日本では数年前に発表された理研のスタップ細胞が社会問題にまでなったが、論文の内容に再現性のない話はごまんとある。製薬会社AmgenやBayerHealthCareが臨床前研究の論文成果を検証したところ、再現性が得られたのはわずか25%であったという(Nature483,531-533, 2012)。論文内容でも統計処理が誤っていたり、不適切であるケースが多いらしい。再現性ナシの論文はインパクトファクターが20以上の有名雑誌でも同様の割合で見られるという。
雑誌の査読者(レフェリー)は投稿論文の実験などをいちいち追試しておれないので、記述の内容がおかしくなければ掲載可と言わざるをえない。庵主は、実験系もフィールド系も理系論文の半分ぐらいは再現性がないのではと疑っている。膨大な予算を使って科学者の生活を支えるために「論文」というゴミが地球に増えていく。
大発見などというものは滅多にないので、業績を上げるためには、そこそこの内容の論文をいくつも書いて、数で研究者の評価値を上げる必要がある。論文という実績が無いと科研費があたらない。最近は運営交付金が減らされて科研費が無いと大学では研究ができない状態である。publish or perish(書かざるものは消えゆくのみ)というわけである。さらにpublish and perish(いくら書いても消えゆくのみ)という時代になってきたそうだ。論文はあって当たり前で、そのインパクトファクター (IF)が大事だというのである。指数関数的に増える論文の山の中で、ありふれた研究をしていてもゴミのように埋もれてしまうだけである。少しでもいい仕事をして著名な雑誌に論文を掲載したいと思うのは研究者の本能である。
IFは、それが掲載された論文の引用頻度を比較した指数に過ぎない。すなわち、その分野での論文の重要性を査定して決めたものではないのである。そもそも研究者人口が多い分野の雑誌は当然、IFは高くなる。NatureやScience, Cell, PNAS, Lancetなどの有名雑誌はIFがべらぼうに高い。一報出すだけでIFを30点以上も稼げるのである。まあまあの生理学関係の雑誌のIFが1.0あるかないかだから、30報も稼いだことになる。研究でちょっとした発見をしたと思う色気のある科学者はこれらの雑誌に一回は投稿してみる。しかし、うぬぼれ屋はこの世にごまんといるので、掲載率は低い。ほとんどがリジェクト(掲載拒否)される。上で述べたNatureの記事でも、再現性のない論文がむしろ引用頻度が高かったと述べている。IFが本当に論文の価値を反映しているのか疑問だということは前から言われているが、大学や研究所で人事の査定の際に候補者の論文リストからこれが計算比較されるケースもある。
ワトソンとクリックによるDNA(遺伝子)の二重螺旋の発見は、Nature誌 (1953)にたった一枚の論文で発表され(図)、これがノーベル賞の対象になった。大事なことは総合的に何が創造的であったのか、何を本質的に進歩させたかのかということであろう。論文が多いとか少ないとかは指標ではないと思う。有名雑誌に掲載されたとしても再現率が確率として20%であるのなら、必ずしも評価の得点にならないのではないだろうか?
( ワトソンとクリックの1953年Nature論文。この短い論文が人類の生物
に対する認識を決定しただけでなくその後の文明と文化に革命的な影響を与えた)
先日久しぶりに、ある国立大学の理系学部の図書館に文献を閲覧に行った。雑誌を並べる書架を見るとガラガラに空いている。お目当ての雑誌も購読中止になっていた。どうしたことかと図書の事務員に聞くと、最近、大学ではほとんど電子ジャーナルに変更になり、冊子体は経費節約のために購入をやめているとのことであった。電子ジャーナルは学内で手続きをすれば利用可能であるとのこと。確かに、これを利用すれば図書館に出向いて、いちいち雑誌から論文をコピーしなくても、自分のパソコンにダウンロードすれば、簡単にコピーが手に入るので便利ではある。ただ、学外者は使えないから、冊子の場合のように、許可を得て図書室で読めるというものではない。それに、古い世代にはバックナンバーが並んでいないと、雑誌が「仮想現実」のようで不安で仕方がない。
この電子ジャーナルは、印刷代や郵送の手間がいらないので費用がかからないかというとそうでもない。冊子体と変わらないくらい結構な値段がするらしい。一つの研究室では、これを購入するとかなりの負担となるので、関連する部局や教室が共同で出資することになるが、いくつも雑誌をとるとバカにならない。Elsevier、Wiley-Blackwell, Springerなどの商業出版社が独占資本化して、投稿料も講読料も意のままに釣り上げている。一方で、オンライン上で無料かつ制約無しで閲覧可能な学術雑誌を運営する良心的なオープンアクセスジャーナル(OA:open access journal)が開設されている。最近ではこれに投稿する研究者も多い。しかし、どのような形態にせよインターネットを経由する電子的ジャーナルは、それを管理運営する会社が破産しサーバーが停止すると、その雑誌の過去の論文が全く読めないということになる。国会図書館ではこう言った電子ジャーナルはどう扱っているのだろうか?
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます