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日々の出来事から国際情勢まで一刀両断、鋭く斬っていきます。コメントは承認制です。但し、返事は致しませんのでご了承下さい。

松葉杖物語 リハビリ

2005-06-11 22:03:13 | Weblog
 遂に自転車に乗った。ギブスが取れたからには自転車に乗るべしと自分で勝手に決めて、骨折してから初めて自転車にまたがった。
 サドルを低くしてペダルを踏むと、いやいや何ら問題なく自転車は進んでいく。右足に力は入れられないから左足一本でこぐ感じだが、いやあ、自転車は素晴しい。これまで松葉杖でヨチヨチ歩いていたのとは、スピードが全然違う。あまりの速さに目が回りそうだ(それはちょいと大げさ?)。
 だが上り坂はさすがにきつかった。明日からは上り坂をうまく上る戦略(?)を練ることにしよう。日一日と回復が感じられ、それと同時に、身体の一つひとつの部位を動かせることのありがたみを確認できる。嗚呼、骨折して良かった。てなわけないか。
 そして夜は近くの公園で「1人リハビリ」。まだギブスが取れたばかりで病院の指導によるリハビリは大分後になりそうなので、自分で右脚の機能回復を図ることにした。
 公園までは松葉杖に頼ったが、着いてからはストレッチを皮切りに様々な有酸素運動をやり、そしてグルグルと公園の明るいところを歩行訓練。我ながら大分自然の歩き方になった。風太君に差をつけたとご満悦。
 明日はメディア塾の開講日。どこまで歩けるか今から楽しみだ。

レジ袋に視る新聞社の矛盾

2005-06-11 10:27:08 | Weblog
 昨日、マスコミは「スーパーのレジ袋、有料化へ」と騒ぎ立てていた。
 こんな話、当然である。というか、遅きに失している。もうゴミ問題は、この日本列島、にっちもさっちもいかない状態なのだ。そんなことは消費者の一人ひとり、皆分かっているはずだ。自分の周りにゴミが見えなければそれで善しとする国民性の我々は、お得意の「見て見ぬ振り」をしているだけだ。
 見て見ぬ振りをしているのは消費者だけではない。環境問題の旗振り役をしている新聞社自らが大量のゴミをばら撒いているのにその辺りのことは「見て見ぬ振りをして」記事にすることはなく、論点を摩り替えてごまかしている。紙面では大上段から“悪質な業者”や“やる気のない行政”、“不道徳な消費者”をバッサバッサと小気味よく切りまくっているが、ギター侍風に言えば、「ゴミを出さないようにしなければならないのは、ア・ン・タたちですからあ!残念!」となる。
 それはまず、毎日配られる新聞に折り込まれるチラシの多さに代表される。その量たるや、週末前ともなれば、本紙の何倍もの厚みとなる。それが各家庭に配られてくるのだ。あまりの凄さに私は大分前からチラシは折り込まぬようお願いしている。
 本紙とて同様で、紙面の約半分は広告だ。「資本主義社会だ、広告宣伝は当然の商行為だ」と言われる方も多いだろう。だがしかし、もう大都市圏のゴミ捨て場は悲鳴を上げている。限界だ。「いや、リサイクルしているから」との反論もあるが、なんでもリサイクルすればいいというものではない。リサイクルにどれだけの燃料や薬品が必要かも考える必要があるのだ。私が子供の頃(1950年代後半)、アメリカの新聞が5,60ページもあると聞いて、何せ当時の日本の新聞が、私が田舎に住んでいたこともあり、10ページもなかった状態で、単純な田舎のボーズは「資本主義大国」に畏敬の念に近いものを感じたものだ。しかし、今日辺りの朝日の首都圏版をみると、付録を加えれば56ページある。今の私にはそれは、“世界大国”を実感するよりも嫌悪感に近いものすら感じられる。
 さらに、今日の新聞も大事に包まれて配達されてきたが、雨の日はビニール袋に入ってくる。別に新聞が少し濡れていても私は気にならぬのだが、皆さんはどうだろうか。これから長く続く梅雨の間、毎日ビニール袋が使われることになるはずだ。その量たるや膨大なものになる。
 これに新聞社が自問自答をして「包むべきか包まざるべきか、それが問題だ」と悩む姿勢があればまだ救いはあるが、新聞社の人間に聞くと、そんな疑問は社内に存在しないという。いや、議論すらされていないという。
 新聞は社会の公器と言われるが、新聞社は、「公器」であれば他の企業よりも反社会的なことをやっても許されると勘違いしているのではないだろうか。と言うのは、新聞社は、国有地払い下げから特定宗教との癒着、価格談合など、この他にもあまりに多くの矛盾を抱えているからだ。環境問題で言えば、記事で合成洗剤の危険性を指摘しながら、それら合成洗剤の広告を許しているだけでなく、販売拡張に洗剤をばら撒いている。この点については、新聞各社は、「販売店がやっていることですから」と責任逃れするかもしれぬが、本気で「川の水をきれいにしたい」と考えるのなら、販売店を指導することもできるはずだ。
 私は何も「新聞社だから100%清廉潔白に生きろ」と言っているわけではない。誰でもどんな組織でも真っ当に生きようと思ってもこの世知辛い世の中だ、背に腹は変えられず、矛盾を抱えてしまうこともあるだろう。かく言う私とて脛を見てもらえれば分かるが、傷だらけだ。だが、肝心なのはその時、その自己矛盾を認識しているかどうかだ。そしてそれを自分でどう抑制・管理するかだ。そしてさらに、間違いがあればそれを真摯に受け止めることができるかどうかだ。
 日本の新聞を見ていると、その辺りがいい加減なまま組織が巨大化したため、今や肝心の自分の足下すら見る事がままならなくなった巨象を見る想いがする。ここらで一つ立ち止まり、「正義を振り回す」前に自らの姿勢を正さないと、いつの日か自己矛盾に「自分で自分の首を絞める状態」に苦しむことになるような気がする。余計な心配と言われるかもしれないが、私にとって、また社会にとってなくてはならない新聞だけにここで苦言を呈しておく。

イジメとガキ大将

2005-06-11 01:30:10 | Weblog
 ある小学生と話していると、学校におけるいじめの話になった。彼女のクラスのいじめられっ子は、肥満児だそうだ。そのいじめ方も、単純に体型をからかうのではなく、たとえばその子の触ったものに触ると「デブが移る」と大騒ぎするのだという。そして、その子が歩いた後を歩いても「移る」と騒ぎ立てるらしい。子ども達にはよくある話と大人は片付けがちだが、このいじめられる子の気持ちを考えたらいたたまれなくなる。恐らくその子は親にも悩みを明かせず、「目の前が真っ暗な」毎日を送っているのではないかと思われるのだ。
 私に話してくれた子は私の目を気にして作り話をしたのか、それとも本当に勇気を振り絞って実行したのか分からないが、「その子をかばってあげようとしたら私もいじめられそうになってやめた」と続けた。確かにいじめっ子達の昔からの常套手段だが、イジメの対象をかばう子供が出てくると、そちらに矛先を向ける。
 昔を懐かしむわけでもないが、昔はそのような状況でガキ大将の存在が光ったものだ。ガキ大将がひと言、「止めろよ」と言えば済んだのだ。私の場合、一時期ガキ大将だったが、小学校2年生の時に大病をして学校を休みがちになり、ボスの座から必然的に降ろされてしまった。そんな“不遇時代”のある時、朝鮮人の級友をかばったために、私はかつての子分達に「浅井はチャンコロ」とからかわれ続けて悔しい思いをした。悔しい思いは、今から思うと、子分達から辱めを受けたことから来るものであったような気がするが、もしかしたらそれと同じ位、朝鮮人と言われた事が悔しかったのかもしれない。その時、ガキ大将がひと言声をかけてくれなかったら私は力任せにいじめっ子達を叩きのめしていただろう。ケンカは相当強かったからもしかしたら「新聞沙汰」になっていたかもしれない。
 だが現代社会においては、ガキ大将の存在は稀有で、今回のケースもそんな解決の仕方を望めそうにない。話を聞く範囲では学校側に問題解決能力があるとも思えない。来週もう少し詳しい話を聞いて、生死に関わる状態と判断したら何らかの行動を起こすつもりだ。