元東洋フェザー級王者で金子ジム名誉会長の金子繁治氏が
1月2日、肺炎のため都内の病院で亡くなったとの事。
84歳だった。
敬虔なクリスチャンだった金子名誉会長だけに告別式は
日本基督教団碑文谷教会で行われる。
印象としては村田英次郎や西村貴晴を育てられた温和な
会長というイメージが大きく、
現役時代は「魅惑のパンチャー」と呼ばれ「比国の英雄
F・エロルデに勝った猛ファイター」と言われてもピンと
来なかった程だ。
1950年に笹崎ジムからプロデビュー。
53年12月、ラリー・バターン(比)に勝利して日本人初の
東洋王者となった。
東洋王座を6度防衛。東洋無敵を誇りながら、世界には縁が
なかった。
初の世界王者・白井義男晩年に台頭してきた金子だったが、
まだまだ世界のフェザーは余りにも遠かった。
それでも、55年には世界フェザー級王者サンディ・サドラー
(米)とノンタイトル戦を行うも、6回TKO負け。
しかし、試合会場は「後楽園スタジアム」。
Fe級史に残るKOアーチスト・サドラーと野球場で戦う程の
選手だったのだ。
内山高志の項で年間表彰の話題を出したが、
1953年、白井義男(王子)がMVPを獲得した年に金子繁治は
東洋王座を奪取して殊勲賞を受賞。
白井が王座を失った1955、1956年にはMVPに輝いているのだ。
1962年にF原田が2人目の世界王者となるまで、金子繁治、米倉
健治、矢尾板貞雄、高山一夫らの名選手が日本ボクシング界を
支えたが、東洋王者として抜群の実績と人気を誇った金子は、
まさに世界王者並みの存在だったと言われている。
※「日本名ボクサー100人」には拳闘界のスターとして銀幕の
星・赤木圭一郎と並んで写真に収まる金子の姿があった。
58年に眼疾のため引退。
65年に東京・下北沢に金子ボクシングジムを設立。東洋太平洋
バンタム級の名王者・村田英次郎らを育成。04年に長男の金子
健太郎氏、次男の賢司氏に現場を譲り、一線を退いたが、独自
興行の「ゴールデンチャイルド・シリーズ」は続いた。
ここ数年は進行性核上性麻痺の闘病生活を続けていたとの事。
選手として指導者として、本当に日本拳闘界に貢献された方です。
天に召された金子繁治氏の平安を心より御祈り申し上げます。
1月2日、肺炎のため都内の病院で亡くなったとの事。
84歳だった。
敬虔なクリスチャンだった金子名誉会長だけに告別式は
日本基督教団碑文谷教会で行われる。
印象としては村田英次郎や西村貴晴を育てられた温和な
会長というイメージが大きく、
現役時代は「魅惑のパンチャー」と呼ばれ「比国の英雄
F・エロルデに勝った猛ファイター」と言われてもピンと
来なかった程だ。
1950年に笹崎ジムからプロデビュー。
53年12月、ラリー・バターン(比)に勝利して日本人初の
東洋王者となった。
東洋王座を6度防衛。東洋無敵を誇りながら、世界には縁が
なかった。
初の世界王者・白井義男晩年に台頭してきた金子だったが、
まだまだ世界のフェザーは余りにも遠かった。
それでも、55年には世界フェザー級王者サンディ・サドラー
(米)とノンタイトル戦を行うも、6回TKO負け。
しかし、試合会場は「後楽園スタジアム」。
Fe級史に残るKOアーチスト・サドラーと野球場で戦う程の
選手だったのだ。
内山高志の項で年間表彰の話題を出したが、
1953年、白井義男(王子)がMVPを獲得した年に金子繁治は
東洋王座を奪取して殊勲賞を受賞。
白井が王座を失った1955、1956年にはMVPに輝いているのだ。
1962年にF原田が2人目の世界王者となるまで、金子繁治、米倉
健治、矢尾板貞雄、高山一夫らの名選手が日本ボクシング界を
支えたが、東洋王者として抜群の実績と人気を誇った金子は、
まさに世界王者並みの存在だったと言われている。
※「日本名ボクサー100人」には拳闘界のスターとして銀幕の
星・赤木圭一郎と並んで写真に収まる金子の姿があった。
58年に眼疾のため引退。
65年に東京・下北沢に金子ボクシングジムを設立。東洋太平洋
バンタム級の名王者・村田英次郎らを育成。04年に長男の金子
健太郎氏、次男の賢司氏に現場を譲り、一線を退いたが、独自
興行の「ゴールデンチャイルド・シリーズ」は続いた。
ここ数年は進行性核上性麻痺の闘病生活を続けていたとの事。
選手として指導者として、本当に日本拳闘界に貢献された方です。
天に召された金子繁治氏の平安を心より御祈り申し上げます。