岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

今日の写真は、大開から見た赤倉沢の春 / 毎日新聞「余録:『65年後』の昔と今」に思う(6)

2010-08-22 04:03:47 | Weblog
  (季節的には「残暑」と言われる時期になったはずだが、一向に「暑さ」は衰えない。昨日も、日中は33℃を超える時間帯が続いた。
 恐らく、多くの世人は、この「猛暑」の理由の1つに「地球温暖化」を何となく漠然とあげているだろう。だが、一方で、この「地球温暖化」を招いた「原因」となる様々な「事象」に日々励んでいるだろう。だから、ますます、「猛暑」は続き、今夏が過ぎれば、また来年は今年以上の「猛暑」に悩まされるのである。
 このようなことを続けて、地球は「人」の手によって「破滅に向かって」いく。ロシアの「森林火災」がそれを何よりも教えてくれてはいないだろうか。あの「森林火災」が起きた地域は日本よりも「高緯度」に位置している。言ってみれば、「冷涼な気候帯」なのだ。「火災」は「泥炭地」の「泥炭」までを燃やしているという。
 「泥炭」とは「ピート(peat)」のことだ。「炭」という語で呼ばれているが、多量の水分や多少の土砂を含んでいることもあるので、そう簡単には燃えないはずのものである。それが燃えているというから、いかに「猛暑」で「乾燥」の日々が続いたのか、それに、「猛暑と乾燥」の度合いも桁外れであったことが分かる。
 「泥炭」とは、湿原植物などが枯死・堆積し、部分的に分解・炭化作用が行われた土塊状のものだ。中には、植物の組織が肉眼で観察出来るものもある。
 さて、前置きが長くなったが、今日の写真は、その「猛暑」をしばし、忘れさせてくれる爽やかな涼風が吹き渡る赤倉の谷の上部だ。涼しく爽やかな風は谷から舞い上がってきては、汗でぬれた全身を包むのであった。
 これは、「大開」から、2004年5月30日に、300mmの望遠レンズで撮ったものである。
 この年は、赤倉キレットからの雪渓がまだ、これほど5月30日だというのに残っていた。左右の竹藪の斜面にも、所々、まだ雪渓が見える。中央雪渓の下端には、細い流れが滑滝を形成している。これは、雪渓が消えるとなくなってしまう「滝」である。
 対岸左岸は荒々しい「溶岩」がむき出しの垂直に近い爆裂火口壁である。その上部では崩落が見られる。赤倉沢上部の崩落は右岸壁の方が激しい。手前の濃い緑は「コメツガ」であり、その手前のボケているが、淡い緑の葉をつけた樹木は「ミヤマハンノキ」である。
 今年の「5月30日」にも赤倉登山道を登った。途中、「大開」からも当然眺めた。だが、そこには、この写真のような「風景」はなかった。雪渓が全くないのである。
 このことについては、今年6月1日付東奥日報夕刊「岩木山の春の表情に異変」という記事に詳しく掲載されているので、参照されるといい。)

◇◇ 毎日新聞2010年8月15日付電子版 「余録:『65年後』の昔と今」に思う(6) ◇◇

(承前)…1.ロシア兵による拉致、数時間後に裏門に置き去りにされたこと。

 …両親は眠っている私を置き去りにして逃げたのである。だが、これは「約束」であった。「ロシア兵たちは子供に手を出さないし、危害を加えないといわれているから、お前を置いたままで逃げるからと聞かされていたのだ。
 日本人の「親」に共通している対処法は、ロシア兵に押し入られても「姿」を見せないことだった。つまり、隠れることが、トラブルを避ける一番いい方法だったのだ。
 彼ら、ロシア兵も「静かに行動」しているつもりなのだろうが、「ドカドカ」という侵入音が枕元でして、私は目が醒めた。
 母を呼んだ。父を呼んだ。だが、答えはなかった。私は「その場」に一時的に、「置き去り」にされたのである。一時的でよかった。これが、長時間になっていたら、確実に「中国残留孤児」となっていて、今の私は存在しない。
 私は枕元でうごめく者が誰なのか、直ぐに理解が出来た。「このようなことが、早晩起きるかもしれない」と母から聞かされていた。終に「その時」が来たと思った。
 彼らロシア兵のことを「怖い」とは思わなかった。布団の中にいる私を見つけて、小声だが、お互いに何かをしゃべっている。怖くはないが、すごく寂しかった。見知らぬ他人の中で、親が傍にいない時に感ずるあの寂しさである。それが、こみ上げた時に、私は泣き出したのである。最初は「メソメソ」、「グズン、グスン」程度であったが、次第に声は大きくなり、とうとう号泣になっていた。
 ただ、泣いたわけではないだろう。恐らく「お母さん、お母さん」と泣き叫んでいただろうと思うが、それは記憶にない。
 そうしているうちに、ロシア兵の1人が、前に垂れ提げていた銃を背の方に回して、私を抱き上げた。そして、「親指」を突き出して、盛んに「ハラショー、ハラショー」と言いながら「あやし始めた」のである。
 「ハラショー」であるが、その時は何を言っているのか、音声としても聞き取れなかったが、後年に、少しロシア語を囓った時に、ふと思い出したのだ。「あの時」、彼が言っていた言葉は「これだった」のだと…妙に懐かしかった。
 訳すと「大丈夫だ」、「心配するな」、「機嫌を直せ」くらいの意味になるはずである。この場合は「ああ、いい子だ、そんなに泣くのはおよし」とでも訳せばいいだろう。
 彼らは「大声で泣きわめく」私に相当手こずったらしい。部屋の中を物色することもなく、私を抱きかかえたまま、廊下に出た。「撤退」するらしかった。
 物色したところで、何もめぼしい物はなかっただろう。少なくとも、「物品」は日々の食糧のために、「物々交換」的になくなっていたはずである。

 私の泣き声は、深夜の寮内に響いただろう。どこかに隠れている私の両親の耳にも届いていたはずである。「元気に泣く我が子」の声である。親にすれば、心配であるが、それは一方で「安堵」だったはずだ。
 …両親も、そのほかの人たちも皆、声を潜め隠れている。連れ去られる私を助けようと出てくる人はいない。それならば、最初から隠れる必要はない。子連れで逃げて発見されて捕まった方がいい。(明日に続く)