葦津泰國の、私の「視角」

 私は葦津事務所というささやかな出版社の代表です。日常起こっている様々な出来事に、受け取り方や考え方を探ってみます。

靖国神社とそのあるべき姿 3

2009年09月23日 15時00分24秒 | 私の「時事評論」
3 問われる国家の責任

 英霊を作り出し、靖国神社に祀ったものは誰だったのか

 国の戦没者追悼式は、国が祖国のために命をささげた靖国神社の英霊をことさらに避けるように見え、
 さらに戦没者追悼式を見ると、英霊を祭る方式では、憲法を六十年前の敵国だった日本を立ち上がれなくしようという戦勝アメリカ進駐軍の占領指令を、
いまも忠実に守り続けることによって、二重の逃げをしている行事に見えることを、多少怒りの感情とともに述べてきた。
 表現はきついが、おそらく同じような思いを持って眺める国民も多いだろう。

 靖国神社には、国が審査してまつる祭神を決定し、選んだ約二百五十万柱の英霊が祀られている。

 靖国神社に祀られている英霊は、先の大東亜戦争における戦歿英霊の霊のみではない。
 明治維新の戊辰戦争以来、日本は数々の戦争を経験してきた。
 それらの戦いに、国の命令にしたがって亡くなり、ここに祀られている英霊たちだ。
 その内訳は、明治維新の活動者は近代国に脱皮する前の祭神だから別としても、日清戦争一万三千、日露戦争八万八千、満州事変一万七千、支那事変十九万千など、国際紛争でなくなった英霊が三十万柱近くに達している。

 これらの御霊(みたま)は、明治維新によって創立初期の時代に祀られた維新の功労者以外は、すべて明治以来の日本国が従軍させた武力衝突で、日本政府の方針に従って軍事衝突により戦死した人たちであり、日本政府の戦死者の審査、手続きによって祭神とされ、宮中にその名簿をお見せしたのちに、国の意思によって靖国神社に祀られた。

 そんな事情があるので、靖国神社では国家としてのまつりを丁重に行ってきたが、その靖国神社の祭りは、
国として英霊たちを顕彰し、彼らに栄誉を与えるものであった(靖国神社では、このほか参拝を希望する遺族や国民の拝礼なども受け付けて行ってきた。
 それは数においては、国(軍など)の行う行事より、その回数はむしろ多かったが、それは、公の祭りとは別の、靖国神社という祭祀施設が中心で行ってきたものと解釈される)。

 国の行う行事には、公的に英霊に捧げる表敬の儀式であるとともに、その裏側に、戦乱がなければ、平凡な国民として、穏やかな生涯を終えたであろう人生を、
国の命令によって死に至らしめてしまった英霊に対する、
死なせた責任を強く感ずる国の哀悼と慰霊の思いも含まれていたと解すべきものでもあった。

 靖国神社は、諸外国の無名戦士の墓のような側面も持っていたのである。

 国家には、国民の前にあからさまには示されなかったが、彼らを生きて復員させることができず、戦没英霊にしてしまった重大な責任意識があり、
国がそれを強く自覚し、英霊の前に頭を下げなければならぬ関係もある面は見落としてはならない。

 そんな大切な御霊を祀る靖国神社を、日本国は敗戦時の有無を言わせぬ戦勝占領国の命令によって、国の大切な祭祀施設から切り離さなければならなくなった。

 それについては後に触れるが、そこでせめて占領終結までの間、民間でしばらく預かってくれる占領中の留守番役にまかせなければならない事態が生じ、
その役目を進んで引き受けたのがいまの宗教法人の靖国神社であった。
 当時の国や靖国神社の関係者は、日本国が、ふたたび独立して、自由を回復した暁には、再び国の機関に回復させようという点で一致していた。
 だが、いろいろの問題が重なって、国がその祭儀を、放棄したままに六十年、長い時間がいままでの間にすぎてしまっている。

 いま、遺族や国民の間に、靖国神社の公式参拝を求める声が強く、熱心にそのために運動をしている人もある。
 私自身は公式参拝という概念はあいまいであまり好きではないが、靖国神社にはぜひ首相はじめ政府の責任者に、公式に敬意を表してもらいたいと切望する英霊の遺族や国民には深い共感を覚える。
 このような政府の戦没英霊を作り出してしまった責任を、いつまでも国としてはっきりさせず、国家護持も放棄したままでいるような態度が残念で、
国家護持には時間がかかっても、せめて英霊たちに国で責任もって慰霊のできない状況を英霊に詫びろと求めているものと見なければなるまい。

 戦没者追悼式をしてみても  
 政府は全国戦没者追悼式を行い、先の大東亜戦争の英霊を含む全犠牲者を追悼する式典を主催している。
 政府はこんな式典をしているから、靖国神社にこのほかに国としての敬意を表する必要がないように思う人もいるだろう。
 だが、これに関しては、私もそれでも充分とは決して言えないと思っている。

 戦没者追悼式は、単に戦争の巻き添えで亡くなった、戦争被害者を悼む式典だ。

 だが靖国神社には、軍や政府の主権活動として行った戦闘行為で命を失う羽目に追い込まれた英霊がまつられている。
 彼らは戦争による犠牲者でもあるが、国によって直接的に命を失う戦闘行為に従事して戦死した。
 召集令状の赤紙が来なかったら、穏やかな生涯を家族や隣人とともに暮らしたであろう人がたくさん含まれている。
 政府の自ら彼らを戦死に至らしめた責任を痛感して、彼らにこれから、同じような被害者が出ないように国としても精いっぱいに努力すると誓う儀式は、
国が単なる憐み悼む追悼式を行うのとは別に、
はっきり行うべき義務があると思う。
 日本政府は、明治の開国以来の日本国のすべての権利義務、領土や国民を引き継いでいる。
 数々の国際的な戦闘行為を行ったことに対する、従事した戦死者への慰霊の儀式は、大切な引き継ぎ事項としていまの政府にもあるはずである。

 新しい追悼施設を作る愚かさ
 この問題に関して、ガンとなっているのが日本国の公務員たちが、
占領軍の占領当初に出した神道指令の命令通りの頭の儘で、
憲法解釈上、国が靖国神社にかかわるのは一宗教法人に手を貸すことになり、
許されないという主張をいまでも繰り返し、
政治家や国会議員たちの行動をけん制し続ける現状である。

 それが常識的な憲法の見方ではないことは先に述べた。
 だがそんな状況を見て、
「今まで靖国神社に祀ってきた行為を国が詫びて、英霊に謝罪して
新しく無宗教式の施設を作り、英霊をまつりなおせばよい」

などとこともなげにいう説も、
一部の国会議員などにある。
 無宗教方式ならいまの方式は許されなくとも許されるという発想は、役人のレクチャーを受け、同じくおかしな判決を出し続ける裁判所の姿勢にも合わせようとしたものなのだろうが、
そんな国の将来への逃げ腰の姿勢に、どんな効果があると思っているのだろうか。

 表面だけを追いかけて、無宗教という政府の作りだした宗教が、
靖国神社の行き方とどれだけ違うものなのか、
前章で書いたように、全く屁理屈にもならないと私は思う。

 それは日本中にある伝統的な宗教にも弓を引く宗教的大きな効果のあることを政府がすることにもつながってくる。

 心のこもっていない今の政府や役人が、表面だけを取り繕おうと
こんな発想を持ちだして、施設に膨大な費用をかけて作ってみても、
それは愚かな予算の無駄遣いに過ぎぬ。

 その上、いったい国民心理にその施設はどんな効果があるというのだろう。
 国民はそんなものには満足しない。
 まるで郵政省か厚生労働省が、役にも立たない箱モノを作ったのと、同じようなものに見える。

 それにこれは最も大切なことであるが、思い出しても見るがよい。
 英霊たちが、はたしてそれを認め満足するというのだろうか。
 靖国神社に祀られている英霊たちが、まだ存命ででもあるのなら、国が正式に陳謝して、慰謝料でも支払って事態をやり直すこともできるだろう。
 だが英霊たち、特に近時の英霊たちは、
「万一のときは靖国神社で会おう」
との別れの挨拶をし、死ねば国によって
丁重に靖国神社という特別の施設に祀られることを信じて戦地に赴いた。

 死者との約束、しかも死者は国が責任のある国権の発動である戦争に、
好むと好まざるとにかかわらず従事して、命を散らした人々なのだ。

 国は誠意を尽くして対応しなければならない重さを持っている。
 死んだ人の霊などは相手にしようがないというのなら、もともと新追悼施設などの構想はナンセンスである。

 靖国神社切り捨て当時の責任は問うまい

 細かい事情はのちに譲るが、敗戦後の日本政府には靖国神社を放棄せざるを得ない事情があった。

 敗戦とともに日本は、進駐してきた米国など連合国の支配のもとに入り、政府はその命令を拒否できないという占領下におかれた。

 占領軍は日本の国が戦力や資源は米国などに比べてはるかに劣るのに、
 それまで頑強に抵抗した力は日本という社会が国のためだということになると、
全国民が一つにまとまる国であり、
その精神的な柱となっているのは靖国神社への国民の一致した崇敬心と
神社への信仰によるまとまり、そしてそれらの基礎にある
皇室への忠誠の心にあると、それを徹底して破砕しようとした。

 そんな中で米軍は靖国神社を日本国が保持し、維持するのを厳しく禁止した。
 日本政府などは無視した占領軍の命令であった。

 敗戦に伴う降伏条件には、日本国政府はすべての権限を
占領軍総司令部(GHQ)に従属することを定めていた。

 こんな中で靖国神社は国の施設から放り出されてしまった。

 このことを指して無責任だと責める声も多い。
 現にあの靖国神社を国の施設から切断させ、焼却しようとの声が
占領軍内部に起こった時、国民の間にも
一命をかけてでも靖国神社を奉護しようと決断した人も多かった。

 靖国神社の切り捨てを、国としてあってはならないミスだったという声もある。

 しかし、まだ幼かったがこの目で戦後の時代を現実に眺めてきた私は、
故意に犯した無責任だと国を責める気にはなれない。

 主権も奪われた日本国政府は、それに抵抗する手段もなかったのだ。

 しかし、日本が講和条約を締結し、再び自分の責任で国の運営ができるようになった七年後から、
この国家として国のために死んだ人たち(厳しい言い方をすれば、国の方針によって生命を断たれた人たち)への責任にも
全く触れようとせず、ただただ死者の尊厳を無視して生きている者への
言い逃れのような応対に明け暮れてきたその後の五十年以上は、
明らかに無責任であった。

 靖国神社の再国家護持への道には、この上に
占領軍の出した神道指令に基づく政教分離の問題の下手な取り扱いの後遺症も重なっていた。

 それらに対して、国はあれだけ膨大な損失をあえて犯した行為への戦後処理である。
 真正面から正攻法で取り組むべきであった。
 だが戦後の日本国は、あらゆる面で厄介な面は先送りして、その場を過ぎればよいとのみ思って難問を回避する基本的な性格を持ってしまっていた。
 靖国神社の再国家護持には、逃げばかりではない取り組みが必要なのだが。

 政府は、やればできることも、反対する少数者がいるという理由だけで、
説得が厄介だからしようとはしない。
 そんな疑いが積み重ねられるような現状は無視できない。
 靖国神社の問題のあいまいな対応が及んで、千鳥が淵戦没者墓苑もまた、
同様に正常な施設としての説明があいまいなままになっている。

 日本は戦後六十四年を経ているが、八月十五日の光景を見ると、
日本はまだ、占領時代に歪められ、それに手もつけないでいるのだと
言わなければならない現状のようである。(つづく)

 このコラムは私のブログ 葦津事務所のページ「http://ashizujimusyo.com 」の「社会への提言」からの引用です。
                       

靖国神社とそのあるべき姿 2

2009年09月22日 12時17分08秒 | 私の「時事評論」
2、宗教的儀式に対する憲法の立場
 靴に合わせて足を切れとは

 やや文章が唐突に流れて、文の流れを混乱させるかもしれないが、靖国神社や戦没者追悼式、無宗教儀式などの出たついでに、日常はこんな問題にはあまりかかわっていない人にも理解しやすいように、ちょっとこの役人の作りだした儀式が混乱を生む元凶と一般ではされている戦後の憲法(日本国憲法)解釈に目を転じてみよう。

 実は私は、いまの憲法に対しては、その成立の歴史などを見て否定的な立場で、自主憲法の制定を望む一人である。なんで国際法で禁じられているのに米軍に、最も大事な憲法まで、脅されて変更させられなければならなかったのか。
 そんな国のプライドを傷つけられた無念さが、この憲法がある限り消え去らない。

 だが、そんな立場の私から見ても、いまの靖国神社をめぐる混乱は、憲法そのものの規定に混乱のもとがあるのではなく、まともに読まないから混乱が起きているのだと言わざるを得ないと思っている。

 日本にはお互いに排他的な激しさを持つ深刻な宗教対立の悲劇はあまり起きなかった。
 そのため合理的な宗教や宗教儀式、宗教活動というものの確たる概念も定まらぬまま、宗教そのものをどう解釈すればよいのかの知識も、ただ本を流し読みにしてわかったような気になって、地についた世界での常識的な法の解釈もできない,信仰的には「井の中の蛙」のまま。門外漢の官民が、挙げてのこの条文の空想的な解釈をして、それが日本に無用の混乱と紛糾を生む結果となっているのだと思っている。

 こんな問題を扱うべき役人や、司法に当たる裁判官、法案作成を手伝う役人などの解釈はひどい。
 日本国の公務員だ。当然、第一に国民生活が円滑に滞りなく進むように,不断にこころがけるべき義務を負う。だが国の立法府・司法・行政府などの各機関の関係者は、憲法を解釈するに際しても、日本の社会をよく眺めて、国民が円滑に日常生活を営めるように解釈し運用すべき義務があると思う。

 残念ながら日本の現憲法は日本人が作ったものではない。
 基本は占領軍の作った英文であり、それを和文に直して使用するように押し付けられたものだということは,占領史を知る者にとっては常識となっている。

 だが、それにはそれでも、いまの憲法には、西欧的な合理精神や知識を生かした条文も随所に取り込まれている。
 それを常識的に読み取らずに、まるで憲法のために国民生活を曲げようとする方法、例を挙げるならば国民生活という足に合わない靴を無理やりはかせようとするような憲法の条文の解釈が横行し「靴に合わなければ足を切るか削ればよい」と言わんばかりの、憲法が何のためにあるのかも理解せず、意味もない無謀な観念の押し付けになって国民を悩ませている。

 官僚たちの頑なな解釈論は、素直に憲法を条文で読むのではなく、日本が戦争に負けて占領されている時期に、進駐軍の出した占領政策(神道指令)の精神を基本にして解釈するところから生じていると言わねばなるまい。
占領軍は日本の精神構造を変えるために徹底的な洗脳作戦を行った。
 洗脳は反対しそうなものは追放し、マスコミや教育制度などを独占した上で強行した強力なものだった。
 そのため頭がすっかり影響されてしまった大量の国民が生まれ、六十年以上たったいまでも、日本に大きな混乱を生みだしている。
 いま注目する宗教条項とされる二十条解釈などはそのもっとも代表的な例である。

 今の日本はもう、占領下で占領軍の命令や宣伝に忠実に従わなければならない米国軍の支配に隷属せねばならない時代ではなくなっている。
政治や立法や司法は、知らず知らずに身についてしまったその影響を、頭を冷やして冷静に排除して、主権者である国民のために政治を心がけてもらいたいものだ。

 憲法の定めた条項
 日本国憲法にはその二十条に次のような規定が設けられている

第二十条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。

何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。

国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

実に明瞭に解釈しやすい形で条文が示されている。
分類すると、

一、 「信教の自由」、 全国民に保障
二、「宗教団体」、 国から特権を受けることや政治上の権力行使の禁止
三、「宗教上の行為、祝典、儀式又は行事」、参加の強制をすることの禁止
四、「宗教的活動や宗教教育」、国やその機関のすることを禁止
と、それぞれの概念に分けてはっきりした規定をしている。
 いわゆる法学の世界でいう「政教分離」の規定だが、日本人には、その規定の必要が、国民各層に痛切に感じられた歴史経験が過去に少なかったために重要性の認識が乏しく、「ああそうなっているのか」と思われる程度以上の緊張感もなく受け取られている感がする。

 政教分離の原則が憲法上の大切な基本原理として出来上がる背景には、宗教教派間の争いなどで、過去に西欧諸国などが身をもって経験してきた苦々しい体験が基礎にある。
 国家権力である俗権と、ある一つの教派が結びついて、他の教派に属する人々の弾圧に動き、その結果、あるいはこれに反抗する連中との騒動によって、何百万、何千万人もの人が殺され、あるいは弾圧され追放される悲劇が、過去に多くの国で発生した。
 西欧のひどい国では、何割もの人口がこれによって殺されてしまった。宗教を世俗の争いに持ち込むことの恐ろしさは、世界ニュースなどをこの観点で眺めれば、いまの人にも容易に理解ができるだろう。
 その争いの苦悩の中から、この憲法に定めた一つ一つの条項が、世俗国家を宗教が支配してはならない、国民の心の中の信仰の世界にまで、国が土足で踏み込むことがあってはならないと成立したといういきさつがある。
 ただこの原則は、十九世紀の時代までは、国民一人一人の自由な宗教信仰を、弾圧してはならないと保護するもので、無宗教や反宗教は、国民生活を乱すものとして、それまでを保護するものにはされていなかった。しかし二十世紀になってから、宗教信仰も、政治思想やイデオロギーなどと同列に論ずべきだとする法概念が一般的になってきて、今までは除外されてきた、「宗教を信じない自由」、あるいは「否定する共産主義や無政府主義などの無神論」者にも適用されるように解釈は拡大された。
 その精神は、一つの教派を「国教」と定めて運営されている国教制度を採用している国においても、国民のために、全部ではないが、かなりの部分が取り入れられるようになってきている。
 今では国の国民の権利を定める大原則だ。

 日本の憲法の条文を素直に読めば、日本は国民一人一人の心の中にある宗教心は大切なものだが、国などの公共的な機関は、それを国民の間に有るが儘にまかせて干渉せず、特定の宗教教団に、その教団であることを理由にしての特権も与えない。
 宗教の問題は、世俗国家の関与する次元とは別問題のことだという態度に終始することを求めていると読むのが自然である。
 国や公共機関の取る態度は、これ以上でもこれ以下であってもならない。
 国民は一人一人が自由な信仰を持ち、自由に暮らすことが望ましい。
 宗教的精神生活は、国民生活に潤いを与える。
 世俗国家では満たされないものを、宗教信仰は埋めてくれる働きがある。
 しかし自由な信仰の状態を、国の力で故意に変えるような助成ないしは圧迫をすると、国民内にいろいろある宗教教派のバランスに対する国の干渉となる虞もあり、また西欧の過去の時代に逆戻りするような可能性もあるからだ。

 しかし、こんな多様な信仰をもつ人々が構成する国であるから、国が行為や祝典、儀式、行事などを行うときには、それが民間で行われている国内の常識に従って、国がそれらを宗教と関わりのある形で自ら主宰することもあるだろう。
 それを禁止したのでは国民の宗教環境に悪影響を及ぼす。反対の意味での宗教的活動にもつながる。
 むしろ、あるがままの宗教的環境は国なども大事にするほうが望ましい。
 しかしそんな時でも、国民の信仰は多様だし、その儀式などに参加したくない人も出るだろうから、国は決して参加を強制してはならない。

 宗教的に、一般的だとどの教派の儀式をおこなっても、あるいは無宗教という役人の考え出した新宗教の形で行っても、多様な国民の中には、どんな形であっても必ず違和感を持つ者は出てくる。
 そんな場合には、(民主主義だから多数者の慣習は大事にしながら)、せめて彼ら(これに不快感を持つ少数者に)に参加を強制しないという、少数者に対する配慮だけは残しておかなければいけない。
 そう言っているのが憲法の規定なのだ。


 憲法はさらに求める。
 国が行う教育などは、国民の中にある各種の宗教信仰がどんなものであるかを知識として教えるところまでは、国民として生活する上の大切な知識であるから認めても、国などの公教育が、特定の教団が望ましいから、その信者になれとか、あるいは、あの教団に入るな、などの宗教教育・反宗教教育(これはどちらも作用としては同じ宗教的活動として、いまはとらえられている)は行ってはならないと戒めている。

 諸外国の解釈もほとんど変わらない。
 諸外国でも、この「信教の自由と政教分離の解釈」は、私が説明したような解釈の下で、至極当然のこととして実行されている。
 西欧諸国など、キリスト教徒が多く、もしくはキリスト教が国に大きな影響力を持つ国では、国の儀式は多数の属するキリスト教のある教派か、あるいはそれらの共通するキリスト教各派共通の国内常識を取り入れるような形で儀式などは行われる。
 タイやアジア諸国のような仏教国では、仏教式で行われることが多いし、その他の回教などの諸国でも、多くはこの考え方を採用して儀式を行っている。一方、共産主義など無神論である唯物史観思想が国の政権を持っている国々では、今の日本のような、神の存在をなるべく無視した形で儀式が行われる。
 このように当たり前の見方で憲法を眺めれば、日本に馬鹿らしい「無宗教儀式」などというものが出てこなければならない理由はない。
 日本は伝統的に国民の間では葬儀や法会、橋やトンネルなどの開通式、供養、年祭などの大半を仏教各派の儀式によって行い、結婚式や地鎮祭、上棟式、公的儀式や式典などの大半を明治以降は神道儀式を主として行ってきた。そのほかに長崎など、キリスト教の儀式で行ってきたところもあるが、その有るがままの実情を眺めて、ことさらに違和感をもたらすことのないように実施すればよいだけである。

 ただその場合、気をつけなければならないのは、それでも違和感を感ずる人に対しての救済策だ。
 たとえそれが少数者であっても、国は決して参加を強制してはならない。多数の者は自然に日常的に儀式が行えるように配慮する。
 ただ少数者には、それを彼らに合わせてすることは多くの国民に違和感を持たせるのでできないが、せめてむりに参加を求めない。最も現状に合う原則なのだ。

写真は東京戸が管理して仏式で追悼法会を行う東京都慰霊堂
    (つづく)

靖国神社とそのあるべき姿 1

2009年09月21日 09時16分02秒 | 私の「時事評論」
1、 終戦記念日の靖国神社


靖国神社の英霊への黙祷

 平成二十一年八月十五日、終戦記念日の靖国神社の社頭である。

 この日には毎年、何万人もの人たちが靖国神社に参拝し、先の大戦(正式名称は大東亜戦争)の戦没英霊の霊(みたま)に向かって頭を下げ、正午の時報に合わせ一分間の黙祷を捧げる。今年もあの終戦の日を思い出させる暑い夏の日であった。
空には入道雲が湧きあがる真夏の一日、境内は桜や銀杏などの木立に囲まれているとはいえ、風が止まると蒸し暑さはかなりのものだった。
それでも、今年も例年通りの老若男女の参拝者で広い境内は埋め尽くされた。

 いまから六十四年前の昭和二十年のこの日この時、昭和天皇はラジオ放送によって『終戦の詔勅』を発せられた。
 日本(大日本帝国政府)は対戦相手の米国・英国・中華民国はじめ連合国に対し、彼らの発したポツダム宣言を受けいれて降伏をする決断をした、と宣言された。

 それ以来、いつしか、この日が来ると行われる靖国神社ご社頭での参拝者の黙祷は、誰から指示をされたものでも、決められたものでもない。
 だが、六十年以上にわたって、世代が代わり人が代わって参拝者も代わっても、毎年続けられて国民の中に、最も大切な慰霊の行事として継続されて現在に及んでいる。

 日本には、この日以外に国民がそろって頭を垂れて黙祷することはほとんどない。
 終戦の日、全国各地の職場や集会で、この時間を選んで黙祷は行われるが、ここには誰に命ぜられることもなく、数万の人々が黙祷を捧げるために集まってくる。
境内にあるスピーカーが正午の時報を鳴らすと、雑踏で騒がしかった境内はすべての行事が中断され参拝者の動きも止まる。
 あたりは一瞬、静寂の空気に包まれ、風に揺れる木立の葉の音と蝉の声が一段と高く聞こえる。

 世間にはわざわざ、「国民の祝日」として法律によって定められている国の記念日も多い。
 だが、この日は「国民の祝日法」を探しても見当たらない一日である。
 しかも国会の決議でわざわざ定められている祝日法での国民の祝日でさえ、現代の日本の一般国民にとってはその趣旨はあまり理解されず、いつしか単なる「労働休養日」となってしまっているのが現状である。

 祝日にはその日を祝日の設けられた趣旨にかんがみ、その祝日を設けた意味に深く思いをいたし、それを記念した特別の行事などが行われることが望ましいとされているのだが、そんな国民の祝日も、大半はカレンダーに赤い日の丸が印刷されているだけで、国民は、さしたる意義も考えずに、単なる「仕事のない日」程度にしか意識していないのが現実である。
 もちろん、学校の義務教育などでは、祝日の意味ぐらいは教えるのだろうが、この日の靖国神社の黙祷などは教えない。国や共同社会を大切にし、国旗国歌の大切にしなければならない意味さえも無視して、その無教養で世界で恥をかく国民を作り出している我が国公立学校の義務教育なのだから。

 だが、終戦記念日の靖国神社の黙祷は、カレンダーの日付の欄に日の丸も喪章も付されてはいないが、自主的に全国から集まってきた国民によって、毎年欠かさず何万人の人々が加わって行われている。

 この日のこの時刻には、靖国神社からわずかに靖国通り一つを隔てた反対側の日本武道館で、政府主催の戦没者追悼式が開かれている。
これは政府によって主催される公式な大東亜戦争犠牲者への追悼行事とされている。
 会場には全国から戦没者の遺族らが招かれ、各省庁の代表や国会議員も参列して天皇陛下も臨席される。
 それにもかかわらず、ここ靖国神社には、何万という国民が英霊を追悼するために集まってくる。
 黙祷をする国民の意識の中には、いま、天皇陛下が、国の追悼式で戦没者に黙とうをささげておられるという意識はもちろんある。
 だが、黙祷をするにしても、その式場の前に集まって黙とうするよりも、ほかの施設で頭を下げるよりも、靖国神社の戦没英霊の祀られる施設の前が、最もふさわしいところと彼らは信じている。

 国民意識はこんな形で固まっている。
 政府の戦没者追悼式に全国から招待される参加者たちも、式典の前後には、ほとんどの人が靖国神社に参拝をする。

 国民の中にある靖国神社

 国民の素直な感情は大事にしなければならない。
 国の行っている行事はどこか心のこもった戦没者への追悼式典になりきれていないという思いが、人々の間には明白に感じられる。
 国の戦没者追悼式は、第二回目(昭和39年)だけは靖国神社の外苑で開かれたが、その後はわざわざ靖国神社を避けているように見える。
 これは日本の国の特徴だが、日本には占領中ではなく、昭和四十年代ころから、マスコミ、そして政府の動きには、靖国神社を避けようとする空気が強まってきている。
 議員やそれを支える官僚たちが、戦後の悲痛な思いを理解しない層に徐々に変わってきたからなのだろうか。戦争が終わるまでは、国自身が戦没英霊を祭神として決定して靖国神社に祀り、率先して儀式を行い、宣伝にも力を入れてきたのにもかかわらず、戦後経済が一落ち着きをしたころから、靖国神社をわざわざ避けて、追悼式の儀式まで、靖国神社での祭りの方式とは全く違う「無宗教方式」という国が作り出した官僚臭い「宗教儀式」を国民に押し付け、式の雰囲気から靖国神社の色彩をなるべく感じさせないように変化させてきた。
 英霊の遺族たちが戦後二十年を経て急速に減少を始めたのを見て、官僚たちに靖国神社を厄介な戦前からのお荷物として露骨に避けようとする者が増加して、空気が変わってきたのではないか。
 当時この問題などを取材していた私の感ずる空気だった。

 役人たちが、国民の中に長い間定着してきていた「柏手を打って頭を下げる」参拝方式をわざわざ避け、菊の花を供えて頭を下げる新方式を作り出したその背後には、

「靖国神社はアメリカなど占領した西欧人が断定するように、宗教的な施設だっ  た。だが、国は戦後に作られた新憲法によって、日本より文明的な西欧に見習っ て、宗教的な問題にはかかわらないことに決まった。
 だから戦没者追悼式も靖国神社の外に場所を移し、靖国神社の祭りとは関係のな い、日本伝統の雰囲気を感じさせにくい、政府指定の祭礼方式でやるのが、西欧 に認められる日本の近代化なのだ」
というものだろう。考えてみれば愚かで雑駁な論理ではある。
 だが、そんな気風は日本人の中に、特に学者とされる人や官僚の中に濃厚にある。
 文明開化の鹿鳴館思想以来の日本の新興知識人の気風なのだろうか。
 それはともかく、宗教的儀式とは何をさすのか、西欧も含めて一般に広く考えられているそれは、生きている人間に対してではなく、物理的に人間の見る聞く触るなど五感では関知し得ないもの(とくに人間の創造した神や信仰対象、霊魂など)に存在するかのように。敬意を表する行為の形そのものを、最初から宗教的(宗教そのものではない)儀式と呼ぶことと受け取られている。

 そうなると、墓標のような柱に「戦没者の霊」とわざわざ記して、そこに榊(さかき)の玉串ではなく供花という特別の拝礼方式でも、それを指定して儀式をすること自体が、「無宗教儀式」という名をつけてはいても、立派な政府が作り出した宗教 的儀式ということになる。

 しかも日本人の大半は神社仏閣に参り、また多くの人が教会に訪れる。
それらの人にはこの政府の儀式の指定そのものが、靖国神社への参拝以上の違和感を覚えさせるのは当然である。

 私は単に全国の神社や、これとは少し違う靖国神社に儀礼的に頭を下げるだけではなく、自ら霊魂の存在を確信し、神や祖先の御霊を心から大切に思う神道人の一人である。
 そんな立場からこの追悼式をみると、この八月十五日という日は、政府が靖国神社及びそこに参拝する多くの人たちに対して、ことさらに精神的な刺戟を与えることに執心している日であるように思えてならない。

 首相はこの日、戦没者追悼式を自ら召集し実施して、靖国神社の拝礼を否定する宗教的儀式を執行し、引き取り手のわからない戦歿兵士の遺骨を弔う国の施設である東京九段の千鳥が渕墓苑に参拝をした。
 どちらの行事も国の首長の行う終戦記念日の行事としては意義あるものとは思う。真正面から見れば、終戦の日に当たって、戦争に倒れた人々に敬意を表し、今の穏やかな状態が、彼らの苦しみの上にあることを生きているものの代表として感謝しているのだろう。
 けれども、常日頃、靖国神社の問題解決など、国自らが生み出した過去の歪みの矯正には消極的で逃げ腰の政府の姿勢は、こんな首相の行動は、ただ靖国神社を避けるがために、日程を毎年組むのではないかとさえ思われてならない。
(つづく)
これは、私のブログ、http://ashizujimusyo.com に掲載している私の「社会への提言」から要旨を転載しています。

がんばれよ民主党

2009年09月02日 09時56分08秒 | 私の「時事評論」
 開票前から予想はされていたのだが民主党が大躍進、反面与党の自民・公明両党が激減して総選挙が終わった。
これを書く時点では、まだ特別国会も開かれていない。
だが、結果はちょうど四年前の自民党の圧勝に終わった小泉総選挙の裏返しのような結果となった。

それほど両党の支持率が当選者数のように劇的に変わったというのではない。
だが、各選挙区の定員を一人にする小選挙区制のもとでは、一位と二位以下との差は劇的に変わる。
特に選挙区選では自民と民主の支持率は四対五、それが当選者では六四対二二一にまで開いた。

        ○
 開票日を前に、間違いなく政権が自分らの手に移ってくると意識してからの民主党の党首鳩山氏の言動も急に変わってきていた。
今までは野党として、すべての責任を政府に押し付けゴネていればそれで済んだ。
だが、本当に政権を担当しなければならないとの自覚が進むにつれて、今度は責任を押し付けられるのは自分になるとの実感も出てくる。

 国民は経済情勢や社会の無秩序ぶりに苛立ちを感じている。
それら政治や経済、社会、暮らし、すべてへの不満が今までの政府の責任だという思いと重なって、この結果となった。
 この現象は必ずしも民主党を信頼する政策的支持ではないのはもちろんだ。
選挙後の投票者たちは、
「もうこんな現状はまっぴらだ」
「社会を大きく変えてほしいのだ」
などと口々に答えている。誰でもいいから助けてくれという大衆の悲鳴が民主党に集中した。

 だが猛烈な赤字国家を今度は引き継いで、その上にさらに膨大な財政支出を伴う政策を公約し、それを実現させる上には、選挙では「悪の根源」と叩きまくった官僚に相談して具体化しなければならないし、国際情勢や経済界の摩擦も当然行動を制約する。

これはかなりの覚悟をしてかからねばならない。

        ○
 日本の自民・民主両党には必ずしも党内での政策合意ができてはいない。
それでも自民党時代は、今まで来た路線の上に前例踏襲で党内の摩擦を抑えて命脈を保ってきた。
だが、今までのこんな政治を明確に否定する民意によって圧勝した民主党内には、同じやり方は許されない。
「反自民」だけでは共通でも、ほかに党内をまとめ、政権を維持する政策の一致が見当らないままにきた民主党はどうやって党内をまとめていくのか。
内憂外患のスタートである。

 何でも反対を唱えていれば済む野党が政権の座に就くのだ。
国民のために、一日でも早く成立させたい法案さえも無視して審議を拒否するなど手段を選ばぬ反対を公然と繰り返してきたこの政党が、自分らのとってきた方法では国政麻痺を生むことを自ら知り、責任政党としての自覚を持たざるを得なくなるのは当然のことだ。

そういう意味で、民主党もまともになるかもしれない。
 発足する新政権に期待をしたい。
        ○
 それにしても日本の政治はもっと大人にならなければいけない。
戦後の長く続いた政治には、どんな国、社会を目指していくかの将来に向けての確たる展望もない各党が、役人の作った法案を与党が国会に提出、野党も役人が準備した質問を読み上げるような形で進んできた。
そこにいま騒がれる官僚の出すぎる現状を生む根源が生じた。
官僚批判の大合唱の真の責任は政治家自身の国の将来に対しての無気力がもたらしたものなのだ。
また、政党ないしは政治家が役人にすべてを任せてなにも国家の将来を考えない。

これは国民が、政策によってどの党を選ぶかとの投票権をふさがれてきた歴史でもあった。

 これからの政治がどのように進むかは未知数である。
今の選挙制度では、また国民の不満が集まることになれば、圧倒的多数によって政権はひっくり返る。
人気投票のような選挙に終始し、しかも今のようなすべてが一人区、一か〇かを決める選挙では、ドタンバタンは必然的に繰り返される。
さらに参議院制度が良識の府として機能せず、ただ過去の世論調査の遺産のような形となって混乱を複雑にさせるだけに終わっているのも問題である。
 山ほどの課題を抱えた中での新政権の発足である。