京都の若冲巡り
今年は伊藤若冲生誕300年ということで、それを記念して様々な取り組みがみられる。 京都は、異能の絵師と言われる伊藤若冲の生誕の地であり、その事跡と生涯にわたる作品が見られる。今回は、若冲を巡る京都近辺の一日ツアーを企画したので、しばらくおつき合い願いたい。ツアーは京都の台所と言われる錦市場から始める事にしよう。
伊藤若冲は、享保元年 (1716年)に京都錦小路の青物問屋「桝屋」(通称桝源)の長男として生まれ、二十三歳で家督を継いだが趣味の作画にふけったと言われている。若冲が住んでいた桝屋は、錦小路と高倉通りの交わる角にあり、南北に広がる大きな敷地と屋敷を有していたようである。若冲は、庭に数十羽の鶏を放ち、その姿を描き写生の練習をしたといわれる。このあたりは、今やビルや店舗が乱雑に建て込んでいて面影もないが、錦市場の入り口の角に「伊藤若冲生家跡」と書かれたモニュメントが設置され、説明板がおかれている。ちなみに、若冲と同年生まれの与謝蕪村は、晩年、烏丸仏光寺を西に少し入った長屋に寓居を構えていた。若冲の住まいから歩いて、わずか数分ほどの場所で、町内の散歩で二人がばったり顔を合わせても不思議ではない。
写真1錦市場高倉通付近
若冲は、家業に精を出さない「おたく画家」と考えられていたが、最近になり「京都錦小路青物市場記録」という当時の錦市場の動向を伝える史料が出てきて、そのイメージが一変した。それには、錦市場の存続に係わる奉行所の営業認可をめぐり、若冲は精力的に活動をおこない、その結果、錦市場は窮状を脱することが出来たと記されている。若冲は青物問屋の家督は弟にゆずっていたが、市場の組合委員長として立派に活躍していたようである。買い物客で混み合う錦市場を見物した後、西にしばらく歩くと、東洞院通りの角に古風な木造の八百屋さんがあり、その店頭には、京野菜がたくさん並んでいる。ここの方が錦市場より、なんだか「若冲風景」のような気がする。この八百屋のおじさんにはいつも「頑張れよ」と声をかけたくなる。
四条烏丸から地下鉄に乗り、次の目的地である相国寺に向かう。烏丸丸太町で降りて同志社沿いに東へしばらく行くと、相国寺の山門へと続く参道に出会う。松林のような境内にある庫裏のわきから北へ回り込むと、承天閣美術館がある。ここは、相国寺・鹿苑寺・慈照寺・他塔頭寺院に伝わる美術品を保存•展示しており、若冲作品も多数、所蔵する。若冲は相国寺の大典顕常と深い親交があった。大典は若冲の天才性を見抜き、また若冲も大典を禅師と仰いでいたと言われる。
若冲は十数年かけて花鳥画・動植彩絵30幅を完成させ、釈迦三尊像とともに相国寺に寄進した。「動植彩絵」は明治になって宮内庁の所有となったが、平成十九年には里帰りし、承天閣美術館で一般展示された。これには多数の観覧者が押しかけて、たいへんな混雑であった記憶がある。中には「ワカオキってすごいね」といいながら観賞している若者達の姿もみられた。動植彩絵は、いずれもこの世のものとは思われぬ構図と色彩を見せていたが、「釈迦三尊像」と並べられて一連の仏画であることを認識したと梅原猛先生は述べておられた。一木一草の中に仏を見るという華厳思想が表現されていると言うのである。
この美術館には、鹿苑寺大書院を飾っていた若冲の障壁画や襖絵が展示されている。中でも三之間に描かれた「月夜芭蕉図」は、累々と茂る芭蕉の巨株に満月がかかる所を描いた傑作である。また、この美術館が所有する「売茶翁高遊外像」は、若冲の描いた唯一の人物像画として有名である。売茶翁も若冲に影響を与えた京都の文化人の一人である。この美術館には、他にも「立鶴図」「葡萄栗鼠図」「海老図」など、若冲ならではの構図の水墨画がある。「海老図」は、「伊勢海老図」(国立京都博物館編「伊藤若冲大全」作品150)や蘭亭コレクション(楽蜂蔵)の「蝦図」など、よく似た作品がある。いずれも筋目書きの技法が絶妙で、「千画絶筆」の朱方長方印が押されており、晩年の頃に描いたお正月用の慶賀図であろう。
若冲の遺髪を納めた墓などを見学したら、相国寺を出て、次の目的地である細見美術館に向かう。今出川通りを東に進み、百万遍で南に下り、途中で降りて、仁王門通りを岡崎方向にしばらく歩くと疏水に出る。その側に、地味な建物の細見美術館がある。ここも若冲のコレクションを多数収蔵している。多くは細見家二代目の細見實が収集したものである。中でも秀抜な作品は「鶏図押絵貼屏風」(六曲一双)であろう。若冲は生涯、鶏を描き続けたが、このふすま絵は代表的なもので、尾のはね曲がった奇妙な形が鶏の多様な個性を表現している。
細見美術館には、筆者が好きな作品の一つである「糸瓜群虫図」がある。ヘチマの黄色い花が咲き、それが小さな実から大きな実に成長する様と、11種類の動物(昆虫9種とマイマイとカエル)を描いたファンタジー画である。中には判別不明は奇妙な形をした虫も見える(スズメガの幼虫という説があるが)。この絵の署名『平安若冲製』は固い筆跡で、桝屋の家督を譲る直前の制作とみられる。この絵のモティーフは、動植彩絵の一幅「池辺群虫図」へと発展した。この他、この美術館には「瓢箪牡丹図」「鼠婚礼図」「伏見人形図」など、観ていて心がなごむ作品が多い。
細見美術館からすぐ近くに、東大路に面した信行寺がある。信行寺には、若冲の天井画「花卉図」があることが知られている。先年秋、公開されたが、今はされていないので、これを横目に南下し、次の訪問サイトである京都国立博物館に向かう。
京都国立博物館は東山七条にある。この博物館が所有する若冲の水墨画の中で、最も有名なのは畳一枚ほどの大きな画面の「果蔬涅槃図」である。二股大根を入滅する釈迦に見立て、弟子である野菜や果物がその死を悲しんでいる。沙羅双樹は玉葱の茎と葉になっている。青物問屋を営んでいた若冲は敬虔な仏教徒であったので、草木も野菜も成仏するという「草木国土悉皆成仏」の思想をもって描かれてものとされているが、人並みはずれた洒落っ気が画面に表われている。
写真2若冲作「果蔬涅槃図」(京都国立博物館蔵)
さらに、ここの若冲作品の中で圧巻は、何と言っても水墨画の点描という特殊な技法を用いた六曲一双の「石灯籠図屏風」であろう。水墨の濃淡が御影石の質感を表現している。他に、拓本の要領で作られた特異な作品で淀川の風景を幻影的に表した「乗興舟」がある。ここでは平成28年12月13日~平成29年1月15日の間、若冲生誕300年を記念した特別展示が予定されている。
京都国立博物館での見学が終れば、七条通りを西に少し歩き京阪七条駅から電車にのって深草駅で降りる。ツアー最後の目的地、石峰寺は駅から東に歩いて十分程のところにある。この寺には、若冲の遺骨を納めた墓があり、そこには「斗米庵若冲居士」と刻まれている。隣には円筒形の筆塚がある。本堂の裏山には、若冲が制作した五百羅漢石像があちこちに置かれている。一部は風化しているものがあるが、何事かを語る風貌がそれぞれ面白い。若冲は還暦を迎えたころから、五百羅漢の制作をはじめた。その資金を捻出するために絵一枚を米一斗に換えたために斗米庵と称した。天明八年(1988)の大火で焼けだされた若冲は、石峰寺の門前に移りすみ、寛政十二年(1800)に85歳で死去した。当時としてはまれにみる長寿であった。
写真3石峰寺の若冲の墓と筆塚
この他、京都市内には若冲ゆかりの宝蔵寺(中京区裏寺町)がある。この寺には伊藤家先祖代々の墓があり、「髑髏図」「竹に雄鶏図」などの水墨画を所蔵する。また左京区鹿ヶ谷には泉屋博古館があり、目白押しを描いた「海棠目白図」を持つ。
京都市内とはいかないが、大津膳所の義仲寺•翁堂には若冲の天井画「四季花卉図」がある。杜若、菊、朝顔など若冲風の花画を観賞できる。原画は傷みが激しいので別に保存され、ここにあるのは精巧な複製だが、常時、観覧できる。 義仲寺は、京阪電車で浜大津を経由して膳所で降り、歩いて15分ほどの距離にある。このお寺は、松尾芭蕉と木曾義仲の墓所として有名である。こじんまりした寺なので短時間で観光できる。
さらに、滋賀県甲賀市信楽にあるミホミュージアムも多くの若冲作品を所有しているので、時間がゆるせば訪れてみるのもよい。このミュージアムはすこし不便な場所にあるが、JR石山駅からバスが出ている。ここには「双鶴•霊亀図」「松鶴図」「象と鯨図屏風」などがある。陸と海で一番大きな哺乳動物を対峙させた「象と鯨図屏風」は、若冲の独創性と想像力の豊かさを示した傑作の一つである。これらの情報を参考にそれぞれの若冲を楽しんでいただきたい(楽蜂)。
付記: 京都市美術館では若冲生誕300年「若冲の京都 KYOTOの若冲」を10月4日(火)~12月4日(日)の間開催している。