岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

「ウスノキ(カクミノスノキ)」の果実に寄せる想い / カメラを持たない登山 (11)

2010-08-09 03:38:11 | Weblog
 (今日の写真は、ツツジ科スノキ属の落葉低木「ウスノキ(臼の木)」の果実である。)
 北海道から四国と九州の北部に分布している。別に珍しいツツジの仲間ではない。久渡寺山などにも生えている。高さ1m近くになることもあるが、殆ど50cm以下で地表付近に生えていることが多い。久渡寺山のものはいくらか樹高があるように思える。
 林や岩場、山道の周辺などの明るい場所に生育している。今日の写真のものも、正にこのような秋の陽当たりを十分浴びることの出来る場所に生えていた。
 「ウスノキ」には変異が多い。若い枝には短毛があるものから、あまり毛が目立たないものもある。あるいは、葉の裏面には主脈の両側に毛が密生するものからほとんど無毛のものまであるという具合だ。
 枝先に、緑白色に淡紅色の筋の入った「釣り鐘状の花」を数個つける。先端は5裂し、反り返る。
 花名の由来は、果実の中央部が窪んでいるその形が臼に似ていることによる。別名の「角実の酢の木」(カクミノスノキ)は、角ばった(角実)、酸っぱい果実をつける木(酢の木)という意味による。)

◇◇「ウスノキ(カクミノスノキ)」の果実に寄せる想い ◇◇

 花も美しいが、「果実」の方がより美しい色合いになることが魅力的だ。秋が始まってすぐの頃、透明感のある明るい「赤」を振りまく「果実」は本当に美しい。漿果(しょうか)ゆえの、その色の鮮やかさと「透明感」だけでも、赤い「宝石」に喩えられよう。
 だが、「宝石」に喩えられる要素はもう1つある。それは、果実には「角張った」5稜のあることだ。この「角張り」がまさに、硬質の宝石を連想させるのである。
 だが、その「実」自体は本当に柔らかいのである。この相矛盾する「美しさの混在」がこの「ウスノキ」の果実にはあるのである。そして、この「果実」は、酸味があり、食べられる。だが、「食べられる」というだけで、美味しい果実という印象はない。
 やはり、「ウスノキ」の果実は「見て」味わうことのほうがいいようだ。これと、似ているものにツツジ科スノキ属の「オオバスノキ(大葉酢の木)」がある。
 見分けるには「葉」を囓ってみるといい。「スノキ」の葉は酸っぱいが、ウスノキは酸っぱくないのである。

 「ウスノキ」の果実は「間遠に煌めく一期一会の透明な真紅の雫」である。
 …ダケカンバやミヤマハンノキに混じって、ツツジ科の低木が目立ってくる。さっきから、その低木林の奥で、葉蔭の下、「透明な真紅の雫」を「吊り下げて」いるものがある。それらはそのトンネル状の登山道を吹き抜ける風に吹かれて、小刻みに動いている。
 「ウスノキ」の果実だった。それらは口々に「歓迎の言葉」を述べ、顔に思い思いの微笑を浮かべていた。「また来たよ。よろしくね」と、私は呟きで応えながら、山頂に向かって登り続けた。

◇◇ カメラを持たない登山 (11)◇◇

(承前)…この「コミュニズム峰(標高7500m)」の登頂を目指す登山は私を変えた。それは標高4000m以上の積雪帯では「生き物に会わない登山」であったことによる。

 …人類は、酸素がないと生きていけない。今のところ、この酸素に代わる物質は発見されていない。酸素供給が急激に減ると、肉体(=精神)という繊細な機構は成り立たないところに追い込まれる。
 酸素供給が6分間以上完全に断たれると、脳は回復できない状態まで破壊され、人は死亡又は植物人間になってしまうと言われている。
 よって、全く科学的に考え、「科学の恩恵」に頼る「高所登山」をしようと考えるならば、酸素の薄くなる「高所登山」では、薄くなった分の酸素供給を「カプセルの中」で受けるとか、または「酸素ボンベ」を自力又は他力によって背負いあげ、それによって供給を受けるという方法がある。
 だが、酸素供給を受ける「酸素ボンベ」と「カプセル」を誰が運び上げると言うのだ。「自力で背負い、運び上げる」としたら、そのための「体力消耗」は計り知れない。「酸素ボンベ」も「カプセル」も重い。無重力の「宇宙」で「酸素ボンベ」を背負うのとは訳が違う。それだけで「登る体力」も「気力」も失せてしまうのである。現実的には無理なことなのである。
 だが、「金に任せてポーターを雇い、ガイドを雇い、運び上げさせておいて8000mに登ってしまおう」と考える個人や「パーティ」は現にいる。これらは、「ガイドに案内させられた死出の旅」に等しい。「ガイド」がいなければ自分では、降りることも登ることも何1つも出来ず、「酸素ボンベ」がなければ「高度障害」で倒れてしまい、「死亡」するのである。
 しかし、それとは違うもう一つの方法で、「高所」を登ることが可能なのである。ラインホルト・メスナーはこの方法で8000m峰14座すべてを登ったのである。
 その方法を私たちはアルパイン・スタイルと言っている。それは「低酸素状態に自分の体を適合させる」という、いわば、人間の環境への順応力に頼った方法だ。
 つまり、これが、「高所順応」なのである。これには、ある高さから、それ以上の高さに登り、もう1度降りてから、また「より高いところ」を目指して「登り降り」を繰り返すので、時間がかかる。体力のない者は「消耗」した体力を取り戻すために数日間かかる場合もある。
 私と一緒に出かけたメンバーの中には、高度障害のため「腹痛、頭痛、嘔吐、浮腫、食欲減退」などの身体的な異常と「気力萎縮と散漫」などの精神的な異常に1週間近く悩まされた者がいた。
 だが、私は「彼ら」を尻目に「休養日」には積極的に「テント」の外に出て、草原や氷河、岩山を「一人」で歩き回っていた。
 しかし、いくらうまく体を順応させたとしても、エヴェレストの頂上より高い所では、人類は生存することが出来ないのである。
 「低酸素状態」の中で、もう一つ忘れていけないことは、身体的影響のみならず、人間の「精神」的なところでも、様々な変化・変調が現われてくるということである。
 高所に登って、各種障害を全く自覚しないでいられることは不可能である。私は、この登山中、「息苦しさ、耳鳴り、心肺への圧迫感」をいつも感じていた。だが、それは行動に支障のあるような変調ではなかった。
 私はそれらを、「高所では当然のこと」と捉えていたために、特別な変調と感じなかったのである。
 つまり、「障害」は出てくるが、それが次の行動を「中止」させるようなものでなく、次々に行動が可能であったということなのである。(明日に続く)