長州に棲む日日

[PC推奨]直参と萩藩士の子孫で長州在、でも幕府海軍・箱館海軍松岡磐吉大好き。
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町田梅之進自刃の地

2018年12月05日 | ★幕末維新の長州

町田梅之進自刃地です。(行ったん2015年10月なんですけど…書いてないことに今気づいた!)

山の中の萩往還沿いにひっそりと小さな石がうずくまっていました。




町田は、長州藩が俗論・正義派に分かれていた頃、それを調停する「鎮静会議員」として活躍した人。
萩のサイトによれば「後に馬関攘夷では、藩の先鋒隊して藩主の護衛にあたり、幕府の長州征伐では、千城隊に属して広島方面に出陣した。そして、戊辰の役では、千城隊書記兼駆引役として越後の柏崎まで進撃し、胸部に戦傷を受けた。明治二年(1869)、藩命により、東京に留学してフランス兵学を学んで、同四年帰萩した」ということです。

明治9年(1876年)10月、熊本の神風連、筑前の秋月の乱に連動し、前原一誠の萩の乱に加担、禁固10年を申し渡されたが、その後も新政府への不満分子と連絡を取り合い、西郷党の噂を聞いて決起。
山口県庁を襲うべく同志らと進軍していたところ、県庁軍と戦いになりました。

1発の銃弾を腰に受けた町田は「刀を抜いて決戦せよ」と叫んだが、2発目の弾丸(ピストルだった)に貫かれ、刀を喉に突き立てて自刃。 30歳。

町田を撃った県庁軍の秋良貞臣隊長は、その後は県庁を退き、防府で塩田事業に取り組んだとのことです。 またこの「県庁軍」はのちの「県警」に当たるようで、以前見た県警殉職者名簿で、1番が「町田騒動にて」と書かれていました。

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