憲法改正、やぶさかではありません。
が、しかし、民主主義への高み、そして充実への方向性であったならば、それはそれで結構でありましょう・・・・が、自民党、とりわけ中曽根イズムの思惑を継承した安部さんのような、或いは麻生さんのような思惑方向性に問題があるのです。
国家自衛隊に因る、武力を擁しての平和を守る戦い、自由を守る戦い、国家主権を守る戦い、「全てが」国民を守る戦いではないのです。
「全て」が国民に犠牲を強いる戦いなのです。
むごい戦争を強盗を、自衛と言う名の下に、二度と繰り返したくないから9条が制定されたのです。
これからのミサイルの戦争は、主役が、逃げ惑う国民とミサイルとの戦争なのです。そこに自衛隊はいないのです、守るはずの自衛隊はいないのです。
しかし、それでは「日本国」を守ることができないから彼らは、国民主権を徐々に奪い取って国家への愛と忠誠と奉仕を国民に、と、企むのです。
子供を作るのも「国家百年の大計」と申しまして、けっしてそれぞれの家族が幸せに暮らすためだけの目的ではないのです。
昔の憲法はそんな国家主体の制度であったから、進駐軍(米軍)は日本の後進性を笑い、嘆き、哀れみ、国民主体、主人公の制度を数多く取り入れたのです。
日本という国は、海に囲まれ、イヤでも逃げることができないからこそ、人々は国家運営者たちにへつらうことしか生き延びる方策を持たなかった。
だから司る者たちは、外国からの先進性ある方策の影響を受けることになるのである。つまり、日本人の作る憲法では、その「へつらい」が現れてしまうのだ。あるときは天皇にへつらい、あるときは権力者にへつらい、という結果、笑われてしまうような、愚作ができあがるのである。
憲法改正はその思惑、意図する者たちによっては、ガラリとその性質を異にしてしまうのだ。
民主主義への至らぬ部分への追加であったなら、それは歓迎されるものであろうが、思うように国家を運営しようと企図する者たちとのせめぎ合いであることは確かであるようだ。
一部の人間に思うようにならないから、こそ、安全で良いのではないだろうか・・・・