(今日の写真は、1988年7月に高所登山で、岩の壁をトラバースしている私である。後方2人目がそうだ。
靴底がすっぽりと納まるような足がかりはない。つま先部分(靴先)だけで、ザックと体重の全重量を支えなければいけないのだ。
岩の壁を登るのよりも、このような場所での「トラバース」は緊張が強いられるものである。岩壁に沿って白いロープ状のものが見えるだろう。これを、「フィックスザイル(固定されたロープ)」という。これに、自分のシットハーネスをシュリンゲを使い、カラビナを介して「つなぐ」のである。これが、唯一の「命綱」だ。
所々にハーケンが打たれており、ハーケンのところでは、カラビナを外して、もう一度かけ直すという作業が必要になる。その「かけ直している短い時間」は、「命綱」である「フィックスザイル」につながっていないので、本当に何も手がかりがなく、足を踏み外したら、2000mほど墜落して死ぬしかない。
私は「死にたくない」ので、手間であったが、もう1本のシュリンゲにカラビナをつけて、それを自分のハーネスに結んだものを、「フィックスザイル」にかけてから、メインのカラビナを外して、付け替えるということを繰り返した。
時折、首を回して上空を見る。恐る恐る眼下を見る。眼下には広い氷河が寝そべっていた。そして、眼前の岩肌を見る。
だが見えるものの中には「生き物」はいなかった。岩肌には「昆虫」すら這い回っていないのだ。)
◇◇ カメラを持たない登山 (13)◇◇
(承前)…この「コミュニズム峰(標高7500m)」の登頂を目指す登山は私を変えた。それは標高4000m以上の積雪帯では「生き物に会わない登山」であったことによる。
…「高所登山」での安全で確実な登高、下降は、「速く登ることが出来る」という体力を持つ者にしか許されないものだろう。ゆっくりとしたスピードでしか登ることが出来ない者は、時間に比例する体力の減少が極めて大きいのである。
また、1回の勝負に全力を投入する他のスポーツでは、あまり問題にならない「体力の復元力」という概念は、長期にわたる登山行動という特殊性から非常に重要なことになるのだ。
より「ハイスピード」で登ることが出来ること、そして、疲れても「すぐ回復する力」にとって、心肺機能はこの上なく重要なものである。
しかし、マラソン選手と同質の体力が要求されるのかというとそれは違う。マラソンでの体力は数時間で使い切る体力、極端にいってゴールに入ってしまえば、倒れてもいいわけである。
しかし、「高所登山」の場合は、ゴールは頂上ではない。それは「登り口としての山の取り付き」であり、頂上の向こうにある「山麓」なのだ。しかも、山行2週間以上は維持出来る体力でなければいけない。この原理はなにも、「高所登山」の場合にだけ適応されるものではない。すべての「登山」の「ゴール」は「山頂」ではない。それは、登山口であり、各自の家庭なのである。
この「原理、原則」を理解していない「登山客」があまりにも多い。本来は、頂上まで達することが出来ない体力しかないのに「頂上」へ行こうとする。最近の遭難事故は、この「山頂」に行く手前の「ルート」や時間的なプロセスの中で起きていることが多い。
体力に欠けるものは、経験と技術、知識、装備の力を借りて、または、それらを活用して「頂上」に行こうとする。これで何とか行ける場合もある。
だが、「ゴール」するには下降という登りよりも技術的に難しいコースが待ち構えている。
中高年登山客の「滑落事故」は大概、この下降時に発生している。「中高年」登山客というと、人生経験が豊富な世代である。だが、その大半は「登山経験」が殆どない。
つまり、「中高年登山初心者」なのである。だから、「体力」のなさをカバーしてくれるべき「経験」もない。
この傾向は、「登山界」のすべてに見られる傾向だ。体力がない上に無知で、経験にかける、技術もないという者たちが、自分の身の丈を超えた「山行」に出かける。だから、遭難は「起こるべくして」起こる。
「沢登り」をしていて、滝の上を「高巻き」する際に、「滝壺」に落ちることは、「ないこと」ではない。私も落ちた経験はある。だが、落ちたことで、「溺死」するということは考えられないことだ。
沢登りをする時、「ザックの中身」を濡らさないように、細心の注意を払って「パッキング」をする。すべての物品を小さめのビニール袋に入れて、水が入らないように輪ゴムでとめる。
それらを大きなビニールの袋にいれて、それをザックに同梱する。もちろん、これも、水が入らないように輪ゴムできっちりと縛る。ザックの内容物はこのように、ザック内に収まっているのだ。
この「濡らさない」工夫は、結果として「ザック」が、滝壺に落ちた時の「浮き袋や浮き輪」の役目を果たすのである。
しっかりとこのような「パッキング」をしていれば、水中に沈み、「溺死」することはないのである。自然と浮かび、水上に顔が出るものだ。
申し訳ないが、これは「身から出た錆」であろう。亡くなった個人だけでなく、パーティーを形成した「組織」そのものにとっても「身から出た錆」である。
「山頂」に達する体力がないのに山頂に向かい、途中で動けなくなる「中高年」登山客と同じパターンに見えてしょうがないのだ。
登山をする者の体力は、マラソンランナーのそれとは異質の要素を持つ。そして、前述した「単位時間内での登高高度差が大きいこと」と「体力の復元力」という2つの要素に加えて、「持久力」の必要度も大きい問題なのである。背に荷物を載せ、重い靴、それにアイゼンなど装着して登る以上、「筋力」も重要なことになる。
よく言われることだが、「日常、登山活動をして、体力的に強い者は、高所でも強い」ということがある。これは事実だ。勿論、きちんとした高所順応の手立てを踏んでいればのことである。
このように見てくると、「独特な体力」をつけるには、第1に「筋力の鍛錬」をすること、第2には「心肺機能とそれを支える筋力機能の向上」、第3には「持久力をつけること」、第4には「全身的に筋肉を強くし、基礎体力の向上」に努めること等が必要であると言えそうである。これも、「普通の登山」に適用される原理、原則であろう。(明日に続く)
靴底がすっぽりと納まるような足がかりはない。つま先部分(靴先)だけで、ザックと体重の全重量を支えなければいけないのだ。
岩の壁を登るのよりも、このような場所での「トラバース」は緊張が強いられるものである。岩壁に沿って白いロープ状のものが見えるだろう。これを、「フィックスザイル(固定されたロープ)」という。これに、自分のシットハーネスをシュリンゲを使い、カラビナを介して「つなぐ」のである。これが、唯一の「命綱」だ。
所々にハーケンが打たれており、ハーケンのところでは、カラビナを外して、もう一度かけ直すという作業が必要になる。その「かけ直している短い時間」は、「命綱」である「フィックスザイル」につながっていないので、本当に何も手がかりがなく、足を踏み外したら、2000mほど墜落して死ぬしかない。
私は「死にたくない」ので、手間であったが、もう1本のシュリンゲにカラビナをつけて、それを自分のハーネスに結んだものを、「フィックスザイル」にかけてから、メインのカラビナを外して、付け替えるということを繰り返した。
時折、首を回して上空を見る。恐る恐る眼下を見る。眼下には広い氷河が寝そべっていた。そして、眼前の岩肌を見る。
だが見えるものの中には「生き物」はいなかった。岩肌には「昆虫」すら這い回っていないのだ。)
◇◇ カメラを持たない登山 (13)◇◇
(承前)…この「コミュニズム峰(標高7500m)」の登頂を目指す登山は私を変えた。それは標高4000m以上の積雪帯では「生き物に会わない登山」であったことによる。
…「高所登山」での安全で確実な登高、下降は、「速く登ることが出来る」という体力を持つ者にしか許されないものだろう。ゆっくりとしたスピードでしか登ることが出来ない者は、時間に比例する体力の減少が極めて大きいのである。
また、1回の勝負に全力を投入する他のスポーツでは、あまり問題にならない「体力の復元力」という概念は、長期にわたる登山行動という特殊性から非常に重要なことになるのだ。
より「ハイスピード」で登ることが出来ること、そして、疲れても「すぐ回復する力」にとって、心肺機能はこの上なく重要なものである。
しかし、マラソン選手と同質の体力が要求されるのかというとそれは違う。マラソンでの体力は数時間で使い切る体力、極端にいってゴールに入ってしまえば、倒れてもいいわけである。
しかし、「高所登山」の場合は、ゴールは頂上ではない。それは「登り口としての山の取り付き」であり、頂上の向こうにある「山麓」なのだ。しかも、山行2週間以上は維持出来る体力でなければいけない。この原理はなにも、「高所登山」の場合にだけ適応されるものではない。すべての「登山」の「ゴール」は「山頂」ではない。それは、登山口であり、各自の家庭なのである。
この「原理、原則」を理解していない「登山客」があまりにも多い。本来は、頂上まで達することが出来ない体力しかないのに「頂上」へ行こうとする。最近の遭難事故は、この「山頂」に行く手前の「ルート」や時間的なプロセスの中で起きていることが多い。
体力に欠けるものは、経験と技術、知識、装備の力を借りて、または、それらを活用して「頂上」に行こうとする。これで何とか行ける場合もある。
だが、「ゴール」するには下降という登りよりも技術的に難しいコースが待ち構えている。
中高年登山客の「滑落事故」は大概、この下降時に発生している。「中高年」登山客というと、人生経験が豊富な世代である。だが、その大半は「登山経験」が殆どない。
つまり、「中高年登山初心者」なのである。だから、「体力」のなさをカバーしてくれるべき「経験」もない。
この傾向は、「登山界」のすべてに見られる傾向だ。体力がない上に無知で、経験にかける、技術もないという者たちが、自分の身の丈を超えた「山行」に出かける。だから、遭難は「起こるべくして」起こる。
「沢登り」をしていて、滝の上を「高巻き」する際に、「滝壺」に落ちることは、「ないこと」ではない。私も落ちた経験はある。だが、落ちたことで、「溺死」するということは考えられないことだ。
沢登りをする時、「ザックの中身」を濡らさないように、細心の注意を払って「パッキング」をする。すべての物品を小さめのビニール袋に入れて、水が入らないように輪ゴムでとめる。
それらを大きなビニールの袋にいれて、それをザックに同梱する。もちろん、これも、水が入らないように輪ゴムできっちりと縛る。ザックの内容物はこのように、ザック内に収まっているのだ。
この「濡らさない」工夫は、結果として「ザック」が、滝壺に落ちた時の「浮き袋や浮き輪」の役目を果たすのである。
しっかりとこのような「パッキング」をしていれば、水中に沈み、「溺死」することはないのである。自然と浮かび、水上に顔が出るものだ。
申し訳ないが、これは「身から出た錆」であろう。亡くなった個人だけでなく、パーティーを形成した「組織」そのものにとっても「身から出た錆」である。
「山頂」に達する体力がないのに山頂に向かい、途中で動けなくなる「中高年」登山客と同じパターンに見えてしょうがないのだ。
登山をする者の体力は、マラソンランナーのそれとは異質の要素を持つ。そして、前述した「単位時間内での登高高度差が大きいこと」と「体力の復元力」という2つの要素に加えて、「持久力」の必要度も大きい問題なのである。背に荷物を載せ、重い靴、それにアイゼンなど装着して登る以上、「筋力」も重要なことになる。
よく言われることだが、「日常、登山活動をして、体力的に強い者は、高所でも強い」ということがある。これは事実だ。勿論、きちんとした高所順応の手立てを踏んでいればのことである。
このように見てくると、「独特な体力」をつけるには、第1に「筋力の鍛錬」をすること、第2には「心肺機能とそれを支える筋力機能の向上」、第3には「持久力をつけること」、第4には「全身的に筋肉を強くし、基礎体力の向上」に努めること等が必要であると言えそうである。これも、「普通の登山」に適用される原理、原則であろう。(明日に続く)