宇宙の彼方から

自然の不可思議な森羅万象に揉まれる自分や他人の有り様を見つめる。

定理いろいろ

2010-02-21 07:35:38 | 
良く北朝鮮の金正日さんのことを「独裁」と呼ぶが、独裁にもいろいろあって、国民のために「良かれ」の方向に向かわせてくれる場合は、その独裁はむしろ歓迎するのがベターなのである。
ところが時たま、何を血迷ったかヒットラーさんや東条さんのような、戦争に向かうような行動、言動を取るような人が現出してしまうから「独裁」が意味嫌われるのだ。その点から言えば、フセインさんもブッシュさんも独裁政権とそれほどの違いはない・・・・民主国家アメリカも実際には任期中はほぼ「独裁」と言えるものなのである。
私が安部さんを牽制するのは、彼はほぼ独裁的なる行為を随所で行って、かつ、戦争準備行為を国民に納得させるように仕向けるからであり、やがてそれが国民にとって好ましからず結果になることは火を見るより明らかであるからなのだ。朝鮮併合の成功が、国民を歓喜の渦に巻き込み・・・・その最終結果が原爆の洗礼であった事を思えば良く理解できよう・・・・


「拉致」を仮の敵対政策の礎に置いて、軍備拡張を図るような邪は、危険領域をわざわざ作成することで、それらの行為が戦争に至るかも知れない・・・・事を思えば、向かわせしむる事と同義であって、そのような「独裁」は糾弾されなければならない・・・・それらを糾弾しない、できない、のであるならば、そのトガの災いは国民に自動化されて帰ってくるのだ。相手国を追い詰める、追い込む攻撃は、行動は、即ち、戦争をも止さぬ行動形式であることを肝に銘じておく必要があろう・・・・・


北朝鮮を理解するには、実は、北朝鮮を背中に感じて(意識して)日本を見る、読むことなのだ。分かるかな・・・・?
これは、自然の道理(システム)なのだ。だから、どんな場面、場合でも通用する大鉄則・・・・法則であるとも言える。
ほとんど多くの人は、北朝鮮を正面に見定めている。これでは永久に物事の本質には至らない・・・・・
この私の言ったことは最重要な人生訓を含んでいるので,よくよく反芻して吟味されたし・・・・・
器が相当に大きくなる筈である。


アメリカのスタンスは、つねに何処かで、緊張関係を作り上げるを建前とする・・・・という事を良く踏まえて物事を考察せねばならない宿命にあるのだ。
車で駄目、住宅で駄目なら、残るは軍事超大国に相応しい兵器売買を主軸とするのは、極めて自然の推移なのだ。その道を隠蔽するのが、グリーンニューディール作戦と言っても誤解はない・・・・・
その証明が、普天間問題で後に引かない事に現れている。
そんなアメリカの戦略姿勢があるからこそ、また、韓国がそれを望んでいるからこそ、北朝鮮は身構えるのだ。つまり、北朝鮮の構えは、日米韓の思惑を察知しての危険回避の方策だから、普通に考えられる事ではないか・・・・・それが常識というものだろう・・・・
アメリカの思惑も常識の範囲内、常識から外れるのは日韓ではないか・・・・人間と言うのは、危機感が増幅してくると、得てして常識を逸脱し、正常な思考を奪ってしまいかねないものだ。拉致のために(外交解決をする気になればできる筈なのに・・・・)日本の全国民を被害者に誘導する事になるかも知れない局面に導かんとするのは愚の骨頂もいいところだ。それが、常識外れ・・・というのだよ。

愛国と自殺の因果

2008-10-24 23:32:41 | 
一度、物事の真理のようなものを確認のために語っておこうと思う。

愛国→これは各自ご自分の心の中で、しみじみと、つくづくと、思うものであり、他人に要求、指導、強制してはならない。
愛の表現の仕方はそれぞれによって異なるものであり、一つの方式しか考えられないものではないので、それをしっかりと理解すべき・・・・批判や非難が必ずしも、愛していないことではなく、愛すればこそより良い国になって欲しいと念願しているものなのだ。

国に忠誠を誓っているのは、必ずしも愛国とは言えない、むしろ批判がないのは、その国をダメ国ダメ男にしてしまうことに繋がってしまうのだ。

適正な非難や批判は、国を適性に運営するには、無くてはならない絶対のものなのである。
   
愛国とは何ぞやと、討議検討することは一向に差し支えないが、足りないからと要求してはならない、そもそも要求する人たちが愛国の定義を持っているとはとても思えない・・・・
非難、批判をシャットアウトするのは、ブレーキを、自制御機能を、コントロール機能を、バランス感覚を、取り去るようなものだ。

人は生まれながらにして、例外を除けばその位置を愛してしまうものであり、知らず知らずに愛国郷土愛に目覚めているものなのだ。

そして、為政者はバランスのとれた政事をして、皆の衆に「ここに生まれてよかった!」と思ってもらえるように一生懸命努力すべきものなのだ。
自殺者が多いのは、暗に日本に生まれたために・・・・見捨てられている、という思いが満杯だったからだ。
だから自殺者が無闇に多いのは、司る者たちの重大責任だとも言える。

三浦和義さんの意味

2008-10-12 10:45:32 | 
簡単に今日二回目のコメント
三浦和義さんの自殺で・・・・・
60歳を越える年齢というのは、ほぼ人生の大半(ほとんど)を経過した年齢である。
社会の中で、人々に囲まれて安寧に暮らす老後であるならば生きている価値も楽しさもあろう・・・・
これからのまた長きに渡る裁判と留置生活を考えると、生きている意味も、一種植物人間的生き様も全て空しいものと思えるのである。

まして彼は、日本での無罪放免の後に、スーパーでの万引きなどが発覚してしまい、その性根に疑問符をつけられて、身内も本人も相当に肩身の狭い思いをしているのである。
自分自身の持って生まれた性癖の悪寒めいたものが、恥ずる心を生み、自滅への、自傷行為に走らせてしまっていても不思議ではない・・・・
そしてかつ、周囲の者たちへの愛着も、その周囲の者たちからの当然に起こるであろう非難によって薄れても仕方あるまい・・・・
つまり、ある種自暴自棄でもあったと思われる・・・・
そこへ持ってきて、60歳過ぎの人生の主たる時間を過ぎてしまって、体力も、精神力も萎えが進み、未来への絶望感を覆すだけの、生きようとする力、生きたいとする力、死にたくないとする力、死ぬのが怖いと思う力、そのものの自己に持っているべきエネルギーが枯渇してしまったのであろう・・・・・

人生、思い切って生きられるのは僅か60年・・・そろそろこの辺でいいだろう・・・・という気持ちは分からぬでもない、三浦さんに限らず自己の力量の限界を悟ると、病気との闘いに明け暮れなければならない未来を断ち切る人々は多い・・・・多く、そこから先の人生に何の意味があると言うのだ、という思いに至るのも頷けるものも確かにある・・・・そこが男の唯一の残された格好良さを求めた、誇り、自尊を守ろうとする意地というものだ。
またこれは勘ぐれば「卑怯者」「いくじなし」のレッテルともなろう・・・・
しかし、これが現実の男の中の一種であることは疑いようもない。
彼は、自分で自分の「死ぬ時間と場所」を選んだ、選べた・・・・・
犯罪者たる者のそれは唯一選択することのできる自由な権利であったのだ。
普通の生き様の民は、なかなか自分の死の時間と場所を選ぶことができない・・・・・選べればいつでも「もはやこれまで・・・・」と死の選択ができるのであるが・・・・

私は、そのように分析したが・・・・・・?


報い(ツケ)の法則

2008-06-21 06:18:18 | 
「死神」・・・・・
朝日新聞「素粒子」の担当の人が法相を揶揄して書いたそうである。
笑っちゃいますな、何も好き好んで鳩山さんもやっている訳でもないのに(自動化を念願していた)可哀想なものだ・・・・
このコラム担当者の浅墓さは、大新聞にはふさわしくはない。
むしろ死刑執行が大幅に「滞っている」現状を何とか打破したいと思っていたのであろう、現状の方が不自然なのである。
例えば宮崎さんなどは、犯罪立証性が確かであるのに20年も生き長らえているのは、不自然この上ない・・・・

死刑廃止が世界の潮流だとして、それに便乗して先進性を求めるのは、それは思い込みの最たるものであって、死刑を失くすのが、果たして先進性と言えるものであるのかは疑わしい・・・・?

人間には避けて通れない「報い」報復、「ツケ」という現象が誰にもあって、死刑制度そのものもそれに立脚しているものなのだ。
報いが甘ければ増長に結びつくのは誰しも動物人間には自明で、増長しない人は極く極く稀れであるのだ。

15年ごとの戦争を勢いに任せて増長し続けて、結局いつか原爆でこんな目に合う事など、誰が想像したであろう・・・・不埒なことをしでかした国家は、やがて不法の糾弾に晒される運命であったのだ・・・・しかし、その記憶も薄れぬ内にまたぞろその「増長」とやらが、右翼を経由して、「もどき、被れ」の人々を作り出している・・・・日本経済の隆盛という、戦前戦中戦後の辛さを忘れ、「日本の強さ、それ見たか!」とばかりに、右翼やもどきや被れたちのお陰でもないのに、甘く見る体質が、一部の層の人々の脳裏を掠めるようになってきたのであろう・・・・・
腕力、武力を持って「強さ」を標榜したがるのは、少年や、大人でも幼稚な心(体は大人であるが、心が、精神が未成熟な人)を持った集団の典型であることを自覚すべきであって、その恥ずかしさも自覚するがよかろう・・・・・
そうでなければ、その増長はやがて報いからのトガを迎えることとなるであろう・・・・

人権を主張したる欧州と言えども、あの思うが侭の植民地政策、奴隷化運動が、やがて二つの大戦争に発展することになるなどは、誰も想定することなどできなかったのである・・・・それも「報い(ツケ)」の一種であるのだ。
まあ、それがあったからこそ「人権」の大切さを学んだには違いないが、今度はそれがない国があると勝手に推察判断し糾弾に向かうなどは、行き過ぎの言語道断・・・・もいいところである。
あの世界を民主化させようと、他国に進軍した何処かの国を彷彿させる・・・・

中国の地震と感動の約束手形。

2008-05-14 23:39:58 | 
中国の地震。
大変です。暴動の時と違って、比較的平地に近いせいか、各国の記者たちも中から情報を発信できているようである。
まあ、昔と違って随分、見て知ることができるようになったものだ。
各国からの人的救援の申し出も、断っているようだが、人手に関しては中国には余裕もあるし、なまじ来られてもその人たちの面倒もみてやらなければならないし、借りを作るのも後々面倒であるから、仕方ないのかも知れない。兎に角、それどころではない実情なのである。
日本だって神戸地震の時、各国からの人的支援は断っていたのだ、中国に軍事的隠蔽の思惑があるような素人考えのくだらない表現方法は、間違っても言うべきではない。そんなものではない、てんやわんやなのである。チベット、ウィグルの様子も見なければならない、情報開示が進んだために海外の思惑も探る、国内人民への配慮も必要だ、オリンピックもある、勿論、救助が最優先であり、生き残った人たちの対応も大事だ、いろいろな問題が波状的に押し寄せてくる。

中国もこういうことが続くと、国債を発行して借金しなければならなくなって、大変ですな・・・・
町村さんは、「5億円出したばっかりで、今度はテントが欲しい、と、言われても・・・・」だってさ・・・・こういうところが日本が信頼されないところなんだよな、今、お金じゃなくて、今、物資(薬、水、食料、テント、トイレ、生理用品、服、ミルク、など)なんだがなあ・・・・
しょうがない、箸にも棒にもならない人ですな・・・・
こんな程度でも要職の用を足せるのだ・・・・
良く日本のカメラや記者を中国は入れていると思うよ。
しかし中国の真ん中で、上海まで人が飛び出すような振動が来たっていうから、すごい地震である。
聖火リレーは止めない方が良い。止めるなら、オリンピックも止めるべきだ。
オリンピックを契機に中国は「真からの開放経済」に向かう、
向かわざるを得ない、向かう方向に舵を切っているのであろう・・・・
右翼的志向の日本人、中国を嫌う日本人たちは、聖火リレーは止めろ!と騒ぐが、それはそのような人たちだから、日本からしか、日本の方向からしか、中国やアメリカも北朝鮮も見れないひとたちだから発生する言動なのである。つまり、視野狭窄の彼らなればこその発言である。
ひとたび、2人称3人称でみることが出来るように訓練されれば、それでも「聖火リレー」をやりたいとする中国の民の気持ちが分かるようになるであろう・・・・
それにしても難問山積ですね、この地震がもたらす影響は、オリンピックまでつづくであろうし・・・・それだけにオリンピックの持つ感動は、筆舌に尽くし難い大会となるであろうことを予測することができる。
きっと前代未聞の感動の大会になるだろう・・・・・
困難辛苦の中での大会は、もうすでに感動を約束されている・・・・・



殺人に至る要素

2008-04-08 07:11:51 | 
私は死刑存置派です。
人間は一人の殺人であっても、同等の罪を負うことにヤブサカではないと思っています。
日本では3人を目安として、1対3で確実なる同等の死刑を課していますが、これはあまりにも不合理な割のあわない目安でありましょう。
殺人の条件からすれば、死ぬこと(この世から抹殺される)の理由には相当の違いがあるでしょう。1対1でも同等ではないのです。
だから、武士の時代では必要以上きつい死刑の方法があったのです。
まして、なぶり殺しや、保険金殺人や、依頼殺人や、解体殺人や、ゴミ同然に捨てられ殺人や、恐怖殺人など、被害者にとっては「人間としての尊厳」も何もなく、この世を去らなければならなかった無念を想起するに、加害者を保護しなければならない理由は何処にもない。

と、まあ、ここまでは前に書いた。
今度は加害者の立場として、論じてもみたいと思う。
強姦・強盗殺人等を犯しながらも、たまたま同情され死刑を免れた者たちは、本来的にはそんなことはしたくないと思ってもいる筈だ、少なくともそうでない人間を救ってはならないのだから・・・・
だから刑務所から出る際は、だれでももうここには戻りたくはないと決めているのである。
しかしながら、罪を再び犯す累犯の可能性が完全に無くなった訳ではない。
人が殺人を犯すには、環境や持って生まれた性質という遺伝子やらに負うところが多いのだ。
激しい感情を抑制する術を持たない、とか、自分本位の冷徹さである、とか、せねばならないと自分の人間性を騙す、とか、殺人しなければならない辛いイメージを、快楽の興奮イメージに変換する、とか、殺人をするための「要素」というものが絶対必要不可欠のものなのである。
これは戦争で人を殺さなければならない状態でも同じことである、だから、戦争時では、それらの感情を持たせるように教育訓練指導宣伝させるのである。

しかし、日本ではこれらを科学的に解明、或いは実践しているとはとても思えない、真似国家、伝達国家日本にそんな進取の気概などあるわけがないのである。
それらの「殺人要素」と言うものを、脳科学からの分野から研究する資金援助が大人社会としては必要であろう、ただ従来からの伝統に頼っていては、いつまでたっても殺人による、強姦による不幸は減らないのである。
一度、殺人や強姦等による興奮快楽を得た人間が、再び同じ間違いを起こさせてしまうのを指を加えて見ていたのでは、その社会は無能と言われても仕方が無い。
加害者も「殺人要素や罪を犯す要素」を除去して欲しいと念願している場合も数多くあるのだ。
それを救ってやるのも、先進社会のやるべき姿であろう。
そして、いつか、外科手術なり、薬物なりでの救済措置が取られるようになれば、多くの罪が捌けるようにもなるのだ。メスを入れるのは邪道だとして、いつまでも安閑としていては、先進国には永遠になれないと思う。



自然の3大定理

2008-02-02 22:18:18 | 
命が掛かっていることが分かると、人は皆、一斉に慌てふためき腰が引けるのです。
これが一発のミサイルだったらどうなるのでしょう・・・・
どうなるのでしょうね・・・・?
それも命中精度がとても悪く、何処へ飛んでくるのか分からないようなものだったら尚更どうなるのでしょうか・・・?

ちょっと先(一寸ほど・・・)の事が読めない幸せ無鉄砲なボンクラちゃんなら、怖さも感じないのでしょうが・・・・少し先を読めるお利巧な人は、きっとパニックになることでしょう・・・・?

私たちの社会は危険が一杯なのです。
そのような危険を回避しつつ、私たちは生き延びていかねばなりません。
だから、あらかじめ「危険領域」というものを目ざとく感じて、その領域に入らないように知恵を働かすかないのです。
喧嘩腰で他国と相対したりすれば、所謂それが一触即発と言われる危険領域に入り込んでしまう訳です。
武器を同等に持ち合って、構えあって、戦争ではない状態(けっして平和状態とは言えぬ)だが、「危険領域」に常に身を置いているのは確か・・・
戦争ではない状態とは・・・?

経済制裁はイコール兵糧攻めと言う「準戦争行為」でありながらも、武器を使用しない故に戦争状態とは言えぬ、しかし、威嚇、脅迫、脅威、圧力があって、平和とも言えぬ。

後方支援も給油支援も武器食料装備支援も、戦争中の片方だけに肩入れすれば、それも「準戦争行為」当然に敵方に力がありさえすれば、一方の相手方を孤立、或いは、撤退させるために支援勢力を先ず叩くであろう・・・・

従ってこの両方の状態「危険領域」を「平和」状態と定義してはならない。
戦争ではない状態は、必ずしも平和とは言えないのだ。

①ありとあらゆる部分に於いて、「バランス(中庸)」を崩している状態、それは「危険領域」に入り込んでいる状態なのだ。

②生命の源である細胞と同様に、ありとあらゆるものの「新陳代謝」を失っている状態、これも「危険領域」なのだ。

③森羅万象、ありとあらゆるものは亀の甲羅よろしく、互いに繋がり合い、影響し合い「持ちつ持たれつ」にて成り立つもので、それは、地球号という360度大パノラマ世界の中で構成される「和一定」が、その起源である。
従って、ひとつの甲羅の僅かの傷から、その構成はバラバラにされ「危険領域」に至る。

これらの要素は私が「自然の3大定理」と位置づけしたもので、ありとあらゆるものに共通して、包含されるものである。

この他にあるかも知れないが、私に今、分かっているのは、これら3点が最も重要な要素たりうるものである、と言うことなのだ。

これらは、国単位、世界単位を超越して逆らうことのできない、厳しい自然のシステムなのであり、あらゆる全ての法体系、社会思想、社会システムもこの自然の持つ定理をないがしろにしては、あり得ないことなのだ。

これを無視して事を行おうとすれば、自然からの鉄槌は受け入れるしかない。








自衛という名の戦争

2007-12-11 23:19:31 | 
歪んだ右翼思想(自愛国思想)が次第に追い込まれて、多分、中曽根さんの大連立すべきと言う言動は、最後の悲鳴にも似た宣言であろう・・・
世界の動向は、主義主張を乗り越えて「合同・合議」の時代に入ってきているのであり、それが、互いの疑心暗鬼の心を溶かしていく知恵を各国が学びつつあるのである。

自衛、防衛であったとしても「戦争」は戦争であり、テロも「戦争」であるのだ。
そこで国民の多くが犠牲的精神を強いられるのは、国を形成したる国民としては常道である。
ユメユメおめでたく自衛隊が、私たち国民を守ってくれるなど容易く信ずるものではない、自衛隊のペーペーと極楽気分の幸せな感性を有するような人たちのみが信じているだけなのだ。
自衛隊は、日本の天皇以下の体制や国を守るのが本質であるからだ。

次に今までの戦争をイメージして、これからの戦争を語ってはならない。
昔の日本の戦争は、遠く満州の方で勃発して、やがて敗色が濃くなるにつれて日本本土へやってきたものであるが、満州事変時は、本土日本では、みんな会社に向かい、普通に生活もしていたであろう・・・騒いでいたのは、政治をする人、マスコミ、軍事産業関係や、軍人たちだけであったろう・・・ほとんどの人たちは強盗に行かんとしていることを知らなかったのである。
しかし、これからの日本の戦争は、島国である特性上ミサイルが主役に登場する筈だ。
それも、超大国との戦争ならば配慮もあって効率的な軍事施設のピンポイント攻撃をするであろうが、そうでない国との争いでは、シッチャカメッチャか情無用の戦争になる確率が高い。その悲惨さは第二次世界大戦の比ではないだろう・・・?
何故なら、ひ弱であればあるほど、効果的な戦争を目論むからである。
効果的な戦争とは・・・命令系統の寸断が一番にくる。次に怒りに燃える国民の出鼻、恐怖を植えつける事であろう・・・?
ミサイルに何も積み込まれていなくとも、パニックには十分である。

9.11にそれが現われている。国防省、ホワイトハウスヘの狙いである。
オーム真理教の霞ヶ関を中心としたサリン事件でも良く出ている。
それは、自衛隊と敵方軍隊との戦いではないのだ、ミサイルと素手の民衆との戦いなのだ。自衛隊はややもすると戦争やテロを「誘発」する道具や材料になる可能性も多大である。

それやこれやで考えるに、武器(今更ながら腕力)を持つほど、腕力(強さ)を国家の価値観に置くほど小人で愚かなことはないのである。
その腕力に頼って失墜したのがアメリカブッシュさんのネオコンの例であったのだ。
どんなに強力な腕力を有していても、超大国という壁がなかなか使うことも実際にはできず、冷酷にもなれないのだ。


右より意見の踏襲

2007-11-23 08:28:51 | 
最近、あまりニュース種といったものがあまり見受けられず、私の出る幕もないのだが、まあ、近々解散総選挙へのシナリオの秒読みが始まったか?・・・・なんて事くらいですかね・・・・・

そういうわけで、各テーマごとに他の方たちのコメントを拾いに行っているのですが、概して「右よりの意見」を述べておられる方々は、批判コメントがお嫌いらしい? 私がコメントを書きたいと思っても、「ログインしてください」とか、「一切受け付けない」とか、面倒くさくなっている。
「じゃあいいや」と私の面倒くさがりを引っ張り出すのだ。

「万機公論に決すべし・・・」でやればいいのに、と思う。
「左よりの意見」にもたまにはあるが、多く受け付けないのは右よりの意見の方である。
これは他人の意見に聞く耳もたず、独りよがりの考え方に基ずくものであろう・・・・?
思想の発展を阻害するものだ。
自分の考え方を全て「良し」で判断していては、器の程度が知れている。そんな器の器量で政治の言動やら行動やらをされたら、適わない。
しかし、一方、やっぱりその人たちの面倒くさがりの性質もあるのだろう・・・・?いちいち反論も大変だ、私もいちいちお答えしてはきたが、大変であった。

それから、「右より意見」は、罵倒などのチンピラヤクザ風の言動を持って威嚇しようとする方々も多い。
ちょっとでも「左より意見」を述べようとすればたちどころに猛烈に叩いてくる。
それが右傾の彼らの正体かも知れない・・・・?(右翼の街宣車に乗る彼らのいかにもヤクザ?・・・らしい、舐められんと牽制威嚇する顔つきの傲慢さに共通する)
それが炎上の事態を招くのであろう。

「右より意見」は「左より意見」共々、どちらも「偏り意見」であって、無理やりの論拠を示す場合が多い、それが私に指摘されてしまうところなのだ。
偏りは、ご存知のように、  「病気をもたらす」   ひどい時は、死ぬことにもなる。その精神的、生活習慣病のツケは簡単には完治し難い・・・・?

彼らは、批判意見、耳障りな意見、には耳を傾けようとしない、「信念を疑念に変化させられることを極端に恐れる」だから「迎合ファン」や「生粋の右翼の煽ての応援歌」で取り囲まれる、そして、たむろ(群れる)する。
度々、良く、「右翼の巣窟」に出喰わす。
どういう訳か「左翼の巣窟」にはお目に掛かったことがない。

右翼の巣窟でコメントしようものなら、大変!
全員で叩き出してくる、それも何の理屈も何もない、異端の細菌が進入してきたくらいにしか、思われないのだ。
しかし、「一石を投ずる」意義はある。「右より考え」であっても、深く入っている人と、懐疑的な人と、いろいろ居るのである。
違った考えをその輪の中(右より意見)に入れることは、重要な意味を含んでいるのだ。



戦さ

2007-04-13 07:00:32 | 
「戦争」も江戸幕府以前の「戦」も、事の本質は変わらぬ。

良くテレビなどでは、NHKの大河ドラマしかり、小説を書く司馬さんなどもしかり、歴史上の人物や事柄を歪曲して格好良く描くが、現実の「戦」はそんなものじゃない。
今の企業と照らし合わせてみるがい。
槍、刀、竹槍、鍬、木の枝、石ころ、投げたり、突いたり、のビクビクした戦いだ。
実際のお抱え侍は、後ろで逃亡を計る者たちの監視役でしかない、所謂。この実戦をする者たち(高給で雇った浪人や遊び人や悪者や与太者、高給の募集で集まった者たち、憧れの威張れる侍に成りたがっ者たち)強制でみんな「馬鹿らしい」と逃亡を企ててしまえば、お抱え侍たちは丸裸も同然、最後は開き直りか、逃亡しかない。

お金のふんだんにある大名たちは、雇い侍に戦闘服も着せられたでしょう、刀、鉄砲、鎧も持たせられたでしょうが、大抵は仕方なく参加させられ、着の身着のまま命令一過前線に引っ張り出されてその他大勢として散っていくのみであったろうに・・・・

戦さを「お祭り」意識で参入する者もある、刺激を求める者たちもいる、しかし、毎日の生活の維持に懸命になっている者たちも多くいる。
みんなが、老人も女性も子供も、その「戦さ」のために動くのである。
そして、帰って来るのは、屍と涙と途方に暮れる生活だ。