長州に棲む日日

[PC推奨]直参と萩藩士の子孫で長州在、でも幕府海軍・箱館海軍松岡磐吉大好き。
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花燃ゆに登場したマルチ理系

2015年03月30日 | ★幕末維新の長州
昨日の「花燃ゆ」の小野為八、あるいは中嶋治平
彼らは幕末の「マルチ理系」な人で、他の藩(特に西国諸藩と幕府)にも似たような人がいます。

現代では学問が細分化されていて、それはそれで専門分野が深くていいのでしょうが、当時は違う。
理系のことは幕末になって堰を切ったように流れ込んできたから、その中の何かに手をつけた人は連鎖反応的にあれもこれもやるはめになり(あるいは自ら首を突っ込んで)、結果的にマルチになっている感じがします。
西洋数学、造船、製鉄、砲術、天測、写真術、製ガラス、毛織、製パン、西洋医学などなど。

長崎海軍伝習所の教師は「日本人は系統だてて学ばず、あれもこれもやりたがる」と書いていますが、余りにも一気にいろんなものが目の前に現れたので、そういう「欲張り状態」になったのでしょう。
もともと日本人って知的好奇心旺盛だし。

大変な時代であります。
そして、真の攘夷とは、つまり本当に国を守るのは、むやみに外国を毛嫌いする精神論では実現できないっていう現実も、彼らが一番よくわかっていたのだと思いますね・・・。
その点で西国諸藩と幕府は一致していたのにな・・・と思ったりした昨日の放送でした。


以前の記事。
「小野為八-中嶋治平-吉田松陰 リンクで世の中は動く」
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4 コメント

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小野為八と河村写真館! (うめ)
2015-04-25 17:10:49
こんにちは、お久しぶりです。
大河ドラマ「花燃ゆ」見ています。
あの地雷火の小野為八さんと、河村写真館がつながっていたのですか~ 知りませんでした~

そうそう、菜香亭が河村写真館のとなりにあったころ
うちの叔父夫婦が、結婚披露宴をそこでやったと記憶しています。(^^ゞ
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「咸臨丸難航図」読まれましたか? (ひとさん)
2015-06-09 09:50:58
元々幕末は好きだったのですが、貴ブログで松岡磐吉氏を知るまで主に陸軍派でした。
で、ここで熱く語られる松岡氏に興味をひかれ、海軍、長崎海軍伝習所蟠龍や江川英龍氏(先日BSフジで特集をしていましたね!)にも触手を延ばしつつあります。
で、久しぶりの書店で「咸臨丸難航図」なる本を見つけました。
ここで語られる「鈴藤勇次郎」は、咸臨丸での遣米で松岡氏と当直をともにした人物のようです。


姑の入院でなかなか読み進められないのですが、当直中の会話や、渡米での驚きなどちょっと妄想をはさみつつすこしずつ渡米先での様子など垣間見たいなと思っています。

いきなり&ブログの記事と関係に文書で失礼しました。

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Unknown (内藤)
2015-06-20 15:09:11
わーい、松岡ファン増えた(でもないか‥)。
おっしゃっている本は「「咸臨丸難航図」を描いた幕府海軍士官…」でしょうか。最近出た本ですね。持ってます。スケッチが結構収録されているのが面白いです。鈴藤さんは優秀な人でしたが、戊辰戦争勃発の頃には病気で、江戸開城の頃だったか、戦うことができない自分の身を自分で始末してしまいました。
咸臨で渡米した士官・士官候補生たちというのは、最も初期の日本の海軍人になりますが、もちろん未熟ではありましたが、いわゆるエリートだと思います。彼らは大半が幕臣です。
でもその後、造船や測量など別の分野に行ったり、そうでなくても戊辰戦争には参加しなかったりで、箱館まで行ったのはたぶん松岡と小杉雅之進だけじゃなかったかと思います。ちょい寂しい・・。
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その本です♪ (ひとさん)
2015-06-22 05:44:49
お返事ありがとうございます!

松岡さん、蟠龍に興味をひかれ、「たまの港フェスティバル」に来航した「みらいへ」(蟠龍と同じスクーナー船だったので)に乗船しに行ったくらいは、ハマってます。

そして「みらいへ」が思ったよりこじんまりしていて驚きました。
咸臨丸は同サイズ。蟠龍はちょっと小ぶりなんですよね!
こんな船で太平洋を渡り、また嵐の中蝦夷に向かい、戦ったんだ・・・・と感慨深かったです。

「咸臨丸難航図」は、スケッチも楽しいです。
当時時代の最先端の情報に触れテンションマックスで描いたんだろう鈴藤さんが、10年ほどのち自刃されるのですね。(本ではまだアメリカに着いたばかりです)
旧幕府軍に名を連ねる人も、恭順派と言われた人のもそれぞれに葛藤があったのでしょう。
鈴藤さんのように戦いたくてもできなかった人、所属した部隊が脱走しちまった為に戦うことになった人。
戊辰戦争が5年早かったら咸臨丸組もまだそれぞれの分野のしがらみ?は少なくて、参戦率は高かったかもしれませんね。

戊辰戦争後、生き残った旧幕府軍幹部が各分野で活躍しているのを知るにつけ、鈴藤さん、松岡さん、千代ヶ岡陣屋の中島さんの死が残念です。
きっといい仕事をしたに違いないのに!



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