(今日の写真は、戦前の中国「大連」大広場の航空写真である。北東方向から撮られたもののようだ。65年前の私は、ここ「大連」にいた。
だが、この写真で「この辺りに住んでいた」などと言うことは出来ない。そのような記憶はないし、どこに住んでいたのか、仮にその「住所」を知っていたとしても、飛行機に搭乗する機会などあろうはずもなく、このような「鳥瞰図」的な「大連」をもって、「ここ」と指し示すことは出来ない。ただ、漠然と住んでいたところは「満鉄」の社宅だと記憶している。
「大連」は植民地の拠点都市だ。東西90kmに海岸に沿って出来た街で、かつては、ロシアが街を設計し、建設した。写真の真ん中に見えるロータリーはその頃の名残だ。
ロシアが建設した当時は人口4万人ほどの「都市計画」であったが、日露戦争後、日本が建設を始めた。そして、当初よりも数倍の大きさの都市となった。幾何学的な配置と、四方にメインストリートが延びていた。
街路は割栗石で固め、その上にコールタールを塗り、小砂利を散布して舗装された。これは、夏の炎天下で軟化したり、極寒時に亀裂が入ったりする心配がない。歩道はコンクリートブロックで2~3mの幅を持って造られていた。さらに、白楊やアカシヤなどを街路樹として配置した。これで、白楊やアカシヤの並木が出来上がった。
並木のアカシヤが咲く季節には、街全体が「ガーデンシティー」となったという記録おあるそうだ。
以上は、1946年にその「大連」から「引き揚げ」後に知り得た「知識」である。だが、「石畳の道」と記憶したものは、実際は「割栗石で固め」られたものであったのだが、満鉄の社宅の裏口には、「石畳の道」が続き、アカシアの並木が続いていたという記憶だけは、鮮明に今でもあるのである。)
◇◇ 毎日新聞2010年8月15日付電子版 「余録:『65年後』の昔と今」に思う (1)◇◇
次に余録:『65年後』の昔と今の全文を掲げる。
「私の知っている貴方(あなた)は必ず自己に対して責任を感じていられると思う。…連盟と手を分かつに至ったのは貴方の手によってである。この結果、日本は明治維新以来初めて世界に孤立したのであります」▲リベラルな外交評論で知られた清沢洌(きよし)が、日本の国際連盟脱退の立役者となった松岡洋右への公開状「松岡全権に与(あた)う」を発表したのは1933年のことだ。この年の連盟脱退が、その後の戦禍と敗戦・占領にいたる歴史の転換点の一つだったのはいうまでもない▲国民が玉音放送でポツダム宣言受諾を知った夏から65年が過ぎた。それがどれほどの時かは満州事変での国際連盟脱退が明治元年から65年後だったのを思い返せばいい。明治維新からその日までと同じ歳月が戦後を流れた▲英国はじめ列強の勢力均衡と植民地支配からなる19世紀国際秩序に適応し、国の独立を守った明治維新だ。だが米国が主導する20世紀の国際秩序や産業文明の変化にはあまりに鈍感な日本だった。自己改革を怠って侵略と戦争の迷路に入り込み、ついに独立も失った▲「松岡全権に与う」はその迷路の入り口となった連盟脱退での外交当路者の世論迎合を批判したことで有名だ。世論とはほかでもない、当時こぞって連盟への強硬姿勢をあおった新聞を意味する。清沢は迷走する日本において新聞人の責任を問い続けた人でもあった▲歴史は繰り返すといいたいのではない。戦後65年を迎えた新聞は21世紀の世界の新たなうねりにちゃんと目を見開き、それを報じているか。内外の戦没者の魂の平安を祈る日は、また新聞人が厳しく自らに問わねばならぬ日である。 (毎日新聞 2010年8月15日)
ここに語られている日本の歴史、130年間は、まさに、個の確立から、社会全体の変革へと進むべき道を、つまり、国民1人1人が、思想的に自立出来るための「自己改革を怠って」一視同仁的に「同じみんな」でいることに安住した。
19世紀国際秩序に適応し、国の独立を守った明治維新だ。だが米国が主導する20世紀の国際秩序や産業文明の変化にはあまりに鈍感な日本だった。「自己改革を怠って」侵略と戦争の迷路に入り込み、ついに独立も失った…。これが、前期の65年だ。その間にマスコミはこぞって「世論迎合」に奔り、「迎合」姿勢を新聞はあおった。
後期の65年は、1945年から 2010年までだ。この65年間は、まさに「アメリカ」への飼い犬のような「迎合」ぶりである。「大量生産、大量消費、大量廃棄、使い捨て』などの経済仕様、義務を素通りする自由主義、自己訓練のない民主主義などが、この65年間に蔓延った。つまり、経済も文化もすべて「我が国日本」を占領支配した「アメリカ」に牛耳られてきたのだ。この意味では、いまだに日本はアメリカに占領支配されていると言っていいだろう。1945年8月15日から、日本人は「自己改革」に向けて歩み始めなければいけなかった。
だが、それは、食い物につられた「犬」のように、しっぽを振ることに置き換えられ、今でもそれは続いている。政権が代わっても、その「恥ずべき」基本姿勢は変わっていない。
「その65年を迎えた新聞は21世紀の世界の新たなうねりにちゃんと目を見開き、それを報じているか。新聞人が厳しく自らに問わねばならぬ日である」という。まさにそのとおりだ。(明日に続く)
だが、この写真で「この辺りに住んでいた」などと言うことは出来ない。そのような記憶はないし、どこに住んでいたのか、仮にその「住所」を知っていたとしても、飛行機に搭乗する機会などあろうはずもなく、このような「鳥瞰図」的な「大連」をもって、「ここ」と指し示すことは出来ない。ただ、漠然と住んでいたところは「満鉄」の社宅だと記憶している。
「大連」は植民地の拠点都市だ。東西90kmに海岸に沿って出来た街で、かつては、ロシアが街を設計し、建設した。写真の真ん中に見えるロータリーはその頃の名残だ。
ロシアが建設した当時は人口4万人ほどの「都市計画」であったが、日露戦争後、日本が建設を始めた。そして、当初よりも数倍の大きさの都市となった。幾何学的な配置と、四方にメインストリートが延びていた。
街路は割栗石で固め、その上にコールタールを塗り、小砂利を散布して舗装された。これは、夏の炎天下で軟化したり、極寒時に亀裂が入ったりする心配がない。歩道はコンクリートブロックで2~3mの幅を持って造られていた。さらに、白楊やアカシヤなどを街路樹として配置した。これで、白楊やアカシヤの並木が出来上がった。
並木のアカシヤが咲く季節には、街全体が「ガーデンシティー」となったという記録おあるそうだ。
以上は、1946年にその「大連」から「引き揚げ」後に知り得た「知識」である。だが、「石畳の道」と記憶したものは、実際は「割栗石で固め」られたものであったのだが、満鉄の社宅の裏口には、「石畳の道」が続き、アカシアの並木が続いていたという記憶だけは、鮮明に今でもあるのである。)
◇◇ 毎日新聞2010年8月15日付電子版 「余録:『65年後』の昔と今」に思う (1)◇◇
次に余録:『65年後』の昔と今の全文を掲げる。
「私の知っている貴方(あなた)は必ず自己に対して責任を感じていられると思う。…連盟と手を分かつに至ったのは貴方の手によってである。この結果、日本は明治維新以来初めて世界に孤立したのであります」▲リベラルな外交評論で知られた清沢洌(きよし)が、日本の国際連盟脱退の立役者となった松岡洋右への公開状「松岡全権に与(あた)う」を発表したのは1933年のことだ。この年の連盟脱退が、その後の戦禍と敗戦・占領にいたる歴史の転換点の一つだったのはいうまでもない▲国民が玉音放送でポツダム宣言受諾を知った夏から65年が過ぎた。それがどれほどの時かは満州事変での国際連盟脱退が明治元年から65年後だったのを思い返せばいい。明治維新からその日までと同じ歳月が戦後を流れた▲英国はじめ列強の勢力均衡と植民地支配からなる19世紀国際秩序に適応し、国の独立を守った明治維新だ。だが米国が主導する20世紀の国際秩序や産業文明の変化にはあまりに鈍感な日本だった。自己改革を怠って侵略と戦争の迷路に入り込み、ついに独立も失った▲「松岡全権に与う」はその迷路の入り口となった連盟脱退での外交当路者の世論迎合を批判したことで有名だ。世論とはほかでもない、当時こぞって連盟への強硬姿勢をあおった新聞を意味する。清沢は迷走する日本において新聞人の責任を問い続けた人でもあった▲歴史は繰り返すといいたいのではない。戦後65年を迎えた新聞は21世紀の世界の新たなうねりにちゃんと目を見開き、それを報じているか。内外の戦没者の魂の平安を祈る日は、また新聞人が厳しく自らに問わねばならぬ日である。 (毎日新聞 2010年8月15日)
ここに語られている日本の歴史、130年間は、まさに、個の確立から、社会全体の変革へと進むべき道を、つまり、国民1人1人が、思想的に自立出来るための「自己改革を怠って」一視同仁的に「同じみんな」でいることに安住した。
19世紀国際秩序に適応し、国の独立を守った明治維新だ。だが米国が主導する20世紀の国際秩序や産業文明の変化にはあまりに鈍感な日本だった。「自己改革を怠って」侵略と戦争の迷路に入り込み、ついに独立も失った…。これが、前期の65年だ。その間にマスコミはこぞって「世論迎合」に奔り、「迎合」姿勢を新聞はあおった。
後期の65年は、1945年から 2010年までだ。この65年間は、まさに「アメリカ」への飼い犬のような「迎合」ぶりである。「大量生産、大量消費、大量廃棄、使い捨て』などの経済仕様、義務を素通りする自由主義、自己訓練のない民主主義などが、この65年間に蔓延った。つまり、経済も文化もすべて「我が国日本」を占領支配した「アメリカ」に牛耳られてきたのだ。この意味では、いまだに日本はアメリカに占領支配されていると言っていいだろう。1945年8月15日から、日本人は「自己改革」に向けて歩み始めなければいけなかった。
だが、それは、食い物につられた「犬」のように、しっぽを振ることに置き換えられ、今でもそれは続いている。政権が代わっても、その「恥ずべき」基本姿勢は変わっていない。
「その65年を迎えた新聞は21世紀の世界の新たなうねりにちゃんと目を見開き、それを報じているか。新聞人が厳しく自らに問わねばならぬ日である」という。まさにそのとおりだ。(明日に続く)