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日々の出来事から国際情勢まで一刀両断、鋭く斬っていきます。コメントは承認制です。但し、返事は致しませんのでご了承下さい。

馬鹿馬鹿しい噺を一席

2005-08-11 01:06:06 | Weblog
【前口上】私が塾長を務めるメディア塾の生徒からのメールを見て、かつて関わりがあった会社の名前があり、思い出話を書いてみた。その会社は、リンガフォン。語学教材会社だ。

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 昔々、エゲレスの倫敦というところで本当にあった話だ。それも、私が24,5の頃のこと。そう、まだ腹筋はくっきりと5段に割れ、上半身はぷち・マッチョ、そして全身からは精気があふれ出ていた。だが、それは本人の勝手な思い込みというやつ。傍から見れば、東洋の果てから来たちっぽけな猿が肩で風を切って彼の地を歩いていただけのことだった。

 若かりし頃、ひょんなことからリンガフォンの本社に出入りをするようになった。当時、リンガフォンは語学教材販売会社としては、世界で群を抜いており、当時アクション映画の代名詞にまでなった「007」で教材が使われたこともあり、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いのある会社だった。日本においても、デパートなどでの店舗販売が成功し、右肩上がりで売上を伸ばしていた。

 私の仕事は、極東担当重役B氏の「大和言葉」のキョージュ。その御仁、50半ばを過ぎてから勉強し出したのだが、キョージュのつぼを心得た教え方にめきめきと上達。それと同時に私のリンガフォンにおける評価もうなぎのぼりと相成った。でも、本当は生徒の能力が凄かったのだ。何しろ大和言葉を習い始めて一年半で使うようになった教科書が、「甘えの構造」(土居健郎)。教え子(?)B氏の頭の回転はとにかく人並み外れており、時々自分で目を回すほどであった(そんなはずないか)。

 B氏の私への信頼は絶大なもので、日本で作られるパンフレット類は全て倫敦の本社に送らせ、私の目を通さなければ使わせないという徹底したもの。私が中東に取材に行っている間にそれらのパンフレットが山積みになったものだ。

 ただし、私は別にリンガフォンの社員ではなかった。当時まだ世間知らずの若造だった。 

 26歳で帰国すると、ホテルオークラで昼食会が待っていた。リンガフォン・ジャパンの女社長以下、重役陣、それにB氏が私を饗した。その後、当時溜池にあった日本支社と新宿駅前にあった英会話学校に案内された。

 その日の昼食会は、日本支社の幹部への面通しだったようで、後日B氏から正式に学校長への就任要請がなされた。同時に、取締役のポストも確約された。私はただ驚くばかりであった。何せ私はまだ26。それもビジネスの経験もほとんどなかった。と同時に、「可能性に賭ける」欧米のビジネスの凄味を見た気がした。結果的に、私はマスコミで働きたくてリンガフォンに入社せず、AP通信に入ったが、もしやB氏から誘われるままに入社していても私のことだ、きっとなんかやらかして首になっていた可能性の方が高い。