1995年に脳梗塞で倒れ、政界から身を引きながらも影響力を保持し続けたサウディ・アラビアのファハド国王が1日、首都リヤドの病院で息を引き取った。
ファハド氏は82年の即位以来、それまでの親米路線を「ワシントンにベッタリ」路線に変更、アメリカの中東政策の先導役を務めてきた。そのやり方は、国内の世論を「親米」と「反米」に二分、現在のサウディのみならず、湾岸地域の混乱を招いた主因と言える。
即位してすぐにファハド国王がしたことはあまり知られていないことだが、フセイン元イラク大統領との「作戦会議」だった。今でこそフセイン氏は、「哀れな末路を歩む独裁者」となっているが、その頃は、「中東最強の精鋭陸軍を持つ軍事大国」イラクの新星であり、イランの「ホメイニ革命」の波及を恐れる湾岸諸国にとっては、頼りがいのある「独裁者」であったのだ。当時、イラクは隣国イランと戦争をしており、戦況はイラクやその背後に「応援団」として控えていたサウディやクウエートなどの湾岸諸国にとって不利なもので、態勢の立て直しが急務とされていた。
それを支援したのが、欧米諸国、特にアメリカだった。ラムズフェルド現国防長官がイラクを訪れてフセインと抱き合っていたのもこの頃だ。ビン・ラーディン氏とアメリカCIAが親密な関係にあった頃でもある。
1988年、イラン・イラク戦争を何とか「引き分け停戦」に持ち込んで「ホメイニ革命の防波堤」としての役割を果たして意気揚々のフセイン氏を待っていたのは、湾岸諸国からの意外に冷たい反応だった。2年後に起きた「イラク軍のクウエート侵略」は、そんな事情から起きてしまったのだが、それに対してファハド国王が取った措置は、クウエートに続いてサウディもフセイン軍に攻撃されるのでは、とアメリカに泣きつくことだった。そして、“聖地”サウディ・アラビアに米軍を招じ入れてしまったのだ。
ただ、当時、このことはあまり重大なことと受け取られなかった。日本だけでなく欧米のマスコミでも大きな話題にならなかった。私は今でもはっきりと記憶しているが、TBSの報道生番組に解説者として出演している時、スタジオでこの情報を聞き、「これは、へたをしたら5年後、10年後に大変なことになる。もしかしたら王制がなくなっているかもしれない」といったコメントをした。王制の部分についての予測は外れているが、本質を捉えた発言だと今でも自負している。その番組のキャスターをしていた筑紫哲也さんにも私の説得力不足からあまり重要と思ってもらえず、話を流されてしまった。ただ、これを読んでいるTBS関係者がいたら、湾岸戦争の検証をする意味でもその頃の私の出演番組を見ていただきたい。
この話は今では多くの人が、「ビン・ラーディンを反米に変えさせたファハドの重要な政策の誤り」として認めていることである。そう、「聖地を汚された」と考えたビン・ラーデン氏たちは、米軍をサウディから追い出すまで戦うことを決意したのだ。その結果が、アル・カーイダ(及び、その支援グループ)の活動であり、イラクにおける反米闘争だ。
一方で、親米路線を選択した人たちは、今も大きな不安を抱えながらも膨大な資産を味方に支配階級の立場を享受している。形だけの、欧米からの「民主化要求」は適当に聞き流し、古い体制を保持し続けているのだ(註参照)。これは、ファハド国王からアブダッラ皇太子にバトンタッチ(すでに、ここ10年は実質的にはアブダッラ氏が舵取りをしてきた)されても大きく変わることはないはずだ。
忍び寄る「ビン・ラーディン」の陰に、支配階級はその資産の多くを欧米に移して“その時”に備えている。多くの子女は、欧米特にアメリカで教育を受け、その後も帰国せずに現地に住み続けている。
そんな「分裂国家」と化したサウディは今後どのような道を歩むのか。繰り返しになるが、アブダッラ氏が全面的に実権を握っても本気で国を変えるつもりがないのだからこのまま崩壊への道を転がっていくような気がしてならない。最悪のシナリオは、ワッハーブ派の青年層とアル・カーイダなどのグループが手を握り、軍事革命を起こすことだろう。そうなれば、石油市場は大混乱を来たし、日本にも間違いなく「石油ショック」が襲ってくる。それを食い止めるには、若手の(と言っても、サウディの場合、50代、60代)指導者を起用することだが、現段階では、そのような人物の名前は挙がってきていない。
(註)最後に現段階におけるサウディの「実力者」をご紹介しておこう。
アブダッラ皇太子:時期国王が決まっています。ファハド国王の異母弟であることから“純粋さ”が問題にされた時期もあったが、ほぼ政権を掌握している。24年生まれが有力説。
サルタン王子:国王の弟です。王位継承権はアブダッラ皇太子の次に控える。28年生まれとされている。19歳で知事に任命され、35歳の時、国防大臣に就任している。その後40年以上国防相の地位にあり、米英からの武器買い付けの“手数料”で莫大な資産を築いたと噂されている。国軍の近代化の功労者などと言われているが、武装勢力に手を焼く兵士の姿を見ていると、「戦える軍隊」とは言い難いようだ。
ナイーフ王子:国王の弟で、サルタン王子に告ぐ王位継承権を有している。34年生まれで、75年から内務大臣を務めている。パレスチナの自爆攻撃を支援する活動をしてきたことで知られ、9.11についてもこれまで微妙な発言を続けてきたため、ブッシュ政権の受けはよくない。
サルマン王子:35年生まれ。国王の弟で王位継承権はナイーフ王子に次ぐが、人柄などから将来の国王というよりも王室内の調整役の長老と言った方がいいであろう。なにせ、サウディ王室には、7,000人の王子がいると言われているので、彼のような存在は貴重だ。43年間首都リヤドの知事を務めている。
以上、簡単な「サウディの実力者」紹介でした。これを見ればお分かりのように、政治は全てと言っていいほど王室に握られています。それも、要職の人選は選挙で決まるのではなく、国王と数名の実力者たちが「密室」で決めてしまい、民意は何ら政治に反映されることはありません。
ファハド氏は82年の即位以来、それまでの親米路線を「ワシントンにベッタリ」路線に変更、アメリカの中東政策の先導役を務めてきた。そのやり方は、国内の世論を「親米」と「反米」に二分、現在のサウディのみならず、湾岸地域の混乱を招いた主因と言える。
即位してすぐにファハド国王がしたことはあまり知られていないことだが、フセイン元イラク大統領との「作戦会議」だった。今でこそフセイン氏は、「哀れな末路を歩む独裁者」となっているが、その頃は、「中東最強の精鋭陸軍を持つ軍事大国」イラクの新星であり、イランの「ホメイニ革命」の波及を恐れる湾岸諸国にとっては、頼りがいのある「独裁者」であったのだ。当時、イラクは隣国イランと戦争をしており、戦況はイラクやその背後に「応援団」として控えていたサウディやクウエートなどの湾岸諸国にとって不利なもので、態勢の立て直しが急務とされていた。
それを支援したのが、欧米諸国、特にアメリカだった。ラムズフェルド現国防長官がイラクを訪れてフセインと抱き合っていたのもこの頃だ。ビン・ラーディン氏とアメリカCIAが親密な関係にあった頃でもある。
1988年、イラン・イラク戦争を何とか「引き分け停戦」に持ち込んで「ホメイニ革命の防波堤」としての役割を果たして意気揚々のフセイン氏を待っていたのは、湾岸諸国からの意外に冷たい反応だった。2年後に起きた「イラク軍のクウエート侵略」は、そんな事情から起きてしまったのだが、それに対してファハド国王が取った措置は、クウエートに続いてサウディもフセイン軍に攻撃されるのでは、とアメリカに泣きつくことだった。そして、“聖地”サウディ・アラビアに米軍を招じ入れてしまったのだ。
ただ、当時、このことはあまり重大なことと受け取られなかった。日本だけでなく欧米のマスコミでも大きな話題にならなかった。私は今でもはっきりと記憶しているが、TBSの報道生番組に解説者として出演している時、スタジオでこの情報を聞き、「これは、へたをしたら5年後、10年後に大変なことになる。もしかしたら王制がなくなっているかもしれない」といったコメントをした。王制の部分についての予測は外れているが、本質を捉えた発言だと今でも自負している。その番組のキャスターをしていた筑紫哲也さんにも私の説得力不足からあまり重要と思ってもらえず、話を流されてしまった。ただ、これを読んでいるTBS関係者がいたら、湾岸戦争の検証をする意味でもその頃の私の出演番組を見ていただきたい。
この話は今では多くの人が、「ビン・ラーディンを反米に変えさせたファハドの重要な政策の誤り」として認めていることである。そう、「聖地を汚された」と考えたビン・ラーデン氏たちは、米軍をサウディから追い出すまで戦うことを決意したのだ。その結果が、アル・カーイダ(及び、その支援グループ)の活動であり、イラクにおける反米闘争だ。
一方で、親米路線を選択した人たちは、今も大きな不安を抱えながらも膨大な資産を味方に支配階級の立場を享受している。形だけの、欧米からの「民主化要求」は適当に聞き流し、古い体制を保持し続けているのだ(註参照)。これは、ファハド国王からアブダッラ皇太子にバトンタッチ(すでに、ここ10年は実質的にはアブダッラ氏が舵取りをしてきた)されても大きく変わることはないはずだ。
忍び寄る「ビン・ラーディン」の陰に、支配階級はその資産の多くを欧米に移して“その時”に備えている。多くの子女は、欧米特にアメリカで教育を受け、その後も帰国せずに現地に住み続けている。
そんな「分裂国家」と化したサウディは今後どのような道を歩むのか。繰り返しになるが、アブダッラ氏が全面的に実権を握っても本気で国を変えるつもりがないのだからこのまま崩壊への道を転がっていくような気がしてならない。最悪のシナリオは、ワッハーブ派の青年層とアル・カーイダなどのグループが手を握り、軍事革命を起こすことだろう。そうなれば、石油市場は大混乱を来たし、日本にも間違いなく「石油ショック」が襲ってくる。それを食い止めるには、若手の(と言っても、サウディの場合、50代、60代)指導者を起用することだが、現段階では、そのような人物の名前は挙がってきていない。
(註)最後に現段階におけるサウディの「実力者」をご紹介しておこう。
アブダッラ皇太子:時期国王が決まっています。ファハド国王の異母弟であることから“純粋さ”が問題にされた時期もあったが、ほぼ政権を掌握している。24年生まれが有力説。
サルタン王子:国王の弟です。王位継承権はアブダッラ皇太子の次に控える。28年生まれとされている。19歳で知事に任命され、35歳の時、国防大臣に就任している。その後40年以上国防相の地位にあり、米英からの武器買い付けの“手数料”で莫大な資産を築いたと噂されている。国軍の近代化の功労者などと言われているが、武装勢力に手を焼く兵士の姿を見ていると、「戦える軍隊」とは言い難いようだ。
ナイーフ王子:国王の弟で、サルタン王子に告ぐ王位継承権を有している。34年生まれで、75年から内務大臣を務めている。パレスチナの自爆攻撃を支援する活動をしてきたことで知られ、9.11についてもこれまで微妙な発言を続けてきたため、ブッシュ政権の受けはよくない。
サルマン王子:35年生まれ。国王の弟で王位継承権はナイーフ王子に次ぐが、人柄などから将来の国王というよりも王室内の調整役の長老と言った方がいいであろう。なにせ、サウディ王室には、7,000人の王子がいると言われているので、彼のような存在は貴重だ。43年間首都リヤドの知事を務めている。
以上、簡単な「サウディの実力者」紹介でした。これを見ればお分かりのように、政治は全てと言っていいほど王室に握られています。それも、要職の人選は選挙で決まるのではなく、国王と数名の実力者たちが「密室」で決めてしまい、民意は何ら政治に反映されることはありません。