(今日の写真は、8月21日18時26分に、拙宅の近く、約30mほどのところにある駐車場から撮ったものである。まさに、終日の暑さに茹だる岩木山といったところだ。雲までが、燠火(おきび)に燻っている「熱さ」をはらんでいるようだ。
この日も暑かったが、昨日の暑さには参った。外気温のことには触れないで、私の部屋内の気温について述べよう。
例によって、朝4時近くに西側の小窓と南側の大きな窓を開けた。この時点で、すでに29℃、太陽の照りつけが激しくなってきたので、簾を降ろして、午前8時過ぎにはそれらの窓を閉めた。さらに、ブラインドも降ろした。いつもだったら、これで、夕方までは30℃をちょっと越えるか、29℃台を保てるのである。
家を建てる時には「防寒」と「防暖」に気を遣い、そのため外壁と内壁の構造にもそのような材質を使い工夫したのである。
また、窓もガラスが二重構造で、空気によって暑い外気や寒い外気を「遮断」するというものを使用している。それに、南側にが太陽の直射を遮るために、竹製の簾を2枚提げてある。
さらには、南側、西側ともに「ブラインド」を付置して、太陽光を遮断しているのだ。
冬の防寒は「最適」であり、「快適」だ。昨冬は私の部屋では灯油ストーブの出番は殆どなかった。
だが、昨日は違った。室内気温は、それから30℃、31℃、32℃と上がり続けて、午後3時頃には33.6℃まで上がった。部屋の中は、まさに「灼熱地獄」である。
窓を少し開けてみたが、逆に「熱風」が入ってくる。夕方、太陽が沈んでからようやく「窓」を開放した。だが、午後の8時30分になっても、32℃少し越えていた。網戸を付した窓を開け放っているにもかかわらずである。
昨日も今日の写真と同じ時間帯に、岩木山を見るために「外」に出た。岩木山は2日前と同じだった。駐車場までの30mを歩いて行く中で、暑いのだが、何となく「風」を感じた。
ふと、芭蕉の俳句を思い出した…。
「あかあかと日はつれなくも秋の風」(芭蕉)
今日は、立秋も過ぎ、処暑の日だ。もう秋だろう。だが、夕日は、暑さだけを残し赤々と照りつけている。しかし、さすがに季節の推移は嘘をつかない。秋を思わせる風が吹いてくることではないか…という意味だろう。
しかし、これは「江戸時代」の話しだ。現代は季節も順当にはいかない。それに手を貸している私たちが、すべてのエネルギーを費消している限りは、「季節」の巡りに異常が出てもやむを得ない。
「処暑」に関しては「水平にながれて海へ処暑の雲」(柿沼茂)という俳句もある。何となく、「秋冷」さの到来を予期させる爽やかな俳句である。海の見える西海岸では、昨日、このような「雲」が湧いて、海に消えたのだろうか。暑さに茹だる「岩木山」からは、その情景は読み取ることは出来ない…。)
◇◇ 毎日新聞2010年8月15日付電子版 「余録:『65年後』の昔と今」に思う(8) ◇◇
「今日で8回目である。この表題で、何故、ロシア軍兵士が登場するのかと訝しく思う人もいるだろう。それは、私が戦争体験のない中途半端な世代であることの証明のためである。つまり、戦中に生まれているが記憶は「敗戦」以後のことだけであるという査証のためである。」
(承前)…2.ロシア軍が管轄しているビルから、日本女性が瓦屋根伝いに逃げて来る。その間に鉄砲の音が聞こえていたこと。
…ある日、社宅寮の2階の窓から外を眺めていた。窓の直ぐ下には黒い瓦屋根がずっと続いていて、向かって右側(西側)から柔らかい夕陽が射し込んでいる。その向こうにはグレーに霞んだコンクリートのビルが見えていた。
私はさっきからビルから出てきた小さくて「黒い」点をとらえていた。その「点」は長い「人影」を明らかにしながら、黒い瓦に溶かし、だんだんと私の方に近づいてくるのだった。瓦屋根は、ちょうどT字路をなして、下の瓦屋根と繋がり、左右に伸びていた。
そして、その「人影」は「長い髪を垂らしたもんぺ姿の女性」であることが分かった。顔つきまでははっきりとは見えない。だが、「もんぺ姿」である以上は「日本人女性」であることは間違いないだろう。母もいつもこの出で立ちだった。
遠くのビルデイングの方から、「パン、パン、パン」という音が聞こえた。窓を閉め切っているので、高く鋭くは聞こえないが、それは確実に銃声だった。
コンクリートのビルは、ロシア軍が徴用していた。司令部か何かが置かれていたのかも知れない。そこでは、日本人女性がロシア軍の命令で働かされていたのだろう。きっと、この女性は「我が子のこと」を案じて逃げ出したのだろう。
銃声は「逃げることを止めよ、止まらなければ、戻らなければ実際に撃つぞ」という威嚇射撃であったようだ。私の目には瓦に撃ち込まれる弾痕と弾けるものが見えなかった。実際に撃っていたら、私の部屋の窓ガラスも砕かれたであろう。
その女性は怯まなかった。ビルを背にして、左に曲がり、私の視界とは反対側へと、その影を消してしまった。だが、「パン、パン、パン」という銃声は、その後も続いていた。
私には「鉄砲や機銃の弾が飛び交う」中で、じっとしていたことや、逃げ惑ったという経験もなければ記憶もない。ロシア兵に「抱きかかえられ」て連れ出され他という記憶、れに、逃げ惑う日本人女性を視認しながら銃声を聴いたという記憶しかないのである。
これでは、「戦争体験」とはいえないのではないか、そのような思いを、ずっと物心ついた時から抱き続けているのである。(明日に続く)
この日も暑かったが、昨日の暑さには参った。外気温のことには触れないで、私の部屋内の気温について述べよう。
例によって、朝4時近くに西側の小窓と南側の大きな窓を開けた。この時点で、すでに29℃、太陽の照りつけが激しくなってきたので、簾を降ろして、午前8時過ぎにはそれらの窓を閉めた。さらに、ブラインドも降ろした。いつもだったら、これで、夕方までは30℃をちょっと越えるか、29℃台を保てるのである。
家を建てる時には「防寒」と「防暖」に気を遣い、そのため外壁と内壁の構造にもそのような材質を使い工夫したのである。
また、窓もガラスが二重構造で、空気によって暑い外気や寒い外気を「遮断」するというものを使用している。それに、南側にが太陽の直射を遮るために、竹製の簾を2枚提げてある。
さらには、南側、西側ともに「ブラインド」を付置して、太陽光を遮断しているのだ。
冬の防寒は「最適」であり、「快適」だ。昨冬は私の部屋では灯油ストーブの出番は殆どなかった。
だが、昨日は違った。室内気温は、それから30℃、31℃、32℃と上がり続けて、午後3時頃には33.6℃まで上がった。部屋の中は、まさに「灼熱地獄」である。
窓を少し開けてみたが、逆に「熱風」が入ってくる。夕方、太陽が沈んでからようやく「窓」を開放した。だが、午後の8時30分になっても、32℃少し越えていた。網戸を付した窓を開け放っているにもかかわらずである。
昨日も今日の写真と同じ時間帯に、岩木山を見るために「外」に出た。岩木山は2日前と同じだった。駐車場までの30mを歩いて行く中で、暑いのだが、何となく「風」を感じた。
ふと、芭蕉の俳句を思い出した…。
「あかあかと日はつれなくも秋の風」(芭蕉)
今日は、立秋も過ぎ、処暑の日だ。もう秋だろう。だが、夕日は、暑さだけを残し赤々と照りつけている。しかし、さすがに季節の推移は嘘をつかない。秋を思わせる風が吹いてくることではないか…という意味だろう。
しかし、これは「江戸時代」の話しだ。現代は季節も順当にはいかない。それに手を貸している私たちが、すべてのエネルギーを費消している限りは、「季節」の巡りに異常が出てもやむを得ない。
「処暑」に関しては「水平にながれて海へ処暑の雲」(柿沼茂)という俳句もある。何となく、「秋冷」さの到来を予期させる爽やかな俳句である。海の見える西海岸では、昨日、このような「雲」が湧いて、海に消えたのだろうか。暑さに茹だる「岩木山」からは、その情景は読み取ることは出来ない…。)
◇◇ 毎日新聞2010年8月15日付電子版 「余録:『65年後』の昔と今」に思う(8) ◇◇
「今日で8回目である。この表題で、何故、ロシア軍兵士が登場するのかと訝しく思う人もいるだろう。それは、私が戦争体験のない中途半端な世代であることの証明のためである。つまり、戦中に生まれているが記憶は「敗戦」以後のことだけであるという査証のためである。」
(承前)…2.ロシア軍が管轄しているビルから、日本女性が瓦屋根伝いに逃げて来る。その間に鉄砲の音が聞こえていたこと。
…ある日、社宅寮の2階の窓から外を眺めていた。窓の直ぐ下には黒い瓦屋根がずっと続いていて、向かって右側(西側)から柔らかい夕陽が射し込んでいる。その向こうにはグレーに霞んだコンクリートのビルが見えていた。
私はさっきからビルから出てきた小さくて「黒い」点をとらえていた。その「点」は長い「人影」を明らかにしながら、黒い瓦に溶かし、だんだんと私の方に近づいてくるのだった。瓦屋根は、ちょうどT字路をなして、下の瓦屋根と繋がり、左右に伸びていた。
そして、その「人影」は「長い髪を垂らしたもんぺ姿の女性」であることが分かった。顔つきまでははっきりとは見えない。だが、「もんぺ姿」である以上は「日本人女性」であることは間違いないだろう。母もいつもこの出で立ちだった。
遠くのビルデイングの方から、「パン、パン、パン」という音が聞こえた。窓を閉め切っているので、高く鋭くは聞こえないが、それは確実に銃声だった。
コンクリートのビルは、ロシア軍が徴用していた。司令部か何かが置かれていたのかも知れない。そこでは、日本人女性がロシア軍の命令で働かされていたのだろう。きっと、この女性は「我が子のこと」を案じて逃げ出したのだろう。
銃声は「逃げることを止めよ、止まらなければ、戻らなければ実際に撃つぞ」という威嚇射撃であったようだ。私の目には瓦に撃ち込まれる弾痕と弾けるものが見えなかった。実際に撃っていたら、私の部屋の窓ガラスも砕かれたであろう。
その女性は怯まなかった。ビルを背にして、左に曲がり、私の視界とは反対側へと、その影を消してしまった。だが、「パン、パン、パン」という銃声は、その後も続いていた。
私には「鉄砲や機銃の弾が飛び交う」中で、じっとしていたことや、逃げ惑ったという経験もなければ記憶もない。ロシア兵に「抱きかかえられ」て連れ出され他という記憶、れに、逃げ惑う日本人女性を視認しながら銃声を聴いたという記憶しかないのである。
これでは、「戦争体験」とはいえないのではないか、そのような思いを、ずっと物心ついた時から抱き続けているのである。(明日に続く)