一茶は、子供が好きな好々爺というイメージで考えていて、一茶と良寛が被ってもいたので、ただただ、一同 げんなりの 読書会でした。 それも、4,500円もの いつもよりも高額ランチを、広い濠に浮かぶレストラン「花の木」で、優雅に食しながらですから・・。会話としては、トホホー。
「ドナルド・キーンが、日本には、俳句という第2の文学が根付いているといってたね」
「ドナルド・キーンが英訳して、日本の俳句を世界文学の中に明確に位置づけしたものね」
「江戸時代に、こんなにも俳句が生活の中にあるって、現代以上じゃないかしら?」
「旅に出る俳諧師に旦那衆が餞別し、その俳人を受け入れる地方の人たちが接待する。これって遍路に通じる お接待文化でしょう?」等
ちと高尚な話は出ましたが、なにせ話の 全てが貧しいし、醜い遺産争いの後半生だし、ウンザリ。
1981年(昭和56年) 「一茶」藤沢周平の解説は、藤田昌司(時事通信社・文化部長)。
解説の中で⦅人生の底辺に生きる人間への寄り添い方への共鳴こそ藤沢文学⦆と言われています。
本の中で⦅胸中のものを吐き出して、それで気が晴れるかといえば、そうでもなかった。むしろその裏側に虚無の思いがべたりと貼りつくようでもあった。自嘲の句を吐き出すとき、同時に徒労に似たこれまでの人生が見えてくるのである。そういうとき、はげしい無力感が一茶を襲った⦆ って、藤沢周平らしいね。
1995年(平成7年)田辺聖子の「ひねくれ一茶」と読み比べてみました。解説は、五木寛之。この作品で、吉川英治文学賞受賞。 一茶は、「おらが春」「七番日記」「父の終焉日記」といった文章をかなり残してるので、あらすじは、ほぼ両作品一緒。どちらかというと私は、藤沢の悲しみタッチの方が、好きかな?
作家の五木寛之の解説は、作者の田辺聖子への優しさに満ちていましたよ。
身分格差の江戸時代って、私は、弥次喜多を思い出しもしました。滑稽で、やがて悲しき・・。
一茶が江戸にいるときに、浅間山が大噴火。灰というよりも、石が降りつづけたという。その浅間には、鬼出し岩がゴロゴロでしたよ。今も、火口周辺は警戒レベル2の活火山として、茶色の地肌に不気味さを見せながら、ゆったりと すそ野を広げていました。
先日の軽井沢の旅の車窓から、浅間や広大なキャベツ畑を眺めながら、一茶を思いました。結婚できて、良かったねって・・。
「我ときて 遊べや 親のない雀」って、自分のひとりぼっちの淋しい心を詠んだんですってよ。
また、先日の週刊誌によると、性豪列位で在原業平が1位(好色一代男のモデル?)2位は、小林一茶と。 中風だったのにねー。ここまでイメージと実体との違いに ビックリ!ガックリ! 枯れたほうが、素敵なのにね。
そのしたたかき一茶を、世に広めたのが正岡子規の「俳人一茶」という。1,000句を作った芭蕉。3,000句を作った蕪村。22,000句を作った一茶。そして、24,000句を作った子規。すごいね。
さて、我らも 作りましたよ。でも、それは、会員だけの回し読み句です。
業俳は、俳句で身を立てる人。一茶ですね。
遊俳は、本業が別にある夏目成美ですね。
取俳は、俳句が好きな人。お接待する人ですね。
そりゃあ、業俳が多すぎたら、だめでしょう?今の出版不況と同じですね。