長州に棲む日日

[PC推奨]直参と萩藩士の子孫で長州在、でも幕府海軍・箱館海軍松岡磐吉大好き。
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トンデモ立地の中根市之丞墓を移転しようよ〜

2015年06月25日 | ★幕末維新の長州
中根市之丞のお墓の現状があまりにもトンデモナイのです。移転保護を強く望みます。


文久3年(1863)の朝陽丸事件、三原屋事件。
長州にやってきた幕府の使者(詰問使)4人(中根と3人の従者)を殺害した事件については、これは時代がどう変わろうと長州・奇兵隊の汚点、やりすぎたできごとだと思います。
お互いの目指すものが違ったための争いではなく、ただ殺しただけ。

むろん奇兵隊には「中根は将軍の親書を持っていると偽った」という理由があるのですが、それが洋上まで追い回して殺害するほどのことなのか…。
(この時、入江九一は「使者というものを殺すのは武人の礼儀に反する」とか言ったらしいですが…)

従者3人の墓は、三原屋のあった小郡にあります。葬られた寺は廃寺になり、墓だけが藪の中に建っています。


三原屋が襲われた時、中根はたまたま厠に立っていて難を逃れましたが、身の危険を感じて船で帰ろうとしたものの、洋上まで追われてこの防府中関沖で殺されました。
墓は、中関の海岸の岩場に建っています(大正時代に建てられた)。


これがすごい立地なんですよ。私は行き着けてません。

まず、私有地(マリーナ)を通らないといけない(事務所に行ってあいさつします)。公道では行けません。海からなら別だけどw





そして、マリーナ突端の堤防に上がる(高所恐怖症なので、すでに拷問w)。





そこから高さ3メートルくらい積み上げられた消波ブロック(テトラポッド)の上に降り、ブロックの上を渡って(市のサイトでは「ブロックの下をくぐって」)岩場へ。




ブロックは整然と並んでいるように見えるけど、近づいてみるとスッカスカ。怖!
身軽な人は渡れるでしょうが・・・。
以前、どこからか調査に来たという初老の方たちは「とても行けない」と、後ろを振り返り振り返り、残念そうに帰られたとか。




あの向こう〜の岩場にお墓はあります。





そもそもは、普通に岩場まで降りれていたそうなのですが、消波ブロックの設置でこういうことになってしまったんです。

そして、岩場自体、満潮時や波が高い時は危険で降りることができない。


どんだけハードル高い墓参りよ!

ということで、だいぶ前にこの問題に取り込んだ市議会議員さんはおられたそうなのですが、結局果たせず。


維新150年でいろいろなイベントがありますが、負の歴史も認め、知らしめなくては片手落ちではないかと思います。
150年の時にやらなかったら、また何十年かそのままになってしまいそう。
「観光客集客」にはひとつもつながらないけれど、歴史って観光客集めのためにあるわけじゃない。
もちろん、「ゆかりの地」に建つ、というのは大事なことですが、このケースはちょっと特殊なんじゃないかと。
150年事業の一環として、中根さんの墓を誰でも手を合わせることができる場所に移してほしいです。


中根家は立派な旗本だったそうで、おそらくご子孫もおられると思います。
ご子孫がもし一緒に声を上げてくださったら、行政も動くかもしれません。

もうとにかく、どっちが悪いとかじゃなくて、花を供え手を合わすという、当たり前のことができるお墓にしてほしいです。
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