葦津泰國の、私の「視角」

 私は葦津事務所というささやかな出版社の代表です。日常起こっている様々な出来事に、受け取り方や考え方を探ってみます。

航路な気日本の未来 ①

2012年01月24日 16時50分19秒 | 私の「時事評論」
  どうなっているのだ「日本の政治」

 新聞やテレビには毎日のように政治や経済、社会などのニュースが流れる。

 昨今は野田内閣の改造人事が、これからの日本の政局にどのような影響を与えるかが主な話題のようだ。
 今回の内閣改造は、国会の運営機能が行き詰まり、身動きならなくなった内閣が、情勢打開のために行った苦し紛れの妥協劇だ。国民は一刻も早く、政府が主導して「政治」や「行政」を日常的な機能マヒから救い、進退不随の我が国が、僅かでも目先の状況立て直しに力を果たしてくれるのをイライラしながら待っている。だが国会は脳梗塞状態で、国会議員はそろって個人的な政党や派閥の争いのみに集中し、国民のことを本気で考える気配は見えない。
 「挙党一致」などという言葉が聞かれるが、言葉を正直に額面通りに聞いてはいけない。本音はどの党も次の選挙での議席の保全などに気を奪われて国の将来どころではなく、口先だけだと読まねばならない。政治が何もできないのは、赤字で金が無いからばかりではない。政治の方式そのものがもう時代遅れになってしまったので、動く力がもうないのだ。何とかしてくれなければ総倒になるという国民の切迫した気持、政治が国民から離れているとの強い不満を察して、行き詰った国会審議を前にして、自らのことはさて置いて、国民のため国のため、意欲的に動く気配が見られないのが今の環境だ。考えても見ればよい。議員定数の削減や議員の経費の圧縮、官僚の人件費抑制などは膨大な資金を生み出す。これが金が無ければできないことか。

 政府も口先ばかりの「国民のため」という言葉を虚しく発するのみ。そういえば最近は、「国民の皆さん」という政治家の意味不明の発言が、必ず顔を出すようになった。内閣の下にある行政機関は、動きたいが書類が整わないとか、自分らが存分に動くには条件が満たされていないとかの責任逃ればかりは並べるが、時間を空費する実りの無い小田原評定を繰り返し、税金から人件費だけは使っているが、行政には何の効果も生み出さない。

 国民は荒海に放り出されておぼれそうな危機にさらされている。だが国会議員も政府も役人も、「お前がだめだから国民は死ぬではないか」とお互いにののしり合って動かない。


  不景気のさなかに災害が起こって

 震災の被災地を訪ねるがよい。津波が襲ったあと、原発が壊れた周辺、一年近くが過ぎたというのに、いまだに膨大な瓦礫山積の見渡す限りの空地や人のいないゴーストタウンが広がり、どう復興すればよいのか見当すらもついていない。被災者は仕事も将来のあてもなく、避難小屋のような仮設住宅で寒さに震え、あるいは故郷から避難させられて暮らしている。日本を襲った円高は天井知らずに進み、国際投機の対象にさせられて、御蔭で仕事はないし蓄えもなくなった。

 日本は産業の空洞化してしまった。国民人口構成の極端な高齢化と少子化のため、今後ももうこのままでは好転しないのではないかと憂えられている。明日へ希望を持って展望することができない。震災や不況による失業や生活保護所帯より収入の低いパートタイマーの急増。戦後我が国の社会制度、教育制度の影響を受けて、日本人の国際的な能力レベルは急速に低下している。この混乱した窮状から脱出するには、人々がこの地で再生のために精魂込めて働く環境の整備、掲げられる明るい未来の設計こそが何よりの急務だ。

 だが雇用の確保、景気の回復という内容の無いスローガンは連発されるが、それには目の前の惨状に、どこからどう取り組めばよいかという施政方針はない。時間ばかりがむなしく過ぎて、国民不安は急速に高まっている。

 その典型的例を震災被災地に見る。人たちは働くすべを失い、仕事の機会も与えられず、やむなく明日の回復へのきっかけもつかめず、失業救済の保険にすがって食いつなぐ始末だ。そんな被災者に、
「このまま保険を出し続けては、受給者の自主再生の気力をなくす」
と、政府は失業保険の打ち切りを始めるという。

 何という無残な対応か。行政が、復興の方針と再雇用の機会を与える能力が無く、それができない自らの無能を棚上げして、被災者に責任を転嫁して責めている格好だ。


  六十年以上の愚かな政治の結論だ

 政治はこの課題にどう取り組むべきか。国会も内閣も、少々国民の目線に立てば、自らを恥ずべきこと、日本の政治がもう、国民をまとめるには古ぼけてしまっていることに気がつくはずだ。そうだ、いまこそ国としてまとまって、夢を掲げて一致結束し、乏しい資源を融通し合ってでも、日本国の力をつけ直さなければならない。

 戦後政治をつぶさに見れば、そんな事態が来ることはすでにはっきり見えていた。納税の義務と義務教育を受ける義務しか国民には求めず、あとは膨大な国に義務ばかりを並べた憲法の下、何の国民生活の体力も考え的なかった我が国。それは将来に我が国を行き詰らせる危険な罠でもあったのだ。だが、それを後生大事に押し頂いて、放漫政治を続けてきたのが日本だった。

 今回の不況と震災のダブルパンチだって、国際投機にさいなまれる円高嵐の前に、結果的には何の手も打てず、国の経費がかかるからと国債ばかりを乱発して食いつないでいたところにこの震災に見舞われた。いまでは永田町や霞が関に閉じこもり、口先ばかりの抽象論議に終始して、対応策もすべて手遅れ、ほとんど何の目立った成果も上げ得ず、時間のみを徒に空費させて現在まで来てしまっている。
 予算ばかりを空費して、から騒ぎの後に国会が、そして内閣が動き始めた暁にはどうにかなるのだろうか。「もう今からでは遅い」といわれるかもしれないが、もうすこし根本から考えなくてはならないのではないだろうか。


  国の姿勢を捨てた戦後の日本

 目先の対応は、憲法から考え直すなどというのんびりしたことで時間をかける以外はないだろう。日本の歴史には、こんな苦しい中でも、必死に我が国の健全性を回復した前例もある。とくに関東大震災の時の、摂政の宮であった昭和天皇、その下で組閣中であった斎藤内閣、即座に郵便貯金を使って国民の混乱を抑えた犬養郵政相はじめ閣僚の働き、廃墟になった東京を一挙に将来の発展の柱に復興させた後藤新平など、参考にするべき資料はいくらもある。それらを基に精一杯に手を打つことだ。

 だがそれだけでは不充分だ。いまの政治の行き詰まりは六十五年前の我が国の敗戦と、それにつづく占領下の時代に端を発している。何でこんな時代が六十五年以上も続いてしまったか。もちろん戦勝国の米国の在来の我が国体質破壊への指揮監督の下におかれていた数年間は、どこの国にでもある敗戦国が戦勝国の命令に従う義務のある時代だったのでやむを得なかったとしても、占領時代はその後七年で終わり、日本はふたたび独立し、主権を回復したはずだった。
 戦後のあらゆるものが戦勝国の下におかれ、反抗が許されなかった時代である。この時期に日本は、二度と欧米と肩を並べる国に復興しないように、徹底的に占領政策で骨抜きにされた。占領は戦勝国にとってうまくいった。我が国内に戦勝連合国に尻尾を振り、彼らの権力の下に群がって我が国の指導層を固めた連中がたくさん出たからである。だがそんな彼らが日本が主権を回復した後も、自らの保身のために結束し、主権を回復した後の我が国の独立回復への動きを妨げてしまったのは異常な現象だった。

 政治の独占をしていたのは、のちの自民党や社会党、マスコミや教育界、学界や官僚の世界の人々。彼らは占領中に以前の指導者が大量に追放された後にその後釜に座ったが、占領中に手に入れたものを、戦後も維持するために結束していまのような体制を守ろうとした。いままでに敗戦の経験のある民族ならば、そんな動きは戦勝国に媚びた汚い売国者の行為だとして批判されるのが当然だ。無論それを独立後も続けたいと彼らが動いても、国民が許さないだろう。だが日本は二千年以上、外国に占領される恐怖など殆ど感ぜぬ立地条件の下で、平和な独立を維持してきた国だ。厳しく戦勝国に媚びる空気を責める機運を育て得なかった。

 明治維新の際に日本が、西欧文明の世界支配にのみこまれずに独特の文化を維持して独立を保持していこうとした見識は、日本の独自の誇りのはずだったが顧みられず、そんなことは何の足しにもならんと捨て去られ、自ら好んで西欧の属国であり続ける道を選んでしまったのが日本だった。誇り高き日本の文化の特徴の回復を否定し、先祖たちの試行錯誤のなかに積み上げてきた伝統を軽視して、プライドもなく、国の誇りが傷つけられていることさえも無視してしまった。

 日本人はお互いに助け合う共同社会を営みながら、家族の単位をしっかり固め、日本的な固有の道徳を重んじ、助け合いながら生きていく姿勢、公的な共通社会では国民道徳である神道を重んじ、個人個人ではそれぞれの先祖たちが代々信仰の柱にしてきた仏教各派やその他の信仰を大切にし、全国民のために祈りまつりをされる歴代天皇を統合の祀り主といただく姿勢を貫いて生きて来ていた。そんな民族として貴重なものを否定し続けて、六十年近くも生きてきてしまった。

 長い日本の文化とともに、その結束の柱として尊崇する天皇陛下。その天皇陛下の終戦のご詔勅、「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んで、祖国の復興に力を入れよう」と諭された。そのお言葉があったので日本人は戦争で倒れた多くの同胞たちがあったのだが、従順に戦勝国に従った。それは、もちろん日本国の生き方、日本人の生き方までも変えよといわれたものではなかったのだが、陛下とともにこの苦しい時期を耐えていこうと心に誓った。日本に進駐してきた占領軍は、そんな従順な国民を利用して日本国を骨抜きにし、将来再びたちあがることのできない国にしようと国民洗脳を試みた。占領軍は行きすぎた勝手主義、何より大切なのはお金、下剋上の気風も自由、信仰などは迷信にすぎぬ、腹いっぱい食うのが何よりの幸福、まるで野獣のような教養なき人間を育てようとするもう宣伝した。我々は国の理想も忘れてそんな言葉をまともに受けて過ごしてきた。いやいまも、過ごしている気風は濃厚にある。

 精神的な独立の気風、国を愛する心、靖国神社の英霊に対する国の無礼、全国民の祀り主としての天皇の地位の再確認、占領中に強引に変えさせられた国際法を無視してまでも戦勝米国が押し付けた「新憲法」の再検討、国民意識の再生など、独立を回復した時に、当然回復しなければならないことはたくさんあった。それらのすべてを、我々は回復することができず、世界から「エコノミック・アニマル」と評されるのをまるで勲章のように誇って今まで過ごしてきてしまった。それが現在の姿である。


  国民気質を冷静に見る力が育たなかった

 私は独立回復時に、あのすべてを失った戦争の狂気の時代に再び戻れと単純に言っているのではない。明治維新後の日本が、西欧文明が世界を制覇している中にあって、独立国として生存権を主張しようとして変質していった姿には、世界の調和を愛する日本としても、考えなければならない問題点もあったのだと感じている。特に欧米文明に追い付き追い越そうとした官僚や学者・軍人・マスコミ・その他の中に、性急さのあまりか、守るべきものを見失って西欧と肩を並べることのみを追求し、日本らしさを軽視して、欧風礼賛の空気、日本の穏やかな文化を軽視する空気が強くなった点は問題だったと思っている。それが勝ち目はほとんどないことを知りながら、戦争に突入してここまで祖国を蝕んだ大きな過ちの基礎にもなった。そのコースには反省すべき点もあっただろう。独立の回復を機会に、その陥ってしまった欠点の種を分析し、より日本らしい維新の「実」を追うべきだった。現にこの戦争がきっかけとなって、それまでは欧米の支配下にあって、彼らの独占の下に虐げられていた非西欧の多くの国が新たに活躍できる場がやってきた。日本ももう少し先を読む力がほしかったと悔んでいることは強調しておきたい。

――続く。

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