あれから一年、深い爪あとは残るが
東日本大震災から一年がやってきた。あまりにも破壊が大きかったので、しかも大規模な津波が伴っていたために、復旧はまだ、端緒についたとも言い難い。東北地方に震災を忘れる明るさが戻ってくるのには、まだ時間がかかると思われる。
三月十一日、全国で犠牲者の慰霊祭が行われ、東京での国の慰霊祭には、大手術からの御快復も万全ではない天皇陛下が、ご無理を押されて御臨席になられた。我が子や孫の葬儀に参列されたような喪服姿の両陛下に、そして心のこもったお言葉に、人々は感激の涙をし、陛下とともにあらためて一日も早い復興を誓いあった。震災から一年目の地震発生の時刻、午後一時四十六分、全国で多くの国民が両陛下とともに犠牲者を偲んで黙とうを行った。
震災は我が国にとって悪夢のような大惨事であった。我々は惨憺たる地震と津波の被害、とくに津波に流された多くの犠牲者の数に言葉を失った。そんな津波が我が国に襲うとは思いもしないでいたからである。だが、その想像をはるかに超えた災害の規模であったが、被災地である東日本の人々が秩序正しく対応したその姿が、世界の人を驚かせた震災でもあった。われ先に争う群衆によって、想像以上に被害が大きくなるのがこの種の事故の特徴である。ところがあの事故のさなかに、収拾がつかなくなる混乱もなく、人々が整然と行動し、被害が最小限にとどまったことに、世界の人がメディアが驚嘆し絶賛した。震災の被害は死者15854人、行方不明者3203人、漁船の被害は22000隻以上、漁港の被害300以上、家の全壊、流出、半壊は38万戸以上、被害総額16兆~25兆円と統計に出ている(24年3月8日現在)。人が立っているのはおろか、這って進むこともできない大地震、しかも15メートルにも達する津波が襲って、平地をなめ尽くしてしまった惨事であった。これだけの大災害であったのに、秩序正しく行動した人々は津波の他の犠牲者はごく少ししか出さなかったのだ。
あの津波のさなかにも、村民たち仲間たちを救おうと、必死に避難を呼び掛け、救助活動しながら津波にのまれていった人も多くあった。恐怖に興奮した群衆がもたらす二次災害も最小限度だったし、いたるところで被災者たちは災害の中にあっても協力して被害を食い止めた。どこでもありがちな混乱を利用した犯罪なども最小限度しか起こらなかった。困った時には助け合うという社会意識をしっかり持った東北地方の人たちの美しさが光っていた。それは日本人が育んできた微風であった。痛ましい災害であったが、人々の秩序正しいこんな対応は忘れてはならない特徴であった。
事故の知らせを知るや、警察・消防・陸海自衛隊、それに米国軍までが、ただちに救助活動のために現場に駆け付けた。そしてこれらの献身的な救助活動で命を助けられた人が26708人もいた。一致して救助に取り組む情熱と、混乱を最低限度に食い止めた住民たちのチームワークがなかったら、死亡者は倍にも膨れかねなかったことも容易に想像される。とにかく、想像を絶するすさまじい震災であった。
大事故を想定していなかった責任は重い
ただ、こんな大きな地震は来ない、津波は来ないと簡単に決めていた国や自治体の防災避難対策は問題であった。現実に起こった大災害を、何で誰もが来ないとしていたのか。
起こりうる天災に対して備えるのは国や自治体の仕事である。万一の大津波などが来る際には、こんな規模も考えられるとして、何十メートルの頑丈な防波堤構築は予算の上で無理だとしても、うつべき手段はあったはずである。幼稚園や学校や人の集まるところには、せめて溺死を防ぐライフジャケットでも用意されていたら、死者は極端に減っていただろう。被害者の大半は津波にのまれた人たちであった。ライフジャケットは一着数千円で準備できる。それさえつけていれば大半の人がジャケットで浮き、ジャケットの発する救助信号電波によって容易にヘリコプターなどで救助できる。
そんな恐れがあることを広報一つ行わず、避難計画にも織り込まなかった油断はどこから出たのか。 防災責任者の頭の片隅にさえ、こんな大災害がやってくるとの不安が意識されず、可能性はゼロと信ぜられていて、対策のマニュアルさえもなかった中の大震災であった。
地震と津波の後遺症として、東北一帯が建造物やその他のごみに埋め尽くされ、その処分がほとんどできずに残されている。ごみは福島の放射線汚染関係のものをのぞいても、東北三県で二千五百万トン以上とされ、その片づけができないので、津波に破壊された市街地の再生は進まない。港や海中にもそれらが堆積、それによって我が国の大きな漁業の中心地であったこの地区は、漁業再開には大きな障害を抱えている。ごみの処分ができなければ、新しい街づくりや復旧なども不可能である。だがこれが戦後民主主義の生みだしたおかしな全国での受け入れ協力反対を叫ぶ反対によって進まない。ここには戦後の日本の悪い面が出てしまっている。片づけなければ再建はない。これからが復旧の正念場といわねばなるまい。
考えるべき課題は残る。無残に積まれた津波で壊れた建造物などの山を見て、あれこれと改めて当時の災難に思いをいたす。
福島の原発事故は明らかに人災だった
大震災は東北地方の各県ばかりではなく、茨城、千葉などの周辺地域にも及ぶ甚大なものだった。その中で、どうしても個別にあげねばならぬのは、福島第一原発の事故だろう。様々なデータが発表されているが、明らかな国や自治体、電力会社などの対応の甘さ、知識の偏向がもたらした人災であったと思う。
どの程度の地震や津波が原発の地を襲うかの可能性は、起こりうる最大限の事態を想定せねばならないものだと考える。少なくとも、歴史上に記録が残るものは、古くない過去に、同規模のものが起こった重要な史実である。東北に以前に今回程度の地震と津波が来たことは、我が国の公文書には度々記されていることで、原発関係者や地震学者には原発作成前から知られていたことだった。
だがどうしたことか、震度も津波の高さも、なぜかそれよりはるかに低い備えで充分だとされた。何でそんなことになったのか。またしても日本人の舶来偏重の意識のせいか。横文字のものなら信用するが、日本の文字で書いてある資料などは、取るに足らないとした洋楽かぶれの軽薄さの故か。
福島原発の建設用地などは、丘陵地を態々十数メートルも掘り下げてから建てたのだそうである。その常識はなれの想定外がどこから出てきたのか。こんな結果が影響して、津波に洗われて発電装置は壊れて、あれだけの大被害を出してしまった。
原子力の安全な利用法や被爆者の治療法はまだ人類が手に入れるには至っていない。ということは、事故が起こればお手上げなのだ。その結果、放置された副作用が長時間にわたって本来ならば豊かな国土を人も住めない土地に代えるし、それは関係者が「想定外だった」などという簡単な弁解で許されるような話ではない。
現にあの事故から一年たった現在でも、放射能拡散の危険に揺れる福島には、跡地の片づけはおろか、本格的な遺体の回収さえ充分に進んでいないと言われている。
さらに加えて、まだその対処法さえ固まらず、どこまで行けばどれだけ危険かのデータもままならない手のつけられない恐怖心が、国民意識に大きな不安を招いてしまった。「放射能に汚染された可能性がある」という噂が、根拠のあるデータも普及していないところに流れると、大衆は必要以上に不安におびえる。科学的なデータが無いのだからたまらない。震災後一年はこんな「風評被害」が、日本中を取り囲んだ一年であった。そしてごみの処分を全国の協力により、協力して処理して新しい復興に取り組もうとしているときにも、こんな意識が加わって、回復復興を遅らす大きな要因になっている。
責任も考えない専門家や責任者のミス
私は本来、原子力の利用に関してはかねてから批判的な立場の男である。我々の住む地球は、人間ばかりではなく、あらゆる生物や山川草木はじめあらゆるものが穏やかに営みを続ける場所であり、それをたとえ人間といえども、その生態系や均衡を崩して横暴の限りを尽くすことは許されるものではないと思っているからだ。それは我々日本人がこの世の中に誕生し、生活を始めた時からしっかり心がけてきた大原則であった。確かに我々は「火」などという物質を化学変化させる道具を開発し、豊かな人間生活を追求してきた。だがそれでも我々の営みは地球の物質回転のサイクル中にあった。衣食住に使ったものは再びこの自然の力によって再び循環する物質ばかりであった。回転を繰り返すことによって我々は快適な生活を過ごしながらも文明を高度化させてきた。
その精神が自然によって生きる信仰・神道の精神だ。自然を敬い、共生を図ってきた我々は、そんな原則を大前提として何千年の生活をしてきた。原子力は、一度自然界とは異なる「鬼っ子」を作り出してしまったら、その脅威となる「毒の部分」をどうやって消し去るかの糸口さえもつかんでいないこの世に存在しなかった悪魔の物質なのだ。それが「人類破滅の凶器」であることは、昭和天皇の「終戦のご詔勅」にもはっきり示されている。私自身は、それでもまだ多いに抵抗があるが、せめて放射能による被害が全く出ない状況が作り出され、使用の後には、使用した物質が何の不自然もなく地球上の再び利用できる対象に戻される確証がつくまで、我々が安易に手をつけてはならないものだと思っている。
日本国にも政治家がほしいものだ
福島の事故からの解決には長い時間と苦しみが必要だろう。原子力発電に賛成か反対かなどには関係なく、だが我々はそれを進んで味わい、これからに日本の姿を探る足掛かりにしたい。
福島県は本来は我が国土の中で、美しく豊かな素晴らしいところであった。そこを安易な一方的な計算によって、これからもしばらくの間、人々が不安を感ずる土地にしてしまった我々現代に生きる者の未来に対する責任は限りなく重い。原発を取り去って再び美しい国土に回復するためにでも、我々は今後どれほどの負担を負わなければならないのだろうか。しかも考えてみると、我が国にはこの福島第一以外にも膨大な量の原発があり、それらとてその安全さを考えて廃止させるには膨大な費用と年月とがかかる。
「原発は最も安いエネルギーだ」などという言葉に乗ってしまった我々は、どこかで道を踏みちがえてしまったようだ。だいたいこの種の事故は、地震や津波ばかりではなく、空からの落下物やテロやゲリラ攻撃や戦争でも簡単に起こるものだ。我々はそんな備えも全くやっていなかったのだ。
日本人は我が民族が発生して以来、我々の郷土にとっての不要なもの、捨てるか放置する以外には手の打てないようなごみや穢れは出さずにこれまで文明をはぐくんできた。これが自然と調和し、自然とともに生きる信仰を持つ我々の姿勢であった。
その問題を基に、これからの在り方をじっくり考えてみよう。ただでさえ経済問題で追いこまれている日本である。その上にこの種の問題を考えるのははなはだ厳しいが、これを解決させることが日本のこれからも世界に羽ばたく扉にもなると考えている。
戦後65年以上が過ぎている。そろそろ日本の政治にも、日本の将来を充分に考えることのできる本来の政治家が出て来てくれることを期待する。
写真は一周年追悼式にご臨席の両陛下(WEBより)