岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

ミソハギの花に寄せる想い(2)

2010-08-16 04:17:47 | Weblog
 (今日の写真は、ミソハギ科ミソハギ属の多年草「エゾミソハギ(蝦夷禊萩)」だ。
 和名に蝦夷とついているが、北海道から九州まで分布している。近縁のミソハギ科ミソハギ属の多年草「ミソハギ(禊萩)」は「本州以南」に分布している。
 山野で日当たりがいい水湿地や河川、湖沼の縁など水辺の湿地に自生している。岩木山では後長根沢の下流域、「後長根川」と名前が変わって岩木川に流入する流域一帯で見られる。ちょうど今頃、お盆の時季に薄紅色だったり、濃いめの紅色の花を咲かせている。
 岩木川の流域にも結構見られるし、屏風山の沼地周辺でも今を盛りと咲いているだろう。
開花時期は7月頃~8月末頃までで、茎の上部の葉腋に数個ずつ小さな紅紫色の6弁花をつける。
 花は「ミソハギ」に似ているが、全体に細毛が密生していて大型で、繁殖力が強く、草丈は1mほどと大きい。
 
 名前の由来は、「水辺に生えるからミズハギ」、「花が小さいので微萩(みそかはぎ)」、「行者が禊(みそぎ)の時に挿して拝んだのでミソギハギ」など実に多彩だが、正統派は
「ミソギ(禊ぎ)ハギ(萩)」を略したものだろう。「ミソギ」は水を注いで邪悪なもの、悪魔を払うことで「禊ぎ」である。「ハギ」は秋の七草の「萩」であるが、萩とはまったく関係がない。遠目には「ハギ」に似ているように見えるからかも知れない。 学名に「リスラム」という語を持っているが、これはギリシャ語の「lythron(血)」に由来する。花が血のように赤いところからだろう。
 別名は、お盆の供花とするので「ボンバナ(盆花)」だ。その他に「千屈菜、盆草、精霊花、草萩、鼠尾草、水萩、そはぎ、ミズカケグサ(水懸草)」などと言うそうだ。また、「ミゾハギ(溝萩)」と呼ぶ地方もある。
 葉は天ぷらや茹でて、花はサラダ、酢の物として食用。また、下痢止めや虫さされに効用があるとされている。)

◇◇ ミソハギの花に寄せる想い(2) ◇◇

 (承前)…だが、この花は最初の出会いの私に「農民の無念さ秘めた紅紫色の禊ぎ花」という強い印象を与えたものだった。
 道路の左側に棚田状の捨てられて荒れに任せた休耕田が見えた。減反という有無を言わせない農政の結末がそこにはあった。農業的価値には一貫性と永遠性が必要なのに農政にはそれが欠けている。農民にとって、土地があるのに耕せないほど辛いことがあろうか。 見えないところで農民の心情はこの休耕田のように荒(すさ)んでいるに違いない。その廃棄された田圃の乾ききった畦には数本の紅紫色花が佇立していた。茎の上部の葉腋に小さな六弁の花を咲かせるエゾミソハギだった。
 この花は農民の田圃に対する禊ぎ花に違いない。この「休耕田」が一日に1台も自動車の走らない「立派な農免道路」を支えているとしたらこれはおかしい。価値の倒立だろう。

 次は、ミソハギを主題にした「短歌」と「俳句」を紹介しよう。
       
・ミソハギの小さき花の紫を初恋のごとき指もて手折る(京極塔子)
 「禊萩の小さな紫がかった花を(初恋のような指?みんなでこの意味を考え想像しよう。)でもって折るのであるよ。」とでも解釈しようか。

・咲き初め小花集めるミソハギの終盤だれてとりとめもなき(池 牧人)
 「咲きはじめは小さい花を沢山つけて整然としているが、花期が終わりに近づいてくるとその整然さも乱れてとりとめのないものになってしまうのだなあ。」という感慨は、まさにそのとおりである。このような咲き方散り方をこの花はするのだ。

・家遠しみそ萩つむは孤児(みなしご)か(幸田露伴)
『人家から遠く離れた野原で、一人禊萩を摘んでいるのはみなしごだろうか。群れて、林立して咲いている中で、何となく寂しげである。この孤影はなんだろうか。』さすが「露伴」だ。そこまでよみとって吟ずるとは、さすがである。

・みそ萩の露にとどけり昼の鐘(細見綾子)
『朝露をまだ花びらにつけたままの禊萩が咲いている。時折しも、昼を告げる鐘の音が聞こえてきた。鐘の音が届いたたのだろうか、それに合わせてその露が微かに揺れ動いたようだった。』
 昨日紹介した金子みすゞの詩「それは、さみしいみそはぎの、花からこぼれた露でした」に通ずる感興だろう。

 次の2句は「お盆の精霊花」としての「ミソハギ」を吟じたものだ。
 毎日新聞電子版「余録」の「盆花ミソハギ」には…今は精霊棚もないお盆をお迎えの方が多かろう。だがこのお盆休みのひと時、ミソハギでなくとも花一輪なりとも生け、風に耳を澄ましてはいかがだろう。心に訪れるものと静かに語らえばいい。…とあった。

・みそ萩や母なきあとの母がわり(稲垣きくの)
『禊萩を盆花とする宗教性を踏まえている句であろう。母が亡くなった。その代わりをしてくれているのが禊萩である。 これを供花として母を大切に思い感謝しようと思うのだ。
何という心根の優しさだろう。』思わず、涙が出そうになった。

・みそ萩や水につければ風の吹く(小林一茶)
 この句の意味が分からず、どのように解釈すればいいのか分からないで困っていた。だが、一茶の妻の新盆の句であるということを知って、よく理解出来た。
 「精霊花」としての「ミソハギ」はお盆の前の12日から13日の朝にかけて、野山や川岸から摘み取り、それを飾り、水をかけて、ご先祖様や親しい家族の祖霊を迎えたのである。暑い中、時折吹きつける北風は涼風であり、清々しい。その風となって戻った亡き妻の霊と「一茶」は一体、何を語ったのだろう。

 地方によっては「ミソハギ」を「水懸草」と呼んだ。これは、「お盆で先祖の霊を迎える精霊棚にミソハギの束を使って水をかけた」からであると言われている。

ミソハギの花に寄せる想い(1) / 市長との談話…わずか30分、その結果を持って船沢公民館へ

2010-08-15 04:26:07 | Weblog
 (今日の写真は、いわゆる初期の「弥生スキー場建設予定地」に許可のないまま「建設した」管理棟と機械棟が残されたままの「弥生跡地」である。
 直前の道は「弥生いこいの広場」にアクセスしている旧道である。「スキー場」開設を見越して立派な2車線「アクセス」道路を、これら建造物の建築と併行して敷設したのである。その道路の右端が、写真下端の白い「ライン」である。この幅の広い新道は、弘前市が敷設した。今になっては「弥生いこいの広場」へのアクセス道路としてしか使われていない。まさに分不相応な立派な道路である。
 「管理棟と機械棟を含んだ跡地」は「弘前リゾート株式会社」が「復元した」上で、弘前市が買い取ったのであるが、この「復元」が「マユツバ」ものだった。弘前市が出資している会社から弘前市が買い取るという構図、いくらでもごまかしは可能だろう。ただ、その土地を見せかけ上、「均した」だけというもであったのだ。もちろん、地下に埋設したものは、そのままである。
 
 ただ、植物は健気である。扇状地形故に「水の染み出している」個所は多い。そこには真っ先に、「ミソハギ」が生え始め、毎夏、花を咲かせるようになった。
 総じて、背丈は低いし、数も多くはないが、それでも、今夏も「薄紅色」の6弁花を元気に咲かせている。)

◇◇ ミソハギの花に寄せる想い(1) ◇◇

 <ながれの岸のみそはぎは、誰も知らない花でした。/ながれの水ははるばると、とおくの海へゆきました。/大きな、大きな、大海で、小さな、小さな、一しずく、誰も、知らないみそはぎを、いつもおもって居りました。/それは、さみしいみそはぎの、花からこぼれた露でした。>…金子みすゞの詩「みそはぎ」。
  2010年8月13日付毎日新聞電子版「余録」の「盆花ミソハギ」から引用…
 私は、何だか、わけも分からず、じ~んとした。そして、次のようなことを感じた。
…「露」は亡くなったご先祖様の御霊なのかも知れない。そして、その「露」をつけた「ミソハギ」は岩木川が日本海に注いでいる「十三湖」岸まで、延々と咲き誇ってるのだ。
 そして、日本海という「大きな、大きな、大海」に、「小さな、小さな、一しずく」となって消えるのである。と…。
 今もそうであるかも知れないが、昔は、旧暦のお盆の時に、この「ミソハギ」の枝を水に浸して仏前の供物に禊ぎをした。お盆の精霊花だといった方が分かりやすい。
 長野県などではお盆の日に花に水をつけて玄関先でおはらいをして祖霊を迎えるという。
 供物に水をかける風習について、江戸中期の国学者「天野信景」は、「昔の医書にミソハギが喉の渇きを止めるのに効くとあるので、亡者の渇きをいやすために、この草で水をかけるのではないか」と述べている。(明日に続く)

◇◇ 市長との談話…わずか30分、その結果を持って船沢公民館へ ◇◇

 7月30日(金)に「弥生ネット」と葛西市長との懇談を行った。出席者は、市側が葛西市長、高木企画課長、五十嵐氏 以上3名である。
 弥生ネット側は「岩木山を考える会」、「弘前市民オンブズパーソン」、「コープ青森弘前地域」、「市民が主人公のみんなの会」、「弘前市を考える会」、「津軽保健生協」合計12名であった。それに、マスコミが陸奥新報、東奥日報の2社であった。

 今回の市長との懇談内容を伝えるために、船沢公民館長のところに12日(木)10時に、私と竹浪さんが出向いた。

 市長との懇談の振り返り、今後の取り組みは?
今回の懇談内容は次のように評価される。○は評価していい。△はやや評価できる。×は評価できない。

1.報告書に沿った形で今後の整備計画を策定していくことが表明される。○
2.懇談会の発足・稼働の方向性が示される。△
3.この間の新たな知見を受けて現地調査、資源調査が実施される方向性が示される。×
4.船沢地区住民の参加に道筋がつけられる。○

今回の懇談で、どのような点まで「到達」出来たか?
1.葛西市長の冒頭の答弁、利活用をめぐる今後の市の方針については、「報告書」の基本的な考え方5項目をそのまま引用し、「これまで市に要望はよせられていない」「関係者地元住民の意見を引き続き聞きながら検討していきたい」「危険があるので立ち入らないようにバリケードをし注意看板を設置したい」とした。内容的には目新しいものはなかった。
2.船沢地区での説明会の開催の要望については、「地元住民の意見を聞くことは当然のことなので、要望があれば実施したい」との立場を表明した。本来ならば、要望がなくとも実施すべきなのだが、地元住民の意見を良く聞く、という立場で実施することを表明したことは一歩前進と言える。
3.危険なので立ち入り禁止措置をすることについては、松原氏より公有地入会権の観点が指摘され、「地元の立ち入りをどうするかについて、話し合いをしながら検討していく。」とした。これも一歩前進である。
4.跡地に残されているマンホール、排水管などの工作物については、工学的見地から機能上必要なものは残さなければならないし、検討しなければならない、とした。
5.高木課長から、懇談会の設置のメドについて、今後弘大の山下教授と相談しながら、懇談会のあり方について検討していきたい、との見解が出された。
6.岩木山を総合的に所管する課の設置については、「現段階ではその考えはなく、関係する課がより連携を取りながら対応していく。」とした。
7.最後に、市長が「地域住民と十分話し合いをしながら進めていく。箱物建設はせず市民の森として育てていく方向で前に進めていきたい」との見解を表明した。

 なお、懇談終了後に、高木課長より竹浪に対して、「市長がこういう考え方なので、進めていくことになると思いますがよろしくお願いします。」との挨拶があった。

 以上のことを交えて、船沢公民館館長と親しく話し合いをしたことはいうまでもない。地域の大勢の人たちが集いやすい時季を考え、まずは「報告書」の説明会を、そして、それを「懇談会」へとつなげていくことを確認しあって、私たちの話し合いは終わったのである。

教育センター「社会科地域教材開発講座」のアシスタント/ 弘前市船沢地区市政懇談会の傍聴

2010-08-14 04:34:35 | Weblog
 (今日の写真は、今から10数年前に写されたものだ。弘前市も出資していた「弘前リゾート株式会社」が開設しようとした「弥生スキー場予定地下部に建設された管理棟および機械棟」である。完全なコンクリート建造物である。
 上部に見える赤い屋根の建築物は「弥生いこいの村」のものである。ひどいことをしたものである。「水源涵養保安林の指定」解除が青森県によって「認められ」ないうちに、このような森林伐採、土壌剥離、それに建造物の構築を「弘前市」はしてしまったのである。
 まさに、行政の「横暴であり、無謀で独りよがりの」行動であった。とどのつまり、「保安林の指定」は解除されず、「スキー場」の敷設は「水泡」となってしまったのである。
 市民を置き去りにした政治的な思惑が、その政治的な思惑によって「消された」のである。
 そして、弘前市は、この「弥生スキー場予定地跡地」を数億円の金を支払って、買い取ることになったのである。この建物は現在はない。だが、基部は砕かれてはいるが残っている。)

◇◇ 青森県総合学校教育センター「社会科地域教材開発講座」にアシスタントとして参加 ◇◇

 実は1週間ほど前に弘前大学人文学部の山下先生から、次のような講座があり、現地調査の時のアシスタント(現地説明補助員)をして欲しいとの依頼があった。それに応えたものである。
 この講座は「身近な地域の諸事象に対する理解と関心を深めさせ、地域のよさを発見する社会科指導の充実のため、地域の文化遺産や主な産業を地域素材として取り上げながら、地域教材の開発及び地域調査の方法等について研修を行い、担当教員の指導力の向上を図る。」という目的で、小学校教員、中学校(社会科担当)教員、高等学校(地理歴史科・公民科担当)教員を対象にしていた。
 …ということで山下祐介先生は、「地域実地調査ー弘前市近郊の調査」として、件の「弥生跡地」と「船沢地区」を選んだのだ。
 講座受講教員は40名だった。8月11日(水)にアシスタントとして、私の他に、「船沢」の歴史などに詳しい船沢地区在住のMさん、Nさん、Tさんも参加した。
 私は、「弥生跡地」が「跡地」となった時から現在までの植生を中心にした「遷移」について説明した。「遷移」して「自然は回復」しているが、それは「いびつなもの」であり、土壌までが剥離された環境での「自然的な遷移」は難しいということを補足説明した。

 受講した小、中、高の先生たちは、「地域素材の教材化の視点と方法」に基づいて、「実地調査をもとにした指導案の作成」という課題が待ち受けている。
 ご苦労さんなことだ。「現地や現場に興味を持って」も、それが「課題の答え探し」に終わってしまうのなら意味がない。
 自分たちの扱う児童生徒が居住する近くで、行政的に何が起き、それがその地域の住民にどのような影響や難題を与えていくのかということを、この「弥生跡地」からしっかりと学んで欲しいと思ったものだ。

◇◇ 弘前市船沢地区市政懇談会に傍聴、参加した ◇◇

 教育センターの「社会科地域教材開発講座」にアシスタントとして参加した後で、船沢公民館で午後1時30分から開かれた「弘前市船沢地区市政懇談会」に参加した。
会場の「椅子席」はほぼ埋まっていたかのように見えた。平日でしかも暑い中、結構な数の参加者であることに驚いた。
 懇談会の内容の主なものは「当該地区の事業説明」、「事前案件への回答」、「事前案件以外の意見・要望」であった。

 「弥生リゾー卜跡地」に関係することだけを報告しよう。

 事前案件            
 当地区内にある弥生リゾー卜跡地は少しずつ自然の状態へと戻っているとも聞くが、跡地内部には工事着工箇所がいくつか残るなど完全に自然の状態に戻るごとはないとの意見もある。
 現市政では今後この問題についてどのように向き合い対応していくのかお知らせ願いたい。
                        船沢地区町会連合会から

 それに対する回答は次のとおりであった。

 弥生リゾート跡地について、これまでの市の基本的な考え方は、次のとおりです。
1 広く市民の意見を聴いて、今後の方向を定めでいく
2 自然に近い姿を念頭に置きながら検討を進める            
3 大型箱物施設を中心とした計画とはしない
4 防災や利用上の安全面も考慮し整備の方向を定めていく  
5 懇談会などの運営にあたっては、大学等、外部のノウハウ・手法を活用することを検討する
 以上の5つの項目の考え方に基づき市緊と弘前大学とで行った共同研究の報告書が、平成21年11月に完成、これを公表し、地元をはじめ広く市民への説明会を開催したところです。
 リゾート開発跡地を今後どうするかについでは、もうがし時間をかけて検討したいと考えています。また、ご要望があれば弘前大学との共同研究の内容についての説明会を今後も開催したいと考えでいます。
 一方、地元として跡地の整備や活用について、具体的なご提案があればお寄せいただきたいと思います。基本的な考え方などを踏まえ、その実現可能性について検討します。
 なお、跡地管理上の安全対策として、跡地立ち入り禁止のためのバリケード及び注意看板の設置を、今年度も行うこととしています。

 これら以外に、この件について住民から出された問題点(懸念材料)や意見は次のとおりだ。

 1.「跡地内にある池(調整池)」に関わること
堆積沈殿物が底に貯まり、いつ溢れて流れ出すか分からない。水害や土石流が心配だ。

回答:排水溝が「地穴」構造になっているので、溢れる心配はないし、水門も定期的に点検している。池の堆積物に生えている雑木も適宜伐採している。

 2.「跡地全般」に関わる意見

 5項目の「市の基本的な考え方」を示すだけでは、住民として「具体的」な利活用の手立てを挙げることは出来ない。たとえば、「『跡地内』に残っている道を歩けるようにする」とかである。何か1つでもいいから具体的なものの提示が欲しい。

 このことに対して、ただ、気になることがある。…それは船沢地区市政懇談会の席で、葛西市長が「市民団体」が「地域住民」の意向を大切にと主張するのでと言い、その所為もあって、具体的な項目を提示出来ないでいるというニュアンスの物言いをしたことである。

カメラを持たない登山 (15 最終回)

2010-08-13 04:07:24 | Weblog
 (今日の写真は、鳥の海爆裂火口の南陵である。太陽が昇り、平地ではすっかり明るくなり、清々しい午前中という「時間帯」であろうか。登ってきて少し東に回り込んだところで、振り返ってみると、山稜の先端から太陽が顔を出し始めていた。
 勢い、山稜の北面は「逆光」になる。そして、深い青鈍びの世界に沈んだ。ふと、想う。これは、深い海の底に屹立している「海山」ではないのか、と。
 あるいは、天井に滴り落ちる天然水と垂れ下がる鍾乳石を持たない水中洞窟、鍾乳洞穴なのかも知れないという想念が脳裏を掠める。
 ここでは、酸素を必要とする生き物は「生きて」いけないのではないか、そのような想いも、私を捕らえる。
 ここは、青鈍色の「死の世界」か…、私はその「死の世界」の真っ只中にいた。だが、「想う」ことは出来ているし、手も動けば、足も動いている。現にこうして「写真」を撮っているではないか。「死んでは」いない。生きている。
 風速が40mを越え、体感温度が30℃以下、視界ほぼゼロの猛吹雪の世界では、このような想いに捕らわれる余裕はない。ゆったりとした時間と穏やかな「気象」は、人の五感に、「感性」を加えたすべての感覚を自在に、しかも、極限まで高めるもののようだ。
 だが、視界ほぼゼロの猛吹雪の世界では、人は「想念」や「感性」を捨てる。つまり、野生の動物的な存在になっている。言い換えると「獣」になっているということだ。

 五感だけが働く。風に臭いを嗅ぎ、鼻の頭に吹き付ける風に低温を感じ、口を開けた瞬間に飛び込んでくる氷塊に無味という味覚を感じ、ミトン越しの素手に、凍えを感じ取っている。
 視界がゼロに近い中で、必死に「見よう」とする。そして、聴覚に全霊を傾けて、風の向きや風の強さ、吹き付ける間隔を聴こうとするのである。これが、「生きる」ことである。岩木山は私に「生きる」ことをさせてくれる。

 この雪稜に見られる夥しい大小の突起物は、樹氷である。樹木は多くの「ダケカンバ」と少数の「ミヤマハンノキ」である。この樹氷と堆積した雪に埋まっている世界は、私と同じように生きているのだ。「積雪」を天井やドームとして、多くの生き物が暮らしているのだ。
 たとえば、ほ乳類では「トガリネズミ」の仲間であり、それを補食する「オコジョ」もいる。植物では早咲の「ショウジョウバカマ」などは、根生葉を広げ、つぼみをつけているのだ。)

◇◇ カメラを持たない登山 (15 最終回)◇◇

(承前)…この「コミュニズム峰(標高7500m)」の登頂を目指す登山は私を変えた。それは標高4000m以上の積雪帯では「生き物に会わない登山」であったことによる。

 …それ以降、私は「岩木山の命」と向き合うことに決めた。それは、花であり、樹木であり、果実であり、ほ乳動物であり、鳥類であり、は虫類であり、昆虫であり、蜘蛛類であり、気象的な空であり、雲であり、太陽であり、雨であり、雪であり、加えて無機質の岩や土石、地質から地形にまで及んだ。
 標高1625mという岩木山は、生命のあふれた山である。沢という沢は山麓の扇状地形を潤し、それに沿って集落を形成させた。動物だけでなく、人々にも命の根源である水を与え、田畑を潤し、生活基盤を確立させた。
 岩木山は恵みの山である。その意味では、この上なく愛おしい「山」である。愛おしい「岩木山と、その命の豊かさに向き合うこと」と、それは、「命の豊かさ」を写真に撮って残すことである。併せて、それらを文章として記録することである。1988年以降、カメラは常にザックに入り、首から吊り下げられ、「フィルムカメラ」から「デジタルカメラ」に代わってからは、写す枚数も格段と多くなった。
 それ以来、一度たりとも「カメラ」を持たないで山、「岩木山」に登ったということはない。しかし、「ビニール」袋でしっかり包んだカメラをザックから「山行」中、一度も出さないということは、たびたびあるのだ。
 「1989年1月」に岳登山道尾根で「イヌワシ」を確認したということも、その類である。…カメラを携行していたが、茫然自失の状態で、「カメラをザックから出すことも忘れ」、写せなかったという経験であったのだ。
 岳登山道尾根で「イヌワシ」を確認したことは話題になった。だが、それは「写真」がないということで、いつの間にか、しぼんでしまった。

 「岩手山・八幡平(裏岩手)」縦走登山では、パーティー個々人の役割(係活動)を原則重視した。つまり、写真係を決めたのである。つまり、「カメラ」はパーティーで「1台」しか持たないということである。
 「写真係」は相棒さんだ。そういうわけで、私にとって、実に数十年ぶりくらいの「カメラ」を携行しない登山となった。私のカメラは重い。F2.8の28-70mmズームレンズと本体で2.0Kgになるのだ。
 ところが、焼走り登山口近くの「焼走り溶岩流」で、相棒さんが撮影を始めたら、シャッターがきれないというトラブルである。このような場合は「電池切れ」を疑う必要がある。幸い出発時間にそれほどの遅れも出ないようだから、近くのコンビニにまで電池を買いに行った。期待に胸を弾ませて、…これは「ウソ」、祈るような気持ちで「新品の電池」と交換、やはりシャッターは切れないし、通電しない。
 これで、「パーティー」としての「カメラ」はなくなった。カメラのない2泊3日の縦走登山が始まったのである。

 「カメラ」を携行しない登山がこれほど楽だったとは、改めて思い知らされた。自分の目で見るだけ、脳裏に焼き付けるだけの山行、両手を使えるこの安心感、安定感、立ち止まる必要がないから、そのスピードはなめらかで速い。首に提げることもないから、もちろん、疲れも少ない。
 「カメラ」を携行すると、ザックの重さは2.0Kg増えるのである。首に提げるということは「2.0Kgの分銅」をぶら下げて登行しているようなものだ。バランスを崩すために「提げて」いるようなものである。それがないのだ。
 だから、69歳という私でも、「2泊3日という全装備」を背負っても、予定よりも早い時間帯に、それぞれの到着地点に辿り着けたのであろう。

 中高年登山客よ、写真撮影はほどほどに…ということを教訓としよう (この稿は今回で終わる)

カメラを持たない登山 (14)

2010-08-12 05:08:51 | Weblog
 (今日の写真は、厳冬期の岩木山山頂部である。それまで、猛吹雪で視界が1、2mという世界だった。鳥の海噴火口の西の縁を登り切ったと思われるところで、前上方が明るくなったと思ったら、眼前に、この「山頂部」が現れた。遠目に見えるこの世界には「生き物」の影はない。美しく神々しい姿だが、そこには生命の躍動は感じられない。
 だが、登りながら目につくものは、無機質な造形、「シュカブラ」や「エビのしっぽ」だけではない。
 「カモシカ」や「ノウサギ」の足跡があちこちに見られるのだ。「エビのしっぽ」をピッケルでたたき落とすとその下には、蘚苔類の「チズゴケ」なども生えているのである。
 ここは、命あふれる世界なのである。私はその「命あふれる世界」を撮りたいのだ。)

◇◇ カメラを持たない登山 (14回)◇◇

(承前)…この「コミュニズム峰(標高7500m)」の登頂を目指す登山は私を変えた。それは標高4000m以上の積雪帯では「生き物に会わない登山」であったことによる。

 切り立った岩壁を数100mトラバースしながら、あるいは登攀しながら…「時折、首を回して上空を見る。恐る恐る眼下を見る。眼下には広い氷河が寝そべっていた。そして、眼前の岩肌を見る。だが見えるものの中には「生き物」はいなかった。岩肌には「昆虫」すら這い回っていないのだ。」と昨日書いた。
 岩の世界が終わり、高見が増して雪に覆われた「世界」にかわると、そこでは、より以上に「生き物」の姿はない。標高が6000mを越えるともはや「私たちの目」で認められる「生き物」は皆無である。
 実際はそうでないのかも知れないが、少なくとも私の目には皆無としか見えないのだった。私はあることとそのような状況を比較していた。あることとは「厳冬期の岩木山」である。
 厳冬期の山頂付近、猛吹雪で風速40m超、体感温度は氷点下30℃以下、ホワイトアウトで視界は1、2m、積雪というよりはガラガラとした氷雪に近い。一見、あるいは実感すると「そこ」は「死の世界」である。
 だが、手がかりや足下に、時折「カモシカ」や「ノウサギ」の足跡を見ることがある。決して生き物のいない世界ではない。そして、辿り着いた山頂の小屋で1泊する。
 羽毛のシェラフに潜り込んで就寝、ところが、夜中に「鼻」の辺りが妙に冷たいと思い、目が醒めた。私の口の周りを何かが動いている。「冷たさ」を感じさせたのは、その小動物の「鼻」だったのである。
 それは「ネズミ」であった。「ネズミ」といっても、里にいる「ドブネズミ」のような大型ではない。「トガリネズミ」の仲間で、体長も10~15cm足らずと小さくて可愛らしいものだ。私の口の周りに付いていた食べ物の滓でも嘗めているのだろう。そう考えていたら、今度は、潜りだしたのである。私の体と「シェラフ」の隙間を伝って、胸の上を通り腰の横から、股下に入り、足の先まで移動する。それを何回か繰り返していたが、いつの間にか「動き」はなくなった。眠ったのかも知れない。私も、そのまま、また眠りについたのだ。
 朝に目覚めて、「シェラフ」をたたみながら「ネズミよ、入っていないかい」と声をかけながら探したがいなかった。私が熟睡中に、恐らく、首筋辺りを通って出て行ったのだろう。
 私は、少なくとも、厳冬期の山頂小屋で「ネズミ」と数時間は「同衾」したのである。真冬、生き物の動きは殆ど見えなくなる世界だが、「岩木山」はこのように、生命に満ちあふれた世界なのである。だが、6000mを越える高所では、それがない。視覚的、体感的には「生き物」のいない世界、死の世界でしかないのだ。
 そのような世界で「蠢いている生物」は「酸素ボンベ」に助けられて登っていたり、アルパイン・スタイルという「低酸素状態に自分の体を適合させる」という人間の環境への順応力に頼った方法で、高所順応を繰り返して、それに耐えて登っている「人」という「生き物」だけなのである。
 私は、「高所順応」もうまくいき、「辛い」ということは殆どなかったが、それでも、軽いめまいや息切れには悩まされた。これは、高所では「誰」もが陥る症状であるが、そのような時に、いつも「厳冬期の岩木山登山」を思い出していた。それは、厳冬期にあっても「命豊かな岩木山」であったのである。
 この「生き物の蠢きを感ずることが出来なかった標高6000~7000mの世界」での経験が、その後の私を、ますます、岩木山にのめり込ませた。逆に「生命豊かな岩木山」に憧れを抱かせたのである。(明日に続く)

カメラを持たない登山 (13)

2010-08-11 04:23:36 | Weblog
(今日の写真は、1988年7月に高所登山で、岩の壁をトラバースしている私である。後方2人目がそうだ。
 靴底がすっぽりと納まるような足がかりはない。つま先部分(靴先)だけで、ザックと体重の全重量を支えなければいけないのだ。
 岩の壁を登るのよりも、このような場所での「トラバース」は緊張が強いられるものである。岩壁に沿って白いロープ状のものが見えるだろう。これを、「フィックスザイル(固定されたロープ)」という。これに、自分のシットハーネスをシュリンゲを使い、カラビナを介して「つなぐ」のである。これが、唯一の「命綱」だ。
 所々にハーケンが打たれており、ハーケンのところでは、カラビナを外して、もう一度かけ直すという作業が必要になる。その「かけ直している短い時間」は、「命綱」である「フィックスザイル」につながっていないので、本当に何も手がかりがなく、足を踏み外したら、2000mほど墜落して死ぬしかない。
 私は「死にたくない」ので、手間であったが、もう1本のシュリンゲにカラビナをつけて、それを自分のハーネスに結んだものを、「フィックスザイル」にかけてから、メインのカラビナを外して、付け替えるということを繰り返した。

 時折、首を回して上空を見る。恐る恐る眼下を見る。眼下には広い氷河が寝そべっていた。そして、眼前の岩肌を見る。
 だが見えるものの中には「生き物」はいなかった。岩肌には「昆虫」すら這い回っていないのだ。)

◇◇ カメラを持たない登山 (13)◇◇

(承前)…この「コミュニズム峰(標高7500m)」の登頂を目指す登山は私を変えた。それは標高4000m以上の積雪帯では「生き物に会わない登山」であったことによる。

 …「高所登山」での安全で確実な登高、下降は、「速く登ることが出来る」という体力を持つ者にしか許されないものだろう。ゆっくりとしたスピードでしか登ることが出来ない者は、時間に比例する体力の減少が極めて大きいのである。
 また、1回の勝負に全力を投入する他のスポーツでは、あまり問題にならない「体力の復元力」という概念は、長期にわたる登山行動という特殊性から非常に重要なことになるのだ。
 より「ハイスピード」で登ることが出来ること、そして、疲れても「すぐ回復する力」にとって、心肺機能はこの上なく重要なものである。
 しかし、マラソン選手と同質の体力が要求されるのかというとそれは違う。マラソンでの体力は数時間で使い切る体力、極端にいってゴールに入ってしまえば、倒れてもいいわけである。
 しかし、「高所登山」の場合は、ゴールは頂上ではない。それは「登り口としての山の取り付き」であり、頂上の向こうにある「山麓」なのだ。しかも、山行2週間以上は維持出来る体力でなければいけない。この原理はなにも、「高所登山」の場合にだけ適応されるものではない。すべての「登山」の「ゴール」は「山頂」ではない。それは、登山口であり、各自の家庭なのである。
 この「原理、原則」を理解していない「登山客」があまりにも多い。本来は、頂上まで達することが出来ない体力しかないのに「頂上」へ行こうとする。最近の遭難事故は、この「山頂」に行く手前の「ルート」や時間的なプロセスの中で起きていることが多い。
 体力に欠けるものは、経験と技術、知識、装備の力を借りて、または、それらを活用して「頂上」に行こうとする。これで何とか行ける場合もある。
 だが、「ゴール」するには下降という登りよりも技術的に難しいコースが待ち構えている。
 中高年登山客の「滑落事故」は大概、この下降時に発生している。「中高年」登山客というと、人生経験が豊富な世代である。だが、その大半は「登山経験」が殆どない。
 つまり、「中高年登山初心者」なのである。だから、「体力」のなさをカバーしてくれるべき「経験」もない。
 この傾向は、「登山界」のすべてに見られる傾向だ。体力がない上に無知で、経験にかける、技術もないという者たちが、自分の身の丈を超えた「山行」に出かける。だから、遭難は「起こるべくして」起こる。
 「沢登り」をしていて、滝の上を「高巻き」する際に、「滝壺」に落ちることは、「ないこと」ではない。私も落ちた経験はある。だが、落ちたことで、「溺死」するということは考えられないことだ。
 沢登りをする時、「ザックの中身」を濡らさないように、細心の注意を払って「パッキング」をする。すべての物品を小さめのビニール袋に入れて、水が入らないように輪ゴムでとめる。
 それらを大きなビニールの袋にいれて、それをザックに同梱する。もちろん、これも、水が入らないように輪ゴムできっちりと縛る。ザックの内容物はこのように、ザック内に収まっているのだ。
 この「濡らさない」工夫は、結果として「ザック」が、滝壺に落ちた時の「浮き袋や浮き輪」の役目を果たすのである。
 しっかりとこのような「パッキング」をしていれば、水中に沈み、「溺死」することはないのである。自然と浮かび、水上に顔が出るものだ。
 申し訳ないが、これは「身から出た錆」であろう。亡くなった個人だけでなく、パーティーを形成した「組織」そのものにとっても「身から出た錆」である。
 「山頂」に達する体力がないのに山頂に向かい、途中で動けなくなる「中高年」登山客と同じパターンに見えてしょうがないのだ。

 登山をする者の体力は、マラソンランナーのそれとは異質の要素を持つ。そして、前述した「単位時間内での登高高度差が大きいこと」と「体力の復元力」という2つの要素に加えて、「持久力」の必要度も大きい問題なのである。背に荷物を載せ、重い靴、それにアイゼンなど装着して登る以上、「筋力」も重要なことになる。
 よく言われることだが、「日常、登山活動をして、体力的に強い者は、高所でも強い」ということがある。これは事実だ。勿論、きちんとした高所順応の手立てを踏んでいればのことである。
 このように見てくると、「独特な体力」をつけるには、第1に「筋力の鍛錬」をすること、第2には「心肺機能とそれを支える筋力機能の向上」、第3には「持久力をつけること」、第4には「全身的に筋肉を強くし、基礎体力の向上」に努めること等が必要であると言えそうである。これも、「普通の登山」に適用される原理、原則であろう。(明日に続く)

「円周率5兆けた、PCで計算」ということへの雑感 / カメラを持たない登山 (12)

2010-08-10 04:04:00 | Weblog
(今日のイラスト?は、2010年8月5日の朝日新聞に「円周率5兆けた、PCで計算 長野の会社員、3カ月かけ」という記事が掲載された時に併載されていたものだ。
 突然、毛色の変わったものの登場で驚くかも知れないが、私はこの記事の中の「あること」にひどく興味がそそられたのである。
 決して、それは「3.141592……と続く円周率」そのものではない。)

◇◇「円周率5兆けた、PCで計算 長野の会社員、3カ月かけ」への雑感 ◇◇

 記事に言う。

…円周率を、長野県飯田市の会社員近藤茂さん(54)らがパソコンで小数点以下5兆けたまで計算した。計算が正しければ、フランスのエンジニアが昨年末にパソコンで出した記録(約2兆7千億けた)を大幅に更新し、世界一になる。2兆けたの壁を初めて破った筑波大の研究まではスーパーコンピューターが主流だったが、長大な円周率計算も「パソコン」でできる時代になった。…

 「パソコン」とはパーソナルコンピューターのことだ。デスクトップだろうがノート型だろうが個人的に使用するものをそのように呼んでいる。市販の、しかも個人が購入する「コンピューター」という場合は、99.9999999999%がこれを指す。
 私はふと思い出した。事業仕分けで「スパーコンピューター」に関する費用切りを「力強く主張した」女性国会議員のことを…。彼女は、この会社員「近藤茂さん」がしたように、安上がりな個人的なコンピューターでも、使い方次第では「スパコン(スパーコンピューター)」と同等のようなことを「させる」ことが出来るということを予知してしていたのであろろうか。
 きっと、いつも少しいかつい美貌の「レンボウ」さん、この記事を読んで「にっこり」したかも知れない。

 …計算には近藤さんのウィンドウズ・パソコンを使った。プログラムを作った米国のアレクサンダー・J・イーさんとメールをやりとりしながら、5月4日に計算を始め、3カ月後の今月3日に終了。…

 「ウィンドウズ・パソコン」と断っているが、OSと筐体ごとで「パソコン」を製造販売しているのは米国のアップル社以外は、シェア的には問題にならない数なので、「パソコン」というと、一般的には「Windows」のOSを使っているものを指す場合が多い。
 だから、近藤さんが使用しているOSはWindows XPかWindows7であり、おそらく、64bitのものだろう。記事にはないが、メモリも数10GBを積んでいるのだろう。

 …計算で大量のデータを記憶させるため、パソコンには通常の数十台分にあたる22テラバイトのハードディスクを搭載。演算速度などを決めるCPUはインテルの最高レベルのもの(3.33ギガヘルツ)を使った。パソコンの費用は百数十万円かかったが、市販製品でまかなえた。…

 1テラバイトとは1000GB(ギガバイト)のことだ。最近では1テラバイト超のハードディスクも市販されているので、22テラバイトというから、それを仮に22個接続した場合は、筐体内の電源は相当なものを確保しなければいけないだろう。だから、外付けの「電源」も併用したかも知れない。因みに、私はシステム用のディスク以外に500GBのものを2個載せた経験しかない。
 「電源」との関連でもう1つ気になったことは「ビデオカード」のことである。私が現在使っている「GeForece GTX 295」は最大消費電力が282Wで、+12Vが40A以上の550W以上の電源が必要とされている。
 仮に、この程度のカードを使っているとしたら「電源」は数1000Wattsになってしまうかも知れない。恐らく、モニターに表示されるものは「数字」の羅列だから、高性能のカードでなくてもいいはずである。ぎりぎりまで性能は、「下げたもの」を使ったはずだ。

 私にこの文章を書かせる気になったこと、つまり、私の興味をひどく惹いたことは「演算速度などを決めるCPUはインテルの最高レベルのもの(3.33ギガヘルツ)を使った」ということである。
 実は、私の自作コンピューターにも、同じCPUを使っているのだ。だが、そのCPUが「最高レベル」のものであるということは、様々な「資料」を読むことで、「知って」いるつもりなのだが、使用していながら「最高レベル」を実感出来ないでいたのだ。
 大体において「コンピューター」の機能の優劣は人間の感覚では計り知れないところまですでに来ているのだろう。
 この記事、「近藤さん」の快挙は、そのCPUが「最高レベル」であることを客観的に、教えてくれたのである。私は呻った。「うむ、このCPUはこれほどにすばらしいものなのか」と。 

 …近藤さんは高校生のとき、コンピューターによる円周率計算に興味を持ち、「未知のけた」をずっと追ってきた。「フランスでパソコンでも記録が出せるのを知って挑戦してみようと思った。今度は10兆けたに挑みたい」と話す。…

 まだまだ、「近藤さん」の足下にも及ばない。私は年はとっているがWindows XPからWindows7までの「世代」でしかない。いわば、パソコンの初心者である。だが、「パソコン」の使い途においては「近藤さん」とはまったく違う。比較することは無意味なことだろう。
 ただ、国の大金を投入して「スパコン」を整備して、「世界で1番という記録を作る」という価値観はこれでいくらかは潰えたのではないか。その意味でも、「近藤さん」は偉大である。世の「コンピューター」学者たちや「スパコン」崇拝者たちよ、「パソコン」と侮るなかれ、「スパコン」だけが「コンピューター」ではないのだ。
 「パソコン」を構成する多くの部品は、その性能が向上している。CPU1つとってみても、「マザーボード」の「オーバークロック」機能を使うと「3.6ギガヘルツ」超まで性能が上がるのである。
 「家庭用のパソコンを使って長大な計算が行える時代」になっていることを「近藤さん」は証明したのである。

◇◇ カメラを持たない登山 (12)◇◇

(承前)…この「コミュニズム峰(標高7500m)」の登頂を目指す登山は私を変えた。それは標高4000m以上の積雪帯では「生き物に会わない登山」であったことによる。

 …高所登山には、それに耐え得る「独特な体力」が必要であって、この体力がありさえすれば、かなり「克服」が可能になる。私には、この「独特な体力」が備わっていたようである。私は、自分の年齢(47歳)のことも考え、「独特な体力」の増強のために、約3年間をこれに充てた。結果的にこの訓練は、高齢というマイナス面を埋めてくれて、有利に動くことが出来たことにつながった。

 「独特な体力」とは、筋力を常時落とすことなく保ちながら登高速度が速いこと、すなわち、単位時間内での登高高度差が大きいこと、それに、休息中、あるいは、宿泊中における体力の復元力が大きいことを指す。
 登高速度が速いと、短時間で登山を完成することが出来る。そうすれば、酸素不足による体そのものの消耗も少なくてすむわけである。速く登るということは、無理をしてではなく、自然にそれがいつもの調子のように出来るということだ。(明日に続く)

「ウスノキ(カクミノスノキ)」の果実に寄せる想い / カメラを持たない登山 (11)

2010-08-09 03:38:11 | Weblog
 (今日の写真は、ツツジ科スノキ属の落葉低木「ウスノキ(臼の木)」の果実である。)
 北海道から四国と九州の北部に分布している。別に珍しいツツジの仲間ではない。久渡寺山などにも生えている。高さ1m近くになることもあるが、殆ど50cm以下で地表付近に生えていることが多い。久渡寺山のものはいくらか樹高があるように思える。
 林や岩場、山道の周辺などの明るい場所に生育している。今日の写真のものも、正にこのような秋の陽当たりを十分浴びることの出来る場所に生えていた。
 「ウスノキ」には変異が多い。若い枝には短毛があるものから、あまり毛が目立たないものもある。あるいは、葉の裏面には主脈の両側に毛が密生するものからほとんど無毛のものまであるという具合だ。
 枝先に、緑白色に淡紅色の筋の入った「釣り鐘状の花」を数個つける。先端は5裂し、反り返る。
 花名の由来は、果実の中央部が窪んでいるその形が臼に似ていることによる。別名の「角実の酢の木」(カクミノスノキ)は、角ばった(角実)、酸っぱい果実をつける木(酢の木)という意味による。)

◇◇「ウスノキ(カクミノスノキ)」の果実に寄せる想い ◇◇

 花も美しいが、「果実」の方がより美しい色合いになることが魅力的だ。秋が始まってすぐの頃、透明感のある明るい「赤」を振りまく「果実」は本当に美しい。漿果(しょうか)ゆえの、その色の鮮やかさと「透明感」だけでも、赤い「宝石」に喩えられよう。
 だが、「宝石」に喩えられる要素はもう1つある。それは、果実には「角張った」5稜のあることだ。この「角張り」がまさに、硬質の宝石を連想させるのである。
 だが、その「実」自体は本当に柔らかいのである。この相矛盾する「美しさの混在」がこの「ウスノキ」の果実にはあるのである。そして、この「果実」は、酸味があり、食べられる。だが、「食べられる」というだけで、美味しい果実という印象はない。
 やはり、「ウスノキ」の果実は「見て」味わうことのほうがいいようだ。これと、似ているものにツツジ科スノキ属の「オオバスノキ(大葉酢の木)」がある。
 見分けるには「葉」を囓ってみるといい。「スノキ」の葉は酸っぱいが、ウスノキは酸っぱくないのである。

 「ウスノキ」の果実は「間遠に煌めく一期一会の透明な真紅の雫」である。
 …ダケカンバやミヤマハンノキに混じって、ツツジ科の低木が目立ってくる。さっきから、その低木林の奥で、葉蔭の下、「透明な真紅の雫」を「吊り下げて」いるものがある。それらはそのトンネル状の登山道を吹き抜ける風に吹かれて、小刻みに動いている。
 「ウスノキ」の果実だった。それらは口々に「歓迎の言葉」を述べ、顔に思い思いの微笑を浮かべていた。「また来たよ。よろしくね」と、私は呟きで応えながら、山頂に向かって登り続けた。

◇◇ カメラを持たない登山 (11)◇◇

(承前)…この「コミュニズム峰(標高7500m)」の登頂を目指す登山は私を変えた。それは標高4000m以上の積雪帯では「生き物に会わない登山」であったことによる。

 …人類は、酸素がないと生きていけない。今のところ、この酸素に代わる物質は発見されていない。酸素供給が急激に減ると、肉体(=精神)という繊細な機構は成り立たないところに追い込まれる。
 酸素供給が6分間以上完全に断たれると、脳は回復できない状態まで破壊され、人は死亡又は植物人間になってしまうと言われている。
 よって、全く科学的に考え、「科学の恩恵」に頼る「高所登山」をしようと考えるならば、酸素の薄くなる「高所登山」では、薄くなった分の酸素供給を「カプセルの中」で受けるとか、または「酸素ボンベ」を自力又は他力によって背負いあげ、それによって供給を受けるという方法がある。
 だが、酸素供給を受ける「酸素ボンベ」と「カプセル」を誰が運び上げると言うのだ。「自力で背負い、運び上げる」としたら、そのための「体力消耗」は計り知れない。「酸素ボンベ」も「カプセル」も重い。無重力の「宇宙」で「酸素ボンベ」を背負うのとは訳が違う。それだけで「登る体力」も「気力」も失せてしまうのである。現実的には無理なことなのである。
 だが、「金に任せてポーターを雇い、ガイドを雇い、運び上げさせておいて8000mに登ってしまおう」と考える個人や「パーティ」は現にいる。これらは、「ガイドに案内させられた死出の旅」に等しい。「ガイド」がいなければ自分では、降りることも登ることも何1つも出来ず、「酸素ボンベ」がなければ「高度障害」で倒れてしまい、「死亡」するのである。
 しかし、それとは違うもう一つの方法で、「高所」を登ることが可能なのである。ラインホルト・メスナーはこの方法で8000m峰14座すべてを登ったのである。
 その方法を私たちはアルパイン・スタイルと言っている。それは「低酸素状態に自分の体を適合させる」という、いわば、人間の環境への順応力に頼った方法だ。
 つまり、これが、「高所順応」なのである。これには、ある高さから、それ以上の高さに登り、もう1度降りてから、また「より高いところ」を目指して「登り降り」を繰り返すので、時間がかかる。体力のない者は「消耗」した体力を取り戻すために数日間かかる場合もある。
 私と一緒に出かけたメンバーの中には、高度障害のため「腹痛、頭痛、嘔吐、浮腫、食欲減退」などの身体的な異常と「気力萎縮と散漫」などの精神的な異常に1週間近く悩まされた者がいた。
 だが、私は「彼ら」を尻目に「休養日」には積極的に「テント」の外に出て、草原や氷河、岩山を「一人」で歩き回っていた。
 しかし、いくらうまく体を順応させたとしても、エヴェレストの頂上より高い所では、人類は生存することが出来ないのである。
 「低酸素状態」の中で、もう一つ忘れていけないことは、身体的影響のみならず、人間の「精神」的なところでも、様々な変化・変調が現われてくるということである。
 高所に登って、各種障害を全く自覚しないでいられることは不可能である。私は、この登山中、「息苦しさ、耳鳴り、心肺への圧迫感」をいつも感じていた。だが、それは行動に支障のあるような変調ではなかった。
 私はそれらを、「高所では当然のこと」と捉えていたために、特別な変調と感じなかったのである。
 つまり、「障害」は出てくるが、それが次の行動を「中止」させるようなものでなく、次々に行動が可能であったということなのである。(明日に続く)

「オオバスノキ」の果実に寄せる想い / カメラを持たない登山 (10)

2010-08-08 04:29:14 | Weblog
 (今日の写真は、ツツジ科スノキ属の落葉低木「オオバスノキ(大葉酢の木)」の果実である。本州、中部地方以北から北海道、南千島、サハリンに分布し、山地から亜高山帯の林内や林縁に生える。
 樹高は50~100cmで、葉は細長い楕円形で、縁には細かい鋸歯があり、互生する。鋸歯の部分が赤く縁取りされているのが分かるだろう。この「赤い縁取り」は、果実が黒熟する時季だけに出来るものではない。赤味を帯びた花が咲く頃からあるのであって、その花とも非常にマッチしていて美しいものである。
 花は、5月から6月にかけて咲き、鐘型で、先端は浅く5裂する。地色に赤紫色が縦方向に入るが次第に紅色に変わる。
 萼には稜がなく、丸みがある。先端は三角形に尖っていて、小さく反り返る。そして、その部分が濃い赤紫色に染まるのである。
 これは、まさに枝先にぶら下がる小さな赤い「ベル」である。

 「スノキ属」には、「スノキ」、「ウスノキ(カクミノスノキ)」、「オオバスノキ」があるが、「オオバスノキ」は樹高が低い割に、葉が大きく4~9cmはある(他の2種は4cm程度)。また、葉の裏が白いのも「オオバスノキ」の特徴である。葉脚の形は、「ウスノキ」が丸く、他の2つはやや尖るのだ。
 ただ、分布は「スノキ」が中部日本以西、「オオバスノキ」が中部地方以北となっているので、岩木山のものは「オオバスノキ」である。
 花名の由来は、「スノキ」の仲間だが、葉が一際大きいことと「酢の木」という名前の由来は、葉や果実を噛むと酸っぱいことによる。 

 私は、この「オオバスノキ」の花との出会いを、次の短歌と俳句で詠んだ。

・「先日の乳白色の色を変え今やルビーの大葉のスノキ」
 …3日前は乳白色の光沢を持った淡い緑色だった。それが太陽と高山の冷気と岩石帯表土からの滋養で変身してしまい、今日は透きとおった紅玉(ルビー)に見えていた。…と解釈していい。

・「我会えり知らず手にした宝玉は風衝に揺れる大葉酢の木ぞ」        
 …頂上近くの小低灌木帯を抜ける中で、手がかりとして無意識に掴んだ「オオバスノキ」の枝や幹である。その枝先には紅玉(ルビー)のような花がついている。思わず手を離してじっと見入る。山腹から吹き上がって来る風が、微かに、それを揺らした。         
・「煌めきと瞬く出会いのスノキ花」     
 …頂上直下に差しかかっていた。「オオバスノキ」の花の色の変化は微妙だ。そこに宝石が地中深くにあって変成していくという隠れた努力の威圧を見たと思った。近寄りがたく、煌(きら)めく美しさ。瞬く間の出会いだから、なお、それは美しい。
                          以上(三浦 奨)
 また、「オオバスノキ」の花には、次のようなキャプションをつけた。
        *涼風爽やかな横顔に見る紅玉の耳飾り* )

◇◇「オオバスノキ」の果実に寄せる想い ◇◇

 「オオバスノキ」は、花の時もいいが、紅葉の時季もいい。葉が先端から淡くて明るい紅色に染まっていく様子は、見事で秋の低木が生えている尾根を鮮やかに飾るのである。
 葉がこのようにきれいな色に染まる頃、果実も赤に染まり始めて、やがては紫から黒く熟すのである。
 まさに、「葉を燃やし黒熟するは酢の木かな」(三浦 奨)の世界なのだ。
だが、最初は、薄緑色の若い果実となり、大葉の裏に隠れている。だから、なかなか、この若い果実には気がつかないのだ。
 花が咲いている時季ならば、誰もが、気がつくだろう。また、秋になって黒く熟した果実をつける頃になると、その「実」と紅く色づいた葉が「一目瞭然」で、その存在を教えてくれるだろう。
 「オオバスノキ」は変幻をするたびに、別な美しさを見せる不思議な樹木なのである。「花を見てそれで満足してしまう」ということは止めた方がいい。若葉、新葉、花芽、開花、花の色の変遷、結実、果実の成長と色の変遷、果実の味を確かめる、葉の色の変遷など、春、夏、秋を通して、その植物に接して、観察することを勧めたい。
「現場で、現物を継続的に観察する」、つまり、現物に即して「観察」することが大事なのである。
 果実は、甘酢ぱくて美味しい。…のだが、「プリンの味は食べてみなければ分からない」と言われるように「味」とは自分自身が、食べて「味覚」しない限り、絶対に分からないものなのである。

◇◇ カメラを持たない登山 (10)◇◇

 (承前)…この「コミュニズム峰(標高7500m)」の登頂を目指す登山は私を変えた。それは標高4000m以上の積雪帯では「生き物に会わない登山」であったことによる。

 …個々人の体質的なものがないわけではないが、「高所順応」は主に、「高所登山」に出かける前の「自己訓練」によって「可否」が決まるのである。
 私はその時、47歳だった。そして、そのことを「理解していた」ので、私は「体力増強」に努め、いろいろと勉強もし、それを実際的に生かすための、肉体的なトレーニングも長期にわたってしていたのである。
…幸い私は、「高所順応」に「適」マークだったようだ。だが、私は、その数年前に交通事故に遭っていた。自転車走行中の私が、一方的に相手の不注意によって、自動車にはねられたのである。
 その上、境界型「糖尿病」とも診断されていた。のような理由から出発するまで、数回にわたり、心電図、脳波、脳の断層写真などの各種検査をした。そして、その都度、「正常値ではない」との診断である。やっと最終の検査で、「高所登山OK」が出たのであった。何故しつこく、検査をしてもらったかというと、「高所障害」の原因に「交通事故の後遺症」や「境界型糖尿病」がなりかねないと判断したからであった。
 だが、そのような条件の中にあっても、4000mのベースキャンプから、6000mを越える高所での活動期間中、身体的な変調は全く感じなかったのだ。
 しかも、海抜6000mほどの所で、膝上までの新雪積雪を、岩木山でラッセル(雪を踏み固め、後続するメンバーのために道路・ルートを作って進むこと)するのとほぼ同じ感覚で、約12kmにわたって独力1人で、ラッセルが出来たし、自己の高度順応力と基本的な体力には自信が持てたのであった。(明日に続く)

「ハナヒリノキ」の果実に寄せる想い / カメラを持たない登山 (9)

2010-08-07 04:16:50 | Weblog
 (今日の写真は、ツツジ科イワナンテン属の落葉低木「ハナヒリノキ(嚔の木)」の果実である。これは9月頃、山頂直下で撮ったものだが、「葉」も「果実」も「枝」も、すべて赤く色づいていた。岩木山には、この仲間である「ウラジロハナヒリノキ」も自生している。
 まず、名前の由来からいこう。「嚔」という漢字一字で「ハナヒリ」と読む。私には読めない。もの凄い「難読漢字」である。たとえ読めたとしても、今度はその「意味」が分からない。今度は「難意」な漢字となる。
 だが、命名は「学問のある」人がつけたわけではなさそうだ。多くの人が「ハナヒリ」と呼んでいたものに後世の「学のある人」がこの「嚔」という漢字を充てたものだろう。
 「嚔(ハナヒリ)」とは「くしゃみ」を意味する。昔、この木の葉を粉末にして、牛や馬など家畜の皮膚に付く寄生虫駆除の殺虫剤として使ったそうである。だが、その粉末が鼻にはいると「くしゃみ」が出ることから、「くしゃみ」の意味の「ハナヒリ」がこの木の名前となった…と言われている。だが、詳細は不明である。
 寄生虫駆除に使われるくらいだから、全木に「グラヤノトキシン」などの毒性物質を含んでいて、口にすると嘔吐、下痢を起こす「有毒植物」である。もちろん、果実も食べられない。
 北海道、本州(和歌山、奈良、京都以北)に分布し、山地の岩場やガレ場のような礫地、尾根筋に生える。よく分枝し、若枝に細毛が生える。葉は互生し、ほとんど、柄はなく、葉身は長楕円形である。縁には毛状の鋸歯があり、葉脈は下部に突出している。
 7~8月頃に、「アセビ」と同じように、長い総状花序にスズランのような小さくて、薄い緑がかった花を俯きに付け、下向きに枝先に向かって咲かせていく。花冠は5mmほどの壺形で、先は5裂して反り返る。)

◇◇「ハナヒリノキ」の果実に寄せる想い ◇◇

 秋の「ハナヒリノキ」の果実は「真っ赤」である。だが、真っ赤なのは「果実」だけではない。「葉」も「枝」も、すべてが「真っ赤っか」のである。
 他の草や樹木の葉が、まだ紅葉していないうちから、この「樹木」だけが全体を真っ赤に染め上げているのは、緑の世界にあってはことさらに目立つ。大体、ツツジの仲間の多くは紅葉がきれいになるのであるが、「ハナヒリノキ」だけは一風変わっているのだ。
 一瞬、「目を引く」が、それは、美しさではなく、その「異様さ」からである。ツツジ科の「マルバウスゴ」にしても、「クロウスゴ」にしても、葉は次第に紅葉するが、果実は黒熟する。同科の「コケモモ」は葉は常緑であって、果実は赤から黒熟する。
 同じツツジ科なのに、「ハナヒリノキ」だけは「葉」、「果実」、「枝」までが早々と、「真紅」になってしまうのである。これはやはり、異様だ。
 じっと見詰めていたら、その色具合は、やはり美しいものであった。「色彩」の美しさは認めるしかないだろうと思った。そして、次に「美しいものには毒がある」という語句が脳裏を掠めた。「ああ、これは全木が有毒だったのだ」ということを改めて、思い返したのである。
 もう1つの異様さもある。それは、花は下向きに咲いていたはずなのに、果実の方は上向きについているということだ。まあ、異様さというよりは「面白い」とでも言うべきかも知れない。丸い小さな果実は、五角の扁球形で、花柱が残っている。

 「ハナヒリノキ」の仲間の「イワナンテン」属には、ツツジ科の常緑小低木である「イワナンテン(岩南天)」がある。本州の関東西部から紀伊半島までの太平洋側に分布し、山地の岩場の湿り気のある崖などに生えている。
 茎の長さは、30~90cm、やや分枝して、垂れるものもある。葉は互生し、卵形で先が尖り、ツバキの葉のように厚くて表面につやがある。4月に、「ハナヒリノキ」に似た形の白い花を咲かせる。

 また、「庭木」とされる「ナンテン(南天)」は全く別種の木本で、中国が原産であるメギ科ナンテン属の「常緑低木」である。
 「ナンテン」は、初夏、円錐花序に沢山の白い米粒状の花を咲かせる。冬になると、赤い小球形の美しい果実をつけるので鑑賞用とされる。
 その他に、「咳止め薬の原料」とされたり、現在でも、名前の「ナンテン」から「難を転じる」意味に結びつけて「縁起物」とされている。また、葉の緑と果実の赤の色の対比が美しいから、おせち料理の彩りに使われるなどと、日本人にとっては馴染みの深い樹木であろう。。
 因みに、「ナカマド(七竃)」の花や果実が「ナンテン」の葉や果実によく似ていることから、「ヤマナンテン(山南天)」 と呼ばれることもあるのだ。

◇◇ カメラを持たない登山 (9)◇◇

(承前)…この「コミュニズム峰(標高7500m)」の登頂を目指す登山は私を変えた。それは標高4000m以上の積雪帯では「生き物に会わない登山」であったことによる。

 積雪帯以下の草原は「樹木」は殆どないものの、多くの草花に覆われていた。中でも惹かれた花は名前は知らないが、「芥子」の仲間である。薄い紫の花びらであったように思う。
 花には昆虫も多かった。特に目についたのがシジミ蝶の仲間である。中でもヒメシジミが多かった。草原の周囲の岩場には「イヌワシ」のような「鷲鷹」類もいた。岩場から少し離れた草原には、大型の「齧歯類」の動物もいた。さすがに、大型の肉食獣に出会うことはなかった。ただ、遊牧民たちの飼う、羊が多数いた。所どころには牛も見られた。

 私は「休養日」にはよく、一人でテントの外に出かけて、半日または終日を過ごした。時には近くにある5000m級の山頂まで行くこともあった。
 それでは、「休養」にならないだろうと思う人もいるだろうが、私にとって、「身体的」な休養は必要なかったのである。
 「休養日」とは「高所順応」のため、標高4000mのベースキャンプから5000~6000mの高さまで「登っ」て降りて来た翌日から与えられる1日か2日の「休養」のための日である。
 「高所順応」とは、「次第に高所になれる」ということであって、これは、一気にはいかないのである。この「高所順応」を何度も繰り返すのである。繰り返してやらないまま、7500mの山頂を目指すことは出来ないのだ。途中で「動けなくなる」か、大概の場合は死亡する。
 この「高所順応」には、個々人の身体的な側面から「適不適」があって、「高所順応」がうまくいき、疲れを知らず、「休養」の必要がない者もいる。
(明日に続く)

「イワナシ」の果実に寄せる想い / カメラを持たない登山 (8)

2010-08-06 04:19:32 | Weblog
 (今日の写真は、ツツジ科イワナシ属の常緑小低木「イワナシ(岩梨)」の、まだ若い果実だ。先日の「岩手山・裏岩手縦走登山」の時にも、丁度このくらいの未熟な実に出会った。
 これくらい若くても、「食べられない」ことはないので「相棒」さんの「相棒」にも勧めたが、口に含んだものの、「いやだあ」という表情をされて、「イワナシ」の果実の「特性」を理解してもらおうとした私の「目論見(もくろみ)」は易々と潰え去った。
 「イワナシ」は北海道西南部から本州の島根県以北に分布するが、主な自生地は日本海側の多雪地帯である。亜高山帯の林縁や傾斜地に自生する「日本固有種」でもある。
 幹は低く地に伏して分枝し、高さは10~20cm位だろう。長楕円形の葉は質が硬くて厚く互生し、縁に褐色刺毛があり、よく目立つ。葉の表は濃緑色で光沢があり、裏は淡黄色で褐色の毛が生える。
 5月頃、枝先に総状につく鐘状(筒状)の花は、淡紅色で浅く5裂している。これを3個ほどつける。大きさは約1cmである。雄しべ10本で雌しべ1本である。
 岩木山では雪消えの早い場所で、陽当たりのいいところでは4月でも花をつけるものもある。水無沢下流の標高400mほどの縁で咲いているのを確認している。
 早い時期に咲き出したものは、秋を待たずに「果実」となる。だから、「食べられる」果実の時季というものは、その個体の生えている場所の条件によってまちまちである。

 名前の由来は、「岩場に生えて、梨のような味のする実をつけること」によるとされているが、これは、「眉唾もの」だ。最初の命名者の見た「イワナシ」が、たまたま「岩の傍ら」に生えていたのだろう。私が見る限りでは、実際に生えている場所は、「岩場」というよりも、林の中の斜面、沢の縁、登山道の低い法面のような場所で、「岩場」とは到底呼べないようなところである。)

◇◇「イワナシ」の果実に寄せる想い ◇◇

 「イワナシ」の果実は、梨に似て甘く食べられる。漿果(液果)で偏球形をしている。若い果実は、緑色の果皮であるが、成熟していくにつれて果皮は鈍い黄銅色に変わっていく。直径は約1cmで、早ければ6月、遅くても8月の下旬頃には、熟して甘く美味しい小さな「ナシ」となっている。
 「果実は梨に似ている」ということには2つの依拠する点がある。
その1つは「成熟していくにつれて果皮は鈍い黄銅色に変わっていく」ことにある。栽培されている「ナシ」とは比べものにならないほど小さいが、その「ナシ」の「長十郎」や「20世紀」の原種である「ヤマナシ」の実にそっくりなのであるということだ。簡単に言うと、「鈍い黄銅色」をした「長十郎」梨に、小さいが相似形であり、色具合までが非常に似ているということなのである。
 その2つは、「味と食感」だ。果肉がみずみずしく、甘酸っぱいということだけではない。また、「ジューシー」なだけでもない。
 それは、日本梨の「長十郎」や「20世紀」を食べた時の、あの「ざらざらした舌触り」や「じゃりじゃり」感を伴うということである。これは、果肉に含まれる「石細胞」という成分によるものである。
 だが、「イワナシ」の「じゃりじゃり」感は「石細胞」によるものではなさそうである。細かくて褐色で、卵形の種子が果肉に詰まっているので、そのような食感を与えるようである。
 因みに、「日本梨」の果肉は、シャキッとした歯触りやざらざらした舌触りで「サンドペアー」と呼ばれている。それに対して「西洋梨」の果肉は、「石細胞」が少なく、熟すと柔らかくなる。総じて、柔らかな舌触りで「バターペアー」と呼ばれるのである。
 岩木山でも、これからの時季に登山途中で、「イワナシ」を見つけたら、葉の下をめくってみよう。可愛い小さな梨がなっているはずである。
 その中の1個だけを摘んで、口に運んでみよう。果皮が黄銅色で、白いみずみずしい果肉と「じゃりじゃり」感を持った甘い梨の味が口一杯に広がるだろう。多くは採るまい。1個だけにしておこう。
 「岩手山・裏岩手縦走登山」に一緒に行った「相棒」さんの「相棒」も、是非「完熟したイワナシ」にリベンジしてほしいものだ。本物の「イワナシ」の味覚と食感を理解して欲しいのである。

◇◇ カメラを持たない登山 (8)◇◇

 (承前)…「1989年1月」に岳登山道尾根で「イヌワシ」を確認したということは、話題になった。行きつけの「アウトドアショップ」でそのことを話したところ、早速、「弘前野鳥の会」のK氏から電話で問い合わせがあった。
 それは、その時に「写真を撮ったか、撮ったならば見せて欲しい」ということであった。だが、残念ながら、私はその時、ザックの底に「カメラ」を忍ばせてはいたものの、「写真」をただの1枚も撮ってはいなかったのだ。

 1988年に海外高所登山に出かけた。出かけやすく、参加しやすく、料金も安かったので参加した。それは、当時のソビエトのスポーツ委員会が主管する「高所登山」でソビエトの最高峰「コミュニズム峰(標高7500m)」の登頂を目指すというものだった。
 「ヴァリエーションルートの極致は冬山だ」と考えるようになっていた私にとって「空気が平地の3分の1」という高所、氷河と万年雪に覆われた世界はまさに、「ヴァリエーションルート」以外の何物でもなかったのである。

 この「コミュニズム峰(標高7500m)」の登頂を目指す登山は私を変えた。それは標高4000m以上の積雪帯では「生き物に会わない登山」であったことによる。(明日に続く)   

「アクシバ」の果実に寄せる想い / カメラを持たない登山 (7)

2010-08-05 04:52:28 | Weblog
 (今日の写真は、ツツジ科スノキ属の落葉小低木「アクシバ(灰汁柴)」の果実だ。北海道、本州、四国、九州に分布し、丘陵地帯から山地帯までの山野の林地に生える。岩木山では標高700mほどが生えている限界のようだ。
 学名には「japonicum」という語が見られるから、「日本の特産種」かと思うのは早計だ。隣国、韓国にも自生しているそうである。
 樹高は0.3mから1mほどになる。若い枝は無毛で緑色であるが、その後には灰黒褐色になる。
 葉は単葉で互生し、葉身の長さは2~6cmで、卵形または卵状楕円形だ。先端は鋭く尖り、基部は円形または浅い心形である。裏面は白っぽく「粉白緑色」で無毛だ。葉柄は殆どない。
 6月から7月にかけて、葉腋から細くて長い花柄を垂れ下げて、淡紅色の花を1個つける。花冠は深く4裂し、裂片が渦巻き状に反り返る。
 「淡紅色の花」は全体的には可愛い印象を与えるが、部分的に「花冠の4裂、裂片が渦巻き状に反り返る」ことに注目すると、私には「奇妙な花」にも見えるのだ。
 名前の由来は、「枝が緑色で、丈が低い雑木(柴)であること」によって「青木柴」と呼ばれていたものが「アクシバ」と転訛したのである。
 また、この「アクシバ」の「柴」を採ってきて、燃やした灰で「灰汁(あく)」を作り、「灰汁抜き」に用いたことにもよるとされている。
 本州中部以西には、若い枝や花柄に毛がある「ケアクシバ」が分布するそうだ。)

◇◇「アクシバ」の果実に寄せる想い ◇◇

 今日の写真は、ある年の10月に岩木山の「二子沼」周辺で撮ったものである。非常に明るい感じで、薄赤く紅葉した木を見つけたので、傍に寄って見た。よく見ると、薄赤く紅葉した葉陰に隠れるように、赤い実がついている。
 一瞬、この実は何だろうと戸惑い、答えが出てこない。全体を見ると、地を這うような格好で生えている。高さは50cm以下であろうか。何だろう。
 葉は尖っている。葉や果実をつけている「枝」は緑色で「青い」。それに、果実の柄が結構長い。全体としては「ツツジ科スノキ属」の樹木であるに違いない。何とかそこまでは辿り着いたが、どうしても、名前が出てこないのだ。
 果実を1つ摘んでみた。強く摘むと簡単に潰れるほどの柔らかさである。このような果実を漿果(しょうか)または液果という。直径は7~8mmほどの球形で、食べられる。「食べられる」とは「食べられないことはない」というくらいの意味で、あまり美味しいものではない。実の先端には萼片が残っている。
 …そして、私は、「枝は緑色で青い」ということに再度注目して、「名前の由来」を辿った。…「青き柴」、ああ、「アクシバ」だ。アクシバの小群落が赤い果実を秋の涼風に振るわせながら、明るい日射しを浴びて踊っている。
 ふと、「いい天気だなあ」と呟いていた。日射しを浴びることは、これからの時季、そう多くはあるまい。間もなく11月、そうなると霙の季節だ。「思い切り、陽を浴びるがいい。これが最後かも知れないよ」という言葉が口を衝いて出た。
 雪が降り出すと果実は落下したり、鳥や他の動物の餌となり、なくなってしまう。葉も同じだ。

 そのような思いとは別に、私は、「アクシバ」の「花冠が4裂、裂片が渦巻き状に反り返る奇妙な花」が変身した果実の、この変哲のなさには、少し興ざめがするほど驚いていたのだ。「何であの花がこうなるの」…と。

◇◇ カメラを持たない登山 (7)◇◇

 (承前)…カメラを携行していたが、茫然自失の状態で、カメラをザックから出すことも忘れ、写せなかったという次のような経験もある…

 …『それは全体的に黒っぽかった。少なくとも鳶の色ではない。春先には鳶が多い。真冬である。季節的には鳶とは言い難かった。
 両方の翼と尾羽の接点付近がかすかに黄色ぽくも見える。足かも知れない。両翼の中央を胴から翼の先端にかけて、白っぽい筋状のようなものがこれまた、かすかに見える。
 イヌワシか、山地の林に棲む留鳥だ。繁殖が知られているのは本州の山岳地帯だけと言われている。岩棚や大木の上に巣を造るのだそうだ。特徴は、云々と復唱してみた。
 何、これはひょっとするとイヌワシか。本当にイヌワシなのか。最近その数が非常に少なくなってきている天然記念物のイヌワシ。これが岩木山にいたのだ。信じよう。
 長い時間ではなかった。恐らく三、四分ほどの停滞であったはずだ。青空は突然消えてしまった。イヌワシの影は私の視界から去った。また白い闇の続く雪面に私は投げ出されて、歩みを始めた。』 

 これは1989年1月のことである。このことは少し話題になった。「岩木山にイヌワシが生息している」ということを証明したい人は結構多かった。また逆に「生息していない」ことを証明したがる人もいた。
 「イヌワシ」は「絶滅危惧種」の野鳥である。もし、岩木山に生息していて、営巣をし、子育てしているという事実がはっきりすると、「岩木山のスキー場を含めた開発」は「イヌワシ」保護のために「法律的」に中止に追い込まれるのだ。
 その頃はまだ、「岩木山を考える会」は設立されていなかったが、設立メンバーの母体となった「野鳥の会」は「イヌワシの調査」を岩木山で行っていた。
 ただ、その調査は「残雪期から無雪期」に限られていた。12月から2月という厳冬期における調査は皆無に等しかったのだ。(明日に続く)

「クロウスゴ」の果実に寄せる想い / カメラを持たない登山 (6)

2010-08-04 03:45:15 | Weblog
 (今日の写真は、ツツジ科スノキ属の落葉低木「クロウスゴ(黒臼子)」の果実だ。岩木山に自生しているのか、いないのかはっきりと確認は取れていないのだが、写真で見る限りでは、「クロマメノキ(黒豆の木)(別名アサマブドウ)」に花も実もそっくりである。恐らく、「クロマメノキ」は岩木山には自生していないだろう。
 本州の中部地方以北から北海道に分布していて、亜高山帯の林縁や高山の低木帯、または湿原に生え、樹高は50~150cmほどになる。
 6月の初め頃から、出たばかりの葉腋に、花の直径5mmくらいの淡い緑色か淡い紅紫色の花を下向きに垂れ提げて咲かせる。合弁花で、花冠はやや扁平な壺形をしている。花冠の先は浅く5つに裂け、裂片の先は外側に反り返るのが特徴である。
 雪渓や雪田の近くでは溶けた雪の上に梢を出すやいなや葉と同時展開で花を咲かせる。そのスピードは速い。葉が出てきたなと思って2、3日後に出かけてみると、すでに花がついているという具合なのである。驚いてしまう。
 葉は広楕円形か広い卵形で互生し、葉柄はなく全縁で鋸歯はなく裏面は白っぽい。樹皮は灰黒褐色だが、若枝は赤褐色である。
 名前の由来は、果実が熟すと黒くなり、果実の先端が丸い形で、少しへこんでいて臼に似ていることに拠ったものだ。)

◇◇「クロウスゴ」の果実に寄せる想い ◇◇

 岩木山には、この「クロウスゴ」の他に同属で「クロウスゴ」が母種である「マルバウスゴ」が自生している。
 花名の由来は、「クロウスゴ」に果実の形や花の形、果実の味までよく似ており、葉がいくらか丸みを帯びていることによる。
 ある年の6月、私は岩木山大鳴沢源頭の「ダケカンバ」の疎林入り口付近で思わずしゃがんでしまった。疲れたわけでもない。胸が苦しくなったわけでもない。目の前で揺れる小さな風鈴に目を奪われ、しっかり見ようとしていたのだ。そこは沢の縁で比較的水気のある場所であった。大鳴沢源頭にはまだ雪渓が広く厚く「雪壁」をなして残っていた。
 そこには、「クロウスゴ」も生えている。「マルバウスゴ」は生えている所も同じなのだ。
 それを見て…だが、やはり、違う。それは思い込んでいた、もっと乳白色の「クロウスゴ」の花ではなかった。
 葉腋に赤みがかった「淡黄、淡桃色」の微妙な色の花を下向きに垂れさせて咲かせている。まるで、淡い色づけをして「涼しさ」を醸し出す風鈴ではないか。ダケカンバの森に吊された風鈴だ。
 私はこれまで、何回かこの花に出会っていた。しかし、仲間である「クロウスゴ」と長い間、同一視していた。花の色も「クロウスゴ」の方が白っぽく、形はいくらか扁平で、上からつぶされたような格好をしているが、あまりにも違いがない。
 葉は広卵形から卵円形で互生している。これが、「クロウスゴ」との微妙な違いといえるのだろう。縁には細かい鋸歯がある。だが、細か過ぎて「離れて」見ると、その鋸歯も確認出来ない。
 果実も本当によく似ている。果実の色はどちらも、熟すと紫黒色になるのだ。そうなると、花名の由来どおり、「臼」のような格好になり、食べることが出来るのである。
 「クロウスゴ」の若い果実は上向きにつくのだが、次第に、紫黒色に熟していくと花同様に下垂してつくようになる。葉の脇につく果実は直径が8mmから10mmの球形である。「クロウスゴ」も「マルバウスゴ」も「ブルーベリー」と呼ばれるものの近縁種である。当然、黒紫色に熟すと、「甘酸っぱく美味しい」と考えるだろう。
 だが、私には「甘酸っぱく美味しい」という経験はないのである。はっきり言って「美味しい」ものではない。「味」にメリハリがないのだ。

 短歌を一首…「黒熟の秋の日射しに揺れ動く艶ある果実クロウスゴかな」(三浦 奨)
 これは、別に「クロウスゴ」でなくてもいい。「マルバウスゴ」であってもいいのだ。将に、果実をつけた風情として「同じ」なのである。
 私は、いまだに「果実」だけを指されて「これなあに」と訊かれても「クロウスゴ」かな「マルバウスゴ」かなという答えしか出来ないのである。

◇◇ カメラを持たない登山 (6)◇◇

(承前)…「他人の助けを当てにするような登山は『登山』ではない。」ということが、私のスタンスだ。だが、「他人の助け」と「役割分担」とは自ずからまったく「別もの」であるということは言うまでもない。
 「単独山行」を続けていた私にとって「役割分担」という範疇は無用だった。登山行動のすべてが「自分」に集中し、集約されるのである。私は、出来るだけ「集中」するべき物事を、特に「携行品」を少なくすることに腐心していた。子供が生まれ、その写真を撮るために「カメラ」を買った。私は「カメラ」を持てる「人」になっていたが、「山行」では、いつも携行品から省かれた。

 カメラを携行しないが故の次のような経験もある…
 『それにしても、風の強い日であった。三点支持をしても吹き飛ばされそうな風だ。その上に、視界が利かない。これは冬山の常識だから驚かない。その中をただ黙々と登る。
 標高が1000mかそれ以上ぐらいのところにさしかかった時、晴れ間が覗いた。自分のまったくの真上に晴れ間が見える。
 視界の利かない風雪の中で、晴れ間を発見すると身についた動物的な習性のように、いつも私は上を仰いでしまう。私は歩みを止めた。そして、…私はその狭い青空の中に、確かに鷲鷹の仲間を見たのである。それは晴れ間の中で動かないように見えた。悠然としているから、空中に停止しているように見えたのかもしれない。
 いや、違う。悠然というとらえ方は、私の主観に過ぎない。事実は羽を動かさないで、風に乗っている。風に向かって自分の位置を保持している。そして、あくまでも、それはこの狭い青空の中心にいて、眼下に広がる地上の凹凸すべてを、自分のものにしているのだ。地上では吹雪がおさまると、木の根元に出来た雪穴から兎が飛び出すかも知れない。沢筋の木の下枝からは、山どりが谷に沿って滑るように飛翔するかも知れない。
 私の眼はその鷲鷹類に釘付けになった。そしてより特徴的な何かを捜そうとしていた。うすい雲がそれのかすかな影を残しては、遮り、掃くように流れて行く。その後には、またそれだけが残る。そんな繰り返しが、秒刻みで進んでいった。(明日に続く) 

「イワツツジ」の果実に寄せる想い / カメラを持たない登山 (5)

2010-08-03 03:38:47 | Weblog
 (今日の写真は、ツツジ科スノキ属の落葉低木「イワツツジ(岩躑躅)」の若くて青い果実だ。岩木山で撮ったものだが、数が少ないので、なかなか出会えない「果実」である。
 北海道、本州の中部地方以北、千島、サハリンに分布している。亜寒帯の亜高山帯からハイマツ帯などの針葉樹林下や林縁、岩の下端など、または、地表やコケの這う岩や倒木の上に生える。
 岩木山では大沢の上部でも見かけることはあったが、最近は殆ど見かけなくなっている。

 「イワツツジ」は、「樹木」には到底見えない。まさに、多年草のような落葉小低木なのだ。地下茎から、約10cm程度の茎が立ち上がって、枝先に数枚の長さ5cm、幅3cm程度の広楕円形の葉をつける。葉の縁には細かい鋸歯があり、葉裏の葉脈上には柔らかい毛がある。
 早ければ6月頃から、1個から3個ほどの花を枝先近くにつける。だが、下向きにつけるので、花は葉裏に隠れてなかなか見えない。
 花冠は筒状鐘形で淡紅色、先が浅く5つに裂けて、その先端の色は紅色に近い。非常に可愛らしく可憐な花なのに見逃してしまう登山者もかなりいる。「花を訪ねる」登山をしたい者は植物の「葉」やその「形」を覚えておくといいのである。)

◇◇「イワツツジ」の果実に寄せる想い ◇◇

 「イワツツジ」の葉は、陽当たりのいいところでは「縁」が微かに赤い。登山道沿いの草丈に紛れているような場所のものは「縁」に赤さがない。深い緑である。どちらも、茎長の割には「大きな葉」をしている。
 そして、鐘形の花は大体が葉裏に隠れている。それゆえに、奥ゆかしく慎ましやかな印象を与えるのが「イワツツジ」なのである。
 これと似た花にはツツジ科の「ウスノキ」、「オオバスノキ」、「マルバウスゴ」、「クロウスゴ」などがある。
 これらは、同じような場所に生えていることが多いが、いずれも亜高山帯から高山の花だ。だが、これらとは「広楕円形」という葉の形から簡単に見分けることが出来るのだ。

 花が「葉裏」に隠れているということは「果実」もやはり、「葉裏」に隠れているということだ。だが、不思議なことに花が小さいのに、果実は結構大きいのだ。楕円状球形で径が10mmから12mmもあって、9~10月にかけて秋になると、真っ赤に熟してよく目立つのだ。しかし、目立つ割には「赤熟」した果実は、食べることは出来るが美味しくないのだ。
 その頃になると、葉も紅葉して、その果実と色彩を競い始める。だが、果実は日ごとにその数を少なくしていく。鳥や虫、それに小動物の餌になるからであろう。

 確かに、ブルーベリーの仲間ではあるが、「赤熟」した果実は、「生食」すると美味しくないのである。
 ところが、暑い夏の盛り、まだ未熟の「青い実」の頃は、「甘酸っぱく」て凄く美味しいのだ。リンゴでいうと早生種の「青リンゴ」とでもいえばいいのだろうか。
 「甘くて、酸っぱい」上に、とても「ジューシー」なのである。小指の先ほどにも満たない「青い果実」にどうしてこれほどの「果汁」が入っているのかが不思議なくらいなのだ。
 こんなことがあった。岩木山のとある登山道だ。ブナ林を過ぎて低木の茂みが続く。その日は朝から30℃近くまで気温が上がっていた。時間を追うごとに気温は上がっていただろう。額に巻いたバンダナは汗を吸い、すでに何回も絞っていた。ブナ林ではいくらか涼風が吹いていたが、ナナカマドなど低木の茂みに入ったら、その風も止んでしまった。
 暑い。汗が顔の側面を垂れ、顎の先から滴り落ちるのが分かる。低木に覆われた「岩」の道が出てきた。間もなく、低木の茂みを抜けて、風通しのいい高原状の道に出るなあと思い、ほっとしながら手をかけた岩の裾を見やった。
 そこには、「イワツツジ」の青い果実が「零れんばかり」に「なって」いたのである。思わずが手が出た。いつも山で「果実」を採取する時は「いただきます」とか「ごちそうになります」と一言いってから口に運ぶのだが、その日は「感謝の言葉」よりも先に、手が出て、果実を口に放り込んでいた。
 本当に爽やか味だ。暑気払いの「清涼剤」といってもいい。それまでの疲れが体から抜け出ていくような気分になった。
 「イワツツジ」の実を食べるのならば、暑い暑い夏である。秋を待つことはない。

 ところで、「ミツバツツジ(三葉躑躅)」のことを、通称で「イワツツジ」とする向きもあるらしいが、こちらはツツジ科ツツジ属の落葉低木であり、普通に見られる「ツツジ」であり、「属」が違う。

◇◇ カメラを持たない登山 (5)◇◇

(承前)…「ヴァリエーションルートの極致は冬山だ」と考えるようになった。
 岩木山の年末年始登山を始めたのは、29歳の時からである。年末年始を中心に厳冬期の岩木山には毎年5回ほどは登って来た。
 だが、年齢的には遅い出発であった。最近では、大学生の年齢で始めるのが普通だろう。だから、68歳の今年1月の登頂で、やっと40年連続厳冬期岩木山登頂をなした。もっと若い頃から、岩木山の冬山に登っていれば60代になって直ぐに「40年連続厳冬期岩木山登頂」を成し遂げることが出来ていたかも知れない。
 何故に「29歳の時から年末年始登山を始めた」のかというと、私は忠実に、その当時言われていた「登山に関する格言(?)」を守っていたし、「より難度の高いヴァリエーションルートを踏査して、それにスピードと荷重、さらに距離を加味して登ることへの挑戦」を続けていたからである。
 当時言われていた「登山に関する格言(?)」とは、「冬山を志す者、夏山7年、春秋の山数年の経験を」ということであった。私はこれを守っていた。そうしていたら、29歳になっていたのである。

 自助努力と自己責任の世界が、「登山」というものだ。それを支えるのは「経験」でしかない。長く生きているだけの「中高年登山客」にはその経験がない。「赤信号みんなで渡れば怖くない」式の意識しかないパティーもまた然りだ。
 「滝壺に落ちた」に始まった遭難は、救助関係者5人の命を奪い、そして、加えて報道関係者2名の命を奪った。それなのに、事の張本人たちは「知らぬ顔の半兵衛」を決め込んでいる。許せる話しではない。
 そうしたら、今度は昨日の2日、日高山系のヌカビラ岳(1808m)で、沢の増水と疲労で身動きが取れなくなったツアー登山客8人とガイド4人の12人パティーが、救助依頼だ。
 他人の助けを当てにするような登山は「登山」ではない。増水するような天気の時に沢の渡渉や遡上、あるいは下降はするな。それが鉄則だ。それに対応出来る体力と技術のない者は、最初からそのような場所に行くものではない。(明日に続く)

「シラタマノキ」の果実に寄せる想い / カメラを持たない登山 (4)

2010-08-02 04:52:34 | Weblog
 (今日の写真は、ツツジ科シラタマノキ属の常緑小低木「シラタマノキ(白玉の木 )」の果実だ。これは、岩木山のある場所で撮ったものだ。私が調べた限りでは「シラタマノキ」は、岩木山では「わずか」2カ所でしか確認されていない。その一カ所では数株という少なさであり、岩木山の「絶滅危惧種」といってもいいだろう。
 これは、北海道と本州中部以北の亜高山帯以上の草地や比較的乾燥した場所に生える。特に、火山性の土壌を好むようで「硫黄泉」が湧き出しているようなところではまとまってみられる。
 近いところでは八幡平から焼山へ行く途中の「硫化水素」の臭いがとよく漂うような登山道沿いに多く見られる。高山帯の花期は7月から8月にかけてであるが低山帯では6月から咲き始める。花は総状花序をなし、光沢があり、少し透明感のある5mm程度の釣鐘型である。ただし、少し扁平状である。
 そして、9月頃、萼が大きくなり、実を覆いはじめると、「白い玉」状になるのである。
 一見草本に見えるが、木本なので…草丈ではなく、樹高となろう、それは20cm程度と低い。葉は互生して、小さな鋸歯を持っている楕円形、厚く革質で、葉脈がはっきりしている。大きさは3cmほどだろう。
 名前の由来であるが、実に単純明快な命名である。それは、同属「シラタマノキ」属の「アカモノ」を措いては語れない。「アカモノ」の果実は赤い。それと対比させて「シラタマノキ」は白い果実をつけ、「白い玉」状になることから名づけられたのである。だから、別名を「シロモノ」と呼ぶこともある。)

◇◇「シラタマノキ」の果実に寄せる想い ◇◇

 「シラタマノキ」の葉は「アカモノ」の葉によく似ている。花の形は「コケモモ」、「アカモノ」、「ウスノキ」、「オオバスノキ」、「クロウスゴ」、「マルバウスゴ」など他のツツジ科のものとみんな似ている。だが、果実になると、まさに「白い珠」シラタマである。岩木山ではこれだけが「白い珠」となるのである。この白い珠を潰すとサリチル酸(サロメチールという薬品の原材料)の臭いがするのだ。
 私と「シラタマノキ」との最初の出会いは、「花」ではなかった。長い間、出会えなかった花なのだ。半ば「岩木山には生育していないのだろう」と諦めかけていたある年の8月頃である。それまで探していた場所を変えて、新しく「ある場所」に分け入ったのだ。
 そして、そこの草地の草丈に紛れて数個の「白い珠」をつけた数株の「シラタマノキ」に初めて出会ったのであった。嬉しかった。それは、何よりも「岩木山には生育していないのだろう」という諦観と疑念を打ち消すことが出来たことにあった。
 2度目の出会いは「花」だった。出会った場所は「果実」と出会ったところとは違う。この場所には、別な目的があって出かけたのだ。ちょうど6月の半ばであった。
 光沢があり、少し透明感のある釣鐘型の「シラタマノキ」の花は満開であった。かなりの群落があちこちにあった。ほっとした。その時には「フィルム」を一挙に3本も使うほど撮影に夢中になったものである。最初に出会った場所にも、その後数回出かけてはいるが、それ以来、出会えていないのである。なくなってしまったのかと心配ではある。

 岩木山には「シラタマノキ」に名前のよく似たナデシコ科の多年草「シラタマソウ」というものも生えている。岩木山に自生していない「マンテマ」によく似ている花なので、最初見た時は、「え~、岩木山にマンテマが…」心底驚いたものだ。
 もちろん、これは岩木山の在来種ではない。ヨーロッパ原産の外来種で帰化植物である。「日本帰化植物写真図鑑」によると「明治の末期に観賞用に導入されたが、第二次世界大戦後に道路法面緑化用の牧草種子に混ざって帰化したとされている」とある。よく見られる場所は、スカイライン上部の法面である。
 「シラタマソウ」は、茎高が50cm程度である。葉は先の尖った楕円形で、粉白色を帯び、葉柄がなく対生している。7月頃に、直径が1.5cmの白色の5弁花をつける。1つの花序に雌雄花と両性花が混在している。ガク片は、「マンテマ」属特有の球形で、20本ほどの脈があり、緑白色から紫色をしている。
 まだ、この時季、咲いているかも知れない。車を止めて上を見やると発見出来るだろう。
なお、山麓の環状線沿いには同科同属の北アメリカ原産の帰化植物「マツヨイセンノウ」が多く見られるのである。いずれも、「多年草」なので、生え出すと増える一方である。帰化植物対策は、もっと急がれるべきだろう。

◇◇ カメラを持たない登山 (4)◇◇

 (承前)…より難度の高い「ヴァリエーションルート」を踏査して、それに「スピードと荷重」、さらに「距離」を加味して登ることへの挑戦が続いた。
 登山道だけでは飽き足りない。間道も歩いたし登った。沢登りもした。赤倉沢の源頭も、夏場ではないが3回登った。後長根沢の源頭の壁も残雪期に何とか登った。
 営林署の担当区の人たちが、保守と点検のために使う道もずいぶんと登り降りするのに利用させてもらった。これは、ちょうどいいところで登山道とつながり、分岐していることが多いのである。
 よく使ったのは「錫杖清水」辺りから耳成岩下部を通り、弥生登山道八合目を経て、赤倉登山道に抜ける道であった。これを利用すると楽に「弥生登山道と赤倉登山道」に出ることが可能なのだ。だが、現在はその取り付き口さえ不明である。それまで、この道を含む千島笹の斜面では「全層雪崩」の発生はなかったが近年、この斜面で「全層雪崩」が頻発している。そのために、道は消失部分が多くて「踏み跡」の体すらなしていない。
 ただ、この「踏み跡」が使えない理由はそれだけではない。「利用者」がいなくなり、「踏み跡」は「獣道」に変わってしまったのである。「取り付き口不明」もその所為である。
 このような登山には、やはり、「カメラは不要」だった。登り降りることに価値があるのであり、その「経緯、過程や結果」を写真に収める必要はどこにもなかったのである。(明日に続く)