宇宙の彼方から

自然の不可思議な森羅万象に揉まれる自分や他人の有り様を見つめる。

死刑は自然法を採用すべき

2008-04-29 12:02:49 | 死刑
今日何気にテレビを見ていたら、10チャンネルで死刑執行の生々しい声のテープを発表していた。
死刑廃絶を訴える元刑務所長が録音したらしい・・・・
どのような意図で10チャンネルが放送したのかは伺い知れないが・・・・・
ある識者のコメンテーターが、刑務所・拘置所内での自殺も認めるべきではないか?と言うようなことを言っていた、本意かどうかは不確か(多分本意ではない?)であるが、
昔は、所謂、「切腹」という儀式もあった・・・・故にそのようなことを持ち出したのか、また死にたい受刑者もいることを念頭に於いての発言なのかは定かではないが、私にとっては始めての物事の考え方であったので、つくづく考えさせられた。なるほど、そんな逆襲もあったか・・・・・と、いう思いだ。
拘置所or刑務所は、それは困るであろう・・・・死刑という判定に対して、そうでない方法を用いて死なれたら、管理を糾弾されるのはみえみえであるからだ。
しかし、自殺もよしなにではないのだろうか・・・・それは覚悟の上の極悪殺人であり、覚悟の上の自害であるからに仕方が無い、思うようにはならないのは、死刑囚の病気による死もありうるからだ。
自殺であっても自殺と報じる必要もないのだ。病気死で良いのではないか・・・・
誰しも置かれている状況は耐え難く感じるものであろう・・・・
死刑は、人間が定めているように思えるが、実は自然がそのように仕向けている、とも言えるのだ。
日本の情報化社会は、政治とかには「おもねる」ことがあっても、事件性あるのものには、結構シビアに抉り出す力量を備えている。何故なら、対象が捕まってしまった個人であるからだ。弱い者たちには強い正義が多くのマスコミであるし、人々であるのだ・・・・
犯罪そのものをワイドに、赤裸々に映す結果、その殺人者の残酷性が如実に表されてしまうのだ。

その影響を受容せざるを得ないから「死刑止む無し」の結論に至る。

しかし裁判となると、様相は一変する。
主に殺人者の「人となり」を大きく映し出して、情に訴える機会が増加して、その場に妙なる情が溢れ出してくるのだ。その結果、罪が軽減される。
被害者の「人となり」や、被害者家族の悔しさ、置かれている不幸な状況、心の拠り所を失う哀れ、そして影響を受けた者たちの心の中の叫びは掻き消されてしまうのだ。
それがただ単に警察、検察に託されるのみでしかないからだ、これは明らかに公平性に欠ける、と思える・・・・

今度はこれらの加害者の反省して畏まっている姿を見せ付けられると、遠い昔の残虐性は当然のように「薄れ」情のようなものが、フツフツと湧いて出てくるのである。
彼もやっぱり人間の一員なのだ・・・・・と・・・・・

そんな中での裁判員制度、いままで裁判に関わった者たちの死刑に対する選択の自信のようなものが揺らいでいるのかも知れないし、その中に埋没しているがために、世間との乖離が起きていると感じてもいるのであろう・・・・?
欧州を初めとする先進世界と日本との相反する状況に対処する術がないのもあるであろう・・・・
いかに人間が「情」というものに絆され易いものなのか・・・を一般の人間たちにも味わってもらいたいという気持ちもあるかも知れない・・・・?

どちらにせよ、私は最終的には原因と結果の自然の原則、自然法上を元に「ツケは利息を付けて・・・」が本来であると思っている。
それを基準にして、情の絆され具合で減刑すべきであろう・・・・

安直に殺人が行われて、被害を蒙るのを自然上の「是」とするならば、安直簡便に「死刑」を言い渡し執行するのも均等に「是」であり、安直な死刑囚の安直な自害も「是」である。