津波を想定していなかったわが町
先日、孫が通っている小学校の父兄通信を何気なく見ていたら、そこにライフジャケットが子供たちに贈られた話が出ていた。息子は鎌倉市の第一小学校在学中、学校は鶴岡八幡宮から、源頼朝が妻・政子のために設けたという由比ガ浜海岸にまっすぐ延びる太い参道・段鬘(だんかづら)を海に向かって一直線に進む途中、一の鳥居のすぐそばにある。段鬘は太い国道の真ん中が神社へ参拝する人専用の桜並木の参道になっていて、その両側を車は左右に分かれて通る。真ん中は参拝者専用に使用した通常の道路とは一味違った参道だ。こんな参道は一キロほど、鎌倉駅の手前で終わるが、そこから二キロ近く、太い国道が一直線に昔の砂浜の後を海岸まで通じている
鎌倉は東西、北を重なる山に囲まれ、その山から海までの狭い平地を、この参道を中心に街づくりされている。問題の小学校は大きな津波がやってきたならまず、そこを通過することが避けられない、以前は海岸から砂浜が続いていた地域にあり、昔からの様々の地震や津波に関する伝承なども多い地域だ。中には未確認の話もあるが
そこで二年前の東北地震の時、震度5を超す自信が来たのだが、驚いたことに、学校では子供たちを校庭に集めて地震がおさまるのを待機させた。津波など、全く想定していなかったのだ。学校はほとんど海面から高くないしかも付近を川が流れる土地にある。しかも低い手いつなので、時々来る台風の高潮の時には、直ぐ横の滑川は増水し、私の記憶する豪雨のたびに学校付近は冠水し、床上浸水などの被害が続出する。震災の津波に関しても、この近辺が襲われたという古伝承もいくつかある。しかも海は湾になった一番奥で、右と左から戻る波を加えて、もっとも危険といわれる地形なのだ。もう60年も前になるが、私も私の弟たちもこの小学校に通い、津波の話はたびたび聞いていた。
校舎は最近、鉄筋三階建てに改修されたが、わざわざ子供たちは校舎の屋上ではなく、最も津波に弱い校庭に集められていたのは、関係者はまったく津波など予想もしなかったのだろう。
その話を聞き、そしてテレビでは、同時に起こった東北の激しい津波の話を見て聞いて、鎌倉に運よく津波のこなかった幸を思うと同時に、何とかしなければこのままでは次の震災はどうなるだろうと深刻に思った。
東北津波の話に胸痛め
ここまでが前段階の話である。実は私は今回の津波に襲われた南会津に極めて親しい後輩がいる。これからの日本、そしてこれからの世界を思い、なんとか浦安の世界を実現しようと地道な活動をしているグループのリーダーで、私のところには毎月のようにやってきては、私の話を聞き、聞くだけでなく実践活動を展開している。
彼らは砂漠の中近東の地で、自分らの手で緑豊かな大地に復活することを夢見、何十年も前から現地でコツコツと活動し、自分らで開発した機械で海の水を淡水化し、その粘り強く堅実な働きで中近東アラブの世界で大きな信用を得、アラブの王族や指導者たちから絶大な信用を得るまでになったグループのリーダーだ。その活躍の中心はアラブのオマーン国とその周辺に広がっている。彼らは現地の指導者たちに、「現在の日本はエコノミックアニマルといわれて、すっかり商人になってしまい、商売のやり方などもえげつなく、決してきれいではなくなってしまったが、君らは日本の文化にはぐくまれた『武士道文化』を持つグループだ」と評価されて信頼され、格別な待遇を受けている。
そんなグループの指導者が良く私のところにやってきては、日本人の心を世界に認めてもらうのにはどうすべきか、と、数年前から通ってきてくれている。
私は私の思う通りの日本文化論、集団で生きる日本民族論、日本人の理想観、明治維新に際して先人たちが考えた日本人の求めるものなどを語り、オマーンからたびたびやってくる彼らから、逆に貴重な話を聞き、またときには素晴らしいプレゼントや珍味なども頂いたりして、その活動に微力ながら協力をさせていただいていた。
そんな訪問者の彼は東北・南会津の出身者、そこには彼を支える協力者がたくさんいる。彼自身、今回の震災で、とくに津波で壊滅的な被害を受けた地域の出身者であり被災者でもある。彼は砂漠の緑化活動などにも、東北のまじめな中小企業者が工夫を重ねて作成した塩水から真水を作り出す機械などをコツコツと利用して、オマーンはじめ周辺の砂漠を再び緑の大地に戻し、農園を作り、時の王侯貴族を始め人々に高い信頼を得ていた。
その彼が私に震災後会いに来て、力を込めて話したことの一つが、ライフジャケットの話だった。
東北の津波は、想像をはるかに超える大きなものだった。防波堤を作ろうといっても、あんなものにやられない防波堤を作ったら、東北地方全体が監獄のようなコンクリートの壁の中に入ってしまう。今回の震災で、とくに津波で東北は大きな被害を受けたが、彼も本気で地元ばかりではなく周辺の震災の跡を見て回り、大きな被害が出たのを見て真剣に考えた。せめてあの災害の中から、人の命だけでも助かる方法はなかったのだろうか。
そして思いついたのがライフジャケットの各地への整備だった。飛行機や船などには必ず積んであるあれ、あれさえつけていれば、必ず津波でも体が浮き、身につけたジャケットの発する電波が数日間は被害者の存在を救助隊へ知らせ続ける。カタログ通り全員ではなくとも、8割以上のものは確実に救助ができる。
しかもライフジャケットは数千円(3000円少々)のもので、なんと日本の東北や北陸地方で世界中に出すものが作られている。東北は日本漁業の中心地でもあったからだろうか。いま産業が壊滅状態にある東北で、これを増産して日本中の津波に危険な地域の、せめて子どもたちや老人たちに配布したら、何十年もかけて何百兆円の防波堤を作るまで待たなくとも、数十分の一以下の資金投下で日本人の生命の防災機能は格段と高まるし、それを東北でつければ、東北地方の産業もこれで大きく元気が付く。
彼は東北の被災関係地を見て回り、その中には事前にジャケットを準備していたところ、これを機会に準備することにしたところなどの話をし、この話をしたら、彼の活動の本拠地オマーンの王侯たちも、「日本を再び明治維新当時の活気ある国にするお役に立てば」と、進んで協力する話になったという報告だった。
首都圏の鎌倉でやろう
私は彼と、彼の地元にである南会津に救援活動に行ったこの鎌倉のボランティアたち、そして鎌倉の市長にこのことを伝えた。津波の危険も高く、観光地としても名高い鎌倉でこんな運動のはしりができたら、それが大きな展開のきっかけになるのではないか。
オマーンの国や大使館も大いに賛成し、まずは数百着のライフジャケットを鎌倉市に提供したいと申し出て、一昨年の秋には大使館がわざわざ鎌倉市長を招いて贈呈式と激励のレセプションを開いてくれた。市長も、まず鎌倉から、そして相模湾沿岸の諸都市にもこの動きを広げたい、と積極的姿勢を示してくれた。
だが、話はその後消えたようになってしまっていた。
「やっぱり今の我が国の行政機構では、市民のための本気の安全策などは進まないのか」
「あのライフジャケットはどうなってしまったのだろう」
などと思っていたら、ここにきて、ちょっと話が変わった形にゆがめられてはいるが、ライフジャケットを子供たちに配る話が初めて表に出た。読むと学校近辺の有志の方から寄贈を受けたと書いてある。そうなると、オマーンの小学校への寄贈と話が別のもののようにも見える。オマーン国の王様以下の日本にかける思い、それに懸命にその実現に努力した私の友人などの話は出てきていない。
それは彼らの情熱を知る私としては残念だが、私はそれでも良い話だと思う。彼らも立派な武士たちだ。日本にもまだ「武士がいる」と信じて動いてくれた人々だ。オマーンの王侯貴族だってこれは前進のあかしだと素直に思ってくれるのではないだろうか。何かおかしな道に脱線していきつつあるが、役人が介在しているから仕方がない、そう考える度量があると期待している。
オマーンの国の人々は度量が大きい。地震のあったそのあと、オマーンの国は日本の外務省に、震災地の水を確保するなど、機材の提供を申し入れたそうだ。それはもちろん、東北地方で私の友人が生産し、オマーンに提供していたあの機械だ。だが日本外務省はオマーンに対し、「我が国は高度工業先進国だ。貴国からの物資の提供はお断りする。くれるなら金にしてくれ」と答えたという。オマーン大使館は傷ついた。だがそれでも、アラブ諸国に諮って石油をタンカー一艘分満載にして寄贈をしたと聞く。
そして、工場を津波に流され、多くの行員の命を失った水再生産の東北の工場に対し、工場を新規に拡大しても何年もかかる量の真水製造機をわざわざ発注してくれた。それは単にオマーン国用だけではなく、周辺の彼らの友好国にまでオマーンが積極的に注文を集めてくれての発注だった。しかもその条件たるや。「震災で困っているところがあれば、君(私の友人)がそちらに回して存分に使い、中古になったものでも最後に納めてくれればよい。それを新品として受け取ろう」という内容だったという。
本当は胸を張りたいところだったが
最後に蛇足、その友人を通じて、私どものところにオマーンで流鏑馬を奉納してくれないかとの内診があった。私はしばらく考えてお断りした。彼らは日本にまだ、明治維新までの「武士」の心そのままの日本人がいて、私どもの本物の「東洋の道義」「日本人としての伝統的な進退」があると強く確信してくれている。
だが現在に日本はどうだろうか。私は流鏑馬の関係者であり、神道に関わるものだ。胸を張って、これが日本人の本来の姿だと示すのには、いささか心が傷ついている。
うれしいけれども胸が晴れない。そんな心境で過ごしている。
写真はライフジャケットの広告より