宇宙の彼方から

自然の不可思議な森羅万象に揉まれる自分や他人の有り様を見つめる。

天皇論

2006-07-28 22:38:24 | 政治
最近ある方からのTBで、天皇論を展開されていたので、ここで私の天皇への思いを綴ってみたいと思います。
先日来、天皇の言葉を筆記している人の日記が公にされまして、天皇が思いもしないところで戦いが進んでいったように表現されていました。
それは、結果責任逃れの自己弁護に過ぎないと思います。
統帥権を持っている立場の者が、「天皇陛下バンザイ!」を唱えて死んでいった人たちの断末魔の叫びを知らない筈はないのです。
例え積極的に戦争を推進していったことでないにせよ、消極的ではあったとしても
トップとして流されてしまった責任は未来永劫に感じなくてはなりません。
何のための御前会議であったのでしょうか?
まるで、「戦争はいけないことだ!」として無知になって逃げる人と同じ穴のムジナです。
勝っている間は「おーよしよし!」が本音だったのでないのでしょうか?
勝ち戦の裏側にある、日本軍の残虐シーンを天皇は言うに及ばず、多くの日本国民も想像しなければならないものでしょう。実はそれが簡単なようで難しいものなんです。頭の中を勝ちムードが覆って、他の感情を寄せ付けないのです。
それが、バブルに踊った、北朝鮮拉致に踊った、ことと同義を表わしてもいます。
戦争を悪者にして逃げてはいけない!
何度もうるさく言うように、踊ってしまう人の心が戦争と言う事柄を誘発していくのです。
 さて、日本の天皇制と言うものに光を当ててみましょうか。
日本が本当の民主主義でありたいのならば、天皇制は廃止すべきです。
天皇制を維持しながらの主権在民を擁する民主主義はありえないのです。
世界の歴史を考えて見ますと、先ず人ありき、最小単位の家族ありき、そしてありき、村ありき、国ありきとなっていきます。
問題はありきの段階で、みなそこそこに共同生活的なるものを営んでいたことでしょう?未開の地にてその生活形態は今でも散見されます。その中では経験豊なる長が安全維持のために大抵治めています。やがて裕福なと、貧相なが発生すると同時に争いも起こるようになることでしょう。
それが古代史の基本です。
そして今、先進的な国では、民主主義と共産主義という、特権階級時代から一般人が政治に参画する時代へと変遷してきております。
いまだに王政の国もありますが、それはそれで安全に治まっていれば、傍がとやかく言うものでもありますまい。
厳密に言えば双方の主義とも純粋のものとはお世辞にも言えませんが・・・?
これらの思想は共同生活に近づいていると思いませんか?
何か、いろいろな方式を経験してきたところで、やっぱり共同生活の基本線がはっきりと見えてきたのではないでしょうか?
国取り物語から国の合流物語の時代へと変わろうとしている潮流があります。
それぞれの国が作り上げた「国としての形」「個性」を重んじつつ、互いの長短を補正しつつ、主義主張を越えて、歩み合おうとする時代に突入していきます。
そんな世界先進の潮流の中で、日本の天皇制もある意味個性ではあります。
西欧社会のように、貧民を横目で見やりながら、手も打たず、貴族たちは自己中に贅の限りを尽くしていたからこそ、社会に貴族の必要性を喪失していったのだ!
日本では、その貧民を横目で見やりながら、しかし、天皇が贅の限りを尽くしていたかどうかは定かには伝わってこないから、天皇制が存続できたとも言える?
以上、昨今の事情を踏まえ鑑みて、シンボリックであろうが、遺伝子の優劣は常にあろうが、特権階級としての天皇制には異を唱えたい!
人間宣言をしたのであるから、全ての日本人は法の下の平等であって欲しい!
それこそが民主主義もどきではない、本来の民主主義だ!
これは希望だ!今では到底叶えられぬ夢だ!
 天皇を和の象徴として、伝統として表現するのはどうかと思う?
何故なら、金に糸目をつけぬ装飾を施し、その力を内外に鼓舞知らしめ、また外来のあらゆる文化などの集積としての異端の雅文化なのだから・・・?
人の羨みを一身に背負い、頭を垂らす目的の必要からなのである。
それらの思想を、日本古来よりの伝統、文化として定義づけするのに意味するものはない?
ただ単に憧れる一部の人たちの自己満足に過ぎないのだ。
本来の和は、武人、町人、村人の生活の中にこそあり、それこそが日本の伝統なのだ。