妻より若い母の写真
雑務に追われて遅くなってしまったが、二月七日は私の母の四十四年目の念祭の日であった。亡くなったのは私が三十二歳、母はまだ五十二歳という若さであった。クモ膜下出血であるから、いまなら脳外科の手術が長足に進化していて、外科手術により延命は可能であったかもしれないもの。事実症状は時々意識が回復しかかり、もう少しというところで、意識が戻り始めた痛みで暴れ、また再度の出血を重ねて、当時はまだ鎌倉に、その手術のできる病院がなく、三日三晩、止血剤と麻酔を打って、出血で脳周辺の圧迫を抑え、それを私らが付添いの看護をする以外にない結果を繰り返しての帰幽であったから、残念と言えば残念であった。ちなみにわが妻も、四十歳になったころに、同じようにクモ膜下出血で倒れた。だが妻は、倒れているのを娘が発見、江の島の脳外科専門病院で手術を受け、その後は後遺症も消えて、いまでも元気に日々を送っている。
私は男ばかり三兄弟、二歳と五歳下に弟がいる。命日の日、毎年と同じように鎌倉市内にあり、市街を南に見下ろした谷戸の奥の一角にある墓に弟夫婦にも連絡し、孫どもを連れて展墓、一緒に戻った我が家で母の霊璽を拝し、母の思い出を中心に久しぶりに和やかでのんびりした歓談をした。
母は今、生きていれば九十五歳の高齢になる。だが、若くして幽界に旅立ったため、その残された遺影の写真、そして私の頭に焼き付いている姿は、わが娘のように若い。
そんな母の遺影を眺めながら、「ああ、俺もいつの間にかずい分年を重ねたものだ」としみじみ思った。母が亡くなった時は、まだ祖母も元気で我が家で暮らしていた。祖母と母とを間違えて駆け付けた参列者もいて、祖母も家族の旅立つ順序が狂うと、こんなさびしい結果になる。「本当に代わってやれるなら喜んで私は代わったのに」と嘆き、私に「親死ね、子死ね、孫死ね」という言い伝えがあるが、これが幸せな家の姿を指しているのだと
涙ながらに教えてくれた。
母の生い立ち
母は心優しく気丈な女だった。「心に太陽を」という言葉が好きで、これをモットーに苦しい中を明るくふるまって人生を全うした人であった。九州筑後の農村で、郷土から上京、軍人を目指した父親の下の次女に生まれ、それこそ昔ながらの武人らしい厳格な家風の中に育った。昔の家庭では家庭教育はもっぱらその家を継ぐ長子を厳しく育て、子どもたちはその指導のもとに育てる。そんな家庭だったが、母たちの長兄は幼時に小児まひで失明し、家でわずかに「琴」などを若い娘に指導する以外はじっと座っているような障害を過ごし、また母の実母、私の祖母も若くして肺炎で亡くなり、後妻が家の切り盛りをしていた。祖父は陸軍の中将で、連隊を率いて台湾征討などで負傷しながら戦果を挙げて金鵄勲章を拝受したた軍務一本の武骨な男、家庭のことなど相手にしない。後妻は郷土の九州から出てきた農家出身の方であったが、祖母の残した子供達には子らが実母の影響を強く受けていたし、微妙なところが分からないのはいたしかたのない環境にあった。そのため兄に次ぐ次兄はもっぱら自分の好きな道を求め、次第でロシア文学を学ぶや満州を目指し、長女は当時、母の一家は東京杉並に住んでいたので、将軍のお嬢様として有名女学校から女子大へ進み、やさしい人だったが病弱で、九州の有名水産会社の方の家に嫁いだが、一児をもうけて若くして亡くなった。
そんな中で母は、兄や姉が世話をしないからか、もっぱら目の見えない長兄の世話を一手に引き受けていた。本人も一応、当時の名門のK女学校に進んだのだが、登下校中以外は兄の世話一本に過ごしていたようだ。
私から見ると、頭は生来良いし勘も良い母だった。それに何よりの気性の良さは人情家だ。兄の琴練習の外出に、また時々の外出に、身辺の世話に明るく対応をしていて、時の新聞などにも孝行娘として紹介されたこともあったというが、だが将軍の娘としては何の素養も身につけず、社交の場にも出ず、あいてる時間は兄の世話、(といっても当時のちょっとした東京近辺の家庭などには、必ず出身の地方の農家などから、家事手伝いの女中さんなどが来ていた。家事全般の手伝いをするが、住み込んでいた彼女らを、ある年齢に達すると、主人は適当な相手を見つけ、衣装や道具、支度金などを持たせて嫁に出す。それが上京して成功した者たちの郷土に対する義務のようになっていた。だから母も、兄の世話はしても、料理や洗濯、掃除などの家事は苦手なほうだった)。
母はそんな面では住み込んでいた女中さん以下の素養しか身につけていなかった。身に着けていたのは女学校で、根性と素早い動作を認められ、薙刀クラブに誘われて、そこでは師範クラスの技能を持つようになっていたが、家事見習いもしていない山娘であった。
父によって教育をされて
世の中は面白いものだ。そんな母にすっかりほれ込んでしまったのが私の父の母、祖母であった。私の父の経歴はあちこちに書かれているのでここでは書かないが、当時、事業では独特の経営でかなりの成功をしながら、どちらが本業かわからないが、日本が西欧模倣の流れに乗る中で、皇国日本の西欧化、とくにファッシズムなどに接近しようとする動きに強く反発、明治維新の原点に戻らせようとの政治活動に力を入れていた。父は自分の父(私の祖父)の粗暴だが心根の美しい天皇・神道の精神主義に大きく影響され、自分もそんな活動にささげようと決めていた。そんなことに夢中なために、父は両親がいくら勧めても、「それだけは」と聞き入れないのが自分の結婚であった。
「俺は人情にもろい。女房・子供ができると、それに引かれてまともな決断ができなくなる。だからいくら大切だと思う両親が勧めても、結婚だけはしたくないと思っていた」と良く語っていたのを思い出す。事実、父にとって結婚して子供ができた後は、妻子がいるために思い迷った経験は大変なものだったと思う。私も父の情けにもろい気性は良く覚えている。何せ幡随院長兵衛にあこがれていた父だ。私は父に愛されて育ったが、大病して父にどれだけ心配をかけたことかと、いまでも申し訳ない気持ちを捨てきれない。
さて、母の生い立ちから脱線した。しつこく父に結婚を勧める母の説得は止まらなかった。父はついに、「そんなに嫁がほしければお母さんが決めたらよいではないですか。お母さんがそれでよいというのなら、私は何も注文もつけませんよ」。この約束が私に両親ができ、そして生まれて育った根拠になった。
父の母、わが祖母の妹はいかにも気位の高い、高貴な婦人そのものであった。その夫、葉軍人で、たまたまその娘が母であった。祖母は自らを省みず兄に奉仕する母にほれ込んで息子の嫁にほしいと申し込み、何も教えていないし、花嫁準備もしていないと辞退する母の父親を説き伏せて、母は何も準備せず、身一つで我が家に嫁に来た。女学校は出たけれど、何の素養も身につけていない母に、世間と接する常識を教え込んだのは父の母だった。祖母は福岡・黒田藩の家老の娘、家は維新ののちに零落して厳しい生い立ちで育ったが、気位だけは高かった。神職の家柄であるわが一族に入り込むと、あの人は違うと皆が均しく認める品格を持ち、祖父はもうその頃は身体の調子を壊していたが、敬神尊王の塊のような神道浪人であったが、父もこの母を見てすっかり気に入って、わが娘以上に可愛がった。
母の実家は決してその時決して豊かではなかった。祖母は母をデパートに出かけて行き、花嫁道具一式を買いそろえ、母を身一つで嫁に来させ、自分の持つ常識で懸命に母に伝授した。夫となった父は、最初は素朴なだけのやまが出で、教養もほとんどない母に驚いたという。だが話をすると、まるで砂漠が水を吸うようにそれをぐんぐん吸収し、質問すると実によく的を射て応答する。それにどこかに連れて行ったりすると、まるで子供のように目を輝かせて喜んでいる。そこで日本の史書を買ってきてそれを基に日本の歴史を説明し、世界文学全集を買ってきて何十冊もの名作を読ませ、その底に流れるそれぞれの国の文化や著者の思想などを、懸命に教え、また自分や父、そして先祖たちの生きてきた道、苦労の足跡などを片端教えた。
母はそんな中で我が家を理解し、人や社会を見る目を養った。結婚の二年半の地に長男の私が生まれたが、その時はもう、夫葦津珍彦を世界唯一の益荒男だと理解して、信頼してついていく第一の弟子のようになっていたし、祖父一党のものが皆私の祖父母や両親に敬意を表するのと変わらぬ親しさを持って母にも接するようになっていた。
楽しいことがあればつらいこともある
昭和十二年に私は生まれた。祖母や叔父叔母などはまるで福禄寿のように頭が長くて大きい赤ん坊だったと私に語ってくれた。そのころ父は神社の建設業を経営していて、我が家にとっては最も羽振りの良かった時代だった。いまは渋谷駅前に「渋谷ヒカリエ」という駅前ビルが建っているが、その一角が事務所と所長である我々親子の住んでいるところであった。満一歳の誕生日か、二回の八畳と十畳の和室をつないだところに、ぎっしりと並べられたお祝いの武者人形や玩具類。その前で上機嫌で笑っている私の写真が残されている。ちょうど靖国神社の大神門を父が建て、春の祭りの前だったので、喜んだ祖父は、靖国神社の宮司に申し出て「國」という名を孫につける許可を得たという。だがそのままその文字を使うのは恐れ多いというので、祖父はわたしを一字漢字を変えて「泰國」と命名した。父のほうはその時、私の生まれた渋谷の氏神・金王八幡宮のゆかりの偉人・渋谷金王丸の名前にあやかり、私に「金王丸」と名付けようと考えていたという。おかげで私は靖国神社とつながりの深い人生を歩むことになったのだが、考えるのに、喜びは分かるが、あまり重たい名前を子供につけるのは感心しない。子供にとっては重すぎる。
私は幼時に大病をし、苦しく危険な日々を二年ほど続けたが、その時わが名を聞いた易者たちが、そろって「名前が重すぎて大病をする」と両親に伝えたという。おかげで「八州邦」とか「安邦」などのいろんな俗名を使われた時代もあるが、「金王丸」だって大変な名前だ。これは子供の名付けではなくて、まるで船の進水式だ。
野人であることにこだわって、生涯神道浪人を続けた祖父がすっかり身体を弱らせたので、静養のために鎌倉に家を買い、私どもも祖父母とともに越すことになった。昭和十四年の暮である。父は建設会社を経営していたので、そこの職人連中が総出で空き家になっていた家を修理して引っ越したのは翌十五年の早春であった。山を北側に背負い北風は吹かず、東、南、西は存分に日差しに恵まれた立地、家は五十坪を超す和室と洋室の本屋の他、北風を防ぐ裏山中腹には茶室があり、裏庭には車夫や使用人の住む別棟や倉庫もある。井戸際には当時珍しい電動ポンプの動力小屋もあり、便所はこの水を使った水洗で汚水処理の大きなタンクも設られている。公道から門に達する通路は両側にサンゴ中の植わった三十メートルほどの専用道、庭には松、杉、ヒノキ、モッコク、桜、椿、梅、百日紅の木々のあるが雑木林の中を進むと玄関で、通路正面の木戸をあけると藤棚があり、くぐると一万をつつじに囲まれた広い芝生がある。裏庭には果樹や茶室のための庭や竹藪をくぐって進む石段もある。国家存亡の時に有志を集めるのにはこの程度の家が必要だろうと祖父の仲間で頭山満翁の秘書であった方が推奨してくれたという大変な豪邸であった。こんな家を社員のえりすぐりが改修中に、次男が生まれた。父は泰國を助けて勇ましい活躍するようにと「勇友」と名付け、その大東亜戦争の直前に生まれた弟に「雄久」と名を付けた。
家にはお手伝いさんが常時二人ほど住み込んでいて、若い書生さんなども暮していた。母にとっても、それから四十年以上生きた私にとっても、これが振り返れば贅沢・豪華な生活の絶頂期であった。
祖父の病気を聞き、全国から親しかった神職や政治家、陸海軍の将軍たちが見舞いに来た。以前にこの欄で祖父の思い出の際に触れた「節句を過ぎてから、また鯉のぼりのやぐらを立てた話http://ashizujimusyo.com/newpage53.htmlなどもこの庭で起こったエピソードであった。
鎌倉は細い道が多い。それは当時の交通機関が人力車が中心で、メインストリートには馬車がいるという条件に合わせて明治・大正時代の要人が避暑地として、休日を過ごす地として、書斎で読書する地として発展したからである。我が家から十分ほどで海岸に着き、そこには立派なクラシックのホテルがあった。父に生意気にダブルの背広を仕立ててもらい、両親と墓参りの後などに馬車に乗って海辺のホテルまでバナナを食べに行く。そんなことが無性にうれしい幼年時代の私であった。父はそんな私を見て無邪気に喜んでいたように思うが、どこか母が、「つまらぬことを楽しんで」といった表情でいたのではないかという気になってくる。記憶のあやふやな時なので、母や祖母から聞いてそんな気がしたのか明瞭ではないが、母は、父の教育、苦しい生活をしなければならないでいる人々がいかに多いことか、そんな思いを素直に自分の思いとして育っていた。父だって、さびしい暮らしをする人々を見て、西欧の社会主義にも真剣に接し、それと天皇陛下の祈りまつりをされる日本文化への思いが重なって思想を固めたのだ。
祖父死す、日米戦争が始まる
そんな私にとって、この楽しい時間もつかの間のものだった。私は幼かったため、ほとんど断片的にしか覚えていないが、毎朝目を覚ますと、私は我が家の洋間のベットに寝ている祖父のところに、まず長い廊下を走って挨拶に行ったものだった。もう病状は重く、ベッドから起き上がることもできない祖父だったが、いつも私を待っていて、私が駆けていくと、両手を広げで抱きとめて浴衣姿の胸の中に抱きしめてくれた。
いま、我が家にもあの頃の私とよく似た年頃の息子の孫が同居している。生来かわいそうな条件で、ために、半年以上も一人で離れて大学病院に入院しなければならなかったような境遇にもあった子だが、この子も朝起きると、まず祖父である私の寝室に飛び込んでくる。一年半ほど前、この子が入院が決まった時から、私は近所に二つある鎮守様に「私の命とこの子の境遇を、できることなら代えてくほしい」と、毎日祈願を始めて今も続けている。この子が同じように毎朝、寝ている私どものところに飛んでくる。そのたびに私は自分が祖父のもとに走っていったことを思い出す。そんな祖父の思い出も、幼い子供であった私からは、少しずつ消えて行ってしまったように思う。私の祖父に関する思い出は黒い霊柩車に乗せられた後ろ姿と、いまのわが先祖が眠る墓地に多きま穴が掘られて、静かに地中に埋められていったショッキングなシーンで終わってしまっている。
世相は日中戦争が深刻化して、その背後で中国を操る米国と日本との間が、どうにもならない時期に進んでいるときに、祖父は亡くなった。自分の友情を交わしていた人々が見舞いに来ると、息子であるわが父が、すべてを擲ってでも日中事変に終止符を打ち、日米戦争を避けようと動き始めているのを話して、「この息子の心は私とまったく一致している。私はすべてをこの息子に託した。私亡き後は、息子を私自身だと思って、同じようにご厚誼願えないか」と、それのみを願い続けた。明治大正時代の長老たちがそろって祖父に約束した。祖父はそれがすむと安心して、十五年の六月の三十日に息を引き取った。ついでなのでちょっと触れるが、敗戦直後から父が猛烈に活動してそれまで国の組織に組み込まれていた全国の神社をまとめて神社本庁という組織を作り、その機関紙の全権を任されて占領に懸命に抵抗した。その背後には祖父と誓いを固めた祖父の友人たちの、子供のような年齢のわが父に、全力を傾けての協力が大きな力となった。
祖父の死後、時代は父の周辺の国々と協和したいとの願いもむなしく、日米決戦の時代に突入した。やがて米国の本土への爆撃も始まり、武器や資源で圧倒的に劣勢であった日本は敗戦し、占領時代に突入した。
環境が暗転した大東亜戦争
祖父の死後、我が家の環境も暗転した。大東亜戦争に日本が突入し、環境がすべて変わったからだった。開戦直前には私の下の弟が生まれた。そしてその直後、私は急に元気がなくなって、全身がむくんで倒れ、「ネフローゼ」という子供にとっては命取りになる大病に倒れることになった。父は日米開戦に強く反対、政府要路に働きかけ、秘密出版を全国会議員や各層に配布して、懸命に非戦を訴える言論活動に没頭しているさなかであった。
父の主張は決してアメリカに戦わず負けろと主張していたのではなかった。アメリカのアジア太平洋制覇の野望は十分に知っていた。ただ、父は「戦争は感情におぼれず、背後に科学的な勝利のできる根拠がなければ、そして時を選ばなければするべきでない」という確信があった。我が国と太平洋やアジアの覇権を狙い、潰そうとするアメリカとの戦争を、まともに続けうる能力はない。両国の力を徹底的に比較、国内に資源も原料もない我が国が、いまこの時期に、アメリカと戦うことになれば、米国の思うつぼとなり日本はつぶされる。
日中戦争でも戦況がはかばかしくいかないのは、背後の露骨な米国の応援があるからだ。冷静にみて、日本が戦いに勝つ可能性は零に等しい。其れを政府や軍は、ドイツなどに起こったファッショの興隆に期待をかけて、その力を過信して「日・独・伊」の三国同盟を結んで戦えば、うまくいくかのように計算している。ドイツが戦っているロシアに対しては、日本との間に「不戦条約」もあることだしロシアは動けまい。これを頼りに満州や東南アジアに武器や燃料の供給先を求めて、まず最初の一撃で米国の海軍力を絶滅させて制海権を確保し、条件を有利にして戦おうとの軍が主導の作戦を検討していた。だが父はそれを「亡国の行為」だとして厳しく批判していた。
父はファッショが日本にとっては民族文化を破壊する途方もない思想であること、ナチスの思想などを深く学べばそれは明白に浸透的文化の国ニッポンに敵対的な思想であると断じていた。また。日露不戦の国際条約などのもたらす安全性もいつ破られるかわからない。国際法を日本は国際社会に食い込むために、守らねば国際社会の袋たたきにされるから懸命に守ろうとしてきたが、なりふり構わぬ生存競争の中においては、どの国も自国の存続が第一で、国際条約などは、さほど拘束に思っていない。ロシアの動きの中には日独開戦以来、それに対抗するために米英と秘密に連携する動きもすでに出てきているのだし、この条約があるからロシアが動かないということはあり得ないと信じていた。
だが、そんな活動の中でも気になってならないのが自分の子供のことであった。晩年になって父の散歩の供をして鎌倉の街を歩いた時、駅から我が家に向かう裏道で、「お前の病気が助かる見込みがほとんどないと知らされて、誰もいないここに座りこみ、強く生きなければならぬこの俺が、何という弱さだ」と、他人に見せられない自分の弱さにおぼれる自分を克服しようとしたか、と何度も話してくれたことだった。
父は全国から、この病気に専門だという医者を次々に招請してきては私を診させた。様々な治療がなされ、点滴や静脈注射で私も結構ひどい状況になったが、身体はむくみ、いよいよ悪くなるばかり。だが父は最後に秩父の山奥に住む山寡の医者に巡り合い、彼の秘伝の薬草を煎じて飲むことにより、一年半も立ち上がれずにいた私は急に快方に向かうのだが、その間には「私には妻や弟子たちもいる。子供の命とわが命を交換しても攻めて息子が大きくなって、世の中が見えるようになるその日まで、長生きをさせてください」と自がんをするような状況であった。
父を支えて活躍した母
そんな父を助けて、私ばかりではない。三人の子を育て、同時に夫の活動を支えたのは母であった。家での母は、まさに我が家の大黒柱になっていた。私に対しても、やがて病気を克服したら父を継ぎ、一日も早く活動できるように育てたいと、我が家一門の先祖たちがどんな人々でどんな苦労をしてきたかを教え、文字も知らない幼児だった私に文字を教えて本を読ませ、いまの我が国がどんな状況にあるのかを教えた。また、「お前は病弱だが、お父さんの跡継ぎだ。どんな時でも弟たちの立派な指導者として育ち、立派な大人に育とうとする気力を失うな」と教え、弟たちにも兄を立て、兄と相談することの大切さを教えた。
私にとって、病床にあってもどんどんいろいろの教育をする、そんな母はある意味で厳しい母であった。だが何でも教えようとする母のおかげで母より実に多くの幅広い教育を身に付けた。母はは私の師でもあった。おかげで私は病気を克服したのちも、虚弱な児童の少年期を過ごさざるを得ず、小学校は特別養護クラスに進み、子供同士の社交力もなく、通学は母の自転車に乗せられて往復するありさまであったが、大人のような口を利き、ずいぶんと憎たらしい子供であったろうと思う。だが、それをしっかり身につけさせてくれた親の努力がったからこそ、何とか皆に遅れずについていけたのであった。
(続く)
わが一族の共同疎開
戦況がひっ迫してくると、私たち子供はいとこ兄弟従妹を含めて一団となって群馬県の山中の農家に疎開した。父は子供の存在が、日本国のために動こうとする自分にとって気になる存在、足手まといになるから安全なところに避難させ、弟や妹夫婦も自分とともに神道のため、国のために憂いなく戦わねばならないと子供たちの家族集団疎開を決めたのだ。
戦況はいよいよ悪く、日本の降伏は近々不可避だ。厳しい戦況は次々に追い積まれているが、もう日本には物理的に抵抗をする余力はなくて、軍や内閣、それに通信社などからの情報は、無条件での「敗戦」ははっきりしたことを示していた。だが、経験で学ばず、本の知識しかない役人たちには其れがわからない。世にカンガルー症候群というのがある。追いつめられると砂漠の月のなかに首を突っ込みあたりが見えなくなる以外に手がなくなり、猟師に簡単に捕獲されてしまう。日本政府もそれに近かった。この機に及んでソ連(ロシア)に仲介を依頼して、何とか有利な敗戦条件を期待して動こうなどとの交渉を始めたが、伝統的ロシアの領土野心に燃えたソ連軍はもう、ドイツとの大戦も終わったので、対日参戦用に陣営を整えてきている。これは冷静にみると最後にロシアは参戦して満州から朝鮮、北支や千島、あわよくば北海道までを奪う作戦を始めたと父は見ていた。時々刻々情勢は悪くなったいる。国際法での中立の条約があるからなどと思って、ロシアに望みをかけている政府は、完全に時の状況を読み違えている。
そこで父は、自分の弟妹たちの子供を全部まとめて、戦禍の最も及びにくい地域に疎開させ、残ったものは全力をあげて祖国のために尽くそうと決意した。これには弟妹たち全員が同意した。疎開先は妹の出身地である群馬県の夫の育った農家。そこに祖母が引率者になって祖父母の二人の娘、それに次弟の嫁が引率者として同行することになった。
私の母は、夫の活動を自分も最後まで手伝いたいと熱望し、いざとなったら薙刀をふるっても夫を助けると熱望して残った、まだ当時は独身で我が家に寄生していた末弟は日ごろから母を姉と思い、父を父親代わりと動いていたが、かれも父の行動秘書として鎌倉に残った。下の妹の夫は、すでに軍部により応召されて出征していた。そこで十人を超す子どもたちが、群馬で共同生活をすることになったのだ。
父は私らが疎開中に万一の場合があればと私に注射器と何本かのアンプルを持たせた。万一の事態、お前がこれ以上生き続けるのはこの家の跡取りとして恥となると思った時は、おばあさんの許可を取って、これをみんなに注射してやれ。誰も苦しまない。あの世で待っているお前を大好きなお祖父さんやほかの人たちが迎えてくれるだろうと。冷たい光を放つ数本のガラスに入った薬剤だった。
そして敗戦
疎開の列車は一面焼け野原になった東京をのろのろ進んだ。米軍の無差別爆撃で焼け跡では人たちが緩慢な動作で何かを探している。列車は途中で米戦闘機に狙われるような疎開行であった。そして群馬の渋川に着いたのは二日めの夕方、親切な町の人の家に一泊させていただいて、次の日は終日歩き、夕方、群馬の山奥、いさま村というところに着いた。親戚たちはすでに集まっていて、共同生活二カ月。八月十五日敗戦の勅語がラジオ放送を通じて全国に流された。私たちはこの群馬の家で、祖母とともに全員でそれを聞いた。
母は敗戦が決定するや、父の末の弟とともに、代々我が家の先祖がご奉仕していた福岡の筥崎宮に出かけたそうだ。蒙古来襲のときは朝野を挙げての祈りで神風が吹いて、蒙古の支配をまぬかれたと伝えられる八幡様だ。米軍上陸の際に、神社に粗相があっては命懸けでお守りしてきた先祖に相すまぬと、叔父と二人で父の身代わりで決死で戦うためにの福岡行きだ。しかしこれはさほどの混乱もなく終わったようであった。母は栄養不足で育ちが悪かった私の末の弟・雄久を鎌倉に残しておいたのを連れてきて、その子を皆に預けてすぐに戻って行った。終戦は知っていた母だが、それは、日本国民にとって深刻な情報だった。我々には事情を話さず置いていったのだと思う。
敗戦の情報は皆に深刻で、その日は大人たちは泣いていた。私は兄弟やいとこたちをまとめてこれからは父母の息子でいとこ頭として祖母を助けていかなければならないと覚悟、いま父や母はどんな気持ちでいるだろうかと、南に連なる山々を眺めた。山はみな青々として美しく、こんな事態とは無関係のように毅然とその姿を示していて、なんだか自分が浮き上がっているのではないかと思えるほどだった。小学校の二年生の時だった。
仕事を辞めた父
父は敗戦の日を期して、神社建築の事業を辞めた。会社は台湾のヒノキなどを用いて立派な神社や寺院の建築をしており、台湾やその他に出向している社員も多かった。父は敗戦の日が来るのを確信して、鎌倉や東京の世田谷・杉並などの山の手に何軒かの家を買い、また所有の財産を処分して自分の辞めた後の職員家族の救済に充てることにして、資金を集めていた。自分の収入もその後一切受け取らないことにして、これからは向収入で国のために働こうと決意していた。どんなことをしていたのか、それはここではもう触れまい。
戦後一カ月少しして、祖母と私ら兄弟は引き上げ第一陣として鎌倉に戻った。進駐米軍が割におとなしく進駐したので、まず先遣隊として私らが釜kらに戻ることにしたのだ。家を空けること数カ月、我が家は庭中、びっしりと雑草が生え、恐ろしいほど荒れていた。それに父が無収入になったので、家族がそこら中の庭の垣根を崩し小屋を壊し、裏山の枯れ枝などを集めてきてはそれで炊事をしふろを焚き、海岸に出かけては海藻を抱えて帰り食卓に並べる。大変な生活が始まっていた。
父は厳しい仕事で身体を弱らせ、栄養失調と皮膚病で身体はガタガタ、帰ってくると草津から持ち帰ってい王を溶かしたふろに入ってそのあと死んだように寝た。私ら兄弟はそんな父のために集めたまきでふろを沸かしたが、倒れるようにふろに入った父は、やがて落ち付くと、「いざ来いニミッツ、マッカーサー、出てくりゃ地獄に叩き落とす」などと調子外れの大声で歌を歌い、風呂から出ると死んだように寝た。
だがそんな中で、愚痴の一つも言わず、明るく皆を指揮していたのは母であった。母は我が家の指揮官だった。我が家にまだあった売れそうな衣服やものはすべてリヤカーに乗せて、清算会社のタイピストとして当時住み込んでいた女の人を連れて近郊の農家に行き、すべてを食料に交換してもらった。父が生きる道の亡くなった旧社員の世話をするために設けた清算会社に残っていた人で、戦時中からいつも父の文章をタイプに打っていた若いけれども恐ろしく気の強い父の腹心であり、母の妹分の人だった。鎌倉は米軍の将校用住宅にと、洋間が二つ以上熱い絵を片端接収した。我が家も大きな二部屋と水洗便所やミニ浴室までが付いていた。だがここに大至急で畳を敷いて、部屋を飾って何と言われても和室だと言い張ってきかず、軍を追い返したのも母であった。この部屋がなくなれば、我が家を訪ねてくる旧社員や親せきの人に対する仕事ができなくなる。傲然と立ち向かって猛烈にがんばる母は、柄は小さいが女弁慶のような威厳があった。
母はもう、自分の服や化粧品などは一切買わなかった。物々交換にも使えない古い夫の服を不器用な裁縫で裏返し着て、屋根の修理から庭仕事、大工仕事まで、すべてを自分でこなしていた。また父の書く原稿の推敲をしてタイピストに渡し、新聞や雑誌に資料を集め、父に提供していた。子供らに手伝いをさせて庭を野菜の畑にし、父の秘書役を一手に受けてこなす気力には我々はいつの脱帽させられていた。我が家には戦地から復員したり外地から引き揚げてきた人たちが毎日のようにやってきた。そこで新しい仕事を求め、戦後の時代に生きていくためであった。その人たちの世話も母がした。
子珍彦(うずひこ)
珍彦・照子夫婦の戦いはこの終戦からいよいよ厳しいものになっていった。それの関しては私もすでに書いたものも多いし、この辺までにしておこう。父の親族一統は、強い親近感で結びついていた。そしてその結束は今も続いている。群馬から帰った父の兄弟姉妹たちもすっかり父と母を尊敬していたし、敗戦後の厳しい中でも、必ず正月と祖父の命日は鎌倉に集まって皆で楽しい団欒の時を持った。叔父・叔母たちは母をいつしか「子珍彦」と呼ぶようになった。父のところに来て勉強し、父のために働いて、父の服を着て父と同じようなことを言う。「あの家には珍彦兄さんが二人いる」。
父は親せきどもの社交などは妻のすべきこと(これはのちには母が亡くなりすべて私がすることになってくるが)と決めていた。終戦対応で手が回らなかったのだろう。それらはすべて母にまかせっきりであった。だが、「珍彦さんが来てくれない」と不満を言う声は聞かなかった。
ただ面白いことに、母は酒が大好きでしかも強く、明るく話をしながらいつも楽しげにに酒は飲む。また、これはのちになって知ったのだが、母は本来はヘビースモーカーでもあった。父と一緒に過ごす間に、いつ間にそうなってしまった珍彦の悪いところを引き継いだようなところもあった。団欒の席で、父に次がれた酒にはだれも手をつけない。ところが隣にいる母は、無造作にそれをスッと飲んでしまう。だが祖母が頑固な人で、自分の気に入って育てた嫁が酒を飲むのはまだ許せるが、たばこを吸うなどと知ったら、さぞや驚き悲しむだろう。そう思って、皆の前で酒も控え、たばこを吸うのは我慢していたのだそうだ。私でさえも騙されていた。母はいつもタバコ臭いと思っても、父の古着を着ていて、父とともにいるのだからそうなるだろうと、大学を出るまで思いこんでいた。
その癖、母の死後、祖母に質してみたのだが、「人前では吸わないことにしてたんだろう。だからお吸いなさなんかったとよ」とどうともとれるあいまいな返事をしてにやりと笑った。
あの家には珍彦が二人いる。そう言われても明るく笑うだけだった母は、自分を抑える力の強い女だった。私らに対しても、あいまいな態度は決して許さなかった。
子供のころに母を失い、先の大戦で兄の死亡広報を受け、最もかわいがっていた弟を学徒出陣で沖縄沖で失った。信頼していた姉も早世した。また戦時中、我が家に出入りしていた仲間と親しく交わったが、次々に失った。そんな母が自分を隠せなくなって狂喜したのは昭和二十七年、死亡したとされていた兄が実はソ連軍の強制収容所にいて自分が軍の特務に勤務していたので名前も所属も隠していた。
それが舞鶴に帰還する日本派遣の引き上げ船の中で名乗り出て、諦めていたのに急に無事に帰国することになった。無事に本土の帰ってきたのだった。その時の母の、自分が何をしているのか、丸だわからぬ興奮ぶりであった。伯父は高校入学当初の私が弟を連れて迎えに行き、無事鎌倉に連れてきたが、考えてみれば、母は両親を、愛する兄弟を、親のように慕ってくれた末の弟以外全員を失った、だが自分の悲しみを表に出して、皆を嘆かせるようなことはしなかった。
私には厳しかった母
私には厳しい母の姿が印象深い。古い日本の家庭では、父母はその長子を主に厳しく育て、長子はそれを受け継ぎ兄弟姉妹をまとめて家を守る。葦津の家もそうだった。この方針に母は徹底していた。そのためずいぶん母には叱られた。その代わり、年が長ずるにつれて、母は我が家の苦境や自分の思いを私にだけは相談してくれるようになったのに気がついら。しかし小さな遊びの場面でも、私が弟たちを見捨てて勝手に動いたとき、弟よりも自分が分け前を多く取ろうとしたときなどは、母は心の底から悲しそうにして、激しく私を叱責した。
長じて私が中学生になったころ、次弟を連れて小田原まで自転車で遊びに行ったことがある。サイクリングというほどに洒落たものではなかったが、途中でチンピラ少年のグループに取り巻かれた。弟が逃げそこなったのが原因で、私は弟を助けようと、数人いたグループに命がけでぶつかっていき、服はズタズタ、顔は両腕は血だらけとなり、そのすさまじい抵抗にチンピラ達は怖気づいたか、無事に弟を無傷で奪還したことがあった。ちょうど近くの鵠沼海岸に叔母の家があり、血が流れて目もかすむのでそこで顔を洗い、応急措置をして家に戻った。その時のことを思い出す。いつも私をずる賢いと言っていた叔母は、私の弟を守ろうとした勇気を、想像以上にほめてくれたし、母は、いままで見たこともない温厚なやさしい母であった。
弟を大切に扱うのは兄の義務だ。自分は弟たちのリーダーだとの意識はいつしか自分の身についていたので、それは社会に出てからも大いに役に立つこととなった。私は日ごろの同級生たちとの地元での野球や散策の時にも、必ず仲間の同意を得て二人の弟を連れていった。だから今でも、私の古い友達は私の弟たちのことをよく知っている。弟たちも私を大事にしてくれる。
やさしい母の夢を見た
母が倒れて、そして亡くなるまでの数日間の私らのろうばいぶりにに関しては、私はいぜんにこのブログで書いたことがある。http://ashizujimusyo.com/sub26.html だから今回はもう書かないことにする。
気抜けをして立ち直れなかったのは父も一緒であった。父にとっては、母はそれこそ分身であったのだ。
だが今年、私としては思いもよらなかったことだが、やさしい愛情たっぷりの甘い母の夢を見た。母親に私に対しての深い愛情があるのは、母の生前からしっかりと認識していたつもりだ。だが夢に出てくる母の姿は、いつも私の生き方に厳しくて、私だけに「そこまで厳しくしなくても」と、弟たちへ接する母の姿をいつも見ていただけに愚痴が出るようなことの連続であった。ところが今年見た私の夢は、そんな思いをつゆ感じさせぬ、べたべたの愛情あふれる母だった。私は夢の中で最初は驚き、次いで安心して母に抱きついた。なんとその母は、四十年以上前、私が記憶しているわたしのむすめとちがわないような「お母さん」の姿であった。
夢占いなどは得意ではない。なんでこんな夢を見たのか、考えてみたが理由は思いつかない。「もうお前の役割はほとんど終えた。待っているからいつでもおいで」と幽界から私を誘ってくれているのかもしれない。
私は今、生来の肉体条件に恵まれず、それを自分らの努力で何とか最小限に食い止めて、孫が立派に育つようにと、彼が病院で生死をかける治療を始めたその日から、「わが命を、この子のためならいつでも差し上げますから、この子の将来を見守ってください」と祈願を始めて欠かしていない。中には数日、私が親族の通夜のため、あるいは離れた九州の総本家の年債のために欠かした日があるが、それらは神社参拝を慎むべき時だ。それ以外は雨の日も風の日も、熱がある日でも欠かしていない。私はそんな祈願を始めて、自分が父親でありまた祖父であることの実感を強く認識するようになったのだから、孫に感謝をしなければならないと思っているのだが。
そのために、危急存亡の国難に当たって忙しかったわが父が、先祖が代々奉仕してきた福岡の筥崎宮の末社に、私と同じ祈願に飛行機や汽車を乗り継いで祈願に行ってくれた思いも実感としてわかる。私は家族の愛情というものが、いかに強くて本物であるかを知ることのできた幸せな男である。
日ごろそう思って、父をしのびながら毎日生活をしているので、母の命日の直前に見たこの夢を、私の今年の初夢とすることにした。白状すれば、私の正月に初めて見た夢は、人の命などに露ほど憐れみを感じない現代の子供たちに取り囲まれ、ガムテープでぐるぐる巻きにされ、メスでグサグサ刺されても身動きできず、死んでいく夢であった。こんなひどい夢を見たことはめったにないが、母の夢は、この悪夢を私の心から、奪い去るのに充分であった。
母が亡くなったのは昭和四十五年二月、もう四十三年も前になる。だがそれでも母は私のそばにいて私をそしてともに生きている仲の良い弟たち一家をその孫たちを見守り続けてくれている。子供は親を選ぶわけにはいかない。でもそんな厳しい条件の中で、素晴らしい母から生まれ、育ててもらったことに感謝をする次第である。
註、終戦に日本がどうして進んで行ったのか。これに関しては戦後の厳しい米軍の圧力のもとに葦津珍彦が書き、戦う社員用のテキストにした「神社新法終戦始末記」というものがある。米国などの情報は全く隠されていた時代であったが、父はそこで、ほぼ正確にこの戦争の推移を観測した。其れはいつくかの本になって出ているので、関心のある人は読んでみてほしい。
写真は終戦直後に一家で鎌倉の裏山をハイキング。筆者撮影。
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