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日々の出来事から国際情勢まで一刀両断、鋭く斬っていきます。コメントは承認制です。但し、返事は致しませんのでご了承下さい。

天使の微笑み

2005-06-05 23:10:54 | Weblog
 今朝は家の中をギブスは付けたままだが、松葉杖に頼らず歩いてみた。二本足で歩けることのありがたみと楽しさをかみしめる。なかなかのカンドーだ。レッサーパンダの風太君の気持ちが分かった気がした(ん?)。
 所属するヴォランティア・グループ「ACTNOW」の活動に参加するため朝9時前、家を出た。さすがに外歩きは松葉杖なしには無理だ。1ヶ月前は50メートル歩くと痛かった手の平もタコができたせいか、最近は2、300メートル位連続して歩けるようになった。
 しかし相変わらず街行く人は「社会的弱者」に無頓着だ。今朝も私の前に飛び出す人がいて、私がよろけながら「ウップス」と言うと、変な顔をして私を睨むだけで謝りもせずに先を急いで行ってしまった。ウップスというのは別に酔っ払って吐きそうになっているわけじゃなく、自分も相手も緊張させない私の驚きの表現方法だからそんな顔をして見ないで欲しいものだ。いや、それよりも謝って欲しい。
 「ボランティア見本市」会場がある川口駅前に着くと、オー、結構な人出だ。松葉杖生活者は人ごみが苦手である。ぶつかられないよう歩行速度を落として前に進むことにする。
 イヴェントは、川口市がヴォランティア活動への市民の理解を深めようと毎年行なっているもので、ACTNOWも「店」を出し、活動紹介をしている。
 副代表で防災専門家の石塚が、どこからせしめてきたのか、ぬいぐるみを大量に用意してきた。昨年「来店者」が少なかったからと、客寄せに考えたのが、「ぬいぐるみプレゼント」。黄色い大きな箱を作りそこに100個位のぬいぐるみが入っている。子供に、箱に作った穴に首を突っ込んで好きなぬいぐるみを取らせようという趣向だ。
 「好きなのが奥のほうにあって取れないよう」と訴える子ども達には、私の松葉杖を渡し、「へへ、UFOキャッチャーならぬ松葉杖キャッチャー」とダジャレを言うが、子ども達の関心は箱の奥にある。私の「オヤジギャグ」は完全に滑ってしまった。
 ぬいぐるみ取りに夢中になっている子ども達の親には、「さあ、これを機会に家族で地震のことを話し合ってみましょうね」とパンフレットを渡す。
 時間が経つにつれ、子ども達の言動の傾向が気になった。また、同様に同伴の親達に対しても疑問を抱いた。さっきからぬいぐるみをもらっていく子達の半分以上が、お礼を言わないのだ。親もまたそれをとがめる場合が非常に少ない。子供しかいない時は「あれ、ありがとうは?」と声をかけられるが、さすがに親がいる前では言いにくい。
 しかし、2歳か3歳位の男の子が、お気に入りのぬいぐるみがなかなか取れなくて悪戦苦闘している姿を見ていたら、たまらなく可愛くていとおしくて、不躾な親達に抱いていた不満はどこぞに消えてしまった。その子の親は私たちに気を遣って、近くにあるぬいぐるみをさして「もうそれで我慢しなさい」と言うのだが、その子は妥協をしないで頑張った。そして遂にお気に入りの子犬のぬいぐるみを手にした。それだけでも充分に可愛いのに余程嬉しかったのだろう。その子はぬいぐるみにほおずりをして微笑んだのだ。他のメンバーと共に、その子の表情のあまりの可愛さに歓声を上げてしまった。私は今日一日、その子の表情を思い出すだけで穏やかな気持ちになる事ができた。昔、ある著名な教育評論家が「我が子の2,3才の頃に見せる笑顔は宝物。大事に心にしまっておくように」と言っていたように覚えているが、ホント、あの表情こそ、天使の微笑みと呼んで間違いはない。

松葉杖物語 6.4

2005-06-05 01:27:09 | Weblog
 驚異的な回復だ。今日は折れた右足を軽く床について松葉杖なしで歩いてみた。数日前には軽い痛みがあったが、今日は痛みがない。と言っても長距離を歩くには無理がある。仕事場に行くには松葉杖が必要だ。
 今日も街行く人たちは「松葉杖物語」への話題提供に協力的だった(!?)。
 先ずは、「せっかちニッポン人」の“お世話”になった。
 10数メートル先の信号が赤に変わったので横断歩道を渡ろうとすると、目の前に車が割り込んできて横断歩道いっぱいに停車。にらんでも後ろに下がる気配もない。その運転手にとって5,6メートル先に車を止めることがどれほど重要なのだろう。私には理解不能だ。
 そして駅に着き、上りエスカレーターを降りた途端、今度は右側を駆け上がってきた男に松葉杖を足で引っ掛けられた。「おい!」と声を上げる私に気付かぬはずはないのに男は走り去った。
 改札口も今日は協力的で、ノロイ私を励まそうとしたのだろう。スイカをポケットにしまって通過しようとする私の前をふさいだ。こんなことは初めてのことだ。スイカを機械に当てて乗客が通過するまでどのくらいの時間的猶予を設定しているのだろうかと疑問が湧いた。
 次に話題提供をしてくれたのは、「恥を忘れたニッポン人」。
 今日は「さいたまスタジアム」でサッカーの試合があるらしく、電車は結構混んでいた。優先席には、赤いユニフォームを着たひと目で「レッヅファン」と分かる人たちが大きな顔をして座っている。ただ、私の姿を見てまずいと思った一人が席を立った。
 次の駅で70代位の女性が乗り込んできた。しかし、誰も席を立つ様子がない。
「どなたかこの方に変わってあげないんですか」
 私は声を上げた。
 すると隣に座っていた女性が不機嫌な表情を浮かべながら立ち上がった。そして、前に立っているダンナに小声でブツブツ。私は余程一言申し上げようかと思ったが、場があまりざわざわしてもと我慢した。
 席を譲られてお年寄りは座るかと思いきや手を振って着席拒否。恐らく「年寄り扱い」が嫌なのだろう。場の空気が悪くなるが、でもそれは仕方がない。
 それを見て立ち上がった女性はますます不機嫌になり、私に聞こえるようにダンナを相手に私への批判を始めた。私がお年寄りに座る意思があるかを確かめてから声を上げるべきだったと言うのだ。
 彼女は自分の間違いに気がつかないのだろう。彼女は(もちろん他の若い乗客も同様だが)お年寄りを見た時、自分から席を立つべきであったのだ。それもしないでおいて、お年寄りが座りたくないのに余計なお節介を私がしたというのだ。
 私は夫婦をじっと見つめた。それ以上私を非難したら「ひと言」申し上げるつもりだった。しかし、さすがにそれ以上ぶつくさ言い続けるのはまずいと思ったらしく、ツマは口をつぐんだ。これを読まれている方で、もしやそのツマも体調が悪かったのでは、と気遣われるかもしれないが、いやいや色艶のいい顔をしていたし、お年寄りが乗り込んで来るまでは数時間後のレッヅの応援に熱中していた。
 松葉杖姿や老人の存在が目に入らぬ人たちも、家に帰れば“立派な”大人なのだろう。いっぱしの倫理観や躾に対する考え方を持っているに違いない。でもそれらの人たちが、立派で、いっぱしの事を言えば言うほど、それを見て育つ子ども達は彼らを規範として育つ。イラクやパレスチナを「悪の連鎖」「憎悪の連鎖」で言い表すことが多いが、日本でもこれらだらしない大人たちによる「不道徳の連鎖」は確実に子供に影響を与え、社会秩序の破壊を招いている。