一番の彼らの思想の視野狭窄に至ってしまう元は、彼らが人間<世界<地球<自然と言う図式で物事を理解していない点にあるのです。
天皇が国民の上にいて、見守っていてくれる、だから私たちは平穏無事に生きていられるのだ。と言う抽象的なありもしない根拠。そして一年の計は神社参りして何とはなしに感謝すると言う、本能にも似た思いが、視野を狭くしてしまうことに気づかない現状なのだ。先ず自然ありきであり、自然を無視したどんな制度もそれは意味のないことなのである。
そして、地球には大きな仕組みとか、定理のようなものが存在している。これらも無視しては必ずシッペ返しを食らうことに相成るのだ。
そして次に控えしは、世界の中の一員である事実もしっかりと見つめなければならないものなのだ。それを履行できていないのが、右翼かぶれの彼ら、小泉さんを筆頭とする為政者たちなのだ。右傾化は自分たちの中だけ、国だけでの誉れの自己満足であって、アジアや世界の中では、その考え方は相反するときもあれば、ましてや通用さえしないことも度々なのである。己を知らずに、そんな、こんな、極端な考え方をしていると、イスラムのように否定、冒涜されれば謙虚になれず、怒り、鬱積が、危険を、暴力を、喧嘩を、誘発しやすくなることに相成る理屈が存在するのである。
それが、「君子危うきに近寄らず」が兵法にあるように、危険や不利益を回避できる能力と言うものが、人や国、それぞれにあって、どの国もその危険を察知する能力に磨きを掛けているのである。
自分を、自国を、長短、知ることは金メダルに相当する。自分の中にある宇宙規模相当の自然が、ひいては本当の自然から由来するものであることに理解が及ぶであろう。さすれば、どんなものにも、どんなことでも危機回避の対応ができる筈だ。
過去の日本を無用に溺愛する、右傾化思想に戻っては、経験から生ずるであろう、機転ある知恵が生まれることもない、と言うことが、多くの右寄りと、そのもどき日本人には理解ができぬのであろうか? 一部の国の声(例えばあからさまに非難する中、韓・・・それだけでもないのだが・・・声なき声は聞こえてはこぬか・・・?無視しておると合唱を始めるぞ)であったとしても、その一部の国の声に耳さえも貸そうとしない思想であるところの愛は、客観的になれない自己耽溺の愛であって、マスタベーションのなにものでもない。
自分の存在の時間は誰しも愛おしいものだが、みんなそれぞれの個体たちもそれぞれに愛おしいと考えているのだ。けっして自分だけではないんだ。と、他の個体たちを鑑みる余裕が為政者以下、日本には無いからこそ、憲法前文に入れ、必要だったのだ。
私の考えに対して、知ったような受け売り知識の網羅ではなく、しっかりとした経験に根ざしたご意見が聞きたいものである。