日々、あんのん。

からだの育ちの凸凹、学習のスタートラインにつけない人のもっと学びたい、発達したいを応援します。

お疲れちゃ~ん。

2016-04-25 22:35:03 | 日記
 友人が、クリームバスに来てくれました。
やりながら、「圧が強すぎたら、言ってね。」というと、
「うん。大丈夫。」との答え。

 「大丈夫」というときは、弱すぎたり、強すぎたりすることがあるので、
「遠慮なく言ってね。もっと、強めが良かったら、強くするよ。」と、
アロマトリートメントでは強めの圧が好きな友人に声をかけると、
気のせいか、笑いをこらえるように、
「いや、ちょうどいいから。」というので、そのまま最後までやりました。

 終わってから、
「圧ね、私にはちょうどいいけど、他の人には強いかも。力強いからね。」
との発言が!

 さては、だから、笑ったんだな!

 ちゃんと、強弱、つけられるので、心配ご無用!でござるですよ。

 早朝の仕事で、4人組で後片付けをしていた同僚がいました。
しかし、途中から、3:1になっての作業になっていました。

 3人の人たちは、なんとなく、この冷たく、力の居る作業、みんなでしようよ!という空気感満載。
1人でしている人は、こっち手伝ってよ!感満載。

 すべての作業が終わってから、
3人組は冷たく、力のいる作業の成果を語り合っていました。

 1人で作業した人は、
「私、ひとりで運んだんです。でも、あっちの作業の方も大変そうでしたもんね。」と
相手を労りつつも、ひとりでの力仕事に、苛立っていました。

 「ひとりで、大変だったね。おつかれさま。」というと、
満面の笑みをしながら、
「いや。あっちの作業の方が、冷たいし、大変だから!」と言って、
キラキラの笑顔になっていました。

 そうかぁ。
大変さをわかってほしかったのかぁ~と、
頷くことでした。

 人の心の綾は、案外、単純なもつれ方なのかもしれないなぁ。
そんなことを考えた、早朝の仕事終わりでした。

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自己肯定感雑感。

2016-04-24 20:13:34 | 発達応援
 今日は9時半頃に家を出て、15分ほどの隣町へ行きました。
今週は雨が続くようだからなのか、もう、田起こしをしているところがありました。
その時は、雨の中、トラクターが行ったり来たりしているだけの風景でした。

 しかし、3時間後、同じ場所を通ると、田起こしした柔らかい土の上には、
カラス、アマサギ、シロサギ、アオサギ…、どこから来たの!見てたの、田起こし!?
というくらいの鳥たちが集まっていました。

 色々調べてみても、鳥は嗅覚はあまり発達していないらしいので、
田起こしした、あの独特の土の匂いに誘われて…という感じではなさそうです。
鳥は、視覚がよいようですが、私が最初に通りがかったときには、
雨も降っているし、飛ぶ鳥もいないし、周りの木々にそれらの鳥が止まっていた感じもしませんでした。

 すごいぞ、鳥!
こわいぞ、鳥!

 今日は「自己肯定感」ということについて、考えてしまいました。

 ある会の中で、保護者の方がご自身のお子さんについて、
小さい頃に、自己肯定感を育んであげられなかった、幼稚園でも周りの子よりできなくて、
そのことを友だちにもあれこれ言われ、先生にも言われたので、
もう、大きくなった今、「できたね。」と褒めても、
「●●ちゃんよりできてない」とか「全然だめだし」とちっとも認めない。
以前より、ずいぶん成長しているのに、
小さい頃に自己肯定感を育んであげられなかったからだ、と痛感している、
というようなことをお話しされました。

 自分ができたことを自分で認められない、
「どうせ、自分はだめだ…」というお子さんの姿を見るのは、
まだまだ、やればどんどん伸びることがわかっている、私たち大人、
ましてや、近くでそれを見ている保護者の方は辛いことだろうなぁ、と思いつつも
別のことも考えていました。

 子どもさんが他の子と自分を自身で比較して、「ああ、自分はできていないな。」と落ち込んで、
「私、ちっともできてないよ!」という姿は、
本人の中に自分を客観的に見る力、メタ認知ができているということです。

 きちんと、自分のことを客観視できる子に、
「すごい!」「できる!」といくら声かけしても、
それは「空褒め(からぼめ)」にしかならないのではないかなぁ、と思うのです。

 以前、私が一緒に勉強している子と、中々できない課題に取組んだことがありました。
その子は、「できない!」と悔しがり、今にも投げ出しそうな気配もありました。
私はその子が課題を投げ出さずに最後までやり通せるように、良かれと思い、
少しではありましたが手助けをしました。

 その甲斐もあり、その子は涙を流しながらも課題をやり通せたので、
できたあとに、「がんばったね。」とハイタッチの手を差し出すと、
ハイタッチより先に、その課題をぐちゃぐちゃにして、
わーんわんわんと大泣きしていました。

 「そうか、手助けしてもらったのが悔しかったんだね。次は、ひとりでもできるよ。」と言いましたが、
「もう、しないもん!」と言ってその日は終わりました。

 自分の思っていた力を出し切れるはずが、出し切れなかった悔しさ。
やり遂げることはできたけれど、それは自分が思った形でのものではなかった。
そんな達成感のない感情の中で、ハイタッチを求められても…。

 ああ、空褒めだったな、と私自身反省したのでした。
そこで、次にその子と会ったとき、同じ課題に取組むか聞くと、
躊躇しながらも、「やる」といったので、私は一切手を出さず、見守ることにしました。

 子どもは「できないなぁ」「むずかしいなぁ」「いらいらするなぁ」といいながら、
私は途中、口で説明をしたり、冷静になるようにうながしたりしながら、手は出さず見守りました。

 時間はかかりましたが、自分でやり通せたとき、
その子からハイタッチの手が出て、顔は満面の笑みでした。

 子どもには、自分自身の理想の自分があり、そこに近づくために、
もがき苦しんでいることがあるのだと思います。

 幼い頃に褒められて育つことは大事かもしれません。
でも、自分自身のことで考えても、私は決して褒められてばかりの子ではありませんでした。

 よその家で行儀よくしておくことや、大人の中で黙って自分なりに遊んで邪魔をしない、
そんな点では褒められる子どもでした。

 一方で、幼稚園では毎日、幼稚園に着くと「行かない!」と門にしがみつき泣き叫ぶし、
手先が不器用で持ち帰る工作は「また、ゴミを持って帰ってきた!」と母に言われ、
ワークブックでは何やら、へんてこな間違いをして近くの友だちに突っ込まれ、めそめそしていました。

 きっと、子どもながらに落ち込むこともあったかもしれませんが、
そんなことはちっとも覚えていません。

 子どもの工作に「ゴミを持ち帰る!」と辛辣なことを言う母が居たけれど、
他の誰かと比べて、何か言われたことはなく、
「あなたは、あなた。自分が満足かどうかを思いなさい。」ということだけは、
母からも、母より優しかった父からも、父より私に甘々だった祖母からも徹底して、
言われ続けていたような気がします。

 私は他の誰かと競うのではなく、昨日の自分、
あの日のできなかった自分、悔しくて泣いた自分と競っているのだということ。
それよりも、できるようになりたいならどうするのか。
人が10回でできることを、10回でできないなら、倍やりなさい。
それでもできないなら、もっとやるしかないのだよ。
それが嫌なら、仕方がないけれど、卑屈になるのは見ているのも不愉快だから、ひねくれることはするな。
そんなことを言われて育った気がします。

 自己肯定感。
褒めさえすれば、育つものではない気が私はします。
子どもの中の何を認めるのか。
理想の自分とのギャップに、子どもが自分を否定するとき、
周りの大人はどう、手を差し伸べ、どう導くのか。
一様にはいかないものだと思います。

 難しいですね。
だからこそ、しっかり、目の前の子どもを見ることが大切だなぁ、と思うことです。


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人のパワー。

2016-04-23 22:38:25 | 日記
 雨だから寒いのか、ひんやりしています。

 今日は、以前の職場の同僚と久しぶりに再会しました。

 会うまでは、風邪できついし、ぼ~っしているし、
会って話しについていけるのか!?と心配していましたが、
会ったら疲れもぶっ飛び、とてもたくさん、パワーをもらえた感じです。

 同僚でもあり、友人でもおばさん3人で、
しゃべり、聞く、しゃべり、聞くの4時間はあっという間におわりました。

 みんな、仕事をしながらも、
別の、本当は本業にしたいけれど、まだ、収入的にそうはいかない仕事を持ち、
「夢だわね。」などという甘いことを言っている年でもないことは自覚しつつ、
どうやって、ちゃんとそれで食べていくか、話したり。

 そうかと思うと、使い捨てコンタクトの値段が高い!とか、
関わった子どもたちの成長や心配やと、おばちゃん丸出しの盛り上がりで、
本当に、あっという間の4時間でした。

 人と話す中で、「あ、こんなこと、考えてたか、私」と思うようなことを思いつくこともあるし、
友人の何気ないひとことに励まされることもあります。

 人と揉まれて、関わり、話したり、笑ったりすることは、
多くのパワーをもらえるんだなぁ~と、しみじみ思った半日でした。

 おかげで、ぐずぐずしていた風邪が飛んでいったような気がします。

 明日から、がんばろう!
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おとなしく…。

2016-04-22 20:15:05 | 日記
早朝の積込み仕事中、風邪の影響か仕事で動いているからかく汗とは異質な汗がドバーッと出てきました。

治りかけの風邪ですが、今回は回復まですごく早かったのに、その後のだらだらとしたしんどさが続いています。我がことながら良い加減、治ってくれーですねぇ。

さて、そんなときの猫たちですが、私の近くで見守るように布団に寝れば布団に、起きて居間にいれば居間にとついてきて見守り部隊を編成してくれます。

息づくものが近くにいるありがたさ。

では、またしても休養にはいりまするm(_ _)m
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自立と非常時。

2016-04-21 21:29:51 | 発達応援
 先日の養生の勉強から、みりんの虜になっています。

 私の祖母は、食前にお猪口一杯、日本酒を飲む人でした。
でも、日本酒を切らすと、みりんをお猪口一杯、飲んでいることがありました。

 そんな風景を見ていたので、私には「みりんは甘くておいしい飲み物」というイメージがありました。
だから、一人暮らしをしたときに、「みりん風調味料」をぐびっと飲んで、吐き出したことがあります。

 みりん風調味料は、あくまで、「風」でみりんとは違います。
そこから、私は「飲めるみりんを買わねば!」と学習したのでした。

 普段、お酒を飲むほうではなく、お猪口一杯のみりんでも満足の私なので、
そんな、へんてこな理由で本みりんを買うようになったのです。

 とろっとした甘いお酒が好きな方は、たぶん、本みりん、おいしくお飲みいただけると思います。
あくまで、私見です。
自己責任でお飲みくださいね

 熊本の地震で、発達障害や自閉症の子が共同生活になじめないので配慮が必要だ、
というような記事を見かけることがあります。

 本人も辛かろうし、お子さんの保護者も自分もしんどい中、
状況のわからないお子さんに、ひとつひとつ説明するのも日常ならまだしも、
この非常時、本当に大変なことだろうなぁと思います。

 こんなときだからこそ、なおのこと思うのですが、
何事もない、日々の日常の中で、発達障害や自閉症の子どもたちは、
その子の持つ資質を大切にされながらも、
やって良いこと、悪いこと、我慢が必要なことなどは、
しっかり身につけておいたほうが良いのではないかなぁ、と思ったことです。

 衝動性が高かったり、自分の思うようにならないと動かなかったり、騒いだり。
ときに、そういうことを「仕方ないよね。」と、優しさのようなもので包んだり、
諦めで放置したりする場面に出くわしたことがあります。

 そんな場面に出くわすと、私は、優しさの誤解をしているんじゃないの?
それは、諦めの放置と一緒だよ、と思うことがあります。

 自分が関わることができる場面なら、関わりますが、
保護者がそれでよしとしている場合は、うーん、どうしたもんか…と、思いつつ、
遠い目になることもあります。

 今、発達障害についての理解も色々な場面で言われています。
一昔前、私が支援員をはじめた10年前よりもずっと、
発達障害や自閉症について、世の中でも語られていると思います。

 語られて、世の中の理解が進み、
住み良い世の中が来るのをじっと待つことができるなら、
そんな良いことはありません。

 目の前の子どもたちは、待ったなしで成長していきます。
その子のできるところを伸ばし、ことの善悪を判断し、
自分で状況を見、判断もできるだけできるようにしたほうが、
その子の生きる力になるように思うのです。

 ムリにがんばれ、何でも自分でしろ!という訳ではありません。
 「あの子は大丈夫だけれども、見守っておこうね。」
そんな、優しさを持つ人が増えて、
こっそり、目の端で見守られるくらいの自立を目指して…、と思うのです。

 
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