浅井久仁臣 グラフィティ         TOP>>http://www.asaikuniomi.com

日々の出来事から国際情勢まで一刀両断、鋭く斬っていきます。コメントは承認制です。但し、返事は致しませんのでご了承下さい。

勘弁してよ、ヤスオちゃん

2005-08-21 23:27:55 | Weblog
 ヤッシーこと、田中康夫長野県知事と郵政民営化法案に反対し、自民党公認を外された小林興起前衆院議員らが21日、新党「日本(にっぽん)」を結成すると発表した。代表には田中知事、代表代行には小林氏が就任した。
 勘弁してよ、ヤスオちゃん。いくらなんでもそれはないんでないの。私はこれまで県知事としてのアナタの言動にある程度の評価をしていただけに、がっかりだ。自分の「人の目を見る目」のなさを恥じている。
 正直に言うと、彼がまだ作家を本業にしていた時、彼と話す機会があったが、その薄っぺらな話の仕方にあきれてその場を離れたことがある。それからしばらくして、阪神・淡路大震災が起き、田中氏が災害支援をする姿を見て、「パフォーマンス好き」の「目立ちたがり屋」と、神戸で見かけても彼を避けたものだ。
 だが、彼が県知事になり、次々に旧弊をぶち破る姿を見て、「政治家としては悪くないかも」と思うようになった。その頃、丁度1年前だが、ラジオ番組「アクセス」で一緒になった。その時の話し振りや情報の扱い方に彼への評価はさらに高まった。彼から送られてくる「TV出演します」メールに「激励文」を送ったこともある。
 だが、その後、石原慎太郎を全国知事会の会長に担ぎ上げようとしたり、国政を意識した発言をするようになったが、はっきり言って強い失望感を持つようになった。そして、今日の記者会見だ。彼の真意はどの辺りにあるか私自身「田中ウォッチャー」ではないので分からないが、一部で言われているように、県知事として再選される見込みがないから国政に出る、ということであるのなら止めてもらいたい。
 それにしても今回の衆院選。一体どうなっているのか。論点がずれているどころか、真実(普段この言葉を使うことはないが、今回は使わせてもらう)を取り上げもせず、政局ばかりを論じている。近く「私の視点」で衆院総選挙を取り上げる予定だが、今回もまたマスコミの騒ぎ方に一矢も二矢も射ち込むつもりである。

絵に描いたスイカ(!?)

2005-08-20 01:01:46 | Weblog
 生徒からスイカをいただいたとの連絡がASEのスタッフから入った。デカイやつを丸ごと一個だという。大好物のスイカだ。皆で分配しようと、私は大き目の包丁を持ってASEに駆け付けた。しかしながら、スイカは見た目は良いものの、抱えて叩いてみると、「ボムボム」と絶望的な音を出している。田舎育ちの私にはスイカの出来不出来は用意に分かる。これは中身が「液状化」している音だ。
 やはりスイカ好きの加藤慧(私の最年少の弟子)が、自転車では運べぬからと、まだ取ったばかりの運転免許をこれ見よがしに額に貼り付けて(ウソですよ)車で駆け付けた。見ると、端正な顔立ちの口元から既にヨダレがこぼれている(これもウソ)。「このスイカは腐って食えないから家に持って帰るよ」と言えば、必ずや、「シショーはスイカを独り占めにしたいんだ」と思うに違いない。普段からの行ないが悪いから私はこういう場合に信用されないのだ。ここは、彼を納得させるためにも目の前で切って見せる必要がある。
 案の定、包丁を入れると、スイカから汁がドバッと出てきた。それを私の脇で見た慧の口からヨダレがいっぺんに引いた(最後のウソ)。
 こうなると、始末が悪い。気軽にそこいらに捨てるわけにはいかないし、それを慧に持たすわけにもいかない。生ゴミの収集日は来週の火曜日だ。哀れ、「垂涎の的」から「粗大ゴミ」と化したスイカは、ビニール袋に入れられ、我が家に持ち帰られることになった。と言っても、私の愛車は、ブリジストンだ。他の荷物もあるから籠に収まらずに往生したが、何とか我が家に着いた。
 やはりスイカ好きの家人に事の次第を話すと残念がることしきり。汁がこぼれないようにと何重にも包まれ台所に鎮座ましましているスイカをしばし眺めていた。
 こういう場合、いただいた生徒にどう言うか。とても難しい。この暑い中、わざわざ持って来てくれた親切をあだにしかねない。だが、もしや他にもプレゼントしてしまうこともあろうかと、スタッフを通じて事情を包み隠さず説明した。するとやはり、とても恐縮されてしまった。
 でも、Sさん、もしこれを読んでいたら、これに懲りずにまた持って来てください。待ってます。
 

他人事でない地下鉄誤射事件

2005-08-19 13:08:11 | Weblog
 「ゆりさんのメールから」でお伝えした、ロンドン警視庁の刑事による暴挙と隠ぺい工作疑惑は、警察当局の幹部の責任問題を追及する声が高まっている。また、ブラジル政府は18日、近く2人の捜査員を独自調査するために英国に派遣すると発表した。
 ただ、今回の騒動を見ていて感じるのは、独立調査委員会の存在の重さだ。警察幹部から委員会に対して様々な形で圧力がかけられているようだが、捜査当局とは一線を画している。確かに、ITVが報道するまで(一部報道では、委員会関係者がITVに情報提供したとしている)は、ロンドン警視庁に遠慮していた節があるが、これまでのところはその役割を果たしているようにみえる。
 これが日本で起きたらどうなるかと考えてみた。警察捜査の苦情処理は、各都道府県の公安委員会によって行なわれるが、“有識者”で構成される各地の公安委員会は、ほとんどが警察のお気に入りの人たちで構成されており、その機能は発揮されていない。警察法では、国家公安委員会が都道府県の警察の大本締めである警察庁を管理すると規定されているが、その実態はと言えば、その逆で公安委員会が警察に管理されている状態だ。
 大分前から警察の体質改善が叫ばれているが、大きな進展は見られない。アル・カーイダのメンバーだとして在日外国人を誤認逮捕した後もなんら再発防止の手が打たれたとも聞いていない。このままでは英国であった射殺事件と同じような事件が日本で起きかねないと思うのは私だけであろうか。

ゆりさんのメールから

2005-08-19 02:02:32 | Weblog
 8月1日付の「私の視点 英国の人種差別」に寄せられたコメントの中からユーザー名「ゆり」さんが書かれているものをご紹介してそれに私の体験と解説を加えた。これまでゆりさんが書かれたものを見ると、英国在住ならではの“空気”が感じられ、貴重な報告にもなっている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(ゆりさんのコメント)
 やっぱり、というか多くの人が想像したような結果になりつつあります。
肩に一発、頭に七発の銃弾を受けて誤殺されたブラジル人青年の死をめぐる不可解な状況が少しずつ明らかになってきています。民放ITVによる独自の検証が毎日新聞の記事にも出ていましたが、青年がいつも着用していたのはジーンズの上着であって厚手のジャケットではないなどは、青年の従弟の方が当初から主張していたことです。つい最近、当局は現場駅の監視カメラに不具合があったとかで、裁判では映像による状況の検証が不可能になったと発表していましたが、こうなって来るとこちらの方にも疑いの目を向けてしまいます。もともと、あれだけの弾丸を頭部に撃ち込んでいながら「誤って射殺」と言えるものなのかどうか。
こんな調子では、英政府が司法当局に要請している、解釈を引き締めたテロ法によって過激派を出身国にどんどん送還しても、その中にはテロとは全く無関係の人間もいた、という事になるかも知れません。私はイスラムの人間ではありませんし、過激派の擁護をしているわけではありません。確証のない捜査によって善良な一市民の人生が無茶苦茶になることに不条理を感じるのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 と、書かれているように、事件直後、「テロリストの射殺」と報じられたこの事件が、実は「正当防衛」どころか「過剰防衛」でもなく「人種差別殺人」であったことが分かった。ITVやガーディアン紙などが17日、警察独立調査(苦情処理)委員会から入手した映像などの内部資料を使って射殺されたブラジル人男性デメネゼスさんに不審な点はなかったと報じている。
 その内容は、「捜査官の追跡から逃れようとしたデメネゼスさんは、地下鉄の駅で改札口を飛び越えて…」とされた部分について、「普通に歩いて改札口を通り、構内に置かれたフリーペーパーを手にした」としており、また、「夏なのに厚手のジャケットを着ていた」という当初の警察の発表についても「薄いデニムの上着」であったとなっている。確かに、殺害後映された写真をご覧頂ければ分かるように、地下鉄車両にうつぶせに斃された被害者はジーンズを履き、ライトブルーの薄手の上着を着ている。いくら「自爆テロ」容疑者として仕立てるのに厚手のコートが不可欠であったとしても、このような証拠写真があっても警察が「厚手のコート」にこだわった理由は解せない。
 ゆりさんがこの事件に怒りを感じるのはもっともな話である。これを読んで、私は自分が30年前に英国で体験した警察と入管当局者のズサンで無礼な態度と仕事振りを思い出した。
 警察に関しては、私が引ったくりを捕まえて警察に引き渡したときのことだ。当時、ロンドン名物である「ダブル・デッカーズ(二階建てバス)」は乗降口にドアがなく、乗り降りはバス停があるなしに関係なく自由で、たとえ走行中でも飛び乗る事が出来た(今でもあるのかな?)。ヴィクトリア駅が幾つかのバス路線の起点となっており、出発を待つバスが並んでいた。
 一台のバスの横を通り過ぎようとした時、若い男が車掌の持ち場からかばんをひったくる光景を目撃した。呆気に取られる女性車掌に、「snatcher(ひったくり)?」と聞くと、激しく首を縦に振ったので、私は男を追いかけ、背後からつかまえると首投げでその場に倒した。
 駆けつけた警察官に男を引き渡してその場を去ったのだが、それからしばらくして警察官の訪問を受けた。犯人を裁判にかけたから証言台に立ってくれとの要請であった。だが、先ずその訪問時間が常識外であった。午前7時前に来たのだ。そういう依頼は正式に裁判所から文書で来るものと思い込んでいた私は、その旨を言い、寝込みを襲われた不快感を口にした。警察官は口では謝ったが、表情は明らかに「この生意気なアジア人の若造め」と敵対心丸出しであった。
 そんなことがあったが、私は指定された日時に裁判所に出かけた。ところが、受付に行って用件を伝えても、そんな裁判は存在しないと言われた。粘って書記官に調べてもらうと、事件は既に解決済みだという。ならばなぜこちらに連絡をくれなかったかと食い下がると、木で鼻をくくったような謝罪の言葉のみが返って来た。
 もう一つの例は、入国管理事務所(HomeOffice)とのやりとりだ。当時から英国には仕事を求めて密入国や不法滞在をする外国人がいたので、私のようにひんぱんに国を出入りし、さらにパレスチナゲリラの取材をする者は歓迎されなかった。1972年、日本赤軍が空港乱射事件を起こした時、シリアにいた私は、当時活動拠点にしていたロンドンに戻ると、空港で長時間調べられた。そしてその後しばらくしてパスポートを「一時預かり処分」にされてしまった。
 それから間もなくして、日本の雑誌社から米国取材の依頼が入り、私はパスポートの返還を求めてHomeOfficeに足を運んだ。ところがなんと、返って来た答えが、「今当局は新庁舎に引越し中だが、どうやら君のパスポートを紛失したらしい」というふざけたもの。
 まあ、パスポートだ。再発行を申請すれば、金はかかるが手に入る、と最悪の事態を想定して、その日はあきらめて仕事に出かけた。その日の仕事場は、先日ご紹介した「リンガフォン」だ。「今日の出来事」として事の次第をB氏に話すと、彼は秘書にすぐに電話をさせた。私はその電話先は分からぬままに仕事に手をつけた。すると、B氏の元に一本の電話が入った。私が彼のオフィスに入って10分もかかっていなかったように記憶している。
 「パスポートがありましたよ」
 B氏は笑顔で私に伝えた。B氏の話では、彼の秘書が電話した先は有力な国会議員。議員からHomeOfficeに電話を一本入れてもらったとのことだ。ここから推察するに、HomeOfficeは私に嫌がらせをしていたのだ。
 それから30年以上の時を経ても、今回の事件を通してみると、英国の官憲は、人は変われど、組織自体は当時とあまり変わっていないようだ。同時多発テロ直後、私は、非常事態に冷静に対応する「英国社会」をほめる記事を書いたが、時間が経つにつれそれが正しかったか今自問自答をしている。
 最後に、前にも書いたが、刑事がデメネゼスさんを惨殺した背景に、ロンドン警視庁のスタッフがイスラエルで「対テロ対策」の訓練を受けていたことが深く関係しているように思えてならない。今回の捜査方法からデメネゼスさんの殺害方法まで、イスラエルの兵士や警察官が、パレスチナ人に対して行なっている取調べ方法そのままだからだ。

好事魔多し

2005-08-17 11:27:21 | Weblog
 「一寸先は闇」「好事魔多し」とは良く言ったもの。他人の目には「順風満帆」に映り、安定航路に入ったかに見える人生も、時に大どんでん返しが待っている。
 私の人生の中で、それは自分自身にも起きたし、また周囲の人の身にも起こった。だから大抵のことは今では何が起きても「人生とは…」と訳知り顔で平静を装える。
 先日のこと、お盆開けに以前この場で宣言をしていた、「大災害発生時の報道ヘリ」の問題に取り掛かろうと、まずは東京都庁の担当者をインターネットで調べていたのだが、それをする内、「ああそういえばHが都庁にいたな」と、ネット検索機能に彼の名前を打ち込んでみた。
 Hは高校3年の時の同級生で、成績は常にトップクラス。東大に進む生徒の中でもひと際目立つ彼の明晰な頭脳と冷徹とも思える冷静さは、将来どんな人生を歩むのかと周りに思わせたものだ。ワルで劣等生の私などとそんなに接点は無かったはずだが、なぜか私の空間にいることが多かった。ただ、大学に入ってからは、交流が途絶えていた。
 以前、法曹界か高級官僚の世界に入って活躍しているかと思いきや、東京都庁にいると聞いて意外に感じたが、彼の異常なまでの打算的な人生設計を高校時代に聞かされていた私は、「奴なりの計算があるのだろう」と不思議に思うことはなかった。
 一度だけHに電話で取材をした事がある。ただし、どんな取材内容であったかは記憶にない。電話をかける前、Hが文書課長をしていると聞き、その役職のイメージから「奴にしては随分出世コースから外れたな」と思って「プライドの高い彼に悪いかな」と電話をするのをためらっていると、ジャーナリスト仲間から「文書と言っても法律に関わるドキュメントをチェックするところで重要な役職ですよ。知事との接点も多いですしね。その若さだったら出世コースですよ」と言われ、気を取り直して電話をした記憶がある。
 Hの名前を検索していた指が止まった。彼が不祥事を起こした今年4月の新聞記事を目にしたのだ。不祥事といえば、数年前、同じ高校の先輩でラグビー部のコワモテだったSが新聞をにぎわせた事がある。SはJRA(日本競馬会)にあって一時は「飛ぶ鳥を落とす勢い」で京都競馬場のトップを務め、将来の副理事長最有力候補と言われた男であったが、贈収賄事件で逮捕されていた。その時もショックであったが、今回は同級生だ。しかもなぜか私を慕ってくれた男の話だ。
 Hの名前が載る新聞記事「都教育庁部長が下半身露出 公然わいせつ現行犯逮捕され諭旨免職」を見て、自分の目が信じられなかった。「え、あのHが…」と、思わず彼の苗字を口にしていた。
 新聞各社の記事では、JR総武線の電車の中で深夜、泥酔したHはズボンのファスナーを下ろしてイチモツを露呈したという。これを読んでいる時、彼の家族のことを思った。電話であいさつをした程度だが、彼の妻への同情は禁じえなかった。もし子供がいれば、彼らの心情は推して知るべしだ。
 高校時代のイメージでしかないが、Hは小柄でひ弱な青年であった。転勤族の息子で確か北陸の方から転校してきており、どこか豪気さを男の本分とするような校風にはなじまない「日陰を好む学究の徒」の趣があった。「青成りびょうたん」と評する同級生がいて、その時はそいつを叱ったが、言いえて妙だと内心思った事がある。
 記事を読み、彼の職歴を見て大体の察しがついた。一時は知事本局自治制度改革担当部長という“本流”に身を置いたHがその後、教育庁同和教育担当部長や福利厚生部長といった“傍流”に流されたのを考えると、権力志向の強い彼には屈辱的な日々だったはずだ。都議会の議事録を見れば、議員の質問に無難な受け答えをしているが、悶々とした毎日を送っていたに違いない。
 仕事からくるストレスから深酒をするようになったとしてもおかしくない人事だ。「エリートの堕落」だ。普段は冷たく扱う類の事件だが。同級生だけに何か一抹の寂しさを感じてしまう。非難の筆も鈍る。ネットの世界では、彼のことを面白おかしく扱っていたが、何れもが的外れであった。中でも、一連の教育界の不祥事とする見方は、Hがあくまでも人事上の都合から教育庁に在籍していただけに見当違いだろう。
 Hと親しい人間と話してみると、私の憶測は大方合っていた。彼の悩みも相当深かったようだ。その男の言う限りでは、Hは初犯であり、これまでそのようなことは周囲で噂にも上らなかったらしい。この話が本当ならやはり、「好事魔多し」の譬えそのものだ。彼は今、家族や友人と距離を置いて生活しているとのこと。
 人の噂が収まったら、時機を見て一度Hと会ってみたいと思う。私に何ができるか分からないが、40年前の私の存在が彼に何かを与えられるかもしれない。そんな安っぽいノスタルジーに意味があるのかと問われれば、自信を持ってあるとは言えないが、なぜかそうしたのだ。

靖国60年目の夏

2005-08-16 00:37:20 | Weblog
 敗戦記念日の今日、日本中の、いやアジアの多くの国からも関心を集めている靖国神社に行ってみた。今日の東京は曇天ながら猛暑で、九段下駅から少し歩いただけで汗が吹き出てくる。神社の入口の鳥居をくぐる頃には吹き出た汗がシャツにまとわりつく感じだ。
 8月15日というだけでなく、戦後60周年ということもあって人出は多く、地下鉄の九段下駅から靖国の鳥居に向かう人の波が出来ていた。「人出は多く」と言っても、私はこれまで靖国を訪れておらず、この辺りはあくまでも神社関係者のコメントを参考にした。
 人の波に、お年寄りだけでなく若者の姿が目立つことに驚いた。以前神社を訪れた人からそんなことを聞かされていたが、その時は偶然性も否定できないと思っていた。
 境内の奥に歩を進めると、軍服などに身を固めた人たちがチラホラと目に付く。中に、「天皇陛下バンザイ!」「大東亜戦争勝利」と叫ぶグループがいた。軍歌を歌っている連中もいる。見ると、彼らはどう見ても戦中世代ではなく3,40代だ。そんな連中にカメラを向けたり、記念撮影を一緒にとねだる若者達がいる。
 境内の中ほどに銅像があり、その前でハーモニカに合わせて軍歌を歌うグループがいた。将校、飛行兵、勤労動員など当時の衣装に身を包んだものの所詮は「コスプレ・グループ」に過ぎない。軍歌を歌ったことも無いのだろうが聞くに堪えない酷さだ。後ろでお年寄りが「歌になっていない」とつぶやく。
 特設ステージでは、「戦後60年国民の集い」が行なわれていたが、そこは後に戻ることにして先に進んだ。
 本殿の前には参拝客が長蛇の列を作っていた。そこへ今度は、違うコスプレグループが現れた(写真参照)。携帯のカメラで撮影したから画像が鮮明でないが、一部の人間は、手に刀や模造銃を持っている。すると、また参拝客が手に手にカメラを持って周りを取り囲む。
 マスコミの知人に間もなく小池百合子環境大臣が現れると聞き、場所を移した。しばらくすると、彼女を乗せた車が目の前を通った。ちらりと見えた顔は小池大臣に間違いはなく、車が神戸ナンバーであることは、公用車ではなく自分の車で来たこと、つまりは私人で来たことを意識してのことであろう。
 彼女の姿をちらりと見て、隔世の感を抱いた。
 私は小池さんとは旧知の仲だ。10数年前まで、彼女はカイロ大学留学という変わった毛色を持つジャーナリストだった。今はなき週刊誌「朝日ジャーナル」の同じ書き手として交流があったのだが、その頃から、いやカイロ大学在学中から目立ちたがりで有名であった。
 朝日ジャーナルの編集長であった伊藤正孝(故人)さんが、13、4年前、「小池百合子さんを細川(護熙)さんにつないだのは僕だよ」と独白した時、「大体分かっていましたよ」とは答えたが、正直な話、「伊藤さん、分かってないな」と内心思ったものだ。伊藤さんは、アラブやアフリカをゲリラと共に歩き回った朝日新聞の記者らしからぬ「泥臭いジャーナリスト」で人間としては信頼できる先輩だったが、「女を見る目」があるとは言い難かった。実際、小池さんは、日本新党から新進党、保守党、自由党と渡り歩き、最終的に自民党入りして小泉さんに取り入った。
 参拝に訪れる政治家を取材する報道陣やひと目見ようと集まった見物人で賑わう中に一人の外国人の姿があった。説明が必要なら協力してあげようと声をかけると、彼(David)は在日6年のヴェテランジャーナリストで私の助けなど必要としなかった。カナダのTV局と契約をしているというDavidは現在、ヒロシマ・ナガサキの取材をしているとのことだった。
 そんな彼からとても興味深い話を聞いた。広島と長崎に落とされた原爆のウランはカナダで採れたもので、しかもその採掘には少数民族が使われたとのこと。さらに、その採掘に当たっていた人たちが被爆をしているというのだ。「カナダも原爆投下に無関係ではなかったんですよ」と教えてくれるDavidの表情は、心なしか曇っていた。
 政治家達の顔を見ていても仕方がないので、遊就館に向かった。零式戦闘機や人間魚雷の展示がしてあるという。何れもが、今で言う「自爆攻撃」に使われたものだ。だが、入場料が800円と言われた途端、中に入る気が失せた。「たかが800円、されど800円」などと訳の分からない独り言を言いながらきびすを返して外に出た。
 もと来た道を辿ると、前述の「国民の集い」が佳境に入っていた。
 TVにも時折り出てくる金美齢さんが、聴衆に熱く語りかけていた。その語り口に聴衆が引き込まれていた。私には聞くに堪えない「大東亜戦争礼賛」「靖国神社擁護」もそれらの人たちには心に深く染み入るのであろう。胸の前に両手を合わせて聞き入ったり、涙を浮かべている人もいた。
 その後今度はオペラ歌手と演歌歌手がそれぞれ「英霊への想い」を謳い上げた。その時、上空で雷鳴がした。聴衆に動揺が走った。雷鳴が近くなると、参加者の中には席を立つ人も目立った。「心に深く沁みる話しや歌」より自分の命が大切なのは当然だ。主催者にとってはうれしくない光景だったようだが、それらの逃げ惑う人たちの姿は、私の目にはとても人間的に映った。

8月15日の靖国

2005-08-15 20:53:24 | Weblog
 靖国神社に行って来ました。今帰宅したばかりなので、リポートは12時過ぎになると思いますが、面白いものになると思います。是非ごらん下さい。

終戦それとも敗戦

2005-08-15 11:12:57 | Weblog
 太平洋戦争が終わってから60年。週末から今日にかけて日本を含むアジア各国で様々な集まりがもたれている。
 マスコミ各社も「節目」が好きな体質そのままに、例年よりも大きい紙面を割いて報道している。来年の今日、今年の反動で大幅にスペースを縮小されないことを今からお願いしておきたい。
 各紙の紙面を見ていて気になるのは、「終戦記念日」という言葉遣いだ。この言葉はすっかり定着したようで、多くの方たちには違和感が無いようだが、私にはどうもしっくりこない。敗戦から終戦に差し替えられて久しいが、私の子供の頃は、“普通に”敗戦記念日といわれていたものだ。
 敗戦ではなく終戦と言うのは、視線が国家レヴェルではなく民衆のものだから良いとする意見もあるが、私の眼には「敗戦」から「終戦」への移行と軌を一にして日本社会が「加害」から「被害」に力点を置くようになったと見えているので違和感を覚える。
 

夢の島の第五福竜丸

2005-08-14 11:50:37 | Weblog
 昨日、第五福竜丸展示館を訪れた。1954年、南太平洋のビキニ環礁で、水爆実験の「死の灰」を浴びたマグロ漁船の展示場だ。
 第五福竜丸は、東京湾の「夢の島」に保存されていた。そう、あのごみを捨て続けて出来た埋立地だ。ごみを埋めて作った土地を夢の島とは良く言ったものだが、高度成長期の真っ只中の1967年に「夢の島構想」を耳にして、田舎から上京して間もない私は、蝿や蛆がうようよいて悪臭が蔓延しているゴミ捨て場を勝手に想像して、「そんなところに公園やスポーツ施設を作っても絶対に行きたくない」と思っていた。
 30年後の今、夢の島はそんなイメージを一変して「夢の島公園」と呼ばれ、クルーザーを係留するマリーナ、それに熱帯植物園や各種スポーツ施設が立ち並ぶトレンディーな場所になっていた。ただ時折り、目の前を通るごみ収集車が、訪れる者にその場所が「ごみの島」であることを思い起こさせる。
 そんな中に「第五福竜丸展示館」があった。展示館と言っても大してカネをかけた造りではない。掘っ立て小屋同然の建物であった。まあ、そこに棄てられていたことを考えれば、これでも良しとしなければならないのかもしれない。
 夏休みで、敗戦記念日が近いというのに、訪れる者は数少なかった。
 中に入ると、いきなり巨大な物体が訪れる者を圧倒する。ちっぽけな人間の目には、総トン数140トン、長さ約30メートル、高さ約15メートルの第五福竜丸は、木造船とはいえかなりの迫力だ。だが、外洋の荒波にもまれれば、この程度の大きさの船は木の葉のようにもてあそばれてしまう。
 第五福竜丸の被爆時の乗組員の顔写真を見ると、皆若い。恐らくひと航海で大きく稼げる職場だ。体力がある内に稼いで早目に“陸(おか)に上がる”人たちが多かったに違いない。
 この船が建造された年が1947年。私と同い年だ。それを知り、余計親しみがわいた。そして、被爆したのが7年後の54年3月1日とある。被爆を伝える当時の新聞記事を読みながら“新聞少年(新聞記者になりたくて小さい頃から新聞を読むのが好きだった)”の記憶にはっきりとあの頃の状況が蘇った。大人たちが「魚が食べれんようになった」と騒いでいたのが子供心にショックであった。
 一緒に行ったパートナーがある展示品の前で足を止めたまましばらく動かなかった。見ると、涙をいっぱいためている。彼女が読んでいたのが、見崎漁労長が書いた手記。
 見崎さんが入院中にデパートの包装紙の裏側に書いた手記には、被爆現場(警戒区域外)を漁場に選んでしまった自責の念が書かれ、悔しさが随所に見られる。責任感が強く、正義感の塊である事が窺い知れる手記だが、その端々に彼の優しさがにじみ出ている。読み進むうち、あるところで私の目も止まったままになった。
 見崎さんが病床でTVを観ている情景だが、画面には買い物客で賑わうデパートでマイクを向けられた若い女性が感想を述べていた。「私だったら被爆した人とは結婚しないですね」正確な内容でなくて申し訳ないが、その女性はそのような主旨のことを言ったという。見崎さんは当時28歳の若さだ。あれ程の体験をした後、若い異性からこのような発言をされたのだ。その心中が穏やかなはずは無い。だが、彼は手記の中で、その女性を責めていない。また、それを報道してしまったTV局を恨む言葉も無い。
 私は自分が同じような体験をしたらどうなるか、と想像してみた。見崎さんの年齢で、いやこの年になっても、彼のように冷静に他人のことを思いやる気持ちで自分に降りかかったことを受け入れられるかと考えてみた。恐らく、彼のような姿勢は貫けないに違いない。それは人生観も違うから当然と言えば当然だが、いずれにしても凄い人だとしばらくその場を動けなくなった。
 展示館を出ると、すぐ近くの「バーベキュー広場」では炎天下の中、多くの家族連れと思われるグループがバーベキューを楽しんでいた。マリーナでは何隻かのクルーザーが出航準備をしていた。そんな光景を見て、親たちが子どもを連れて展示館に足を運び、ほんのひと時でもいい、50年前に起きたことを考えてくれればいいなと余計なお節介だが思ってしまった。

若者との付き合いのススメ

2005-08-12 13:19:11 | Weblog
 昨夜は東京駅近くの丸ビルの前に設けた「オープンカフェ」に顔を出した。NPOにインターンとして活動したいと集まってきた首都圏の大学に通う学生達が集まりを持っていた。
 平和や環境をテーマに活動するNPOだから、集まった学生達も、今の閉塞状況の中で何かしたいとの想いがある若者達だ。コーディネイターの仕切りで楽しそうに、また真剣に自分達のやりたいことを自己紹介を兼ねて話していた。
 10名ほどの集まりだったが、一人ひとりの目が輝きを持っていて、おじさんは嬉しくなった。時間がなかったので彼らと意見交換するチャンスはなかったが、自己紹介をした後ひと言だけ言い残して「後はHPを見てね」とその場を去った。
 世のおじさんおばさんは、「最近の若いモンは」などと言って、若者を受け入れようとしない人が多いが、おじさんの僕から言わせてもらえば「最近の若くないモン」よりもはるかにやる気があって、実行力もある。欠けているのは経験と自信だ。だからそこをわれわれが補ってやれば力を発揮できるはずだ。
 「浅井さんは若者に迎合する」との意見を耳にしないわけでもないが、私は若い時に多くの先輩からかわいがっていただいたこともあり、これからも常に若者の応援団であり続けるつもりだ。これをお読みのご同輩にも周りを見渡して、周囲の若者達と今一度関係を再構築されることをお勧めしたい。

馬鹿馬鹿しい噺を一席

2005-08-11 01:06:06 | Weblog
【前口上】私が塾長を務めるメディア塾の生徒からのメールを見て、かつて関わりがあった会社の名前があり、思い出話を書いてみた。その会社は、リンガフォン。語学教材会社だ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 昔々、エゲレスの倫敦というところで本当にあった話だ。それも、私が24,5の頃のこと。そう、まだ腹筋はくっきりと5段に割れ、上半身はぷち・マッチョ、そして全身からは精気があふれ出ていた。だが、それは本人の勝手な思い込みというやつ。傍から見れば、東洋の果てから来たちっぽけな猿が肩で風を切って彼の地を歩いていただけのことだった。

 若かりし頃、ひょんなことからリンガフォンの本社に出入りをするようになった。当時、リンガフォンは語学教材販売会社としては、世界で群を抜いており、当時アクション映画の代名詞にまでなった「007」で教材が使われたこともあり、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いのある会社だった。日本においても、デパートなどでの店舗販売が成功し、右肩上がりで売上を伸ばしていた。

 私の仕事は、極東担当重役B氏の「大和言葉」のキョージュ。その御仁、50半ばを過ぎてから勉強し出したのだが、キョージュのつぼを心得た教え方にめきめきと上達。それと同時に私のリンガフォンにおける評価もうなぎのぼりと相成った。でも、本当は生徒の能力が凄かったのだ。何しろ大和言葉を習い始めて一年半で使うようになった教科書が、「甘えの構造」(土居健郎)。教え子(?)B氏の頭の回転はとにかく人並み外れており、時々自分で目を回すほどであった(そんなはずないか)。

 B氏の私への信頼は絶大なもので、日本で作られるパンフレット類は全て倫敦の本社に送らせ、私の目を通さなければ使わせないという徹底したもの。私が中東に取材に行っている間にそれらのパンフレットが山積みになったものだ。

 ただし、私は別にリンガフォンの社員ではなかった。当時まだ世間知らずの若造だった。 

 26歳で帰国すると、ホテルオークラで昼食会が待っていた。リンガフォン・ジャパンの女社長以下、重役陣、それにB氏が私を饗した。その後、当時溜池にあった日本支社と新宿駅前にあった英会話学校に案内された。

 その日の昼食会は、日本支社の幹部への面通しだったようで、後日B氏から正式に学校長への就任要請がなされた。同時に、取締役のポストも確約された。私はただ驚くばかりであった。何せ私はまだ26。それもビジネスの経験もほとんどなかった。と同時に、「可能性に賭ける」欧米のビジネスの凄味を見た気がした。結果的に、私はマスコミで働きたくてリンガフォンに入社せず、AP通信に入ったが、もしやB氏から誘われるままに入社していても私のことだ、きっとなんかやらかして首になっていた可能性の方が高い。









ABCキャスターの死

2005-08-09 19:01:11 | Weblog
 米TV界を代表するアンカーマン(ニュースキャスター)である、ピーター・ジェニングズ氏が亡くなった。ジェニングズ氏は、三大ネット(CBS、ABC、NBC)の「ニュース戦争時代」を生き抜いたアンカーマンの1人で、CBSのダン・ラザー氏と並んで米TVニュース界の「顔」と称せられた。
 今年4月、病魔に冒されていることを告白し、闘病生活に入ることを宣言したのを最後に(私が画面で見る限りにおいては)彼のアンカーマンとしての姿を見ることはなかった。
 ジェニングズ氏はABCに入社して数年後、レバノンに特派員として派遣された。70年代半ばまで7,8年間、ベイルート支局長を務めており、米マスコミ界の数少ない「知アラブ派」ジャーナリストであった。その経験から生まれた姿勢だろうが、彼は常に「コインには2つの面がある」と言い続けた。9.11で全米が「イスラム憎し」で熱くなっている時も、彼は冷静な姿勢を崩さなかったのが印象的だった。
 私が彼と最初に会ったのは、ジャーナリストがたむろするベイルートのホテルのバーであった。AP通信特派員の紹介だったように記憶しているが、互いの紹介が終わると、私の取材の内容に興味を持ったようでいろいろたずねてきた。その話の持って行き方に「プロ」を感じたのを今もまだ良く覚えている。
 その後も幾度か会うことはあったが挨拶をする程度で話をじっくりする機会には恵まれなかった。
 今米マスコミ界は「報道の自由」を巡って大揺れだが、このような時期だけにジェニングズ氏の死が惜しまれてならない。

お詫びと訂正

2005-08-09 18:11:51 | Weblog
 「図上想定訓練」と題したお知らせの中で、「鬼の首を取った」とすべきところを「親の首」となっていると数名の読者から指摘がありました。その1人はイギリス人で、これからは「日本語を母国語」等と言えないねと冗談交じりに言われてしまいました。
 いやいやお恥ずかしい限りです。「手書きだったら…」等と言い訳したいところですが、自分で推敲して発表している文章です。言い訳の仕様がありません。お詫びして訂正させていただきます。

図上想定訓練

2005-08-08 01:16:54 | Weblog
 ここのところ首都圏を地震が揺らし続けている。昨夜も、福島を震源とする地震で私の住む埼玉県南部は「震度2」を観測した。と言っても、私が勝手に推測した震度なのでこれについては信用しないで頂きたい。
 これだけ地震が続発すると、週刊誌や「おじさん新聞」が黙っているはずがない。「大震災」「富士山噴火」「地震雲」の大見出しが踊る広告が目立つようになった。しかし、これなどは、「悪徳商法」と何ら変わらないやり方だ。根拠のない数字や訳の分からない評論家や研究家の言葉を適当に並べて不安を煽る記事を作り上げている。第一、大地震のような天災の多くは、残念ながら現代科学では予測できない事が多すぎる。民間の予測の多くは、「好みの結論」に導くために都合のいい情報を引っ張ってきて組み立てている場合が多い。それこそ街の手相見と同じで「当たるも八卦、当たらぬも八卦」の類なのだ。だから、たまたま当たったりすれば、「鬼の首を取ったかのように」大騒ぎする。
 そんないい加減な情報よりもいざという時頼りになるのは、やはり身の周りの家族や隣人である。阪神大震災の際も建物に埋もれた住民の8割が、周辺の人たちに助けられた。公的救助機関を当てにする人も多いが、広範囲にわたる地域に激甚災害が起これば、救急救助のプロ達では人数が少なすぎる。
 修羅場で生き延びる秘訣は、想像力である。「見えない場所で何が起きたか」「次に何が起きうるか」…そういったことを想像して「次」に備えることが冷静さを生み、結果的に命を守ってくれることにつながる。人間がパニックになる主たる原因は、不安である。特に情報が少なく、自分が置かれた状況が分からないと、余裕を失い、危険な状況に自らを追いやってしまうことがある。
 平常時の訓練も、このような点から、少ない情報を冷静に読み取り、想像力を働かせて取りうる行動を考えておくことが必要である。それが、ここのところわれわれが広めようとしている「図上想定訓練」だ。
 今月25日には、JR武蔵浦和駅前のラムザタワーで「さいたま防災広場(主催は東京ガスなど)」が開かれるが、そこで私は「目からウロコ『親子災害想定訓練』」を指導する。皆さんの中で興味のある方は、是非猛暑の中だが足を運んでいただきたい。自由研究を終えていない子供にも喜ばれること間違いなし!

猛暑から彼の地を考える

2005-08-06 12:05:15 | Weblog
 連日の暑さだ。しかし、周りの人たちは、私の元気に動き回る姿を見て「暑さは大丈夫?」と声をかけてくることはない。私がよほどの暑さ知らずと思っているようだ。
 そんなことはない。私は、35度を超えると暑いと感じるし、熱帯夜は好きではない。どんなに暑くても夜さえ多少の涼風があれば大丈夫なのだが、陽が落ちてからも30度近く気温があると、鬱陶しさを感じる。
 「これまでに体験した気温は?」と聞かれる事がよくある。暑さと聞くと、インド、イラク南部、エジプトの砂漠地帯と国の名は浮かぶが、なんと言ってもイラン南部の砂漠地帯の暑さは格別だ。きちんと温度を測った訳ではないが、気温は確実に50度を超えて、その暑さは肌を刺すというよりも、露出した肌の細胞を一つひとつ破壊していくと言った方が正確か。
 そんな熱さだから軍用車両に乗る取材は地獄の体験となる。ほとんどの戦車や装甲車は旧式のものが多く、エアコンを装備していない。ペンダントやメガネなどで金属製のものを付けていようものなら熱くて5分と装着していられない。トラックや運搬車でも、多少はましだが、暑さはさして変わらない。最初にトラックに乗ったとき、窓を開けようとしたら慌てて止められた。熱風で火傷をしてしまうからだ。だから、窓を閉めたまま移動せざるを得ない。車中はさながら「高温サウナ」だ。当然のことだが、全員無言となる。
 彼の地の猛暑は今サマーワで駐屯する自衛隊の諸君を想起させる。イランより多少はましだとは思うが、それでも日中の気温は50度前後にまで上昇する。まあ、隊員は唯一の仕事であった「水配り」をする必要がなくなり、最近は宿営地の外にほとんど出ていないから、本当の「地獄の苦しみ」は味わっていないが、周囲は日増しに不穏な空気が不気味なものになりつつある。いつなんどき、襲撃を受けるやもしれぬ。万が一、そのような状況に置かれれば、エアコンが使えなくなるし、死への恐怖とあいまって暑さが身体の芯にまで染み渡ってくるはずだ。そうなる前に撤退することになればいいのだが、小泉さんが政権を握っている限り、早期撤退はありえない。
 7月に自衛隊の車列に仕掛け弾が襲ってから隊員の間に不安な表情とひそひそ話が増えたという。そのひそひそ話の話題は今、日本で「解散総選挙」が行なわれるかどうかだそうだ。隊員の少なくない人たちが、民主党が政権を握り、自衛隊の早期撤退が実現されることを内心望んでいると聞く。
 ただ、サマーワの自衛隊員には悪いが、ここのところの言動を見ていると、たとえ「岡田政権」が誕生したとしても自衛隊の即時撤退が実現するようには私は思えない。岡田さん、ブッシュ政権の圧力に悩まされ、政権内の意見の違いにおたおたして舵取りをどうして良いか分からなくなる可能性が高いからだ。
 まだまだ続く猛暑に自衛隊員諸君は、ただひたすらに任務完了日を指折り数えるのが唯一の仕事という屈辱的な役割をただ黙々とこなしていただくしかない。