岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

今日の写真は、赤倉沢「河畔林内の参詣道路」 / 毎日新聞「余録:『65年後』の昔と今」に思う(3)

2010-08-19 04:29:53 | Weblog
 (今日の写真は、8月1日に、第64回NHK弘前文化センター講座「津軽富士・岩木山」で、「野外実習と観察・赤倉講社群から赤倉沢に抜ける」を実施した時に写した「河畔林」とその中を行く「参詣道路」である。
 この日は、ブナ林と河畔林の違いに注目しながら、「赤倉講信仰」に触れ、赤倉沢で「堰堤の構造、敷設の仕方、沢特有の自然」を観察、学習をした。
 受講者には、次の項目を指示し、特にこの視点に注意しながら「観察」するように言った。

★自然の中の人工物に注目しよう。
★遠景では見えない深山幽谷の人工的な変貌に注意しよう。
★人間と自然の関わり方に目を向けよう。

 その日は「赤倉登山道」をまず進んだ。赤倉登山道入り口周辺は岩木山北東面の標高400mほどに位置している。
 入り口の下部には、いわゆる「赤倉神社群」がある。一番奥の神社だけが冬でも人が住んでいる。
 赤倉沢の「板橋」を渡るとミズナラとブナの生えている混合林になる。そこを赤倉沢に沿って散策しながら、赤倉講の社屋群まで移動した。
 ただ、登山道を歩いて行くのもつまらないので、登山道から逸れて、林の中を登って行った。何故かというと「この方」が観察対象が多いと考えたからである。
 「登山道」脇には花の影はなかった。時折見えるのは「ツルアリドオシ」の赤い小さい実だけである。
 一歩、林内に入ると「靴底」を通じて「柔らかくふかふかした感触」が伝わってきた。硬いコンクリート道路やアスファルト道路を歩いている者にとっては異質の感触だろう。実に足に「優しい」のである。
 この回から受講者新人が2名増えた。時々山歩きはしているというが、原生の「林内」を歩くのは初めてだと言い、この足裏の優しい感触に感嘆していた。
 私は「キノコ」については、「サモダシ」程度しか知らない門外漢なので、どれが食用になるのかは分からないが、その柔らかい落ち葉を押しのけて、多くの「キノコ」が、顔を出していた。受講者は「食べられるもの」であれば採取したいというようなことを口にしている。
 この「キノコ」も立派な観察対象である。それらを目前にして「解説」出来ない自分が情けなかった。
 そのような思いにとらわれている時、目の前に濃い「常緑性」の葉をつけた3種類の植物が現れた。しかも、その3種類、まとまって順序よく並んでいるのである。
 それは「ヒメアオキ」と「ツルシキミ」、それに「エゾユズリハ」であった。不思議にもその3種はすべて「雌雄異木」なのである。そして、それらは、揃いもそろって「雄」の木だったのである。
 それぞれ花期は終わっている。「雌木」であれば「果実」をつけているから観察対象は増える。私はそれぞれが「何であるのか」を最初からは言わない。そして、「この3種類の中にミカンの仲間がいます。それぞれ葉をちぎって臭いを嗅いで下さい。ミカンの香りがするとそれがミカン科の植物です」と言った。
 「ミカン」の香りがしたものが、「ツルシキミ」である。残りは葉の形状から判断することにした。
 間もなくして赤倉講の社屋群に着いた。「湧き水」で喉を潤してから、赤倉沢右岸沿いに参詣道を進んだ。
 沢の「河畔林」内に参詣道を散策して、最初の「ミズナラ」や「ブナ」林と「サワグルミ、イタヤカエデ、ヤマナラシ、ナナカマドなどが混在する河畔林」の違いを実感したのであった。
 「河畔林」内の参詣道を抜けると、そこには「立派なダム工事用」の砕石の敷かれた道路があった。現在、その名は「ダム保守点検道路」となっている。
 その道路を少し登ってから、降りたが、序でに、「治山ダム」の実像や実体に触れることにした。何しろ、この道路が「ダム」の「堤高」を越えて走っているのだ。「ダム」は「土石」の流下をくい止める役割は果たしていない。「土留め」にはなっていないのである。
 林野庁や国土交通省がいう「治水」や「治山」の意味を考える。それは、「自然を保護して、土石流などを防ぐ」ということではない。
 「堰堤(ダム)を多数造って、谷を平らな地形に変えてしまうこと」なのである。これを「自然破壊」と言わずして、何を「自然破壊」というのか。
 そのような思いを受講者たちは持ったはずである。それにしても「河畔林」に咲いていたライトブルーの「エゾアジサイ」は美しかった。)

◇◇ 毎日新聞2010年8月15日付電子版 「余録:『65年後』の昔と今」に思う(3) ◇◇

(承前)…思想的に個を確立し、自立出来るための「自己改革」には「客観性」がすごく大事なことである。
 「世論に迎合」する者も含めて、65年前の日本人の、戦争遂行の最高責任者である天皇から、私の両親を含めた普通の人々までは、ポツダム宣言受諾、無条件降伏という「完膚無きまでの敗戦」を、「敗戦」と捉えようとしなかったのである。
 少数であるが「天皇に申し訳ない」と言って自裁した者もいた。だが、「天皇」は自己の責任を顧みず「自裁」すらないまま生き延びた。22年前に亡くなった時、靖国神社に祀られるような動きがなかったことが不思議であった。
 そして、殆どの国民は「終戦」を歓迎した。「負けた」という感情よりも「終わってほっとした」、「これで灯火管制という暗い夜から解放される」、「空襲に戦くこともない」、「防空壕に隠れる必要もない」、「防火や防空訓練もない」などという平穏な日々に戻れることで安堵したのである。
 だが、これが、自明の落とし穴だった。多くの国民は、この「安堵感」を自分たちの世論の根底に据えて、「世論」を作り上げ、それに「迎合」した。
 それが「敗戦」を「終戦」という言葉に置き代えたのである。時の占領軍を含めた日本の政治主導者たちも、国民を統治するには、その方が都合がいいと判断した。

 65年前に「戦争」は終わった。それは時間的な「終わり」である。その時間的な流れの終点という意味で「終戦」という言い方をしている。だが、これは、国民の総意による「客観性」を無視した「ネーミング」なのである。
 この「客観性無視」から始まったことに、戦後65年の「反省のない世論に迎合」という「社会全体の変革へと進めない」悲劇があるのである。
 私は少なくとも、高校時代からは「終戦」を「敗戦」と置き換えて読み、何故に「敗戦」となり、その経過や内容をしっかりと学習してきたつもりである。その根底にあるものは、「戦争否定」である。何故か、単純なことだ。戦争とは「人殺し」であるからだ。(明日に続く)