集落が途切れると、安芸灘が開け、鉄筋コンクリートの学び舎、情島小中学校が見えてきました。隣が1951(昭和26年)に開設された児童養護施設「あけぼの寮」です。戦後は戦災孤児たちを受け入れていましたが、今は家庭内のさまざまな事情で親元を離れた子どもたちが、ここから学校に通っているようです。
(情島小中学校)
(児童養護施設「あけぼの寮」)
防波堤には、どこの島でもよく見かける小学生による絵が描かれていました。
(小学生による絵)
雨風が強く、これより先には、特に、見るものもないということで、港へ引き返しました。港では、島旅仲間が、11年前にこの島へ来て、お世話になった方を探していて、我々が乗ったために下船していただいた方が、その方であることが分かり、迎えに行った船が帰って来たときに、島旅の仲間はお会いして、お礼を言われたようです。最初、あちらの方は、記憶になかったようでしたが、話しをしている中で、思い出されたようでした。島の人たちの親切は、私も、いろいろと記憶に残っています。これが日本だと思います。帰りの船も我々が乗ったため、定員オーバーになり、残っていただいた人がいました。船長からは、早めに言ってくれると別便の運航をしたのにと言われました。この間、満員で、身動きができず、写真を撮っていませんでした。伊保田港に戻ってきました。
(伊保田港)
その後は、周防大島散策になりました。まず、出向いたのは、陸奥記念館でした。
(陸奥記念館)
(写真撮影:2010.12)
(情島小中学校)
(児童養護施設「あけぼの寮」)
防波堤には、どこの島でもよく見かける小学生による絵が描かれていました。
(小学生による絵)
雨風が強く、これより先には、特に、見るものもないということで、港へ引き返しました。港では、島旅仲間が、11年前にこの島へ来て、お世話になった方を探していて、我々が乗ったために下船していただいた方が、その方であることが分かり、迎えに行った船が帰って来たときに、島旅の仲間はお会いして、お礼を言われたようです。最初、あちらの方は、記憶になかったようでしたが、話しをしている中で、思い出されたようでした。島の人たちの親切は、私も、いろいろと記憶に残っています。これが日本だと思います。帰りの船も我々が乗ったため、定員オーバーになり、残っていただいた人がいました。船長からは、早めに言ってくれると別便の運航をしたのにと言われました。この間、満員で、身動きができず、写真を撮っていませんでした。伊保田港に戻ってきました。
(伊保田港)
その後は、周防大島散策になりました。まず、出向いたのは、陸奥記念館でした。
(陸奥記念館)
(写真撮影:2010.12)
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