昨日と言い今日と言いなんか予定していたことが出来ず連日不運な日が続いている。
昨日の日記には 記述していなかったが実は故郷の街を管轄している土木工事事務所の職員が来る手筈になっていたのに来なかったため自宅に夕方までいたが結局何の連絡もなく5時まで自宅にいたが、その後北方面のスーパーへ買い物に出かけたことになる。
付いていない時はついていないことが続くもので北方面のスーパーへ行く途中の道が工事中で大きく迂回をしないと通れないことになっている。
時刻は午後5時20分頃だったので通常なら工事は済んで仕舞いかけているか、すでに帰っている時刻である。
仕方がないので、遠回りしてスーパーへ到着し色々見て回って買物を済ませ、帰りには先程の工事中のところも終って通れるようになっているだろうと思ったが結局まだ工事を行なっていて帰りも遠回りとなった。
涼しい時季なら左程どうってことはないが、6時近くになってもなお気温は高く、道路や壁からの輻射熱で結構温度が上がっているだけにウンザリするものである。
自宅に戻って買って来たものを冷蔵庫などに収納して直ぐに汗だくの服や下着を着替えて急いでバス停まで行き、木曜ダンスのレッスンに出かけた形になっている。
また今日はと言えばこれも夕方だが、買物に出かけようと思ったが、昨日の買物を済ませた後の金の手持ちが殆んどなくなっているため銀行のキャッシュコーナーに行ったが、取扱い機器の表示を見ると「取扱いできません」となっている。
私より先に40代ぐらいの男性が別の取扱い機器付属の電話を掛けているので最初は何かわからなかったが、私もその機器の電話を上げて主幹している銀行の支店に電話を入れようとしたがアナウンスだけが流れて「ただ今混み合っておりますのでしばらくお待ちください」と言うことで待っても待っても一向に繋がる気配がないので自宅に戻ることにした。
今日どうしても、買物をしなければならないということもないので戻って来たが、昨日と言い、今日と言い付いていないことが続く。
ところでスペインのバルセロナで多数の犠牲者や重症者が出たテロが発生したかと思ったら、バルセロナの南100km程の町でも同様のテロが起きたとの報道に接し警察では詳細はまだ調査中とのことだが、本当にイヤな世の中になったものである。
何の罪もないたまたまその場に居合わせた人々を殺傷するなんてどういう神経をしているのか脳の中身を見てみたいものである。
テロを実行した者の言い分が何のためなのか知らないが、要するに自分たちの主張が通らないから卑劣なテロを行なっているとしたら自分達の行為を正当化できるはずがない。
ということは例えばISなどは偉大なイスラム国を作るのだと言って大きな目標を掲げてさも立派なことを言ってる割に平気で人を殺し、幼女迄も誘拐し功績のあったものに対して褒賞としてその誘拐した幼女(処女)4人と連夜一緒に寝たなんてことをやっている。
結局は「アッラーアクバル」(アラーは偉大なり)と言ってさえいれば自分は救われるということを盲信しているとしか思えない。
つまり自分は救われるが、他人はどうでもいいという発想である。
一神教のもっとも大きな問題点で日本人の宗教感とは全く相容れないものである。
神が正しいなら、そんな行為が許されるはずがないのにそういったことが現実に起こるということは私達日本人には到底分かり得ない確執があるとしか思えない。
今、キリスト教徒である欧米人が心の安らぎを求めて仏教に帰依する人が増えているということである。
つまりイエスかノーと言う世界に付いて行けない人が多くなっているということ、若しくは世の中のすべてを神が作ったという一神教の世界では食事を摂るにも、寝る時にも神様にだけ感謝するということだが、そこに何か違和感を持つ人が増えているのかも知れない。
が逆に私達日本人は、食事の前に「頂きます」と言うが、神様だけじゃなく、その食物の命を頂く、或いはその食物を育てたり、食物を獲ったりした漁師や農民に対して感謝するという意味合いでもあると親から教えられて育って来た訳である。
考えてみれば我々日本人にしか備わっていない感覚の方が人類が一緒に生きて行く為には重要なんじゃないかと思える訳である。
昨日の日記には 記述していなかったが実は故郷の街を管轄している土木工事事務所の職員が来る手筈になっていたのに来なかったため自宅に夕方までいたが結局何の連絡もなく5時まで自宅にいたが、その後北方面のスーパーへ買い物に出かけたことになる。
付いていない時はついていないことが続くもので北方面のスーパーへ行く途中の道が工事中で大きく迂回をしないと通れないことになっている。
時刻は午後5時20分頃だったので通常なら工事は済んで仕舞いかけているか、すでに帰っている時刻である。
仕方がないので、遠回りしてスーパーへ到着し色々見て回って買物を済ませ、帰りには先程の工事中のところも終って通れるようになっているだろうと思ったが結局まだ工事を行なっていて帰りも遠回りとなった。
涼しい時季なら左程どうってことはないが、6時近くになってもなお気温は高く、道路や壁からの輻射熱で結構温度が上がっているだけにウンザリするものである。
自宅に戻って買って来たものを冷蔵庫などに収納して直ぐに汗だくの服や下着を着替えて急いでバス停まで行き、木曜ダンスのレッスンに出かけた形になっている。
また今日はと言えばこれも夕方だが、買物に出かけようと思ったが、昨日の買物を済ませた後の金の手持ちが殆んどなくなっているため銀行のキャッシュコーナーに行ったが、取扱い機器の表示を見ると「取扱いできません」となっている。
私より先に40代ぐらいの男性が別の取扱い機器付属の電話を掛けているので最初は何かわからなかったが、私もその機器の電話を上げて主幹している銀行の支店に電話を入れようとしたがアナウンスだけが流れて「ただ今混み合っておりますのでしばらくお待ちください」と言うことで待っても待っても一向に繋がる気配がないので自宅に戻ることにした。
今日どうしても、買物をしなければならないということもないので戻って来たが、昨日と言い、今日と言い付いていないことが続く。
ところでスペインのバルセロナで多数の犠牲者や重症者が出たテロが発生したかと思ったら、バルセロナの南100km程の町でも同様のテロが起きたとの報道に接し警察では詳細はまだ調査中とのことだが、本当にイヤな世の中になったものである。
何の罪もないたまたまその場に居合わせた人々を殺傷するなんてどういう神経をしているのか脳の中身を見てみたいものである。
テロを実行した者の言い分が何のためなのか知らないが、要するに自分たちの主張が通らないから卑劣なテロを行なっているとしたら自分達の行為を正当化できるはずがない。
ということは例えばISなどは偉大なイスラム国を作るのだと言って大きな目標を掲げてさも立派なことを言ってる割に平気で人を殺し、幼女迄も誘拐し功績のあったものに対して褒賞としてその誘拐した幼女(処女)4人と連夜一緒に寝たなんてことをやっている。
結局は「アッラーアクバル」(アラーは偉大なり)と言ってさえいれば自分は救われるということを盲信しているとしか思えない。
つまり自分は救われるが、他人はどうでもいいという発想である。
一神教のもっとも大きな問題点で日本人の宗教感とは全く相容れないものである。
神が正しいなら、そんな行為が許されるはずがないのにそういったことが現実に起こるということは私達日本人には到底分かり得ない確執があるとしか思えない。
今、キリスト教徒である欧米人が心の安らぎを求めて仏教に帰依する人が増えているということである。
つまりイエスかノーと言う世界に付いて行けない人が多くなっているということ、若しくは世の中のすべてを神が作ったという一神教の世界では食事を摂るにも、寝る時にも神様にだけ感謝するということだが、そこに何か違和感を持つ人が増えているのかも知れない。
が逆に私達日本人は、食事の前に「頂きます」と言うが、神様だけじゃなく、その食物の命を頂く、或いはその食物を育てたり、食物を獲ったりした漁師や農民に対して感謝するという意味合いでもあると親から教えられて育って来た訳である。
考えてみれば我々日本人にしか備わっていない感覚の方が人類が一緒に生きて行く為には重要なんじゃないかと思える訳である。
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