3 問われる国家の責任
英霊を作り出し、靖国神社に祀ったものは誰だったのか
国の戦没者追悼式は、国が祖国のために命をささげた靖国神社の英霊をことさらに避けるように見え、
さらに戦没者追悼式を見ると、英霊を祭る方式では、憲法を六十年前の敵国だった日本を立ち上がれなくしようという戦勝アメリカ進駐軍の占領指令を、
いまも忠実に守り続けることによって、二重の逃げをしている行事に見えることを、多少怒りの感情とともに述べてきた。
表現はきついが、おそらく同じような思いを持って眺める国民も多いだろう。
靖国神社には、国が審査してまつる祭神を決定し、選んだ約二百五十万柱の英霊が祀られている。
靖国神社に祀られている英霊は、先の大東亜戦争における戦歿英霊の霊のみではない。
明治維新の戊辰戦争以来、日本は数々の戦争を経験してきた。
それらの戦いに、国の命令にしたがって亡くなり、ここに祀られている英霊たちだ。
その内訳は、明治維新の活動者は近代国に脱皮する前の祭神だから別としても、日清戦争一万三千、日露戦争八万八千、満州事変一万七千、支那事変十九万千など、国際紛争でなくなった英霊が三十万柱近くに達している。
これらの御霊(みたま)は、明治維新によって創立初期の時代に祀られた維新の功労者以外は、すべて明治以来の日本国が従軍させた武力衝突で、日本政府の方針に従って軍事衝突により戦死した人たちであり、日本政府の戦死者の審査、手続きによって祭神とされ、宮中にその名簿をお見せしたのちに、国の意思によって靖国神社に祀られた。
そんな事情があるので、靖国神社では国家としてのまつりを丁重に行ってきたが、その靖国神社の祭りは、
国として英霊たちを顕彰し、彼らに栄誉を与えるものであった(靖国神社では、このほか参拝を希望する遺族や国民の拝礼なども受け付けて行ってきた。
それは数においては、国(軍など)の行う行事より、その回数はむしろ多かったが、それは、公の祭りとは別の、靖国神社という祭祀施設が中心で行ってきたものと解釈される)。
国の行う行事には、公的に英霊に捧げる表敬の儀式であるとともに、その裏側に、戦乱がなければ、平凡な国民として、穏やかな生涯を終えたであろう人生を、
国の命令によって死に至らしめてしまった英霊に対する、
死なせた責任を強く感ずる国の哀悼と慰霊の思いも含まれていたと解すべきものでもあった。
靖国神社は、諸外国の無名戦士の墓のような側面も持っていたのである。
国家には、国民の前にあからさまには示されなかったが、彼らを生きて復員させることができず、戦没英霊にしてしまった重大な責任意識があり、
国がそれを強く自覚し、英霊の前に頭を下げなければならぬ関係もある面は見落としてはならない。
そんな大切な御霊を祀る靖国神社を、日本国は敗戦時の有無を言わせぬ戦勝占領国の命令によって、国の大切な祭祀施設から切り離さなければならなくなった。
それについては後に触れるが、そこでせめて占領終結までの間、民間でしばらく預かってくれる占領中の留守番役にまかせなければならない事態が生じ、
その役目を進んで引き受けたのがいまの宗教法人の靖国神社であった。
当時の国や靖国神社の関係者は、日本国が、ふたたび独立して、自由を回復した暁には、再び国の機関に回復させようという点で一致していた。
だが、いろいろの問題が重なって、国がその祭儀を、放棄したままに六十年、長い時間がいままでの間にすぎてしまっている。
いま、遺族や国民の間に、靖国神社の公式参拝を求める声が強く、熱心にそのために運動をしている人もある。
私自身は公式参拝という概念はあいまいであまり好きではないが、靖国神社にはぜひ首相はじめ政府の責任者に、公式に敬意を表してもらいたいと切望する英霊の遺族や国民には深い共感を覚える。
このような政府の戦没英霊を作り出してしまった責任を、いつまでも国としてはっきりさせず、国家護持も放棄したままでいるような態度が残念で、
国家護持には時間がかかっても、せめて英霊たちに国で責任もって慰霊のできない状況を英霊に詫びろと求めているものと見なければなるまい。
戦没者追悼式をしてみても
政府は全国戦没者追悼式を行い、先の大東亜戦争の英霊を含む全犠牲者を追悼する式典を主催している。
政府はこんな式典をしているから、靖国神社にこのほかに国としての敬意を表する必要がないように思う人もいるだろう。
だが、これに関しては、私もそれでも充分とは決して言えないと思っている。
戦没者追悼式は、単に戦争の巻き添えで亡くなった、戦争被害者を悼む式典だ。
だが靖国神社には、軍や政府の主権活動として行った戦闘行為で命を失う羽目に追い込まれた英霊がまつられている。
彼らは戦争による犠牲者でもあるが、国によって直接的に命を失う戦闘行為に従事して戦死した。
召集令状の赤紙が来なかったら、穏やかな生涯を家族や隣人とともに暮らしたであろう人がたくさん含まれている。
政府の自ら彼らを戦死に至らしめた責任を痛感して、彼らにこれから、同じような被害者が出ないように国としても精いっぱいに努力すると誓う儀式は、
国が単なる憐み悼む追悼式を行うのとは別に、
はっきり行うべき義務があると思う。
日本政府は、明治の開国以来の日本国のすべての権利義務、領土や国民を引き継いでいる。
数々の国際的な戦闘行為を行ったことに対する、従事した戦死者への慰霊の儀式は、大切な引き継ぎ事項としていまの政府にもあるはずである。
新しい追悼施設を作る愚かさ
この問題に関して、ガンとなっているのが日本国の公務員たちが、
占領軍の占領当初に出した神道指令の命令通りの頭の儘で、
憲法解釈上、国が靖国神社にかかわるのは一宗教法人に手を貸すことになり、
許されないという主張をいまでも繰り返し、
政治家や国会議員たちの行動をけん制し続ける現状である。
それが常識的な憲法の見方ではないことは先に述べた。
だがそんな状況を見て、
「今まで靖国神社に祀ってきた行為を国が詫びて、英霊に謝罪して
新しく無宗教式の施設を作り、英霊をまつりなおせばよい」
などとこともなげにいう説も、
一部の国会議員などにある。
無宗教方式ならいまの方式は許されなくとも許されるという発想は、役人のレクチャーを受け、同じくおかしな判決を出し続ける裁判所の姿勢にも合わせようとしたものなのだろうが、
そんな国の将来への逃げ腰の姿勢に、どんな効果があると思っているのだろうか。
表面だけを追いかけて、無宗教という政府の作りだした宗教が、
靖国神社の行き方とどれだけ違うものなのか、
前章で書いたように、全く屁理屈にもならないと私は思う。
それは日本中にある伝統的な宗教にも弓を引く宗教的大きな効果のあることを政府がすることにもつながってくる。
心のこもっていない今の政府や役人が、表面だけを取り繕おうと
こんな発想を持ちだして、施設に膨大な費用をかけて作ってみても、
それは愚かな予算の無駄遣いに過ぎぬ。
その上、いったい国民心理にその施設はどんな効果があるというのだろう。
国民はそんなものには満足しない。
まるで郵政省か厚生労働省が、役にも立たない箱モノを作ったのと、同じようなものに見える。
それにこれは最も大切なことであるが、思い出しても見るがよい。
英霊たちが、はたしてそれを認め満足するというのだろうか。
靖国神社に祀られている英霊たちが、まだ存命ででもあるのなら、国が正式に陳謝して、慰謝料でも支払って事態をやり直すこともできるだろう。
だが英霊たち、特に近時の英霊たちは、
「万一のときは靖国神社で会おう」
との別れの挨拶をし、死ねば国によって
丁重に靖国神社という特別の施設に祀られることを信じて戦地に赴いた。
死者との約束、しかも死者は国が責任のある国権の発動である戦争に、
好むと好まざるとにかかわらず従事して、命を散らした人々なのだ。
国は誠意を尽くして対応しなければならない重さを持っている。
死んだ人の霊などは相手にしようがないというのなら、もともと新追悼施設などの構想はナンセンスである。
靖国神社切り捨て当時の責任は問うまい
細かい事情はのちに譲るが、敗戦後の日本政府には靖国神社を放棄せざるを得ない事情があった。
敗戦とともに日本は、進駐してきた米国など連合国の支配のもとに入り、政府はその命令を拒否できないという占領下におかれた。
占領軍は日本の国が戦力や資源は米国などに比べてはるかに劣るのに、
それまで頑強に抵抗した力は日本という社会が国のためだということになると、
全国民が一つにまとまる国であり、
その精神的な柱となっているのは靖国神社への国民の一致した崇敬心と
神社への信仰によるまとまり、そしてそれらの基礎にある
皇室への忠誠の心にあると、それを徹底して破砕しようとした。
そんな中で米軍は靖国神社を日本国が保持し、維持するのを厳しく禁止した。
日本政府などは無視した占領軍の命令であった。
敗戦に伴う降伏条件には、日本国政府はすべての権限を
占領軍総司令部(GHQ)に従属することを定めていた。
こんな中で靖国神社は国の施設から放り出されてしまった。
このことを指して無責任だと責める声も多い。
現にあの靖国神社を国の施設から切断させ、焼却しようとの声が
占領軍内部に起こった時、国民の間にも
一命をかけてでも靖国神社を奉護しようと決断した人も多かった。
靖国神社の切り捨てを、国としてあってはならないミスだったという声もある。
しかし、まだ幼かったがこの目で戦後の時代を現実に眺めてきた私は、
故意に犯した無責任だと国を責める気にはなれない。
主権も奪われた日本国政府は、それに抵抗する手段もなかったのだ。
しかし、日本が講和条約を締結し、再び自分の責任で国の運営ができるようになった七年後から、
この国家として国のために死んだ人たち(厳しい言い方をすれば、国の方針によって生命を断たれた人たち)への責任にも
全く触れようとせず、ただただ死者の尊厳を無視して生きている者への
言い逃れのような応対に明け暮れてきたその後の五十年以上は、
明らかに無責任であった。
靖国神社の再国家護持への道には、この上に
占領軍の出した神道指令に基づく政教分離の問題の下手な取り扱いの後遺症も重なっていた。
それらに対して、国はあれだけ膨大な損失をあえて犯した行為への戦後処理である。
真正面から正攻法で取り組むべきであった。
だが戦後の日本国は、あらゆる面で厄介な面は先送りして、その場を過ぎればよいとのみ思って難問を回避する基本的な性格を持ってしまっていた。
靖国神社の再国家護持には、逃げばかりではない取り組みが必要なのだが。
政府は、やればできることも、反対する少数者がいるという理由だけで、
説得が厄介だからしようとはしない。
そんな疑いが積み重ねられるような現状は無視できない。
靖国神社の問題のあいまいな対応が及んで、千鳥が淵戦没者墓苑もまた、
同様に正常な施設としての説明があいまいなままになっている。
日本は戦後六十四年を経ているが、八月十五日の光景を見ると、
日本はまだ、占領時代に歪められ、それに手もつけないでいるのだと
言わなければならない現状のようである。(つづく)
このコラムは私のブログ 葦津事務所のページ「http://ashizujimusyo.com 」の「社会への提言」からの引用です。
英霊を作り出し、靖国神社に祀ったものは誰だったのか
国の戦没者追悼式は、国が祖国のために命をささげた靖国神社の英霊をことさらに避けるように見え、
さらに戦没者追悼式を見ると、英霊を祭る方式では、憲法を六十年前の敵国だった日本を立ち上がれなくしようという戦勝アメリカ進駐軍の占領指令を、
いまも忠実に守り続けることによって、二重の逃げをしている行事に見えることを、多少怒りの感情とともに述べてきた。
表現はきついが、おそらく同じような思いを持って眺める国民も多いだろう。
靖国神社には、国が審査してまつる祭神を決定し、選んだ約二百五十万柱の英霊が祀られている。
靖国神社に祀られている英霊は、先の大東亜戦争における戦歿英霊の霊のみではない。
明治維新の戊辰戦争以来、日本は数々の戦争を経験してきた。
それらの戦いに、国の命令にしたがって亡くなり、ここに祀られている英霊たちだ。
その内訳は、明治維新の活動者は近代国に脱皮する前の祭神だから別としても、日清戦争一万三千、日露戦争八万八千、満州事変一万七千、支那事変十九万千など、国際紛争でなくなった英霊が三十万柱近くに達している。
これらの御霊(みたま)は、明治維新によって創立初期の時代に祀られた維新の功労者以外は、すべて明治以来の日本国が従軍させた武力衝突で、日本政府の方針に従って軍事衝突により戦死した人たちであり、日本政府の戦死者の審査、手続きによって祭神とされ、宮中にその名簿をお見せしたのちに、国の意思によって靖国神社に祀られた。
そんな事情があるので、靖国神社では国家としてのまつりを丁重に行ってきたが、その靖国神社の祭りは、
国として英霊たちを顕彰し、彼らに栄誉を与えるものであった(靖国神社では、このほか参拝を希望する遺族や国民の拝礼なども受け付けて行ってきた。
それは数においては、国(軍など)の行う行事より、その回数はむしろ多かったが、それは、公の祭りとは別の、靖国神社という祭祀施設が中心で行ってきたものと解釈される)。
国の行う行事には、公的に英霊に捧げる表敬の儀式であるとともに、その裏側に、戦乱がなければ、平凡な国民として、穏やかな生涯を終えたであろう人生を、
国の命令によって死に至らしめてしまった英霊に対する、
死なせた責任を強く感ずる国の哀悼と慰霊の思いも含まれていたと解すべきものでもあった。
靖国神社は、諸外国の無名戦士の墓のような側面も持っていたのである。
国家には、国民の前にあからさまには示されなかったが、彼らを生きて復員させることができず、戦没英霊にしてしまった重大な責任意識があり、
国がそれを強く自覚し、英霊の前に頭を下げなければならぬ関係もある面は見落としてはならない。
そんな大切な御霊を祀る靖国神社を、日本国は敗戦時の有無を言わせぬ戦勝占領国の命令によって、国の大切な祭祀施設から切り離さなければならなくなった。
それについては後に触れるが、そこでせめて占領終結までの間、民間でしばらく預かってくれる占領中の留守番役にまかせなければならない事態が生じ、
その役目を進んで引き受けたのがいまの宗教法人の靖国神社であった。
当時の国や靖国神社の関係者は、日本国が、ふたたび独立して、自由を回復した暁には、再び国の機関に回復させようという点で一致していた。
だが、いろいろの問題が重なって、国がその祭儀を、放棄したままに六十年、長い時間がいままでの間にすぎてしまっている。
いま、遺族や国民の間に、靖国神社の公式参拝を求める声が強く、熱心にそのために運動をしている人もある。
私自身は公式参拝という概念はあいまいであまり好きではないが、靖国神社にはぜひ首相はじめ政府の責任者に、公式に敬意を表してもらいたいと切望する英霊の遺族や国民には深い共感を覚える。
このような政府の戦没英霊を作り出してしまった責任を、いつまでも国としてはっきりさせず、国家護持も放棄したままでいるような態度が残念で、
国家護持には時間がかかっても、せめて英霊たちに国で責任もって慰霊のできない状況を英霊に詫びろと求めているものと見なければなるまい。
戦没者追悼式をしてみても
政府は全国戦没者追悼式を行い、先の大東亜戦争の英霊を含む全犠牲者を追悼する式典を主催している。
政府はこんな式典をしているから、靖国神社にこのほかに国としての敬意を表する必要がないように思う人もいるだろう。
だが、これに関しては、私もそれでも充分とは決して言えないと思っている。
戦没者追悼式は、単に戦争の巻き添えで亡くなった、戦争被害者を悼む式典だ。
だが靖国神社には、軍や政府の主権活動として行った戦闘行為で命を失う羽目に追い込まれた英霊がまつられている。
彼らは戦争による犠牲者でもあるが、国によって直接的に命を失う戦闘行為に従事して戦死した。
召集令状の赤紙が来なかったら、穏やかな生涯を家族や隣人とともに暮らしたであろう人がたくさん含まれている。
政府の自ら彼らを戦死に至らしめた責任を痛感して、彼らにこれから、同じような被害者が出ないように国としても精いっぱいに努力すると誓う儀式は、
国が単なる憐み悼む追悼式を行うのとは別に、
はっきり行うべき義務があると思う。
日本政府は、明治の開国以来の日本国のすべての権利義務、領土や国民を引き継いでいる。
数々の国際的な戦闘行為を行ったことに対する、従事した戦死者への慰霊の儀式は、大切な引き継ぎ事項としていまの政府にもあるはずである。
新しい追悼施設を作る愚かさ
この問題に関して、ガンとなっているのが日本国の公務員たちが、
占領軍の占領当初に出した神道指令の命令通りの頭の儘で、
憲法解釈上、国が靖国神社にかかわるのは一宗教法人に手を貸すことになり、
許されないという主張をいまでも繰り返し、
政治家や国会議員たちの行動をけん制し続ける現状である。
それが常識的な憲法の見方ではないことは先に述べた。
だがそんな状況を見て、
「今まで靖国神社に祀ってきた行為を国が詫びて、英霊に謝罪して
新しく無宗教式の施設を作り、英霊をまつりなおせばよい」
などとこともなげにいう説も、
一部の国会議員などにある。
無宗教方式ならいまの方式は許されなくとも許されるという発想は、役人のレクチャーを受け、同じくおかしな判決を出し続ける裁判所の姿勢にも合わせようとしたものなのだろうが、
そんな国の将来への逃げ腰の姿勢に、どんな効果があると思っているのだろうか。
表面だけを追いかけて、無宗教という政府の作りだした宗教が、
靖国神社の行き方とどれだけ違うものなのか、
前章で書いたように、全く屁理屈にもならないと私は思う。
それは日本中にある伝統的な宗教にも弓を引く宗教的大きな効果のあることを政府がすることにもつながってくる。
心のこもっていない今の政府や役人が、表面だけを取り繕おうと
こんな発想を持ちだして、施設に膨大な費用をかけて作ってみても、
それは愚かな予算の無駄遣いに過ぎぬ。
その上、いったい国民心理にその施設はどんな効果があるというのだろう。
国民はそんなものには満足しない。
まるで郵政省か厚生労働省が、役にも立たない箱モノを作ったのと、同じようなものに見える。
それにこれは最も大切なことであるが、思い出しても見るがよい。
英霊たちが、はたしてそれを認め満足するというのだろうか。
靖国神社に祀られている英霊たちが、まだ存命ででもあるのなら、国が正式に陳謝して、慰謝料でも支払って事態をやり直すこともできるだろう。
だが英霊たち、特に近時の英霊たちは、
「万一のときは靖国神社で会おう」
との別れの挨拶をし、死ねば国によって
丁重に靖国神社という特別の施設に祀られることを信じて戦地に赴いた。
死者との約束、しかも死者は国が責任のある国権の発動である戦争に、
好むと好まざるとにかかわらず従事して、命を散らした人々なのだ。
国は誠意を尽くして対応しなければならない重さを持っている。
死んだ人の霊などは相手にしようがないというのなら、もともと新追悼施設などの構想はナンセンスである。
靖国神社切り捨て当時の責任は問うまい
細かい事情はのちに譲るが、敗戦後の日本政府には靖国神社を放棄せざるを得ない事情があった。
敗戦とともに日本は、進駐してきた米国など連合国の支配のもとに入り、政府はその命令を拒否できないという占領下におかれた。
占領軍は日本の国が戦力や資源は米国などに比べてはるかに劣るのに、
それまで頑強に抵抗した力は日本という社会が国のためだということになると、
全国民が一つにまとまる国であり、
その精神的な柱となっているのは靖国神社への国民の一致した崇敬心と
神社への信仰によるまとまり、そしてそれらの基礎にある
皇室への忠誠の心にあると、それを徹底して破砕しようとした。
そんな中で米軍は靖国神社を日本国が保持し、維持するのを厳しく禁止した。
日本政府などは無視した占領軍の命令であった。
敗戦に伴う降伏条件には、日本国政府はすべての権限を
占領軍総司令部(GHQ)に従属することを定めていた。
こんな中で靖国神社は国の施設から放り出されてしまった。
このことを指して無責任だと責める声も多い。
現にあの靖国神社を国の施設から切断させ、焼却しようとの声が
占領軍内部に起こった時、国民の間にも
一命をかけてでも靖国神社を奉護しようと決断した人も多かった。
靖国神社の切り捨てを、国としてあってはならないミスだったという声もある。
しかし、まだ幼かったがこの目で戦後の時代を現実に眺めてきた私は、
故意に犯した無責任だと国を責める気にはなれない。
主権も奪われた日本国政府は、それに抵抗する手段もなかったのだ。
しかし、日本が講和条約を締結し、再び自分の責任で国の運営ができるようになった七年後から、
この国家として国のために死んだ人たち(厳しい言い方をすれば、国の方針によって生命を断たれた人たち)への責任にも
全く触れようとせず、ただただ死者の尊厳を無視して生きている者への
言い逃れのような応対に明け暮れてきたその後の五十年以上は、
明らかに無責任であった。
靖国神社の再国家護持への道には、この上に
占領軍の出した神道指令に基づく政教分離の問題の下手な取り扱いの後遺症も重なっていた。
それらに対して、国はあれだけ膨大な損失をあえて犯した行為への戦後処理である。
真正面から正攻法で取り組むべきであった。
だが戦後の日本国は、あらゆる面で厄介な面は先送りして、その場を過ぎればよいとのみ思って難問を回避する基本的な性格を持ってしまっていた。
靖国神社の再国家護持には、逃げばかりではない取り組みが必要なのだが。
政府は、やればできることも、反対する少数者がいるという理由だけで、
説得が厄介だからしようとはしない。
そんな疑いが積み重ねられるような現状は無視できない。
靖国神社の問題のあいまいな対応が及んで、千鳥が淵戦没者墓苑もまた、
同様に正常な施設としての説明があいまいなままになっている。
日本は戦後六十四年を経ているが、八月十五日の光景を見ると、
日本はまだ、占領時代に歪められ、それに手もつけないでいるのだと
言わなければならない現状のようである。(つづく)
このコラムは私のブログ 葦津事務所のページ「http://ashizujimusyo.com 」の「社会への提言」からの引用です。