有田芳生の『酔醒漫録』

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歩くほどに人との邂逅あり(7)

2007-06-21 08:00:28 | 随感

 6月20日(水)朝は大山へ。事務所開きの宣伝をかねて街宣を行う予定だった。ところが駅前には車が入れないことが現場に行ってわかった。そこが田中康夫さんと違うところだ。田中さんは道路地図を事前に研究し、走行中でも膝に地図を置き、適宜判断をしながら、巧みに道路を縫っていくよう指示を出す。しかもマイクで語りながら。大阪では地元のテレビ局さえ驚くほどだった。あまり知られていない裏道さえ知っているのだから恐るべき才能なのだ。それに比べて免許を持っていないだけではなく、方向音痴のわたしなどは、どうしても人任せになってしまう。どこで効果的に宣伝を行うのか。そうした判断ができるようになるのも課題だと自覚する。そんなこんなではじめての経験は難しくも楽しい。車を降りて立っていたら、どうも見たことのある顔がやってきた。驚いた。5月初旬まで「ザ・ワイド」にいて、「有田が行く」のスタッフだった片山亮さんだった。奥様と生れてまだ2か月の紬ちゃんも同行。わざわざ千葉県?松戸から激励に来てくれたのだった。まだ首の座らない赤ちゃんを抱いて記念撮影。この小さな生命が育つこれからの日本が希望のあふれるものならんと本気で思うのだった。事務所の点検を少し行い、氷川台、平和台、光が丘へ。光が丘IMAで商売をしている知人に挨拶、チラシを渡す。成増の商店街を歩き、ここでも知人の店を挨拶をして回る。和光市、富士見市、新座、さいたま市などを街宣、暑い。高速で都内に戻り、水道橋から神保町を通り、麹町へ。文藝春秋に寄って、明日発売となる「週刊文春」をもらう。「新党日本」の本部で宣伝物の打ち合わせ。田中康夫さんやスタッフとともに近所で夕食。

 昨日の日記の不正確さを知人の新聞記者が指摘してくれた。沖縄戦が「唯一の地上戦」という表現だ。引用しよう。「これは正確ではありません。当時の日本本土ということなら、樺太では住民を巻き込んだ戦闘が長期間行われていますし、北千島・占守島でも8月15日より後に激戦がありました。私のところの読者には樺太、千島からの引き揚げ者やその子孫も多く、敗戦企画などでうっかりミスをするとよく突っ込まれます」。そのとおりだ。歴史的事実というレベルの問題でもあるが、認識の課題でいえば「唯一の」という限定のはらむ問題でもある。「唯一の存在」「唯一の党」などなど、そこには誇大主張や主観があふれてしまう場合がある。「絶対」がありえないように「唯一」も条件的なものとして捉えなければならないのだろう。街頭宣伝でもコメント力が必要とされるが、あくまでも自己限定的に抑制しなければならないといつも注意している。この記者が指摘してくれたように、硫黄島もまた東京都であり、そこには硫黄採掘のための住民がいたことも忘れてはならない。「ひめゆり学徒隊」の悲しみをふくむ沖縄戦が終った6月23日がまたやってくる。軍人軍属の死者、約12万人、一般県民の死者、約17万人。