水曜日は13時に幼稚園が終わる。せっかく休みを取っていることだし、どこかへ連れて行ってやろうと思いながら、いろいろ考えた末、やっぱり自分の都合で明治神宮に行くことにした。
僕はあるきっかけから、明治神宮の崇敬会に入っている。そのきっかけは別に記すとして、だから何ということはまったくない。でも、せめて年に1回くらいはお参りしなければと思っていながら、もう数年以上行っていなかったので、電車を出しに子供を連れ出した。
会員になっていると、いつでも昇殿して参拝できる。すなわち、いちいち祈願祭を執り行い、祝詞を上げて神を降ろして参拝の意を伝えてくれるのである。
明治神宮はさすがに日本最高水準の神社である。祈願祭の一連の儀式もそれなりのレベルだ。立派な拝殿で、儀式の作法やら神楽舞をを子供に見せるのも悪くないかなと思った。
しかし実際に数年ぶりにそれを見ると、物珍しさが褪せたためか、当時ほど感動できなかった。それよりも、拝殿にあるすべてがあまりにもきらびやかで、荘厳さというより、むしろ白けた感覚に襲われた。
それでも、その計算された光の当たり具合や、差し込む陽が作り出す陰影は、神聖な雰囲気を作り出すには十分だった。こうしていろんなものが、資本主義と折り合いをつけながら、維持されていくんだなと思えた。
人の感覚は変わり行くものである。それは成長なのかもしれないし、後退なのかもしれない。でも、こうして自分が確実に変わっていくことを認識する瞬間は重要だと感じた。