心と体を通して見えてきたもの

個人的な生まれ変わりの体験談。心とは?カルマとは?人間の本質や使命とは?
といったことを考えてます。

第2章 心を通して №273

2009-09-04 19:00:25 | Weblog
ドイツの物理学者であるハイゼンベルグは『原子物理学者は自分がおこなっている科学が、自然に対する人間の無限の問いかけの鎖の一つにしかすぎず、自然『そのもの』について語ることはないという事実を甘受しなくてはならない』と言っています。ボーアもこれに同調して『我々は言葉と切り離されるわけにはいかない。物理学の対象になるのは、我々が自然について語れることだけだ』と述べています。
アーサー・エディントンは外側にある物理世界は影の世界になってしまったといい、『何ものも実在しないのだ。自分の妻でさえ例外ではない。量子物理学によって科学者は、自分の妻の実体が複雑な微分方程式であると信じるようになった』(ただしエディントンは、この考えを家庭でひけらかすほど自分は間抜けではない、と付け加えています)と書いています。
要するに私たちが観測をおこなっている『実在』とは何なのか? 実験室で観測をおこなってきた科学者たちにはわからなくなってしまったのです。
もちろんそれでも実験室の中で観測をしようとした人々もいます。そのような科学者たちは、
『言葉や科学的[記述]が示している世界は、物質世界というより精神世界なのではないか、と推測した。エディントンは「大づかみの結論を言えば世界に存在するものは心に関係する」と述べている。ジーンズも同じ考えを示している。「蓋然性(推定される可能性)のあるさまざまな論理的証拠が蓄積されており、実在は物質よりも精神によってうまく記述されるという可能性がますます高くなっている・・・・・・宇宙は壮大な機械というより、偉大な思考に近いように思われる」・・・・・・科学者たちは、顕在化した多様な現象の根底にある基本的な実在の正体を明らかにできなかったのみならず、そうしたなんらかの実在が自然界に存在するのかどうかについてさえ語ることができなかった。』と『創造する真空』(日本教文社発行)のなかでアーヴィン・ラズローは言います。
観測者自身がどのように観測をおこなうかは、その観測者自身の人生を反映することになります。
個人の人生は主観的で主体的なものであり、自分で自分が何者であるかを考え、決定し、行動し、それを自分で体験するプロセスを主観的に五官で認識して観測をおこないます。これらの行為を行い体験するのは、私自身の意識です。もし意識がなければ、このような観察も観測も行なうことはできません。
観察や観測をおこなう時、その人の人生を反映するということは「偏見を持たずに」観測をおこなうことができないということです。
№274 につづく
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