(京都大学文学部東館)
1952年高橋和巳4回生21歳。吉田内閣が破壊活動防止法を国会に上程したため全国で労働者学生の反対運動がわき起こった。京大文学部の学生自治会も学生大会を開きこの法案に反対して5月1日のメーデーにストライキを打つ事を決議し、当日、学内集会の後に労働者の街頭行進に参加した。これに対して大学当局(服部峻治郎学長)は学生の責任者3名を停学処分にした。
高橋和巳は、この措置に抗議し文学部の他の学生2名とともに学長室前廊下でハンストに入った。後に発掘された高橋のメモには、「社会が何者かの手によって狂気の領域へと導かれる時代に、弱々しい個人としてなしうる抵抗は、無為かあるいは小さな自己犠牲だけであるだろう」とその動機が書かれている。
結局、ハンストは5日目でドクターストップがかかって終了したが、その間、各学部は次々とストライキを打ち、後に全学ストライキへと発展した。高橋は情念だけの人ではなく行動の人でもあったエピソードである。
このような活動の一方で、この年の十月には親友の小松左京らとともに発行した「現代文学」に捨子物語を発表するなど活発な文学活動を続けている。
(いまも陰鬱な回廊の片隅に学生自治会のボックスがある)
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