夢と希望と

そして力と意志と覚悟があるなら、きっと何でも出来る。

つまらない昔話。その2

2015-10-19 | 中身
 私はかなり親しい友人などからも、アスペルガー症候群やらサイコパスやらと称される事が良くあります。論理的思考というものが出来ない馬鹿に対しては圧倒的な効能を発揮するという菅官房長官語で応じるならば「その指摘には全く当たらない」と一言で済むのですけれども、此処を御覧になっている方々にはそのような返答で納得するような愚鈍なカスは居ないと思いたい所ですし、少々説明をしてみましょう。
 まずそもそもアスペルガー症候群もサイコパスも、私に言わせるなら能力の欠如です。空気を読む能力、他人の感情を理解する能力、相手の価値観を推察する能力……これらが欠けているが故に、他者から観ると異質な行動と映るものであると認識しています。
 さて、では私の場合。場の雰囲気、俗に言う空気なんてモノを把握するのは簡単な事です。ただし、その空気とやらと私の望みを天秤にかけ、後者が重いのならば当然ながら前者は斬り捨てられる事になる、というだけの事。至ってシンプルな仕組みです。空気を読めないのは愚鈍、読んだ空気に従う事しか出来ないのは愚劣であると私は考えています。他人の感情や価値観の推察につきましても全く同様で、そんなモノをエミュレートするのは極めて簡単、日常的に行っていますとも。それにくどくどと幾度も申し上げていますように、私にとって大切な人の望みは私の流儀に反さない範囲で最大限に尊重したいと常々考えています。とは言いましても、これは誰しもそうであるように、全ての対象を無差別に尊重するという事ではありません。たとえば皆様とて、遠い異国で数多くの人間が餓えて死んでいるという知識を得ていようとも、自分の食費や娯楽費を削って寄付などなさらないでしょう。「そんな事はない、寄付をする」という方も、それはあくまでも御自身の日常に支障が無い範囲での行為。もっと金を送ればもっと救えると知っていても、冷徹な命の線引きをなさっているモノです。つまり自分にとって関心の無い、無価値な人間というのは庭石の下のダンゴムシも同然であり、生きようが死のうが知った事では無いのです。ダンゴムシなどは、わざわざ庭石をひっくり返して駆除するような対象でもありませんし、餓えて餌を求めていようとも助けてやろうとは思いません。そう、相手の感情が解らないのではなく……単に、理解したその感情の持ち主がどうでも良い相手の場合、それは判断の天秤において限りなくゼロに近い質量しか持たない分銅である、という事です。
 このような思考システムによりアウトプットされる私の行動が、有象無象に対して酷薄に見えるというのも理解はしていますけれども、それこそ有象無象からどう見えようとどう思われようと、どうでも良いモノなのです。そのような仕組みですから私の場合は推察や共感といった能力の欠如ではなく、単なる適切な取捨選択の結果に過ぎません。……まぁこの説明を以前お友達に試みましたら「どんな内部処理がされていても出力結果がサイコパスと同じならサイコパスです」と指摘され、確かに外部からの観察結果としてはそのような事になるのだろうなぁと納得しつつ、それでもその本質は異なるのだという主張を今一度してみました。

 そんなこんなで私のサイコパス気質というモノは、大多数の人間をダンゴムシ同然……つまり自分と対等以下の無価値に近い存在と定義づける事に依るのだろうと認識しています。では何故、そのように定義づけてしまうのかと考察するならば、これは前回の記事でも説明しました通り、ありふれた言葉を用いるならば私は俗に言う神童というヤツだったからです。成人するまで私より明確に優れていると認識した相手は、実の兄ただ一人でした。それ以外の人間というのは大人も子供も引っくるめて、どいつもこいつも大同小異のゴミであると感じていました。音楽や美術などを解する心というのを持ち合わせていない無粋者でしたので、そういったジャンルの人々に敬意を持てなかった事も要因かも知れません。
 小学校を卒業した私は、私立の中学校へと進学しました。中高一貫教育を基本とする、学力とお金がどちらも必要とされる学校でした。入試もありましたけれど、母親が入手した過去問題を文字通り一瞥しただけで、あまりの他愛なさに拍子抜けして試験勉強など全くせずに合格。そのように容易に入学したものですから期待もしていませんでしたが……実際には、少々驚きました。入学試験という一応の篩いにかけられているからか、或いは裕福な家庭の子息というのはある程度きちんと躾けられている傾向があるのか、同級生達はチンパンジー擬きではなく「人間の子供」だと感じられたからです。
 ちなみに私の実家の資産レベルは一般的な中流家庭の範囲でしたから、家格も資産も平均を遙かに上回る人達が大勢を占めるその学校においてはかなり下層に位置しました。それ故の侮りを受けもしましたが、週に一度は礼拝があったり、茶華道や礼法の授業があったりするのは新鮮で、新たな知識を得る事は喜びでもあり、これ以降は小学校時代とは比較にならぬ程に楽しく充実した日々となりました。何よりも、理を以て言葉で説けばきちんと通じる、という当然の道理が嬉しかった事を明確に記憶しています。

 そのような環境で、私はかつて母親に言われた修練を今こそ実行する機会かもしれないと考えました。かつて小学校に入学する際、母親は私にこのような事を諭していたのです。
「女の子にとって、学校の勉強なんて大して重要ではないの。出来れば出来るに越したことはないけれど、もっともっと重要な事がある。それは、人の心を理解して自分の思うように動かす能力を身につける、という事。同級生や先生を良く観察して、その人達が理解して欲しいと思うように、理解してあげているように見せかける技術。人は誰だって自分を理解されたいと願っているから、良き理解者というのはとても大切に感じるの。つまり誰かの良き理解者にさえなってしまえば、その誰かはもう此方を裏切れないし、それどころか最大限の尽力をしてくれるもの。この技術をきちんと習得すれば、一人で無人島にでも漂着しない限り、快適に生きていけるのよ」
 ……まるで、北斗の拳のジャッカルみたいな言葉ですよね。自分で象を倒す必要は無い、要は象の肉を喰えれば良いんだ!的な。
 ところが、先述のように小学校では周囲はどいつもこいつも人間未満のチンパンジーばかり。人間とならばいざ知らず、ウッキーと吠え立てるばかりで物の道理を介さない連中を相手にそんな技術を磨く気にもなれませんでした。それがこうして未熟とはいえ人間が相手ならば、好みの問題はあるにせよ、技術の一つとして習得してみようかという気分になったのです。
 結論から言えば、この母親のアドバイスを実行した事の効果は絶大でした。
 相手が何を考えているのか、何をどう感じているのか、どのような自分でありたいのか。これを把握し、共感して見せ、理解者であると錯覚させる事はそれ程難しい事でもありません。相手の思考を引っくるめてエミュレートすれば良いだけの事です。たったそれだけで、相手にとって自分はかけがえのない存在となってしまいます。把握と共感の導入、その小道具として占いの類が極めて有効な事も学びました。タロットカードやルーンストーンを操って見せるだけで、通常ではなかなか口にしないような悩みや想いをぺらぺらと喋ってくれますし、それらを解析して再構築してもっともらしい言葉で「占い」を行って差し上げれば、当たる当たると御相手は大喜び。恋煩いや将来の進路、休日の過ごし方まで私の占術に依存する同級生も居た程で、内心辟易していました。己というモノを確立していない人間、行動の基底を己以外の部分に置く人間というのは、こうも容易く踊らされるモノなのか、と。宗教でも国家でも、己以外の何かに依存する人間とは、誇りを己自身に見出せない輩なのだ、と。現実を冷徹に直視せず、日々の痛みや苦しみから逃避し酔っ払う為に、理解者等という精神的な麻薬に頼ってしまうのだ、と。
 幾度も書いてきましたように、私は怪力乱神の類を体感した事はありませんし、欠片も信じていません。仮にそれらが実在するのならば、それらとも闘って勝つか負けるかして、喰らうか喰らわれるかするだけの事だと考えています。神などというモノがもしも存在したとしても、神だから尊い訳ではありません。相対的強者が相対的弱者を蹂躙して喰らう、その理の一部に過ぎまいと認識しています。

 と、このように人心を把握する技術そのものは比較的簡単に会得しました。人間の多くは寂しがり屋で、孤独を嫌い、肌身を寄せ合い互いを舐め合う傾向があります。その性質を利用すれば人の心を私にとって都合の良い方向に誘導する程度は造作も無い事です。ただし、その技術が効果絶大で有効であったとしても……私の好みかどうかと言えば、否でした。そのような唾臭い真似、出来る事ならしたくはないものだと考えるに至ったのです。私を崇拝する手駒を用いて、安全圏から確実に目的を達する事は、戦術として優れているとしても……ただ勝てば良いというモノでもあるまいと考えた、と申し上げても良いでしょう。私は勝ちたいように勝たなければ、満足感が得られない性質なのです。勝利とは自己満足の為にこそ必要なのであり、満足感が得られない勝利などに価値はありません。逆に言うなら、敗北したとしても闘いに満足して負けたのならばそれで良い、という事でもあります。勝利は重要な目的ではあっても、天秤における最重要の分銅ではなく……手段としての闘争を楽しみ、そこに価値を見出す事こそが軍人ではなく戦士の思考形態であるというのは、以前にも記した通り。
 まぁしかし、この技術に関する見切りは経験不足故のものであって、井の中の蛙というヤツでした。やがて成人してから、この世の魔性と形容するに相応しい恐るべき人と出会い、戦慄する事となりますけれども……それはまた別のお話。


 前回と今回、二度に分けて私というシステムがどのように構築されているのかを大雑把に解説してみました。多くの方々にとって反吐が出るようなシステムであって、好感度が大幅に低下する類の愚かな自傷行為である事は充分に理解しています。とは言いましても、それでもこれらの事項を説明する事は、私にとって必要だったのです。
 私が強さというモノを重視するのは、誰に言われたからでも感化されたからでもなく、ただ私自身の在り方によるものだ、と。「一個人、一個体が強いとか弱いとか、そんなことはどうでもいい」と考える人も居るのでしょう。そう考える事は、その人の自由。太古より継がれ紡がれてきた命の螺旋、その端に連なる者としてこの世界に存在するだけで奇跡であり、価値ある事だと認識するのも自由。ただ、私は命の螺旋を継いで紡ぐのも力があればこそ為せると考えていますし、力無きモノが淘汰されてきたからこその現在であろうと認識しています。輪廻などは死を直視する事に耐えられぬ脆弱な精神の持ち主が逃避する為の概念であって、生命活動の停止は単に己という存在の終焉以上でも以下でもありません。命に限らず万物は始まれば終わるのは至極当然の理、ならばこそ好きなように生きて、好きなように闘い、好きなようにくたばる事を望むのだと……そのように返答しておきましょう。