葦津泰國の、私の「視角」

 私は葦津事務所というささやかな出版社の代表です。日常起こっている様々な出来事に、受け取り方や考え方を探ってみます。

東日本大震災に思う2

2011年03月24日 11時00分57秒 | 私の「時事評論」
 天皇陛下のお言葉

 東日本大震災に襲われた翌日、天皇皇后両陛下は宮内庁長官を通じ、首相に対して、犠牲者へのお悔やみと、負傷者や被災者に対するお見舞いのお気持ちを伝えられた。

 また陛下よりのご指示で、「春の園遊会」はこの時期にふさわしくないとお取りやめになり、陛下は都内などへのお出ましもすべてお控になられ、「困難を分かち合いたい」と、皇居は今回は指定除外区域になっているのだが、計画停電にも自主的に協力されると参加され、宮中での国事行為などの時間を除き宮殿を閉鎖、節電されるとお決めになった。また、被害に遭った人々を励ましたいと、被災地へできるだけ早く訪問して、お見舞いをされたいとのご意向を伝えられた。

 今回の首都圏の計画停電、通信社、テレビ、政治機能、自治体管理、金融機能や海外連絡機能などの主要施設が集結し、エレベーターがなければ利用もできない超高層ビルが並ぶ東京の23区の主要部には適用から除外されている。一見、合理的に思える面もあるのだが、これに対しては、毎日何時間かずつ停電に協力している周辺の国民から「節電の不自由を忍んで協力するのはやぶさかではないが、住んでいる地域によって不平等が生じているのは望ましいことではない。都市の中心であっても、同じ不便さを共有することが国民一致協力のためにも必要ではないか」との声も起こっている。国民が一つになって協力する時には、形式に流れず、そんな精神的な配慮はぜひともしなければならない。周辺の住宅に住む人たちは、さらにこの上、東京など中心部に通うために、節電のため間引きされた電車に乗ったり、ガソリンスタンドで長い行列の末給油をしながら通っているのだから。一致して共通の目標に我慢して協力する精神が崩れたら、少々電力を節約しても何もならない結果になる。

 脱線をした。本旨に戻そう。そんな中で、首都東京の中心にある天皇陛下のおられる皇居の中だけはすっかり明かりが消されひっそりとしている。どんな時でも国民とともに、同じ苦労を共有したいという天皇陛下のお人柄がはっきりと示される形となっている。

 さらに陛下はこれに続いて震災の五日後には、異例のビデオメッセージを発表された。

「震災の報道など、緊急のニュースなどが入った時には、いつでも中断して残りはあとで放送ができるように」とわざわざ内容をコピーされ、細かい配慮をされた上のメッセージであった。テレビ、ラジオなどを通じて被災者に、そして全国民に「いたわり合い、分かち合いによって災害の克服と復興をしよう」と直接呼びかけられる内容で、また被災した五つの県に対してはお見舞い金を贈られた。

 震災やその他の危機、日本に危機が訪れた時には、毎日を国民のためにひたすら祈りに過ごされ、まつりをしておられる陛下、「無私の陛下」、どんな時でも全てをなげうって国民のために祈り続けられるのが陛下である。国民に一つになってまとまって危機を乗り切ろうと訴えられ率先垂範される。国民は天皇陛下のこんな御性格をよく知るだけに、陛下のお言葉は全国民に格別の重みをもって受け止められる。御即位以来二十数年、全国で起こった震災に関しても、いつも国民に強い精神的な支えとなって被災者たちの立ち直りと被災地の復旧に力を入れ、それを神々に祈ってこられたのが天皇陛下である。それは御即位の際に、昭和天皇の御心を継がれて、国民のためにひたすらお勤めになることを誓われた陛下の、そして陛下を支えられる皇后陛下のお姿である。それは昭和天皇のお心でもあり、何千年も続いてきた日本の天皇の、守り続けてこられたお心でもある。こんな歴代の天皇に一貫して流れ伝わってきている帝としての心を、我々は大御心(おおみこころ)と呼んでいる。

 ここに日本の皇室の特徴がある。



  スイセン通り

 震災ついでに、話は平成5年の阪神淡路大震災の時にちょっと戻る脱線を許されたい。当時の両陛下にまつわるエピソードは多くがまとめて発表されたので、それらを覚えておられる方も多いだろう。最近でも、伊勢雅臣氏のメルマガ「国民の幸を願われ20年」、斎藤吉久君のメルマガ「誤解だらけの天皇・皇室」などは、こんなエピソードに時折焦点を当てて記述している。そんなものも参考にして、少し両陛下の震災へのお取組みなされたお姿の一端を紹介したい。

 まずここに一つの御歌を紹介する

 なゐ(地震)をのがれ戸外に過ごす人々に雨降るさまを見るは悲しき

阪神淡路大震災の直後、天皇陛下がおよみになった御製である。陛下の御製は一般の人の歌とは違い、人に見られるといったことを意識される虚栄の飾りがなく、ストレートに人の心を打つ力がある。己の欲望や気取り、飾りなどを捨てられ、無私の御心で、祖先や神々にお祭りを続けられるたった一人のお方、天皇陛下にしかおよみになれない独特のものが、御製というものの特徴である。

 刻々と入る大地震の報告を受け、一刻も早く現地に行って、人々を見舞い励ましたいと思われたのだと拝察申し上げる。地震から二週間後、陛下は皇后陛下とともにヘリコプターで現地にお入りになった。両陛下は被災者たちの前に座られ、手をとって、心の底から彼らを激励された。そのお姿に被災者たちに大きな感激を受け、この震災の被害に立ち向かい、それに打ち勝とうとの決意を強く感じさせることになった。米国誌・タイムは、泣き崩れる若い女性を優しく抱かれた皇后陛下のお写真を掲載、「人々は村山首相の視察には冷淡であったが、天皇皇后を希望の象徴だとお迎えした」と両陛下のご慰問の姿を報道した。

 この御訪問の前に、両陛下はお車に乗り換えられ、この神戸市長田区の被災者の集まる場所に到着される直前、ちょうど商店街のアーケードが火災で焼けたところの前で、突然行幸の車を止められた。

すると、皇后陛下がそっと車を降りられ、お持ちになったスイセンの花をそっとたむけられ、手を合わせて震災に伴う火災で亡くなられた人たちにであろう、慰霊されておられる姿が目撃された。あとで秋篠宮が話されたところによると、皇后さまはこの日、皇居のお堀の傍らに咲くスイセンの花を摘まれ、持って行かれたのであろう。何の説明もなく予定表にもなかった一時の出来事、これを見て罹災者一同はそのお姿に感激し、「いやもう、これは我々が頑張る以外には無いではないか」と決意を新たにしたという。

 両陛下はその後、罹災者の仮設住宅がなくなるまで、常に被災者の身を案じてお言葉を述べられたし、記者会見などでは、必ず被災者の立ち直りを案じている言葉を述べられた。皇族方も陛下に続いて、相次いで被災者のお見舞いに来られて、皇族方のご慰問の数は10年間で17回にも達した。被災者たちは、不幸な境遇に立って、悩み苦しんでいるのは自分たちだけではない。両陛下をはじめ、みんなが見守ってくれているのだと、強い自信を持つことになった。

 震災から十年後の平成17年、震災からの復興の式典に両陛下は三度目の被災地のお見舞いをされた。お出迎えに居並ぶ被災者たちはみな、スイセンの花を持って沿道でお迎えした。そして両陛下のお車の車列が見えると、そのスイセンを高くかざした。

お進みになるお車は、それを見て速度を緩め、お車の窓を開けられて、手前に皇后さま、そして奥の席の天皇様が笑顔で手を振られた。両陛下のお姿に皆はちぎれんばかりにスイセンの花を打ち振り、お車が去ったあと、皆の持つスイセンの花は打ち振られてほとんど折れてしまっていた。あらかじめ予定されたことではなく、こんな心の通じた交流が展開される。これが日本という国の国民と天皇陛下の姿である。

 神戸市長田区、皇后陛下がスイセンを手向けられたその場所は、大震災からの復興のシンボルとしてコミュニティー通り「スイセン通り」と名付けられ、美しい神戸の震災復興の象徴となっている。



 震災復興と天皇陛下―関東大震災

 天皇陛下の震災復興のご活躍は、平成18年の中越地震でも示された。両陛下はこの時もヘリコプターで被災地山古志村をご訪問になり、被災者たちを親しく見まわれた。当時の村長長島忠美氏は次のように語っている。

「私たちはあのとき、絶望の中にいました。場合によっては一人ぽっちになるかもしれないと思っていました。しかし両陛下がおいで下さった。私たちは一人ではない。これだけで勇気につながったとおもっています。――天皇皇后両陛下は、私たち政治家にはできないことをやってきて下さっていると思うのです。それは大きな御心で国民全体を愛するということです。そのお気持が国民に伝わるから、勇気になったり、感謝の気持ちになったりもするのだと思います」。

 この時も被災者の国民は天皇陛下・皇后陛下のお気持ちに支えられて復興の事業に専心することができた。地震は日本にとっては避けられない天災で、多くの痛ましい被害を生みだしている。だが、そのような被害から日本人が立ち直り、もう一度繁栄のために努力する力の一つとして、天皇・皇后陛下を中心とする日本の皇室が機能していることを忘れてはならない。

 こんな天皇陛下の地震被災者に対するお気持ちは日本の皇室に脈々と伝わる皇室の心そのものであると言える。日本の国に起こった様々な災害、それに対する歴代の天皇がいかに心を痛められ、その回復を祈られてきたか、そしてまたその差異化からの復興のために身を捨てて努められてきたか、それを物語る資料は多い。いまの陛下の震災に接するお気持ちの、御父君の昭和天皇から継承されたこの日本のまつり主である天皇のお心と受け取ることができる。

 大正12年の関東大震災のとき、当時昭和天皇は皇太子で、大正天皇が御不例であったので摂政の宮にご就任中であった。東京、横浜はちょうど昼時であったので各地で火災が発生、運悪く強い風も吹いていたので火の海となり、皇太子の高輪御所も全焼したが、皇太子は直ちに被災者に一千万円の御内帑金を下賜され、自ら進んで被災地を視察され、首都東京の一刻も早い復興をと奮闘された。

 また、民の惨状を見るに忍びないとこの秋予定されていたご自身の御結婚を延期され、その資金も災害復旧に支出。皇居前に避難した十数万人の罹災者にも御内帑金を下賜され、政府に「自分らはたとい一汁一采でもしのぐから復興に励め」と述べられて、日夜罹災者の慰問や犠牲者の弔問に当たられた。この摂政宮殿下の積極的な御活動は、当時政府は加藤首相が急逝し、山本権兵衛首相のもとに新内閣を組閣中であった政府にも影響し、流言飛語が飛び交う当時の震災地の混乱を最小限度の混乱にとどめ、人々を失意と放念のどん底から立ち直らせる大きな力となった。

 こんな関東大震災の際の御父君のご活躍を見習われた今上陛下は、震災のたびに率先してその大きな痛手から皆が立ち直るのを励ましてお歩きになっている。

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