招魂場めぐりの記事を溜めまくったため、もはや記憶が薄れてるところもあるという…
えー、厚狭(あさ)にあるm厚狭神社こと物見山招魂場です。
もとはこの横の山(物見山)のてっぺんにあったのを、少し下がったここへ移したもの(またこのパターンw)
といっても、それでも高台でしかも開けているので、明るく気持ちのいいところでした。
創建は慶応2年、毛利能登(藩家老)により、四境戦争の戦死者を祀るため . . . 本文を読む
宇部市船木にある「船木護国神社」、旧名「鳶巣招魂場」または「厚狭船木招魂社」。
慶応3年にこの近く(と思う)の鳶巣山の頂上に作られました。
さすがに参拝しづらくて、現在地(国道2号線脇の平地)に移鎮されたのが、皇紀2600年ってことで昭和16年とのこと。
私が最初に行った時(2013年)はわりあい大きい拝殿が建っていました。古くなって傷んでたけど。
ところが、2度めに行った2017年 . . . 本文を読む
町田梅之進自刃地です。(行ったん2015年10月なんですけど…書いてないことに今気づいた!)
山の中の萩往還沿いにひっそりと小さな石がうずくまっていました。
町田は、長州藩が俗論・正義派に分かれていた頃、それを調停する「鎮静会議員」として活躍した人。
萩のサイトによれば「後に馬関攘夷では、藩の先鋒隊して藩主の護衛にあたり、幕府の長州征伐では、千城隊に属して広島方面に出 . . . 本文を読む
大掃除してたらこんなメモが出てきた。
「大田絵堂戦の時、明木で山田市之丞・馬屋原二郎・寺島秋介・田村甚之丞は、それぞれ、狂痴・戇狂(読みはトウキョウ?)・空狂・某狂と号し、「御楯の四狂」と呼ばれた。」
なんだそれは・・・。
さらに
「箱館攻略の拠点を青森に置き、奥平謙輔に船用の石炭38万ポンドを送ってくれと依頼。”越後の地同様、当地にも石炭一切これ無く、海軍の進退おおいに懸念あ . . . 本文を読む
8月13日、気がかりなお墓を探しに行った(のをなんで今頃書くのかって話だがw)。
慶応2年12月29日、防府三田尻に停泊していた英国軍艦の中で死去した水夫(たぶん)ジョン・ムルフィー。享年23。
墓所は「向島水尻」と「長州藩殉難者名簿」にある。
停泊中だったためだろう、海軍人でありながら水葬されなかったジョンさん。異国の無人の場所で150年以上、寂しいだろうな。
この人のお墓を探して拝みたい。
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9月27日、有志一同で萩往還(はぎおうかん)歩きを敢行しました。
萩往還は瀬戸内海側の防府(三田尻)と、お城のある北浦の萩を結ぶ江戸時代の道です。全長50数キロ。
防府から山口までは市街地ですが、山口から萩の間は、中国山地の端っこを越えなきゃならない、山の中の坂道。
だからなんでこんな格好でwwww めちゃくちゃ暑いわ!(笑) 形から入る山口奇変隊の面々だったww
クルマ社 . . . 本文を読む
中根市之丞のお墓の現状があまりにもトンデモナイのです。移転保護を強く望みます。
文久3年(1863)の朝陽丸事件、三原屋事件。
長州にやってきた幕府の使者(詰問使)4人(中根と3人の従者)を殺害した事件については、これは時代がどう変わろうと長州・奇兵隊の汚点、やりすぎたできごとだと思います。
お互いの目指すものが違ったための争いではなく、ただ殺しただけ。
むろん奇兵隊には「中根は将軍の親書を . . . 本文を読む
5月24日、「大村益次郎の道を歩こう」と言い出したモノズキ集団で、山越えしました。
大村益次郎(村田蔵六)は鋳銭司(すぜんじ)から鎧垰(よろいだお)を超える山道を、毎日のように往復して藩庁の方に来ていた・・・ってマジか・・・。
というわけで、その道を歩いてみようと。
往復する元気はないので、電車で鋳銭司の最寄駅へ行き、そこからタクシーで登山口へ。
で、だいたい↓こういうルートです(山の中は . . . 本文を読む
昨日の「花燃ゆ」の小野為八、あるいは中嶋治平。
彼らは幕末の「マルチ理系」な人で、他の藩(特に西国諸藩と幕府)にも似たような人がいます。
現代では学問が細分化されていて、それはそれで専門分野が深くていいのでしょうが、当時は違う。
理系のことは幕末になって堰を切ったように流れ込んできたから、その中の何かに手をつけた人は連鎖反応的にあれもこれもやるはめになり(あるいは自ら首を突っ込んで)、結果的にマ . . . 本文を読む
保管場所がないので、どっか行かないようにここにアップしとこうっと(笑
普段から維新関連の記事が充実している「山口新聞」。
「朝日新聞」。載ってると聞いて買いに出たものの、コンビニとかで「うち、朝日は仕入れないんです」とか言われ、4軒めでやっと買えたっつー。
となりの記事もおまけで。イベントと同じ日に俳優さんが来てたんですよねー。
1日遅れてイベントの翌々日に載った「毎日 . . . 本文を読む
ほとんど興味は幕府海軍に向いてる私ですが、長州の幕末史の中で「大田絵堂の戦い」はなぜかすごく感動してしまいます。
今年はそれから150年にあたります。
それで、1月11日、その時の行軍コース(実際は山中やカルスト台地を通ったので、そのままではありませんが)を歩く催しがあり、参加してきました。
20キロコースと3キロコースがあって、歩くの苦手な私は3キロだけですが(笑)
でも、3キロコースは最大の . . . 本文を読む
周布政之助没後150年慰霊祭にひっかけ、あの巨大な碑が建った時の除幕式のフィルムがローカル局で放送されました。
昭和6年(83年前)のことで、撮影者は周布家のかた、今まで最高の状態で保存してこられたのも周布家だそうです。
貴重なんてもんじゃないお宝です。だいたい昭和6年に8ミリ撮影機材を持ってるとか凄すぎるw
周布政之助の孫、兼道さん。すーさんに似てる!
音声はありませんが、礼服が板に付 . . . 本文を読む
自刃からちょうど150年の9月26日、山口市周布町(周布さんが亡くなった地なのでこの町名がついてます)の慰霊碑とお墓で、慰霊祭がありました。
青空の下、神式で執り行われ、とても清々しい感じでした。
玄孫にあたる周布兼定さん(63歳)も神奈川から来られていました。
お話が上手な素敵な方でした^^
「酒飲みなところは遺伝してる」って、それ榎本さんのご子孫と同じことを…(笑)
もう一つ . . . 本文を読む
「高杉晋作・久坂玄瑞の新しい像」に書いた晋作像。
これって寄付者の芳名板が側に建つということだったのですが、像の除幕には間に合わなかったのです。
その後私も親の介護などで、以前にもまして自由に出かけづらい状況になり、芳名板を見れないままでした。
やっと、行った人に写メ頂いて見ることができました。
テッカテカの石なんで写り込みがすごいwww なんでここまでテカテカにしたww
でも、良い記 . . . 本文を読む
今更っつか、遅すぎなんですが、
7月19日、禁門の変戦死者慰霊をおこないました。
まあ、有志数人なんですけども(だが新聞に載った)。
まずは久坂玄瑞らが「ご祭神」でもある県護国神社へ。
ここは広くて明るくて、ほんっとに清々しいところです。
ちょうどぴったりのタイミングでご神職が「今日亡くなった方のお祭り」をされており、中に招いていただいてお話を聞くことができました。
大ラッキー。
招魂 . . . 本文を読む