2004.9.10~12 クラブツーリズム(株)主催の「能登沖 海女の孤島 舳倉島」に出掛けた。まず、渡島した島を紹介する。
舳倉島は、能登半島の北端・輪島市の北海上約48kmに位置する、長卵形で海抜12mの平坦な島。厳しい自然の影響を受け、断崖が連なり複雑な入江をつくり出している。また、島は対馬暖流の影響下にあって好漁場であることから、海女を中心に輪島市内からの季節的な島渡りの歴史は古く、『万葉集』(巻第18)には「沖つ御神」「沖つ島」としてアワビをとる珠洲の海人のことが詠まれている。島内からは、5世紀から8世紀にかけての当時の食糧となった魚介類や海洋性哺乳類の骨、祭祀に供されたとみられる牛骨などが出土している。また、式内社である奥津比(おくつひめ)神社からは青銅の海獣葡萄鏡が発掘され、渤海国との交渉を背景とする国家的祭祀場だった可能性が指摘されている。永禄年間(1558~70)筑前国宗像郡鐘ケ崎海女ら12人が羽咋郡赤碕付近に漂着、その後輪島・光浦に移住し、天正年間(1573~92)加賀藩主前田利家に「のしあわび」を献上、舳倉島での漁業権を認められたと伝えられる。以来、漁業中心の生活が営まれ、海女漁によるアワビ・サザエ採取、ぶり・メバル・タイなどの刺網・一本釣が行われている。夏場の漁期には輪島市本土漁業者の渡島で人口は増加するが、冬場には数十人に減少するなど人口の変化が大きい。また、島全域が能登半島国定公園に指定されており、日本と大陸との間を渡る渡り鳥の大切な羽休めの島でもある。
能登島は、能登半島中央部、和倉温泉の北東に位置する。能登半島に抱かれるように横たわり、波静かな緑いっぱいの自然環境にめぐまれた1島1町の島。全域が能登半島国定公園に指定されている。中央にある四村塚山(197m)を最高峰に、東西にゆるやかな傾斜をもつ丘陵地が多い。海岸線に沿って21の集落を数える。島内からは縄文・弥生時代の土器が出土、古代の製塩遺跡が多くみられ、国指定史跡の須曽蝦夷古墳をはじめ多くの古墳が存在している。古くから日本海の海上交通の要衝として知られ、中世には伊勢神宮領「能登島御厨」や、荘園が置かれた。近世は加賀藩領となり、配流の地として多くの流刑者を迎えた歴史もある。製塩や稲作、ブリの大敷網などが営まれてきたが、昭和57年に全長1,050mの能登島大橋が開通、架橋とともに観光施設も着々と整備された。観光客も急増し、豊かな魚介類を素材とした料理が人気を呼んで旅館・民宿が増え、リゾート地として大きく変貌した。第1次産業から第2・第3次産業への移行が進んでいる。第2の橋として平成11年3月に全長620mの「ツインブリッジのと」が完成し、能登半島のリゾートエリアの中心的存在になる日も遠くはない。
出典:(財)日本離島センター発行の「日本の島ガイド SHIMADAS シマダス」から
舳倉島は、能登半島の北端・輪島市の北海上約48kmに位置する、長卵形で海抜12mの平坦な島。厳しい自然の影響を受け、断崖が連なり複雑な入江をつくり出している。また、島は対馬暖流の影響下にあって好漁場であることから、海女を中心に輪島市内からの季節的な島渡りの歴史は古く、『万葉集』(巻第18)には「沖つ御神」「沖つ島」としてアワビをとる珠洲の海人のことが詠まれている。島内からは、5世紀から8世紀にかけての当時の食糧となった魚介類や海洋性哺乳類の骨、祭祀に供されたとみられる牛骨などが出土している。また、式内社である奥津比(おくつひめ)神社からは青銅の海獣葡萄鏡が発掘され、渤海国との交渉を背景とする国家的祭祀場だった可能性が指摘されている。永禄年間(1558~70)筑前国宗像郡鐘ケ崎海女ら12人が羽咋郡赤碕付近に漂着、その後輪島・光浦に移住し、天正年間(1573~92)加賀藩主前田利家に「のしあわび」を献上、舳倉島での漁業権を認められたと伝えられる。以来、漁業中心の生活が営まれ、海女漁によるアワビ・サザエ採取、ぶり・メバル・タイなどの刺網・一本釣が行われている。夏場の漁期には輪島市本土漁業者の渡島で人口は増加するが、冬場には数十人に減少するなど人口の変化が大きい。また、島全域が能登半島国定公園に指定されており、日本と大陸との間を渡る渡り鳥の大切な羽休めの島でもある。
能登島は、能登半島中央部、和倉温泉の北東に位置する。能登半島に抱かれるように横たわり、波静かな緑いっぱいの自然環境にめぐまれた1島1町の島。全域が能登半島国定公園に指定されている。中央にある四村塚山(197m)を最高峰に、東西にゆるやかな傾斜をもつ丘陵地が多い。海岸線に沿って21の集落を数える。島内からは縄文・弥生時代の土器が出土、古代の製塩遺跡が多くみられ、国指定史跡の須曽蝦夷古墳をはじめ多くの古墳が存在している。古くから日本海の海上交通の要衝として知られ、中世には伊勢神宮領「能登島御厨」や、荘園が置かれた。近世は加賀藩領となり、配流の地として多くの流刑者を迎えた歴史もある。製塩や稲作、ブリの大敷網などが営まれてきたが、昭和57年に全長1,050mの能登島大橋が開通、架橋とともに観光施設も着々と整備された。観光客も急増し、豊かな魚介類を素材とした料理が人気を呼んで旅館・民宿が増え、リゾート地として大きく変貌した。第1次産業から第2・第3次産業への移行が進んでいる。第2の橋として平成11年3月に全長620mの「ツインブリッジのと」が完成し、能登半島のリゾートエリアの中心的存在になる日も遠くはない。
出典:(財)日本離島センター発行の「日本の島ガイド SHIMADAS シマダス」から
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