 日本という長い独立してきた歴史を国民が共有し、それなりに日本のような条件を当たり前のことと思っているものがリビアには無い。日本ではそんなもの、存在しない国などはあり得ないと思って暮らしているもの、それがリビアにはないことに注目せねばなるまい。今回のアラブの騒動を見るのには、これはかなりの国に共通する。これは良く知って眺めなければならないと思っている。


 受け皿がないということ

 日本には連綿と一本につながる歴史がある。民族共有の神道という信仰がありそれを土台にする文化があり、天皇の制度がある。それに基づく国民意識がある。一定の土地にしっかり住みついて、米作という継続と力を出し合って共同作業を続けてきた環境があり、それらを一つに精神的にまとめてきた日本らしさが生きていて、それはいまも、この土地に水や空気があることが当然のように、特別に意識もされずに続いている。

 天皇制度は二千年以上の歴史において、常に国民の実生活を腕力づくで支配してきた制度ではないかもしれない。それほどの強い圧迫感はないのかもしれない。だが、源氏・平家の時代から、織田・豊臣の時代、徳川の時代と、日本の実力的政権担当者は何回となく交代した。しかしそんな時代ではあったが、日本にはそれらの時の政権担当者は、国民の代表として「まつり」をしてきた歴代の天皇から、天皇の有史以来持ってきた社会的影響力の一部である「政治」の権限をゆだねられた「征夷代将軍」というような資格が授与されて、その権限を行使しているという認識で政治をしてきた。このお墨付きが日本では政治の権力を行使する上の絶対に必要なもの、国民を納得させるものだった。

 それは武家政治の時も、徳川時代も、明治時代も、いまも変わらずに続いている憲法などよりもはるかに深く国民に定着した日本のにおいである。日本の個性である。日本では選挙で国会議員が決まり、議員の選挙で首相が決まるが、首相は天皇から首相としての認証を受ける形で二千年以上の歴史を現代においても継承している。よく見ると、現代の首相も、昔の征夷代将軍と似たものであることを見落としてはならない。

 こんな国だから、我が国は、大変な混乱を迎えても、国民の中の混乱は最小限度に抑えられ、国内が分裂して崩壊する深刻な危機を経験せずにやってきた。平家から源氏への転換だって、明治維新の変革だって、昭和20年の大東亜戦争での敗戦だって、日本が大転換を平穏に乗り越えてこられた第一の力は、この特別なシステムにあった。

 いまの日本もどうしようもない政治の行き詰まりに苦しんでいる。これは現代の日本人が、日本にとって水や空気のように大切な日本らしさに支えられ、これがあるから日本が安定したよい国でいられることを見落として、まるで真空地帯ででも生きられると思ったところから60年以上、当然招くべき人災だともいえる。

 だがそれでもまだ、日本の匂いは濃厚に残っている国がらだ。例え現代の征夷代将軍の菅直人首相が失脚しても、また新しい代将軍が天皇から任命されれば、少々の波はあったとしても日本の国は続くことができる。それは変革というものがいかに大きく見えても日本においては革命ではなく、常に革新で済むからだ。

 そんな面から眺めると、ネットによる体制破壊は、改革を望んで、国そのものの破壊にもつながりかねない危険を常に背中に負っているのだという恐ろしさも感ずる。この厳しい時代に、国をなくしてしまったら、どう言うことになるだろうか。

 そんなことをしみじみ思いながら眺める中東での今回の一連の事件である。


f混迷するリビア情勢に学ぶ

2011年03月06日 08時07分12秒 | 私の「時事評論」
 デモの目的とその効果

 チュニジア、エジプトのデモをきっかけとした政権転覆劇に触発されたリビアのカダフィー国家指導者の退陣を求める大衆のデモ騒ぎは、事態の解決を迎えぬままに二週間を経過、政府側と反体制デモ隊との対立は混迷状態を深刻にしている。
 このデモをきっかけに相次ぎ発生する政権打倒騒ぎは、イエーメン、イラン、アブダビ、サウジなどにも波及し、中東地方の大きな潮流になっている感があるが、混迷を続ける事件の局面を見るのには、多くの側面があげられるだろう。政権側と打倒を目指す大衆の間がどんなk局面に関しては、現地の実情や刻々と動く情報に通じた外電プレスなどのもたらすニュースに頼るしかない。私のような情報に乏しい門外漢があれこれ言っても、一般の方にはほとんど価値がない。
 ただエジプトの場合にも私は問題点を感じたが、いま混乱を深めているリビアの情勢などを眺めると、事態をどう収束するかには、大きな問題を感ぜざるを得ない。それは混乱が起こってしまったその後の収束に向けて、この国がいま、従来の体制に見切りをつけるべき点に来ているとしても、新しい体制を立てて動いていく時には必ず必要になる次期政治体制の受け皿がない、デモにより爆発した大衆のエネルギーをまとめ、落ち着くべきところに誘導していく、方向性と確たる信念を持ったリーダーがなく、事態は混とんしたにはしたが、思わぬ結果をたどらざるを得なくなる場合が多いということである。
 それは今回の政権打倒を求める圧力が、ネットという「不特定多数に対して呼び掛ける飛行機からばら撒くアジビラのような扇動」に誘発されたものであり、ネットでの「政権打倒のデモを皆で起こして立ち上がろう」との呼び掛けに応じた人々、それに野次馬のように参加した人々の中に、現政権が倒れたのちに、政権を担って行くシナリオを描けるグループも、中心となる権威もない。つまりその国には、次の体制を準備すべき拠点も権威も存在せず、ただ外国で起こったデモ騒ぎの思わぬ成果を眺め、準備もないままに爆発したものであるので、デモで雲霞のごとく集まった大衆が、ほとんど無政府状態で暴れるだけで、政権が倒れたとしても、後は散らばった蜘蛛の子がてんでに暴れる姿になって、一つの統一した国にまとまることができない、大衆の宿命が見えるような気がするからである。
 世界の革命史を、自分ならどう対応し得るのか、そんな視点から研究した経験者なら誰でも気がつくことだが、紛争や革命の流れを利用し、その中で勝利を収めるのには、大衆を動かしてそのグループの核となり得る指導力と決断力、即座に大局を判断する判断力、どのタイミングで打って出るかの正確な時を見る目、そして大衆を集団として冷静に眺めてカウボーイのようにリードしていくセンスある人物を必要とする。それがリビアのニュースには出てこない。

 エジプトは終息だけはしたが

 それでもエジプトの場合は、ムバラク大統領が育てた組織ではあるが軍の組織があり、軍が中立のまま残っていて、ムバラクではもうだめだとの判断に立つや、自ら混乱収拾の暫定政権を引き継いだ。そして無政府状態に国が落ち込むのを防いで、エジプトという国のまとまりを保ったまま、新しい政権を作り上げる役割に名乗り出た。これによりエジプトは大衆が七化八裂し、国そのものが空中分解することだけは食い止めた。
 だが、慎重にここまでの経過を眺めると、エジプトでのデモを起こした大衆は、確かに組織されない多様な群衆が中心であったが、ある共通性だけは持っていた。それはアラブ人として、宗教的人種的な回教徒民族としてのムバラク政治のイスラエル融和政策に対する反感と、さらにイスラエルを公然と助ける英米はじめ西欧諸国に対する反感、そして大統領政治の基本にある国民の大半を占める回教徒に対する宗教無視政治への反感であった。
 だが事態が一段落して眺めると、受け皿となった軍部はこれらの大衆の素朴な感情とは反対の立場にある。しかもデモ騒動の最中に、軍はイスラエルや英米など欧米諸国とは綿密な打ち合わせを行って事態収拾の道を探った跡がある。そうでなければ軍部が政権を担うと発表した直後に、あのようにいままでムバラクの反民主的独裁にそろって批判していた世界の諸国が、そろって軍事政権を歓迎する声明などを発表することはない。軍政府はいま、スエズ運河のイラン軍艦通過を認めるなど、大衆に対しても、そのストレスを軍批判に結束させないよう注意しながら、ムバラク批判そのものへ大衆がデモで発したスローガンから焦点を捻じ曲げて、大統領個人の国民に帰属すべきだった財産の私的な搾取などに意図的に集中させる作戦をとっているように感ぜられる。結局はムバラク時代の個人的財産接収などの面は正しても、デモの主張した共通の反欧米・反イスラエルへの転換は否定される皮肉な結果になるのではないか、私はそんな観測を持っている。

 リビアにはそんな受け皿さえもない

 リビアは騒動は二週間を経過したが、完全に泥沼化してしまった。デモは騒擾に発展し、首都トリポリなど北東部を除くベンガジなど多くの国土はリビア国軍の反体制側に転じた兵士などの応援を受けて反体制派が占拠する地域となった。だがこれらの反体制派に対して、リビア最高指導者のカダフィーは外国人部隊や指揮下にある保安部隊で空爆や地上攻撃をして断固巻き返しを狙っている。連日多くの犠牲者を生んでいるが、カダフィーに政権を放棄する意思はなく、彼はどのような方法をとってでも政権を守り抜くと宣言している。
 これに対して反体制派は「国民評議会」という組織こそ結成したが、武器や軍事力も乏しく、評議会内部からは、カダフィーの強大な圧力を排撃するために、国連や欧米諸国に対して国軍の活動を鎮圧させる軍事行動を求めるという、これもカダフィーの独裁に反対し、自決と民主主義を求めるデモのスローガンや「自国の独立」という金看板とは矛盾する要求などが出されるまでになってしまっている。
 欧米を中心とする西欧諸国は、外国人部隊などを使って自国民に銃を向けてでも生き残ろうとするカダフィー政権に対してそろって批判の声明を出し、彼の海外資産を凍結し、リビア制裁を協議し、反政府活動へのエールを送る体制でいるが、かといってリビアは独立国だ。露骨に一国の内政に武力介入するのには躊躇して、口は出すが手を出せない状況にいる。
 リビアの混乱の情勢を解決するのには、せめて国内に国民をまとめる力のある権威ある組織と指導者が望まれるがそれがない。エジプトではこんな事態を乗り切るために組織化された軍の組織があり、軍が中立の姿勢をとることにより表に出て解決したが、それさえもリビアの場合には期待できない。このままではリビアは、カダフィー政権がより強引な武力作戦に出て領土の再統一に出るか、乱立する各派が分裂したままで統一国家の態をなさない状態に陥るか、あるいはどこかの外国勢力が出てきてそこの植民地か属国になるかの道をたどらざるを得ないようにも見えてくる。

 ネットによる扇動のもつ罠

 国の状態が現状に合わなく、政治が賞味期限切れに思われるようなとき、ネットにより、様々な不満を抱える大衆に「いつどこに抗議に集まろう」とデモを呼び掛け、それに野次馬も加わって騒乱などを引き起こし、政権の打倒に結び付けようとする世界的傾向は数年前から中国などでしきりに多用されるようになった。この方式は、新しい時代の新しい政治手段のように思われて、マスコミなどでもてはやされている。
 今回の中東地域を襲ったデモ騒ぎもこの流れをくむものだろう。だが、この種のネットによる呼びかけには、自ずから限界があり、危険な罠があることも、今回の各国での騒動は語っているように思う。
 ネットの呼びかけの多くは自らは隠れていながら大衆を動員しようとする戦術である。呼びかけ人には定まった方向に目標も統一させて、効率的に走らせる能力がない者、ただわめき散らす無責任な者も多いとみられる。そのため極端な場合は、深刻な事態になったとき、呼び掛けたものは知らぬ顔をして逃げ通そうという者にでも、簡単に利用できる。
 だから一旦その呼びかけに大衆が乗り、野次馬までが加わって走り出してしまった場合には、どんな結果になるかの厳しい検討などは、ほとんどなされずに呼びかけられるものが多い。
 そんな性格を利用して、時にはネットでは攻撃目標とされている敵である政府などが呼びかけ人になり済まし、集まる参加者を捕まえる目的で利用する罠である場合だって考えられる。
 また、私が今回あげたリビアでの例のように、あるいはいま、類似のデモ騒ぎが自国にも起こることを懸念して、自由諸国に属する我々からは度が過ぎた乱暴と思われるほど強硬に取締りに狂奔している中国などで、この種の騒動が拡大した場合などを想定すると、それは進み方では国そのものの機能を麻痺させ、爆発粉砕させる危険性をもはらんでいるようにも見える。ネットの呼びかけがこんな性格を持つことが徐々に明らかになれば、これは将来の政治手段としては、自国の政権転覆よりも、ある特定の国を分裂させ破壊する有効な道具として、認識されるものに育つ可能性もあると思われる手段だ。

 ネットデモで国を失わないためには

 ネットの呼びかけるデモにより悲惨な分裂に陥らないためには、聖俗いずれの面においてでもよいが、普段は政治の権力に加わっていなくとも、国民を精神的にまとめ引っ張る権威があるということではないか。アラブ諸国がいま、苦しい状況に置かれているのは、かつてアラブの各国はいずれも王制の支配する国であったのが、近代化の波の中で、革命者がその権威を根本的に抹殺してしまった中にあるような気がする。
 英国や北欧の諸国、東南アジアのいくつかの国のように王制が残り、それが実際の権力政治の面では実権をふるわず、国の統一の権威として存在している国(立憲君主国)では、国が施政者の失脚により、どうなるかの非常事態が発生したとき、仲介者としての受け皿として国王が中に立ち、国の統一的存続を図ることができる。ローマ法王やその他の国民の共通の信仰の守護者としての人物、国民的英雄の子孫などを持つ国においても、緊急の場合はそれは可能である。だが、無機質無表情の世俗国家としての精神的砂漠のような国においては、かつての指導者は根絶やしにされているため、その可能性は無くなってしまう。
 アラブ諸国で王制を捨ててしまった国はいま、そんな新しい危機を迎えている。そしてそれは、安易に王制を捨て去った国が、暴走すれば必ず負わねばならない現代の「歴史の祟り」のような気がする。
 幸いなことに、天皇制を国民統合の象徴として残しているいまの日本には、この現代の祟りは通用しないと考える。現代の日本には政治の呆れた暴走と混迷が繰り返され、将来が憂えられる状態が訪れている。だが、少なくとも政権打倒のデモが国中にあふれ、追い詰められた政府が自衛隊や警察を総動員をして国民に銃口を向け、自爆するように倒れて無政府状態が訪れる。あるいは追い詰められたデモ隊が外国に自国の政府打倒を要求する。こんな事態だけは当面考えられない。
 これは日本が、そこまで徹底して自国の歴史を否定しきっていないからだと思う。
ont size="2">