心にうつりゆくよしなしごと / 小嶋基弘建築アトリエ

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坪庭のすすめ

2006年05月21日 | 日記・エッセイ・コラム

【坪庭のすすめ】小埜雅章(監修)・水野克比古(写真)/講談社(刊)1575円より。

庭というと、「小さいながらも庭があって…」といった表現がされがちな、マイホームの夢を語る上でのひとつの憧れを言い表しても使われるようです。でも、広ければ良いというものでもなさそう…この”庭”、実に奥が深いのですよね。

庭は環境を素晴らしくしてくれる空間ですが、その中でも世間一般的?として形容される、敷地内で建物の余白として計画される庭ではなく、建築との渾然一体化を前提とした坪庭・壺庭を私はおすすめしています。

つまり”建ぺい率”を埋める手だてというか、建ぺい率の有効活用というアプローチでその空間を意識するのではなくて、建築と一体、建築そのものといった感性で考えることによって、住まいは驚くほど魅力に充ちたものになるからです。

画像は【坪庭のすすめ】から引用させていただきました。三条烏丸(さんじょうからすま)付近の家並みの写真だそうです。私がこの世に生を受けた場所が三条新町付近だそうですから、たいへん近い場所です。瓦屋根が連続していて、実に美しいですよね。

ここは建築基準法制定の遥か以前からある住まいであり、街並みです。全国一律の【法42条2項道路】などという規制で縛られて街が形成されていません。ですから自動車のスケールではなくヒューマンスケールによって環境が構成されています。

しかも、いずれの住まいも築100年は優に超えていますし、スラム化も起こっていません。それどころか、ご覧の様に緑のグリーンベルトが形成されている程の良好な環境なのですね。この緑こそが、坪庭・壺庭や奥座敷の庭の緑なのです。

この緑の庭は、現代的思考である”建ぺい率の有効活用”から発生したものではなくて、文化的背景は別にして、室内温熱環境の良好化にとっての温度調節・採光・通風・換気等といった工学要素から計画されたもの。

それは『法律がこうなのだから、こうせい!』といった半ば強制で導入されたものなのではなくて、京都という気候風土から京都人の民俗学的知恵として長い年月をかけながら導き出され、住まいの手法として確立したものなのですね。

この、”庭”を住まいの本質として取り込んできた空間構成は、『表屋造り』という”様式”にまでに高められたものです。

『名の通った建築家が設計したから凄い』といった”ミーハー”(古いね!)的なレベルなのではなくて、純粋に地域の気候風土からの進化論的発展を遂げてきた形態だからこそ誰もが納得する様式になり得た訳ですし、だからこそ建築や街並みに”生命が宿っている”といえるのではないでしょうか。

それは例えばバーナード・ルドフスキー著【建築家なしの建築】(渡辺武信(訳)/鹿島出版会(刊)1890円)に見られるべくものですね。自然発生的だからこそ誰もに魅力的なのでしょうし、居心地の良い環境なのだと思うのです。

建築家と称する方達は多いし、建築家に依頼する方達も多いし、何より住まいの本質に無頓着な方達が圧倒的多数ではあるけれど、この本を読んでみたら、きっと考え方に影響があるのではないでしょうか?

京町家を体験なさってみて下さい。そして世界第2位の経済大国の国民として、その住空間・住環境・街並み、そしてそこに暮らす人々の所作振る舞いから学ぶことがおありでしたら、是非私にご依頼下さい(^-^)

 

追伸

ちなみに、京都では『火事を出したら7代先まで怨まれる…』と、亡き祖母にたしか言われたような… 市民の火の用心の意識は相当高いものがあるのですね。日本は技術立国なのだから、都市・街並みのヒューマンスケールを残したままで、大火の防災の技術を開発すればいいのに、と私は思います。それが可能になれば、文字通り軒を連ねる住人同士のコミュニティはかつての日本のように豊かなものに戻るのに…と私は思うのですけれども。