葦津泰國の、私の「視角」

 私は葦津事務所というささやかな出版社の代表です。日常起こっている様々な出来事に、受け取り方や考え方を探ってみます。

 菅さんだけを悪者にするな

2011年07月19日 18時33分22秒 | 私の「時事評論」


 みながそろって主張することは疑ってかかれ

 いまの我が国の政治環境を見て思うことである。与野党議員を見回しても、永田町界隈に巣くうマスコミ関係者や評論家たち、政治を暮らしの種にする種族、あるいは霞が関を中心に群がる官僚や公務員たち、政治問題になるとすぐ顔を出す専門委員や学識経験者と言われる連中など、いまの政治にかかわり、あるいは政治を報道しているものが異口同音に言うことは「菅首相は無能だ。辞任せよ」の大合唱である。
悪いのはすべて菅首相なのだ。彼が準備もしない思い付きだけの誇大妄想者だから、勝手に暴走して日本をこんな国にしてしまう。しかもやめろと言われても首相の地位にしがみつきやめようとしない。これこそ日本のがんであるという声だ。一見尤もらしく聞こえるが、聞いていると、これはいまの日本の先の見えない停滞状況の全責任を、みんなで彼一人に押し付けようとしているように見える。そしてそんな思惑の菅批判は、皮肉にも「いまの日本には、彼を無能だと退職させ、新しい指導者を作り出す能力をもつ政治家さえも存在しない」ことを、関係者たちが自ら証明した形になっている。
現在の政治家がマスコミや官僚たちと協力して束になっても、追放されそうに追い込められ、必死に首相の地位にしがみつく菅首相をやめさせる力も出せない実力しかないことを証明しているような格好である。それにしても、僅かな間に菅さんも、おかしなことになったものである。

皆があちこちで、「菅さえ首相をやめれば、万事がうまくいくだろう」などと確信もないくせに無責任な放言をしている。菅のあとは誰がどのような政治をするのか、そんな次の展開には全く触れずに、すでにこれから首相の座に就くものが誰であっても結果は同じといっているのと同じなのだと気がつかないのか。東京に集う日本政治の自称・プロである自分らが、いまのままでは寄ってたかっても菅首相一人と、まともに対決する力がないことを白状し、また日本には個性ある政治能力をもつ人間がいないような言動だが、こんな状況を冷静に眺めて、国民が本気で現在の日本の低迷を続ける状況を、政治関係者が、政治的に打開してくれると思うだろうか。菅首相が辞めたなら、日本に大きな改革のチャンスが来ると思うだろうか。政界はまことに無責任で頼りにならない。

問題が起こるとまず起こったことを隠す体質

去る三月に発生した東北地方大震災。あれからもう4か月以上も経つというのに、復興作業は遅々として進まない。住宅地も商店街も工場も、町や野も田畑も港も壊されたままだ。津波に襲われたそのあとには、いまだに再建の槌音さえも聞かれない。やっと資金のめどをつけて、個人の力で再建しようと思った人がいたとしても、役所が工事の許可も出してくれないので、政府や役所の復興方針が定まり示されるまで、手もつけられない状態のところが大半なのだ。
私はよく、大正時代の関東大震災の時を思い出す。前の首相が病没し、混乱の中、山本新内閣が発足しようとしているさなかに、首都東京を中心に関東地方を地震が襲い、東京近辺を壊滅状態にした大震災であった。津波で多くの人が浚われて、東京はじめ近郊で大火災が発生して住民たちが焼死した。大変な震災だったのだが、政府はこの震災へ全力で対応する方針を固め、後藤新平、犬養木堂など閣僚の思い切った取り組みで、この震災を最小限の摩擦で乗り越えて、震災に強い街づくりをするきっかけを作ったのだ。
それに比べて今回の震災復興策、同じように決して良い条件に日本がいるときでないときの大震災だった。
だがあの関東大震災と比べて、なんという対応の遅さだろうか。しかもこの災害の中には、あの福島の原発事故が含まれていて、そちらに政治家たちの目が行ってしまっているためか、事故への政府の対応の基本方針がさっぱり見えず、それがすべての震災復興事業を停滞させる引きとめ効果を果たしているのだといわれている。
原発は「わが国の知識を絞って作り上げた安全な施設で、起こりうる災害にも耐えるよう、充分研究されているから事故なんて起こるはずはない」とされてきた。政府も建設や管理にかかわった学者なども関係者もそろって勝手に信じ込み、自信をもって安全だと国民に断言し、胸を張ってやってきたのに、原発がとんでもない事故を起こしてしまった。これで日本の危機管理体制は一気におかしくなってしまった。

事故に際しての国を中心にする責任者たちの対応が、事件の発生した直後から、ただもう、どうしてよいのか動揺してしまい、国として当然講ずべき事故に対する対応のマニュアルや原則を忘れて、なんとかコソコソ事故そのものを国民や外国にも注目されないうちに隠そうとしているとしか言いようのない対応の連続になってしまった。
発表する政府関係者のデータは、事実をありのままに報告すると云うよりは、政府関係者の希望的な観測、できればそうあってほしいという解釈で塗り固められたものばかりにかぎられて、事故を冷静に直視せず、自分らのメンツや言い逃れに重点を置いた対策を重ねているのだから、こんな対応で事故処理がうまくいくはずがない。次々に打ち出す政府の対応が裏目に出るのは当たり前、もう官僚たちの繰り返す想定外の事態だという言葉にすっかり国民は聞き飽きた。どんどん事故は拡大し、被害の範囲も広まって、手のつけられないものに拡大してしまっている。

もちろんその第一の責任者は菅首相なのだが

この原発事故を含む一連の対応に、まず菅首相の指導力の欠如が出ていると見るのは当然だろう。地震による津波で福島原発に事故があった時、首相はあってはならない事故が起きたことを報告し、しかしこれにはあらゆる情報を隠すことなく公表し、世界の協力を受けて事故の終息に取り組みたいと公表した。それはそれで正しい対応法であったと私も思う。
政府はこんな事故などは起こり得ないと信じていままで原発の管理を進めてきた。だが運悪く、起こるはずがないと信じてきた事故が起きてしまった。それは菅内閣の時代ではない時代の大きなミスではあるが、国の運営を引き継いだ自分としてはしっかり見極めて、不安の全く残らないように対処する義務がある。それには首相は、隠すことなく、すべてのデータを公表して万全の対応をしたい。首相はそう報告したのだった。
だが実際は、そんな約束の背後で、首相官邸は事故を本気で大急ぎで終息させるのではなく、事故そのものの状況を隠し、内密に処理することにより、事件が拡大するのを防ぎ、国や担当部署の責任追及を逃れようとの意思が働いて、事故そのものを過小に発表し、あとで被害が大きくなってデータを政府が握りつぶしていたのが被害が大きくなり、隠しきれずになって表に出るというようなミスを次々と重ね、国民ばかりではない、世界の信用を失うことになった。こんな愚かな対応に政府が追われているのだからたまらない。原発以外の震災復旧策にも、どうしても力が入らず対応が遅れる。
地震の規模は歴史上でも最大級のものだった。それに歴史上、空前ともいえる未熟な政府がおろおろと取り組み、地震からの復旧は日本の歴史始まって以来のもたもたチグハグするものになった。

 菅氏が退けば事態が改善するというのはウソだ

 こんな状況なのを知りながら考えてほしい。こんな事態が「菅さんさえやめれば」という大合唱のように、簡単に菅首相の辞任だけですっきり解決すると思うだろうか。いつものように、「菅さんが辞めても、それだけでは何も解決しないほど日本の現状は病んでいる」ということと読み替えて対応しなければならないのではないだろうか。はっきり言って、いまの内閣には関東大震災当時の内閣のようなプライドも責任感も実行力もない。
 だいいち、いま、菅さんに責任を取れと責めている連中は、菅さんが首相を退いたらどうすればよいと思っているのだろうか。菅内閣の次の内閣をどうするか。これ一つとっても今の菅降ろしの連中の意見はばらばらである。そのあとは大騒動になるのは必定なのだ。たらいまわしの単なる首のすげ替えで、同じ民主党中心の政権ができるのか、政党の枠をも取り払う大連立を目指すのか、いくつかの連立与党の政治でいこうときめるのか、そのこと自体がまだ合意を得る段階に至っていない。何でこんな状況の中で簡単に、「菅さんさえ引けば事態は劇的にうまくいく」などという楽観論が言えるのだろうか。
いま、頭の切り替えが求められているのは、決してトップの首相だけでない。はっきり言えば、戦後この方続いてきた日本国の組織や体制そのものが、根本的に再検討されるべきときを迎えているというべきだろう。それなのに、テレビを見ても新聞を見ても、あげられているのは、菅首相に対して約束通り辞任せよ、彼が辞任しさえすればすべてがうまくいくという大合唱ばかり。
 これはいまの政治の任に携わる者が、そろってその全責任を菅首相個人に押し付けて、口を拭って知らん顔を決め込もうとしていると取るべきなのではなかろうか。

>誰も感心しないが――菅首相のすさまじい執念

2011年07月13日 13時25分53秒 | 私の「時事評論」
 一人で国政を決定する首相

日本の国は、菅直人というただ一人の男に牛耳られている。衆参国会議員全員が束になってかかっていっても、この男一人が首相を辞めないと頑張ったら、どうすることもできない。日本中の政治家は、虚しく途方に暮れる以外にない。菅氏以外の男が首相なら、ほとんどの男は、いまの菅氏のように四面楚歌にたたされれば辞任するだろう。だがこの菅直人という男は、いささか通常人とはセンスが違う。ホラ、あの梅雨時に出てくるムカデ、恐ろしいのでハサミで二つに切っても動いている。あれと同じで菅首相も、切り刻まれてもまだまだ動いている、あのようなゾッとする生命力を感じさせる。
彼がやっと首相の座を手にしたのは昨年の六月だった。「何をやる」という政策はなくても、首相になるのが彼の夢だったのだろう。以来何度も彼を引きずり降ろそうという動きはあった。野党ばかりではない、与党の中からも厳しい妨害は繰り返されたのだが、彼は何度も絶体絶命の危機に追い込まれたように見えて、他の首相だったら、とっくに政権維持をあきらめる場面にたっても、この男にはそんな過去の常識なんて通用しなかった。

目標はただ一つ、首相であり続けること

菅直人首相、日本に現れた従来はなかった型の稀代の総理大臣である。彼のすさまじい政権への執着を見て、彼を独裁者だと評する者もいる。だが私はどこか違うと思う。独裁者は強い強制力をもち威圧力がある.
国民に為政者の求める政治を強引に押し付ける。だが彼に特別の国政の基本方針自体あるというのではない。何もしないしできないのだ。しかも彼はその場の思いつきで、閣僚にも諮らずに次々に政治方針を変更するから、何を求めているのかも分からない。
察するに、おそらく彼の頭の中は空っぽで、菅氏ならではの特別な政策など探してみるだけ無駄なのだろう。国会の答弁においても、記者会見でもその他の場合でも、首相の言うことはコロコロ変わり、自分の過去に言った答弁などにはとらわれない。閣僚までがそんな首相に追い付いていけず、ウロウロするばかりの状態なのだ。閣僚にさえ、首相として、彼が何をやろうとしているのかもわからない。そんな彼の政策を、彼の発言から掴もうとしている評論家などもいるようだが、無駄な努力だ、止めておいた方がよい。
彼は過去の自分が約束したことなどには、約束してもらった国民のようにこだわってはいない。具合が悪ければ、すぐに発言を変えるだけなのだ。
彼にとって、自分のする政治など、どっちを向いても構わないのだろう。ただ日本国の首相は俺だ。俺が主役で政治を指導している。そのことが大切な条件なのだ。

全共闘時代の生き残り

彼ほど純粋に自分が首相であり続けることだけに全精力を集中し、その維持のためには仲間でも平気で裏切って、どんなことでも犠牲にする男は、日本の歴代首相で見たことがなかった。
公職というものは、どうしても自分の一挙手一投足が国民の暮らしに直接響いていく。そのためかなりに我儘身勝手な男でも自分が政権の座に着くと、国民のことをついつい考えて、自分のことより国民のことを大事に思ってしまいがちだ。しかし流石に彼は、かつての全共闘時代の戦後のエゴイズム風潮の生き残りだ。自分を見失うようなへまはしない。
彼に関して書き遺した市川房江氏の印象や、過去に一緒に戦った仲間たちの、「菅とは一緒に組めない」とそろって彼から逃げようとする気持ちもよくわかる。菅氏は「俺が、俺が」の時代に育った、「最後に頼れるものは自分だけしかない」と信じて動く冷たい男なのだ。追い詰められたら仲間を見捨てても自分は生きようとする。これは菅氏の生き方なのだ。この男は確実に日本のこれからの歴史を変えるだろう。

騙されるほうがこの世界では悪いのさ

一月前に内閣不信任案が通りそうになると、彼は大胆な賭けに出た。与党内の分裂を表に出すよりは、すぐにでも政権を譲る男である風に見せかけて、「この不信任決議にだけは乗らないでくれ」と鳩山を動かして与党が反対に回って内閣がつぶれる難局を切り抜け、これにより不信任案が否決されると、「すぐやめるなどとは約束しなかった」と居直りの姿勢。
議会が会期内に同じ議題を何回も出さないという原則を利用して、これで国会開会中の自分の立場を安定させた。そして議題がなくても国会を閉会させずに延長し、その間自分が首相である立場を維持しようと試みる。
閉会すれば、また不信任案が出され、今度こそ可決される可能性が高い。首相にとって、震災復興がどうなるか、福島の事故がどうなるかなどはどうでもよいのである。首相はこれらの緊急の問題に、私が責任者として取り組みたいと云うばかりで、いつまでたっても成果は上がらず、どう手をつけるのかさえもわからないありさまだ。
誰も菅内閣でなければ震災復興や原発問題の処理はできないなどとは言っていないのに。それよりむしろ、菅内閣では復興などをする力がないと大かたのものが認めているのに。
狙うはただ一つ。自分が首相である期間を一日でも長く続けることなのだ。
分かりよい。実に分かりやすい理屈である。そして自分が首相であり続けるためには、政策も政党もあらゆるものを犠牲にしても気にしない。ひたすら首相の延命を図るだけである。

菅首相の腹はどこにある

 菅首相の今後の狙いはどこにあるのか。彼はもう、二度と彼を信用してくれない国会をこれから残そうとは思っていまい。おそらく九月には国会を解散して、また思いつきの政策でも掲げて最後の勝負に出ようとしている。
 その選挙のために、彼は国会の解散を指令する。「選挙のために」菅氏は国民の耳触りのよいスローガンを固めていま準備を重ねている。
震災復興など国民の切実に求めるものは置いておいても、「脱原発」と「新エネルギーの開発」の票を稼げそうなテーマを掲げて選挙する。それが現実にできることであってもできないことであっても、そんなことなど構わない。彼はこれを掲げて選挙を戦い、自分がうまく国民に受けて、再び首相の座に就ければ、しばらくはまた首相でいられる。
 このかけは、小泉首相に似ているといわれるだろう。アメリカのいいなりに日本の金融市場をズタズタにした小泉首相は、それに反対した与党自民党員が参議院にいて、郵政法案が否決されたのに腹を立てて、なんと衆議院を解散し、この選挙は「小泉をとるか反対するかの一点に絞った選挙だ」と大宣伝を行って、大量の小泉チルドレンを当選させて大勝した。あれ以来、日本の選挙は小選挙区制プラス比例区という、ヒステリックな選挙が行いやすい制度に変更されてしまっている。民主党内閣ができたのも、この選挙制度への変更があったからだ。
 菅首相はそんな選挙で、「原発はあった方がよいか、悪いか」、「安全なエネルギーを開発するか、原発を存続するか」に自分の支持を重ねて勝負をしようとしている。
 さて、このたくらみに国民はどんな反応をするだろうか。