Schreib mal wieder!

自分の感じるままに...それがクレームと言われても

※国に思う

2006-10-27 14:01:35 | Weblog
 
どちらが正しいのか、自分の中で結論が出せずにいた。それは解釈の問題に尽きると思っていたからだ。首相の論理で言えば、確かに内政干渉も甚だしい問題であり、そこに本当に戦争を再現しないという意志があるのならば、国の威信を賭けてでも我を通すべき問題だと思う。一方で、周辺の国々の人たちの心持ちを慮れば、当然分祀なりを真剣に検討すべきであり、首相の参拝もとんでもない話ということになる。

ところが、ひょんなことから、こんなコラムを読んだ。そしてそれを自分の目で確認したいと思った。

思ったのは7月の話だが、今日やっと実際に※国神社に行くことができた。そして、そこで得た僕なりの結論は、※国神社は国や政治がかかわるべきところではないというものだった。

戦没者を御霊として祀ることは、A級であろうとなかろうと、その精神さえ理解されれば、最終的にはどうにか合意できるものと思う。しかし、その境内にある遊就館は※国神社そのものの精神から外れて、どう客観的に見ても先の戦争に対する反省を示したものではないように感じられたからだ。

実際に訪れてみると、遊就館という響きから、勝手にどこにでもある宝物殿のような建物を想像していたのだが、その近代的な作りにまず驚かされた。博物館と捉えれば800円払うに相応しい立派な内容だと言える。

しかしその根底に流れるメッセージは、ドイツで見た強制収容所の跡地などから感じられるものとは大きな開きがある。あの厳かな物音ひとつしないような静粛な雰囲気とは違い、日本海軍がいかにして、バルチック艦隊を撃沈したか、いかにして旅順を陥落したかなどというビデオが軍艦マーチとともに延々と流されている。明らかにこれは戦争博物館だ。

そもそも戦争は相手がいるから成立するものであって、考えようによっては喧嘩両成敗である。勝てば官軍というがごとく、勝てばすべてが正当化され、負ければすべてが悪い。その意味では、日本だけが一方的に悪かったのかというとそこには疑問が残る。それをある団体が任意に主張するのは自由だと思うが、そこに国が関わっていいかというとそれはまずい。日本は植民地にされていた現地の人々の解放のために敵軍を倒したと言われても説得力に欠ける。なぜなら、日本はアメリカと違い、戦争を肯定しない国家として存在しているからである。

そこに賛否両論があるのは当然のことだと思う。しかし、僕個人としてはこう考えるに至った。しばらく喉元をつかえていたような割り切れない事柄に一定の結論が得られて、気が楽になった。