昨日、マスコミは「スーパーのレジ袋、有料化へ」と騒ぎ立てていた。
こんな話、当然である。というか、遅きに失している。もうゴミ問題は、この日本列島、にっちもさっちもいかない状態なのだ。そんなことは消費者の一人ひとり、皆分かっているはずだ。自分の周りにゴミが見えなければそれで善しとする国民性の我々は、お得意の「見て見ぬ振り」をしているだけだ。
見て見ぬ振りをしているのは消費者だけではない。環境問題の旗振り役をしている新聞社自らが大量のゴミをばら撒いているのにその辺りのことは「見て見ぬ振りをして」記事にすることはなく、論点を摩り替えてごまかしている。紙面では大上段から“悪質な業者”や“やる気のない行政”、“不道徳な消費者”をバッサバッサと小気味よく切りまくっているが、ギター侍風に言えば、「ゴミを出さないようにしなければならないのは、ア・ン・タたちですからあ!残念!」となる。
それはまず、毎日配られる新聞に折り込まれるチラシの多さに代表される。その量たるや、週末前ともなれば、本紙の何倍もの厚みとなる。それが各家庭に配られてくるのだ。あまりの凄さに私は大分前からチラシは折り込まぬようお願いしている。
本紙とて同様で、紙面の約半分は広告だ。「資本主義社会だ、広告宣伝は当然の商行為だ」と言われる方も多いだろう。だがしかし、もう大都市圏のゴミ捨て場は悲鳴を上げている。限界だ。「いや、リサイクルしているから」との反論もあるが、なんでもリサイクルすればいいというものではない。リサイクルにどれだけの燃料や薬品が必要かも考える必要があるのだ。私が子供の頃(1950年代後半)、アメリカの新聞が5,60ページもあると聞いて、何せ当時の日本の新聞が、私が田舎に住んでいたこともあり、10ページもなかった状態で、単純な田舎のボーズは「資本主義大国」に畏敬の念に近いものを感じたものだ。しかし、今日辺りの朝日の首都圏版をみると、付録を加えれば56ページある。今の私にはそれは、“世界大国”を実感するよりも嫌悪感に近いものすら感じられる。
さらに、今日の新聞も大事に包まれて配達されてきたが、雨の日はビニール袋に入ってくる。別に新聞が少し濡れていても私は気にならぬのだが、皆さんはどうだろうか。これから長く続く梅雨の間、毎日ビニール袋が使われることになるはずだ。その量たるや膨大なものになる。
これに新聞社が自問自答をして「包むべきか包まざるべきか、それが問題だ」と悩む姿勢があればまだ救いはあるが、新聞社の人間に聞くと、そんな疑問は社内に存在しないという。いや、議論すらされていないという。
新聞は社会の公器と言われるが、新聞社は、「公器」であれば他の企業よりも反社会的なことをやっても許されると勘違いしているのではないだろうか。と言うのは、新聞社は、国有地払い下げから特定宗教との癒着、価格談合など、この他にもあまりに多くの矛盾を抱えているからだ。環境問題で言えば、記事で合成洗剤の危険性を指摘しながら、それら合成洗剤の広告を許しているだけでなく、販売拡張に洗剤をばら撒いている。この点については、新聞各社は、「販売店がやっていることですから」と責任逃れするかもしれぬが、本気で「川の水をきれいにしたい」と考えるのなら、販売店を指導することもできるはずだ。
私は何も「新聞社だから100%清廉潔白に生きろ」と言っているわけではない。誰でもどんな組織でも真っ当に生きようと思ってもこの世知辛い世の中だ、背に腹は変えられず、矛盾を抱えてしまうこともあるだろう。かく言う私とて脛を見てもらえれば分かるが、傷だらけだ。だが、肝心なのはその時、その自己矛盾を認識しているかどうかだ。そしてそれを自分でどう抑制・管理するかだ。そしてさらに、間違いがあればそれを真摯に受け止めることができるかどうかだ。
日本の新聞を見ていると、その辺りがいい加減なまま組織が巨大化したため、今や肝心の自分の足下すら見る事がままならなくなった巨象を見る想いがする。ここらで一つ立ち止まり、「正義を振り回す」前に自らの姿勢を正さないと、いつの日か自己矛盾に「自分で自分の首を絞める状態」に苦しむことになるような気がする。余計な心配と言われるかもしれないが、私にとって、また社会にとってなくてはならない新聞だけにここで苦言を呈しておく。
こんな話、当然である。というか、遅きに失している。もうゴミ問題は、この日本列島、にっちもさっちもいかない状態なのだ。そんなことは消費者の一人ひとり、皆分かっているはずだ。自分の周りにゴミが見えなければそれで善しとする国民性の我々は、お得意の「見て見ぬ振り」をしているだけだ。
見て見ぬ振りをしているのは消費者だけではない。環境問題の旗振り役をしている新聞社自らが大量のゴミをばら撒いているのにその辺りのことは「見て見ぬ振りをして」記事にすることはなく、論点を摩り替えてごまかしている。紙面では大上段から“悪質な業者”や“やる気のない行政”、“不道徳な消費者”をバッサバッサと小気味よく切りまくっているが、ギター侍風に言えば、「ゴミを出さないようにしなければならないのは、ア・ン・タたちですからあ!残念!」となる。
それはまず、毎日配られる新聞に折り込まれるチラシの多さに代表される。その量たるや、週末前ともなれば、本紙の何倍もの厚みとなる。それが各家庭に配られてくるのだ。あまりの凄さに私は大分前からチラシは折り込まぬようお願いしている。
本紙とて同様で、紙面の約半分は広告だ。「資本主義社会だ、広告宣伝は当然の商行為だ」と言われる方も多いだろう。だがしかし、もう大都市圏のゴミ捨て場は悲鳴を上げている。限界だ。「いや、リサイクルしているから」との反論もあるが、なんでもリサイクルすればいいというものではない。リサイクルにどれだけの燃料や薬品が必要かも考える必要があるのだ。私が子供の頃(1950年代後半)、アメリカの新聞が5,60ページもあると聞いて、何せ当時の日本の新聞が、私が田舎に住んでいたこともあり、10ページもなかった状態で、単純な田舎のボーズは「資本主義大国」に畏敬の念に近いものを感じたものだ。しかし、今日辺りの朝日の首都圏版をみると、付録を加えれば56ページある。今の私にはそれは、“世界大国”を実感するよりも嫌悪感に近いものすら感じられる。
さらに、今日の新聞も大事に包まれて配達されてきたが、雨の日はビニール袋に入ってくる。別に新聞が少し濡れていても私は気にならぬのだが、皆さんはどうだろうか。これから長く続く梅雨の間、毎日ビニール袋が使われることになるはずだ。その量たるや膨大なものになる。
これに新聞社が自問自答をして「包むべきか包まざるべきか、それが問題だ」と悩む姿勢があればまだ救いはあるが、新聞社の人間に聞くと、そんな疑問は社内に存在しないという。いや、議論すらされていないという。
新聞は社会の公器と言われるが、新聞社は、「公器」であれば他の企業よりも反社会的なことをやっても許されると勘違いしているのではないだろうか。と言うのは、新聞社は、国有地払い下げから特定宗教との癒着、価格談合など、この他にもあまりに多くの矛盾を抱えているからだ。環境問題で言えば、記事で合成洗剤の危険性を指摘しながら、それら合成洗剤の広告を許しているだけでなく、販売拡張に洗剤をばら撒いている。この点については、新聞各社は、「販売店がやっていることですから」と責任逃れするかもしれぬが、本気で「川の水をきれいにしたい」と考えるのなら、販売店を指導することもできるはずだ。
私は何も「新聞社だから100%清廉潔白に生きろ」と言っているわけではない。誰でもどんな組織でも真っ当に生きようと思ってもこの世知辛い世の中だ、背に腹は変えられず、矛盾を抱えてしまうこともあるだろう。かく言う私とて脛を見てもらえれば分かるが、傷だらけだ。だが、肝心なのはその時、その自己矛盾を認識しているかどうかだ。そしてそれを自分でどう抑制・管理するかだ。そしてさらに、間違いがあればそれを真摯に受け止めることができるかどうかだ。
日本の新聞を見ていると、その辺りがいい加減なまま組織が巨大化したため、今や肝心の自分の足下すら見る事がままならなくなった巨象を見る想いがする。ここらで一つ立ち止まり、「正義を振り回す」前に自らの姿勢を正さないと、いつの日か自己矛盾に「自分で自分の首を絞める状態」に苦しむことになるような気がする。余計な心配と言われるかもしれないが、私にとって、また社会にとってなくてはならない新聞だけにここで苦言を呈しておく。