岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

ブナの新緑二子沼周辺

2009-05-16 05:04:57 | Weblog
 (今日の写真は「新緑のブナ林」である。何という「初々しい若葉、新緑」ではないか。これは一番目に優しい。私はこの時季のブナほど「活き活きしている」ものはないと思っている。老樹だろうが、壮年の木だろうが、すべて「若木」のように瑞々しく輝いている。
 林床の窪地には、まだ「雪」が残っている。その残雪には「雪の白さ」はない。若葉や若芽を出す時に「脱ぎ捨てた」無数の褐色の「莢」がその表面を覆っているからである。
 そして、その上には萌葱の若葉である。この時季の「若葉」は、真下から見ると「透けて」見える。まるで、青い空と「薄緑」が緩やかに優しく混じり合ったように見えるのだ。
 また、太陽の直射は「レントゲン」写真のように、1枚1枚の「葉」の「脈」までを透過させて見せてくれる。そこには血流のように「ブナ」の生命が「脈打って」いるのが、見て取れる。
 だから、ブナの林床に立つと、全身がブナの命を感じ、それに包まれる。新緑のブナ林は解放された命の森だ。そして、私たちも、その場で「自然」と同化して、ブナの木のように、泰然とした気分になれるのである。
 下草はまだ出ていない。というよりも、春、夏、秋と通じて下草の殆ど生えないのが「ブナ林床」の特徴である。生えているのは「ツルシキミ」程度でしかない。
 この「ブナ林」は、ここからずっと上部まで続いているのではない。ここから数100mも登ると「スギ」の植林地が出てくる。つまり、上部は伐採されているのだ。
 二子沼までの踏み跡のような「道」と平行して、古い「林道」が「西岩木山林道」の終点から続いている。だが、殆ど、それに気づく人はいない。件の「スギ」を植林し、それを保守するための道路である。だが、「林道」の体をなしていない事実は「植えぱなし」で一切保守していないことの「事実」を教えてくれる。これが「林野行政」の隠された顔である。)

 この「ブナ林」には古い登山道がある。追子森登山道につながるものだ。辿るとすればこの「時季」だ。夏場になると、伐採され、植林された場所が「猛烈」な雑木と下草に覆われて、「辿ること」が出来なくなってしまうからだ。私は数回挑戦して、「通過出来た」のは、初冬の時季だけであった。

 本会が主催する自然観察会の事前調査に行ってきた。今回の観察会は岩木山北面中腹部にある「二子沼」周辺で実施する。
 東奥日報や陸奥新報に開催案内が出た頃に、ある人から「二子沼に行く時に使う西岩木山林道にはまだ雪があって通行出来ない」という情報を得ていた。もちろん、この人が実際に確認したわけではなく、「又聞き」の情報であるようだった。
 このような情報を、提供してもらえることは非常に有り難いことである。この情報を寄せてくれた人が、もしも、「会員」であったならば、もっと有り難く嬉しいのだが、これまでに、「会員」からの、この手の情報提供は先ずないのである。
 私は「自動車」を持たない。運転免許もない。機動力に欠ける人間だ。この「情報」を得て、直ぐにでも「現場」を確認に行きたかった。

 もしも、情報通り「通行不能」ならば、「自然観察会」の内容と「場所」を大幅に変更しなければいけない。パンフレットの下書きも書き換えないといけない。参加申し込みをしてきた人たちに「変更」の連絡をしなければいけない。だから、「異変」はいち早く、その実態把握」が、必要なのである。しかし、何せ、私には「足」がない。若い時ならば「自転車」で出かけたかも知れないが、この「年齢」だとそれも無理だろう。とにかく、「そこまでの距離」は「徒歩や自転車で」という範疇を越えていた。
 いきおい、「足は人任せ」となり、「その人の都合」によって「事前調査」の日程が決定されることになる。気が気でないが「自分では出来ない」ことなのでしようがない。遅れに遅れて、とうとう実施日2日前の「昨日」になってしまった。
 やはり、私のように「自動車」を持たない、機動力のない人間をこのような立場なり、役割に据えておくことには「無理」があるだろう。すでに8年もこのようなことをしている。そろそろ「替え時」だとは思う。
 やはり、「雪」はあり、自動車の進入を阻んでいた。その上、カラマツの倒木とそれに絡んだ「ヤマブドウ」の蔓が道を塞いでいた。
 今日の雪解けに期待しながら、車が通れるほどに「除雪まがい」のことをして、「カラマツ」と「ブドウヅル」は鉈で切って、その場から除去してきた。お天気さえよければ明日の「観察会」は開催が可能だ。ほっとしている。
 同じこの時季に数回この道を通っているがこれほどの残雪に見舞われたのは初めてである。
 その残雪の手前で車を降りて二子沼まで歩いたが、何と、白沢までの道の両側には、延々と「お花畑」が出来ていた。白沢沿いには、黄色い「エゾノリュウキンカ(やちぶき)」も今を盛りと咲いていた。「歩く」ということはいいことである。

 字数の関係で『「踏み跡」を辿る…』は明日掲載する。

「踏み跡」を辿る…毒蛇沢の谷底にはまだ雪渓が、霧が「荒川の倉」から下がって来る…

2009-05-15 05:08:42 | Weblog
 (今日の写真は霧に煙る毒蛇沢の「底」だ。段々と底はせり上がってきていた。それは私たちがどんどんと登って来た証拠でもある。
 写真の左下に見える部分がそれだ。その上部に見える白い部分も雪渓だが、これは毒蛇沢の右岸で、断崖絶壁が途切れて、幾分傾斜の緩くなっている場所である。
 そして、さらに、その上のもやもやとした「白い部分」は「荒川の倉」から駆け下って来ている「厚い雲」である。この雲は、すでに、私たちが登っている左岸尾根の縁をかなり濃く覆い始めていた。
 写真の右側下部に注目してほしい。ここにも大きな岩があり、それに続いて岩が群れをなして沢底に傾斜していた。また、写真では見えないが、この大きな岩の上部尾根には累々と岩が並んでいた。あるものは地表に突き出して、或ものは地表に仰臥しながらである。
 手前の樹木はミズナラ、奥の上部に見えるのは低木のブナである。岩木山の「樹林層」で「低木ブナ」が顔を出すと、標高が900mを越えるのが普通である。
 黄褐色の葉をつけた低木はカエデの仲間だろう。左端のものはムシカリ、右端のものはナナカマドである。)

           ☆☆ 「踏み跡」を辿る… ☆☆

(承前)
 …登りは相変わらず「急峻」だが、沢の縁の頭からの斜面はかなり緩やかになってきた。この辺りからだと沢に降りて行くことは可能だ。しかも、横切ることも出来るだろう。谷底が迫り上がり、両岸の傾斜が緩やかになってきたからである。
 高さからいうと5月1日に相棒と一緒に「スタッカート」で「毒蛇沢」をトタラバースした辺り近くまで登って来ていた。標高も1000m近いところまで来ていたのである。

 「この沢の壁頭に沿った登りは、そろそろ終わりにしなければいけない」と私は考えた。しかも、すでに、踏み跡は消失していた。ただ、この「踏み跡」を辿るとどうなるのかという冒険心と好奇心の満足のためだけに、ここまで登って来たからである。
 相棒と一緒にこの「踏み跡」を発見して、しばらくの間は「毒蛇沢」をトラバースする「踏み跡」との分岐点を探して登っていた。だから、何回かは「沢の縁」から「下降出来そうな踏み跡」状の場所を降りてはみた。しかし、登るに従いますます「毒蛇沢」は深くなり、崖は険しくなっていった。
 『「この踏み跡」を上に辿ることは、「毒蛇沢」をトラバースするという初期の目的からは外れている』ということには、すでに気づいていた。
 確かに、最初は「所期の目的」のために、辿っていたのだが、その「目的」達成よりも、私はこの「踏み跡」を辿ることの方に興味が湧いた。
 10数年前に林道の終点から「毒蛇沢」に降りた時は「夏場」だった。夏緑の中で雑木も下草も「草いきれ」の中で、密生していた。
 だから、見た目には「林道終点」から続いている、この踏み跡が「上」に続いているようには見えなかったのだ。だが、それは、やはり、「踏み跡」であった。まるで、「一本道のようでもあり」わずかに左折しながら「下降している」ようにも見えた。
 その時も今回と同じように「ここを辿ってみたい」という思いに駆られたが、それは捨てて下降したのである。
 私と相棒は大きな間違いをした。それは、藪こぎをして出た場所、つまり「踏み跡」が「毒蛇沢」へ降りる分岐点よりも「下」であると考えたことであった。だから、登ったのである。本当は、そこから「降りなくて」はいけなかったのである。
 私と相棒は、所期の目的通りに「毒蛇沢」への降り口を探して、登っていったのだ。

 11時半を回ったところで昼食にした。12時過ぎに再び登り始めたが、次第に踏み跡は、その「跡」を消してきた。鉈が大活躍である。
 岩が出てきて、根曲がり竹が密生してきたので、というよりも「人跡」の「しるし」がまったくなくなってしまったので、そこから降りることにしたのである。
 この踏み跡は途切れていた。ここで終わっていたのである。どこかに続くこともなく、分岐することもなく、一本の線として終わっていたのだ。となれば、この踏み跡は「何を目的にした」ものなのだろう。

 かなり、登る時に、丁寧につけたはずの「竹折」や「樹皮の刻み目」を何回も見失い、それに伴い、足を止めて「目印」探しをしなければいけなかった。
 私は、相棒に「林道終点から藪こぎをして出た場所をもう一度確認したいので、あの場所に行ったら止まってほしい」と言っていた。相棒が先達を務めていたからである。
 だが、二人とも、「その場所」につけたはずの「樹皮への刻み」も「竹折跡」も発見出来ないまま、通過してしまっていたのだ。
 そして、思いもよらず、ある「大発見」をしたのである。(明日に続く)

 注:スタッカート「Staccato(イタリヤ語)」分割奏法。断奏という音楽用語で1音符ごとに切り離して短く奏すること。また、それを表す記号であるが、それが転じて、岩登りの融時登攀を指していう。アンザイレンしたパーティが一人ずつ行動すること。登山用語として定着している。

「踏み跡」を辿る…木々に見え隠れする毒蛇沢の大岸壁、ここは涅槃か

2009-05-14 05:36:57 | Weblog
 (今日の写真は毒蛇沢の左岸崖頭から対岸の大きく高い崖壁を写したものだ。この崖頭には木々が結構生えていて視界を阻む。この木々よりも前に出て撮ると対岸崖壁ははっきり写せるのだが、そのような足場がない。
 ザイルを結んで少し降りて「見晴らせる」箇所を確保して「撮りたい」と思ったが、この日は「写真」を写すための「山行」ではない。
 目的に適わないことは、無理をしてやるべきではない。事故の元である。ただ、この場所から「対岸」を写すには、この「雪解け直後」の時季しかないことは十分承知していた。)

 この崖頭には小低木の「ヤマツツジ」が無数に生えていた。ここのものはまだ固い蕾だったが、10mほど下にあって、冬場に、垂直に近い崖のために「雪」がつかないところのものは、すでに花を咲かせていた。淡い緑に少し緋色を帯びた赤い花、そして、垣間見える谷底には寝そべる竜のような白い「雪渓」、そして、その上部には、まるで白い胡麻を塗したかのように「タムシバ」の花が見える。
 そして、絶え間なく雪解けの水を流し続けている毒蛇沢の「水音」が聞こえていた。

 写真を撮るためには、残念ながら、その日は、雨降りでもなく曇天でもなかったが「霧」が立ちこめていた。普通、霧は「谷底から湧き上がる」というが、その日は「さっきまで見えていた滝ノ沢崖頭」を覆い隠すように「山上」から「霧」が降りてきたのだ。そして、対岸を覆い、谷底を埋めて、こちら側の尾根全体を静かに覆っていったのである。
 「霧」とは「雲」である。遠くから見るとそれは「雲」といえるだろうが、その中に入ってしまうと「霧」の何者でもない。「写真にとっては邪魔」なこの「雲・霧」は、自然の最高の「演出家」である。
 霧に覆われると、浅い谷は「深淵を持つ」底なしに深い谷に変わり、手に取るほどに近い山頂も永遠の彼方にある高みに変貌する。
 霧に包まれる森は、開放感のある「落葉樹」の森でさえ、「常緑照葉樹」の薄暗い森に変える。そこは山姥や妖怪などが棲む森でもある。
 また、この霧に包まれている時に、かすかな「隙間」といえるような空間を通して、陽光が差し込むことがある。そうなると、森全体が「音のない」シンフォニーを奏でて、騒然としたオブジェを作り出す。
 晴れて見通せる日ももちろんいい。それと同じくらい「霧立ちこめる日」もいいのである。
  霧に包まれて、此岸(しがん)には赤いヤマツツジの花、彼岸の谷底から崖壁には白いタムシバ、ああ、ここは涅槃(ねはん)に続く入り口なのかも知れない。何としても「毒蛇沢」を渡って「彼岸」に行きたいと思った。

           ☆☆ 「踏み跡」を辿る… ☆☆

(承前)
 私たちは、その日も「いつもの相棒さん」と一緒だったのだが…、完全に消失していた「誰も歩かない10数年前の踏み跡」を前に、自分たちで「踏み跡」造りに精を出していた。山をこのように登り歩く場合、一番大事なことは「自分が今どこにいるのか」ということである。「自分の現在位置」の把握があると「進む方向」が見えてくる。
 人生も同じだ。「自分の地所位」に無関心な人ほど無責任で「他人に寄りかかり」生きている。そのような人は、道なき「山」に入ると生きては帰れないだろう。携帯電話で「私は今どこにいるのでしょうか」などと問い合わせてくる輩が、それだ。
 私たちは確固とした「現在位置」の確認があった。それは、林道の「終点」にいるということであった。
 私は、10数年前の「朧気な記憶」をたどって「この終点から踏み跡を西に辿って、細い踏み跡に出る。そこから少し下ったところに毒蛇沢へ降りて行く踏み跡があった」ということをはっきりと確信した。
 そこで、「林道の終点」から西に向かって、毒蛇沢への「降り口」に続く「踏み跡」を目指して「藪こぎ」をしながら進んだ。西に向かっている「獣道のようなもの」も利用した。手探りで、根曲がり竹を鉈で切りながら、ミズナラやカエデの幹に「鉈目」を刻みながら進んだ。
 「竹藪」が切れたところで、上手を相棒が、下手を私ということで、二手に分かれて、それぞれ蛇行しながら「踏み跡」を探した。そして、ほぼ二人同時に「踏み跡」を発見したのだった。
今日の写真は、その発見した「踏み跡」を登りながら撮ったものである。だが、知らず知らずに来てしまったという訳ではないが、実際は「毒蛇沢」を渡るところに通ずる「踏み跡」からはかなり離れた「上部」に来てしまっていたのだった。対岸に「崖の壁」が見てきたということが、はっきりとそのことを証明している。
 「沢」を渡渉する場合の「ルート」取りは、出来るだけ急峻で切り立っているような場所を避けるというのが鉄則だ。出来るだけ平らで流れが緩やかで取り付くまで道も緩やかである場所を求めるものだ。これは対岸についても同じである。
 ここのように、下を覗くと「目もくらみ」そうな深くて急な場所を降りていくようなルート取りは決してしない。私たちはそのことを知りながら登ってきているのだった。(明日に続く)

「踏み跡」を辿る…岩とミズナラが続く

2009-05-13 05:26:17 | Weblog
(今日の写真はミズナラ林も終わりになり、ブナがぽつりぽつりと見えだした混交林である。雪が消えて数日後の林の様子がよく見て取れる。白い樹の肌を見せるのが、ミズナラだ。地元の人や山菜を採る人は単に「ナラ」と呼ぶことが多い。
 少々樹肌が黒っぽく見えるものは「ブナ」である。「ブナ」の樹肌も、どちらかといえば「白っぽい」のだが、並んでいるものを比べると、ミズナラの方が遙かに白く見える。
 「ミズナラ」の樹皮の特徴は「縦に縞」があるということだ。だが、面白いことに、「幼木や若木」にはこの「縦縞」がない。ところが、成長して「大人」の木になると、この「縦縞模様」がくっきりと現れてくる。左に見えるものは「イタヤカエデ」だろう。)

 この写真を上部、真ん中、下部と三層に区切って見てほしい。上部は樹木の梢がある辺りになる。まだ梢には葉も花も出ていない。だから、ただ「空間」つまり、空だけが広がっている。
 ところが、中央の層には「淡い緑」が同じ高さで横に広がっている。すでに、葉を出しているのだ。高木が葉を出して「太陽の光」を遮蔽する前にいち早く、「葉」をつけてしまえということで、大急ぎで葉をまとっている。
 次は地表に注目だ。注目すべき点は三つある。注目すると、「山地」の森の「林床」の様子がよく分かるからだ。それは、「落ち葉」、「岩」、「生えている植物」である。
 まだ、「緑が殆どない」落ち葉が敷き詰められている「林床」である。この「落ち葉」が毎年毎年積もって「腐葉土」を造ってきた。この「落ち葉の下」には、その「薄い土壌」がある。
 あちこちに「岩」が頭を出しているだろう。この「落ち葉が敷き詰められた」薄い表土の下層は「岩」なのだ。「見えている岩」は生成期の岩木山が噴き出した溶岩が凸凹に固まった、その「凸」の部分なのである。
 「この場所」を登るということは「森の中」を登ることなのだが、その「実」は見えない「岩稜」登りをしていることでもあるのだ。
 地表には、まだ、殆ど草は出ていない。地べたに這うようにして生えているものは「イチヤクソウ」だ。背丈がある程度ある「濃い」緑葉は「エゾユズリハ」である。この「エゾユズリハ」は何と落葉林の中で、数少ない「常緑照葉樹」なのである。
 これは「ユズリハ科ユズリハ属」の常緑小低木だ。山地の林内や林縁などに生え、茎の高さは1.5mほどになる。
 葉の脇から伸びる総状の花序に、直径1mmほどの「赤みを帯びた緑黄色」の花を多数つける。間もなく咲き出すだろう。しかし、実に目立たない花で、花弁も萼もない。雌雄異株で、葉は互生しているが、枝先のものは輪生し、長楕円形で先は尖っている。その上、肉厚で光沢がある。林内では通年よく目立つのである。楕円形で、藍色の実をつける。
 「ユズリハ」は「譲り葉」である。奥ゆかしい花名である。森の植物はすべて「奥ゆかしい」生き方をしているが、特にこれは名前まで「奥ゆかしい」のである。
 新しい葉が生長したあと、古い葉が「新しい葉」に自分の位置を譲って落ちることからこの名がついたのだ。
 このように世代交代が絶えることなく「常に緑の葉」が続くことから、縁起がいいとされ、葉は正月の飾りに用いられるのである。ただ、「葉や樹皮」にはアルカロイド、ダフニマクリンという毒性があるので、口にしてはいけない。心臓マヒや呼吸困難をきたすからである。


             ☆☆ 「踏み跡」を辿る… ☆☆

(承前)

 …昨日のブログに『私はこの「ルート」を辿って「毒蛇沢」を渡って、「岳」方向に「横歩き」をしたことが何回かあった。最後に辿ったのは今から10数年も前のことであった』と書いた。この日もまた、このルートを辿っていた。両側に「スギ」の植林地や雑木の林が臨まれる場所は、根曲がり竹の生え方も疎らだし、まだまだ「林道」という形状は確固としている。しかし、沢の縁や沢を巻いている「日当たりのいい場所」は竹が密生していたり、タムシバやオオバクロモジ、タニウツギなどの低木が、猛烈に生えていて10数年前とはすっかり「様変わり」していた。
 林道は急になってきた。ほぼ直線の登りが続いたが、今度は長い斜めの登りに変わる。それでも、「林道」であることはよく分かった。
 その途中で、「姥石に続く登山道と併行する道」へと続いている分岐点も見つけた。これもほぼ「廃道化」していた。下草がないので、「かつては道」だったことが辛うじて分かるのである。
 北西に向かって、斜めだが長い登りが続く。「杉林」が途切れたところで一息入れた。実は、この「一息入れた」場所、つまり、「杉林」が途切れたところが、「毒蛇沢」を渡る場所に達する大きな意味を持っていたのであった。
 私は10数年前の「横歩き」に拘っていた。とにかく、林道を詰めて、途切れたところからまた組跡を西に辿ると、下から上に続いている細い踏み跡が出てきて、それを左に折れて降りていくと「毒蛇沢」への取り付きに出たのである。

 根曲がり竹や雑木の藪が密生して、なかなか前に進むことが出来ない。帰りもここを通るつもりなので鉈で竹や枝を切りながら、「目印」をつけて進む。
 林道が完全に切れた。そこまでが「正規」の林道だった。かつて通った「踏み跡」を必死になって「目」で探す。だが見つかるはずもない。
 とりあえず「獣道」を進む。向こう見ずに、ただ「竹藪」の中を進むよりはましである。だが、そのうちにこの「獣道」は霧消する。それも承知の上だ。
 誰も歩かない10数年前の「踏み跡」は、完全に消失していた…。(明日に続く)

「踏み跡」を辿る…突然、大岩現る

2009-05-12 05:26:44 | Weblog
(今日の写真は、「踏み跡」を辿っていたところ、突然、出会った大岩である。)

 …あるかなきかの「踏み跡」を辿っていたところ、突然、「大きな岩」が行く手を遮るように現れたのだ。
 それを、下手から見上げると「岩」の上に樹木が数本生えている。いずれも痩せていて細いが、その中の1本は確実に「ブナ」であった。この岩の手前に見える2本の樹木も「ブナ」である。
 左横に回ってみた。しかし、そこは見えないものの大小の岩群が連なる崖の頭だった。この岩を頂点として垂直状の崖が谷底を目掛けて駆け下りていて、とてもへつって行けるような場所ではなかった。辿っていた「踏み跡」はこの沢の崖頭に沿って「つけられ」ていたのだった。
  今度は右横に回ってみる。そして、驚いた。この岩は、2つに裂けていたのだ。方向でいうと「東西」にである。しかし、「真っ二つ」に裂けているのではない。上部が割れて、その割れ方は谷側に向かって傾斜をなして深くなっていた。
 すなわち、東から見ると3分の2は、どっしりと地中に填め込まれている「大岩」なのである。
 「岩の上に見えた樹木」は、この裂けた「大岩」の大きな窪みに生えていたものであった。名付けると「石割山毛欅(ブナ)」とでもなろうか。
 長い長い年月をかけてこの裂けた「窪み」は落ち葉などを堆積させてきた。そして、そこは狭いながらも、森特有の「腐葉土」となり、そこにブナの実が落ちて芽生えたものであろう。細いけれども、「年輪」は数えられないほどに「密着」していることだろう。100年、いや、それ以上であろうと推測されるのだ。
 それにしても、この「狭い」場所に数本のブナが育っていることには驚いた。そして、それらが皆「細い」ことも納得がいった。
 いずれ、この中の何本かは枯死してしまうだろう。数本のブナを「育んで」いくには「狭すぎる」し、あまりにも「貧栄養な土壌」であるからだ。森の掟は、彼らを容赦なく駆逐し、そして、彼らはそれに「黙って」従う。

 私の心に、ふと「欲張り意識」が芽生えた。それは、言ってみれば「無い物ねだり」というやつである。
 「何故、ここにブナが生えているのだ。どうして、ミネザクラとかオオヤマザクラではないのだ」という、「どうにもならない」願望である。
 そして、「これがオオヤマザクラだったら、今が見頃だろう。この岩を中心に辺り一面が薄いピンクに彩られて、明るく輝いている。まるで、森の女神、春の女神や妖精ではないか」と思った。
 また、「ミネザクラでもいい。ミネザクラは忍従の樹木だ。風雪に圧せられながらも、幹や枝をよじらせ曲げながら成長する。ブナのように直上せずに、恐らく、この岩上に腹這うように枝を延ばして、薄紅色の小さな花々を6月頃には咲かせてくれるだろう」とも想像した。

 私の頭の中には、大きな花崗岩(かこうがん)の割れ目から生えた桜で、国の天然記念物となっている盛岡市の「石割桜(いしわりざくら)」のことがあった。今年は例年に比べ約1週間も早く、4月12日に開花したそうだ。
 これは、「石割桜こそ日本一の名桜」と盛岡の人が「お国自慢」をする時に、よく取り上げられる珍しい桜だ。大きな花崗岩の狭い割れ目に直径約1.35m、 樹齢が360年を越える「エドヒガンザクラ」が生えているのだ。
 明治の初期には「桜雲石」と呼ばれていたというし、1923年に国の天然記念物に指定されている。
 この「大きな花崗岩と調和した威厳ある美しく、かつ珍しい姿」を、私は目の前にある、この大岩に「スライド」させて見ていたのである。

 ところで、この「大岩」から先のことについて書く前に、先ずはこの「大岩」まで、どの様にして来たのかについて触れておこう。
その日は、国民宿舎「岩木荘」から少し登ったところから、左折して古い「林道」に入り、石切沢を渡ったところの分岐点を左に採ってやって来たのだった。
 この分岐点を右に採ると、石切沢の右岸を進んで、数回ジグザクを繰り返すと「百沢登山道」と併行する林道に出る。これは最新版の地図にも「まだ」載っている。この時季だと「姥石」よりも上部まで、案外簡単に辿ることが出来るのである。
 そして、その日に、左に採った「ルート」も最初は、「案外簡単」を越えて、「楽勝ムード」であった。しかし、それは「ある場所」までのことだったのだ。

 かつて、私はこの「ルート」を辿って「毒蛇沢」を渡って、「岳」方向に「横歩き」をしたことが何回かあった。最後に辿ったのは今から10数年も前のことであった。
 「横歩き」とは「縦歩き」の対意語である。これは勝手な私の「造語」だ。だから、もちろん「広辞苑」には載っていない。
 つまり、「縦歩き」とは山頂を目指して尾根や沢を登り、山頂から登山口か、または山麓に下山することである。
 「横歩き」とは尾根や沢を横断しながら、出来るだけ直線的に歩くことである。直線的に歩くといっても、それは言葉だけのものだ。距離的には「縦歩き」よりも「横歩き」の方が長くなるのが普通だ。
 「山」に平坦で直線的な地形などは存在しないからである。尾根を横断するにしても、それは必ず「ジグザク」であるし、沢へ下降する際のルートも真っ直ぐなところはない。これも、大体は「くねくね」と曲がっている。沢の底から対岸の尾根に登るルートも同じである。
 「縦歩き」は、ひたすら登り、ひたすら降りるのだが、「横歩き」は「ジグザクの繰り返し」と「アップダウン」の連続なのである。だから、「横歩き」が楽だということはない。「縦歩き」と同じように疲れるし、体力も要る。(明日に続く)

「踏み跡」「イワナシ」などのこと

2009-05-11 04:54:56 | Weblog
 (今日の写真は通称「踏み跡」と呼ばれるものだ。これは、一般的にいう「登山道」ではない。しかし、登山道として「使う」ことは出来る。)

 これに似たようなものに「獣道(けものみち)」がある。こちらは、「読んで字の如し」で、「タヌキ、アナグマ、キツネ」などが「専門」に通行している道である。私は時々、この「獣道」を借りることがある。
 「借りる」と書いたが、その実は「獣道」を人の歩いた「踏み跡」と思い込んで迷ってしまったのだ。だが、それほどに「獣道」と「踏み跡」は似ている。まあ、どちらも「踏み跡」なのだから、しようがないだろう。

 私の渾名は長いこと「クマ」であった。だから「学級ノート」や「学級文集」の名前は「クマとその一味」といった。「クマ」という「渾名」の由来は、きわめて単純だ。しょっちゅう、山に行っていて「山」が住処みたいだということによっている。
 ある時、生徒たちに「獣道に紛れ込んで迷ってしまった」ということを話した。一様に生徒は「獣道」そのものには「山にはそのような道があるのだ」という意味での関心を示した。
 ところが、「迷ってしまった」ということについての反応は様々だった。
…ある者は言う。『その獣道はタヌキやアナグマ、それにキツネが通るところだろう。そこを無断で「クマ」が通ろうとするのだから、それは礼儀知らずだ。迷うのが当然だ。』 また、ある者が言う。『「クマ」でも山で迷うということは、何とだらしのないアホな「クマ」だろう。もっと苦労して訓練しないといけない。』と。
 この2つが反応の主流である。生徒の95%はこちらに与(くみ)している。彼らの言い分は、私が彼らにいつも言っていることの裏返しなのだ。
 ここぞとばかり、それ見たことかと「報復的な」意味合いを込めて、それらの言葉を盛り込んで、仕返ししてくるのだ。
 因みに、私が生徒に対して、よく使う「言葉」は「無断行為」「礼儀知らず」「だらしがない」「苦労して訓練をする」などであった。
 私はよく、生徒から、このように「攻撃」された。だが、いつも私はまた、生徒の言う別な言葉で救われるのだった。
 ある者が言った。『三浦先生、先生はやはり、「クマ」ではなかったのです。人間だったのです。』と。
 この一言でクラスにはどっと笑い声が起こった。ある者は拍手までしていた。これが市井で、質的なレベルが低い「谷間の学校」と打擲されていた郡部高校の生徒たちであった。
 どこに、「質的なレベルの低さ」がうかがえるか。そんなことはない。優しくて真面目な生徒たちであった。
 
 さて、今日の写真であるが、これは標高が650mほどの場所である。残雪も消えて、低木も若葉を出し始めたばかりである。この写真の場所では、下草はまったく出ていない。しかし、もう少し高いところにある「沢壁の頭」では、すでに「チゴユリ」が花をつけていた。また、「ヤマツツジ」も赤い花を咲かせていた。昨日、5月10日のことである。
  間もなく、下草が生えてくるだろう。そうなると「踏み跡」は、ほぼ完全に下草に覆われて隠れてしまう。だから、「踏み跡」を辿るという山登りの時季は、雪解け間もないこの時季が最適なのである。
 最適なのだが、この「時季」は短い。岩木山にある踏み跡をすべて、この最適な時季にだけ辿ろうとすれば、少なくとも10年以上の歳月を必要とするだろう。
 この写真を見て、これは「踏み跡」だと見える人はかなり、「山」を登り歩き込んでいる人だ。「歩き込んでいる」といっても、整備され、標識のある登山道を、しかも人の後ろについて歩いている人のことを指すのではない。
 登りながら、帰りに「道失い」をしないために「送り(赤布)」をつけることもあるが、それはすごく煩わしいことでもあるので、もっぱら、「鉈」を使って、竹を切ったり、樹木の細枝を切ったり、太めの幹に切れ込みを入れながら進むのだ。
 例えば、この写真ほぼ真ん中にあるミズナラの幹の目の高さ辺りに「薄い切れ込み」を入れる。「深く切って」はいけない。「樹木の傷」は最小に留めるべきなのである。
 写真下部に見える「オオカメノキ(ムシカリ)」の小枝を「半切り」にして、ぶら下げた状態にするなどである。
 当然、先人も同じことをしているので、その切り跡を目安にすることもある。「踏み跡」を辿る山行に「鉈」は必携の道具なのだ。

 ところで、「イワナシ」の花はすでに終わっていた。5日のことだ。平沢の左岸尾根に取り付いて、斜めに登り始めて、ミズナラ林帯の入り口付近で見たもののことだ。
 「イワナシ」は「ツツジ科イワナシ属」の常緑の小低木である。亜高山帯の岩場や礫地、ブナ林の林床などに生える。
 茎に褐色の長い毛があり、葉は互生して革質で硬い。長さは10㎝ほどだろう。花は筒状で長さは1.5cmほどで淡いピンク色だ。先は5つに裂けている。
 一般的に花の時期は5月から6月といわれているが、私は岩木山で5月5日に「花が咲き終わって結実」しかかっているものを、これまでに見たことはなかった。早い。異常に早い。4月中に花が咲いたということだ。これでいいのだろうか。果たして、順調に「果実」になることが出来るのだろうか。 
 そんな思いだけが私をとらえて離さなかった…。果実は夏に熟し、甘くておいしい。名前の由来は「果実の味が梨に似ている」ことと「果実の形と色具合が梨に似ている」ことによる。

今日から愛鳥週間だ。山に入っていると「野鳥」と声で出会ったり、「姿」で出会うことがある…

2009-05-10 05:22:13 | Weblog
 (今日から愛鳥週間だそうだ。…ということなので、今日は先日、出会った野鳥の写真を紹介して、野鳥のことについて少し書いてみようと思う。写りが悪くて申し訳ないが、今日の写真は「ツツドリ」である。)

 写真のほぼ中央、太いダケカンバの前の「ミネザクラ」の若枝に停まっているのがそれだ。その時、鳴き声を聞いたのが標高1200mほどの高さである。
 積雪があり、周りの木々も疎らで、大凡「緑」らしいものはない。ただ、今季は少雪ゆえに「根曲がり竹」がすでに顔を出しているところはあるが、樹木の梢はいくらか「花芽」や「葉芽」の部分にかすかな色づけを見せてはいるものの、まだまだ「葉」を出す時季ではなかった。
 「あれ、あの声はツツドリだなあ。どこで鳴いているのだろう」というのが最初に抱いた「感慨」である。私はこれまで、ツツドリの鳴き声を、このような標高の高い、しかも、木々に緑の葉が全くない場所で聞いたことはなかった。だから、最初は「空耳」かと思った。しかし、確かに聞こえるのだ。今年は「渡り」の時季が早いのだろう。きっと、山麓辺りで鳴いている声が、谷を吹き上がる「南風」に運ばれて聞こえてきているのだろうなどと考えていた。
 だが、「鳴き声」は「滝ノ沢」右岸の縁辺りの近いところから聞こえてくるのだった。
この鳥の鳴き声をよく耳にするのは毎年6月頃であり、場所はミズナラの林か、または高いところではブナ林であった。岩木山ではよくそんな場所で聞くのだ。
 高校で山岳部の顧問をやっていた時期があった。山岳登山というものを「点数化」して高校生たちを「競技」させることに嫌気がさして、部員を引率して山歩きや山登りはしていたが定年前の10年近くは「高校総体」山岳競技には参加しなかった。
 参加していた頃、八甲田山箒場の森や「雛岳」の登りで、よくこの「鳴き声」を聞いたものだ。ここ数年は、観察会で、同じ仲間の「カッコウ科」の「ジュウイチ」などの声や「ホトトギス」の鳴き声と併せてよく聞く。
 その中でも「この鳴き声」はいつの時も深い森の中からのものであった。

 写真が鮮明でないので少し「ツツドリ」について説明をしよう。
「ツツドリ」はカッコウ科カッコウ属の野鳥で全長約33cmで、「キジバト」くらいの大きさだ。体の格好は「カッコウ」などと同じく、結構スマートな鳥である。だが、体色がやや濃く、眼球の角膜と水晶体との間にあり、中央に瞳孔をもつ円盤状の薄膜である虹彩(こうさい)は茶色っぽい。これは眼球内に入る光の量を調節するもので、色素を持っていて、「眼の色」といわれるものだ。日本人は一応茶褐色である。
 「ツツドリ」は日本には、ニューギニアやオーストラリア大陸北部から夏鳥としてやって来て、北海道、本州、四国で繁殖する。九州では観察例が少ないと言われている。
 とにかく、低山帯の落葉広葉樹林や、亜高山帯の針葉樹林内に、単独で生活するため姿を見る機会の少ない野鳥なのである。「声はすれども姿が見えず」という野鳥でもある。「カッコウ」のように、空中をけたたましく鳴きながら飛ぶようなことはしないのだ。
 しかし、「渡りの時期」には市街地の公園などにも姿を現すことがあるそうだから、この写真の「ツツドリ」も案外「渡りの途中」のものかも知れない。樹上の昆虫類を主食とし、特にチョウ類の幼虫「ケムシ」を食べている。
さて、「ツツドリ」という名前の由来だが、漢字で書くと「筒鳥」となる。「声はすれども姿が見えない」ことの多い野鳥ゆえに、名前の由来は、その「鳴き声」にあったのだ。
 地鳴き『「さえずり」に対し、鳥の日常的で単純な鳴き方のこと』やメスの鳴き声は「ピピピ…」と聞こえるが、繁殖期のオスは「ポポー、ポポー」または「ボボ、ボボ」と繰り返し鳴くのだ。この鳴き声が、「木製の筒」を叩くような柔らかい響きがあり、本当に耳に心地いいのである。まるで、木製の打楽器の響きである。「ツツドリ」という和名は、これに由来するのである。
 私は、この鳥の「鳴き声」は大好きだが、他のカッコウ科の鳥類である「カッコウ」、「ジュウイチ」、「ホトトギス」と同じように、「自分で卵や雛の世話をしない」で、森林内で繁殖するウグイス科の鳥類に托卵するということは大嫌いである。不届き千万、許し難い行為であると常々思っている。
 日本では特に「センダイムシクイ」への「托卵」が多いといわれ、他に「アオジ」、「ビンズイ」、「メジロ」、「オオルリ」、「コルリ」にも行うそうだが、何と小型の猛禽類である「モズ」にまで「托卵」するというから驚きである。
 「托卵」された「仮親」の方は気の毒というほかない。彼らの雛は、仮親の卵より早く孵化する。早く孵化すると、仮親の生んだほかの卵を巣外に、次々と落とし、仮親が運ぶ餌を自分だけのものにする。仮親は「ツツドリやカッコウ」の雛を自分の子供だと思い、必死に育てるのだ。そして、約19日で巣立つといわれている。
 いくら、DNAのなせる業とはいえ、「托卵」という習性は悪魔の習性であろう。
 このように彼らは別の鳥の巣にこっそりと卵を産み、後は「知らぬ顔のはんべい」を決め込む。子育てをしないのだ。まあ、人間世界にも似たような親がいないわけではない。

 かつて、ある人から「ホトトギスは夜も鳴くのですが、どうしてですか」と訊かれたことがあった。正直、その理由は分からなかった。
 しかし、「托卵」という習性を許し難いものだと思っている私は「子育てをしないのだから暇なのでしょう。だから、夜昼問わず鳴くことしかすることがないのでしょう」と、かなり「皮肉ぽい冗談」で答えたものである。
 だが、日本人にとっては、「カッコウ」は夏を告げる鳥として親しい存在だし、「ホトトギス」は「死出の旅の案内」者ととらえられるなど、「許し難い」野鳥ではない。
 私は、森の中からほのぼのとした感じで聞こえてくる「ツツドリ」の声も、「ジュウイチ(十一)」と聴きなしされる「ジュウイチ」の声も、みな好きだ。
 午後遅く下山してくる時に、山麓の雑木林で「テッペンカケタカ、テッペンカケタカ」と鳴いているホトトギスの声には「登山者」として、特別に心惹かれる。「テッペンカケタカ」とは、「無事に山頂に行ってきたのか」という意味だ。

春光を浴びて灰色の陰影の中に佇立する「ブナ」の森、「平沢」左岸尾根

2009-05-09 05:26:47 | Weblog
 (今日の写真は「平沢」と「滝ノ沢」に挟まれた急な尾根にある「ブナ」の森である。登りの時は、夏日という「暑さ」と積雪がほぼ消えていミズナラの繁みと「根曲がり竹」の藪こぎと「ルートファインデイング」のために、早くも疲労困憊で、足下がフラフラしていて、写真を撮る余裕がなかった。これは、降りてきた時に写したものだ。)

 この尾根は南に面しているからであろうか、かなり標高の「高い」ところまで、「ブナ」が「高木」で斜面がきつい割にはそれぞれ真っ直ぐに「立って」いる。
 このように「尾根」の上部から見ると、「ブナ」という天然木の純林、つまり、「ブナ」の原生林が、山麓に向けて末広に続いて、その次にはミズナラ林が続いているのだろうと、思ってしまう。
 本来ならそうなのである。ミズナラ林はさらに、ほかの雑木であるアカマツやコナラ、ホウノキ、アズキナシ、オオヤマザクラなどと混交して「雑木林」を作っているのだ。
 この尾根も確かに、「ブナ」そして、「ミズナラ」までは、本来の「森」を形成している。しかし、「ミズナラ林」帯には「人工林」が「帯をなして」横切っている。
 それは「カラマツ」と「スギ」だ。もちろん、数十年前に、つまり昭和40年代に林野庁が率先して「ブナ」や「ミズナラ」を伐採して、植えたものである。
 その頃は「ブナ」は「役に立たない木」と言われていた。漢字で書くと「ブナ」は「山毛欅」とも書くが「橅」とも書く。
 後者は「木偏」に「無」である。つまり、「木」で無い「木」で、「役に立たない」木とみんなが考えていた。
 弘前には「ブナコ」という「工芸産物」がある。これは、その「役に立たない木」の材を「薄い板」にして、螺旋形に貼り合わせて円錐形の器などにしたものだ。「役に立たない木」をうまく利用したのである。
 『「役に立たない」から「伐採」してしまえ、「伐採」後には「育ち」の速く、「木材」として商品価値の高い、「スギ」や「カラマツ」を植える』を実践したのは、何と「日本の森林を守り育てる」国家機関である林野庁である。
 日本は国土の7割が「山地」である。その山は森林で覆われていた。つまり、日本の国土とその自然を「守る」行政府が率先して、自然林の「伐採」と「人工植樹」を繰り返し、それは今でも続いているのだ。

 何という「知恵」のなさか、軽薄で愚かで、自分たちの職務と責任の真の意義も忘れ、それに誇りも何もないあきれた所業である。
 林野庁にはおそらくキャリヤもいるだろう。東大や京大を終わっても「ブナ」の森林生態系の中での重要な役割と、森林の人に対する生命的な恵みや生化学的、生理的な効用について、何一つ考えることもせずに「伐採」と「針葉樹の植栽」を一途に、検証と反省もせずに続けてきたのである。
 人の「知恵」とは学歴に関係ない。森は中に入ってみなければ分からない。霞ヶ関のビルの中で仕事をしていても、「知恵」が浮かぶわけではない。
 森に入って一本一本の木に触れ、林床を歩いて足裏に枯れ葉の「かそけさ」を感じ、「蚋(ブヨ)」に刺されても、卵を産むために「タンパク質」を恵んでやったのだ思えなければ、森のことは知らないといえる。それは、森や樹木、そして、山という自然に対する「愛」がないということだろう。
 森と一体感を持ち、何よりも森に愛を感じない連中が日本の「森林行政」の中心にいた。これは、「山の樹木」にとっては不幸なことだった。同時に私たち国民にとっても不幸なことだった。もちろん、「岩木山」にとっても同様である。
 「ブナ」を伐採して植えた「カラマツ」も「スギ」も標高の高いところでは、「ひこばえ」や「実生」の「ブナ」の生育に遅れをとっている。つまり、元々、その「場所」に生えていた「ブナ」の方が強靱なのである。
 30数年前に植えられた「カラマツ」などはその樹高が、ブナのそれよりも数m低いのである。さらに、「ブナ」によって間引きされ、「負け」て、どんどんと枯れて「本数」が年を追うごとに少なくなっている。「ブナ」が自然に戻ろうとしているわけである。
 「自然は常に過去に戻ろうとする」を教えてくれているのだ。どうして、このような当たり前のことを、林野庁は気づかなかったのだろうか。 いや、気づかなかったわけではあるまい。「気づいていた。分かっていた」だが、「止められなかった」が事実だろう。組織というものの「怖さ」であろう。だが、私は許さない。
 そう言えば「林野庁」は、あの「農水省(旧農林省)」傘下の役所であった。同質なのだろう。森の木をばさばさと伐っていく姿勢は、農民をばさばさと切っていく姿勢と同じだ。
 「減反」、「休耕田」、「放置水田や放置畑」、「棄農」、「限界集落」、「干拓事業の失敗」、「農地整備」、「ほ場整備」、「業者優先有利な規制緩和」、「農産品の輸入」、「輸入米」、「輸入米の不正販売」など、すべて農民殺しであり、「うまく」いったものは何一つない。
 農水省のやっていることに基本的に欠けていることは「農民を温かい目で見守ること」である。「農民」は山の樹木以下の扱いを受けてきたし、受けている。

  そんなことを考えながら降りてきた。積雪のあるところは「踏み跡」を辿ってきたが、ミズナラ林の中程から、午前中にあった「積雪」が消えていた。
 そのようなこともあろうかと思い、登りに「送り(赤布)」をつけておいた。その「」を頼りに「スギ」林に辿り着いた。
 何という「皮肉」か。植樹されたが成長の遅いスギ林なのだが、常緑針葉樹は「木陰」を作るのだ。その中にはまだ積雪が所々に残っていた。
 そして、その残雪上には午前中に付けた私たちの「踏み跡」がしっかりと残っていたのだった。

「荒川の倉」は生きている…(日々崩落を続けている)

2009-05-08 05:31:59 | Weblog
 (今日の写真は「荒川の倉」からかなり登って、まもなく「鳥海山山頂」という場所から「下部」を撮ったものである。
 急峻過ぎて「真下」は見えない。もちろん、「荒川の倉」の頭などはまったく見えない。麓から見ると「ほぼ真っ直ぐ」に見える「痩せた沢」であるが、上から見ると「緩く左岸にカーブ」していることがよく分かる。)

 左のダケカンバが邪魔になってよく見えないが、左眼下に見える沢が「毒蛇沢」である。途中で何回か下を覗いたが、今季は「少雪」だから、沢を横に這う大蛇のような「堰堤」がよく見えた。その「数」は6本を越えている。
 「堰堤」というものは、麓よりも高い場所にあるにもかかわらず「山の下部、つまり山麓や谷の出口」からは絶対に見えない。
 何故か、その第一の理由は「沢」というものが、地形上「蛇行」していることである。この毒蛇沢にしても「滝ノ沢」にしても「蛇行の角度」は緩く、大まかに言うと「真っ直ぐ」な沢といえるが、やはり「短い流れ」にもかかわらず数十回の「蛇行」を繰り返して、「環状道路」を横切っている。
 第二の理由は「樹木や草本が茂って」私たちの目を遮蔽することだ。沢を挟む「尾根」は高くなるほど樹種は少なくなり、「ブナ」などの極相林をなしているが、沢の低部ほど樹種は豊富で雑多な樹木が生える。夏緑に覆われた沢筋に「遠目」で「堰堤」見つけることは至難の業となる。
 第三の理由は、これは積雪期のことだが、落葉樹の森は明るい。どこでも見渡せる。だが、「堰堤」は、その積雪の下に埋もれて影を見せない。これがもっとも単純明快な理由である。
 以上の理由から、高いところから「堰堤」の存在を視認出来る時季は、春または初夏の「残雪期」に限られることになる。5月に入って2度「荒川の倉」詣でをしたが、今季の少雪に助けられて、ほかの沢、「平沢」などの「堰堤」を含めて、よく見えたのである。

 夏緑の頃の「堰堤」探しは「沢」に沿った「道探し」から始めるといい。「沢に沿った道」と書いたが、すべてが「沢」に沿っているわけではない。
 「沢の流れ」は大きな障害物があると、それを避けるために大きく迂回する。「沢の流れ」にとっての障害物は当然、「堰堤建設」場所までの「道路を敷設するための作業」にも障害にもなる。だから、そこを避ける場合があって、そのような「道」は沢に沿っていない。 
 だが、岩木山の特に南麓の場合は「環状道路」から「山側に入る」道を辿ると、必ず「堰堤」にぶつかる。「堰堤」は「土石流」をくい止め「下流域の被害」を抑えるという目的のために「造営」される。
 「山」は長い時間をかけて「低くなる」動きをしている。つまり高いところが崩れ、それが沢筋に堆積して、大雨などで流れ、土石流となる。岩木山はその「造山運動」の終焉期に向かって日々動いている。それが自然なのである。
 そのように見ると「堰堤」を造るということは、その自然の動きに対抗しているようなものである。理屈は簡単だ。上流からの流下物が堆積するとそれ以上の高さと抑止エネルギーを擁する「堰堤」を造っていくということである。
 この理屈からいくと「堰堤」はどんどん増えるし、その高さもどんどんと高くなる。そのうちに沢は「堰堤」だらけ、ブナの梢よりも高い堰堤がにょきにょきと建つようになるだろう。山の中にまるで未来都市でも生まれたかのようで、きっと「壮観」だろう。
 この論理でいくと、「堰堤建設」にかかわる「土建業者」は嬉しくて笑いが止まらないはずだ。だってそうだろう。永遠に「堰堤造り」は続くからである。
 だが、視点を変えてみると「堰堤敷設」は自然破壊なのだ。いや、視点を変えなくても、「造山運動という自然の営み」に抗しているとだから、最初から「自然破壊」であるといってもいいのだろう。
 「堰堤敷設」とは簡単に言うと、「沢に巨大なコンクリートブロックを嵌め込む」ことである。嵌め込むためには「沢」の両岸、つまり尾根部分を方形に削りとると同時に、沢底面をまた「方形」に掘り出すことになるのである。「嵌め込む・削る・掘る」ということは、自然の地形を変え、自然の植生や生態系を破壊してしまうことの典型的な所業だろう。この「コンクリートブロック」は小さいものではない。長さが150m、高さが埋め込まれた地下の部分も含めると7、8m以上はあろうか。幅が3mはあるかも知れない。150x8x3mであるから、何と3600立方mという巨大さである。
 自然破壊はそこにないものを持ち込んだり「建設」したりすることも含まれるから、やはり、「堰堤」の存在そのものが「自然破壊」といっていいだろう。
 さらに言えることは、この「コンクリートブロック」を運ぶための道路の建設である。いくら何でも、この3600立方mという巨大な「コンクリートブロック」を運ぶことは出来ないので、その資材を運ぶための道路であり、建設機器を移動させるための道路である。そして、この道路は敷設後の「堰堤」の保守・点検のために使用される道路でもある。
 けれども、不思議なことに、この道路は「コンクリートブロック」を嵌め込む時に「削り、掘り出された」3600立方mという土石を運び出すためには使用されない。つまり、掘り出された「土石」は新しく造った「堰堤」の上部に「棄てられ」て、「土石流」になることをじっと待つのである。
 どうして、このようなことが出来るのか。それは簡単だ。私たちの目に触れないからだ。そんなところに「堰堤」はある。また、役人たちが私たちの目の役割を果たさず、業者と癒着しているからである。

 5月5日、この日も暑かった。夏日であった。私の帽子は汗を吸い、林内の藪こぎではぐしゃぐしゃに濡れた。しかし、「荒川の倉」近くになると、それは乾き、白い「塩」を噴いた。
 そんな中で、「荒川の倉」を眺めていた時である。「崖頭」で何かが動いた。そして、「ガン、ガッチ」という音。大きな岩である。動いたと見えたその瞬間、それは落下した。直径1mほどの岩だ。そして、崖下の雪渓の上をごろごろと猛スピードで転がっていった。
 また一つ、岩木山は低くなったのである。

「荒川の倉」の下部尾根で「カモシカ」に会う

2009-05-07 05:06:00 | Weblog
(今日の写真はカモシカだ。5月5日相棒と「荒川の倉」まで行く途中の「ブナとミズナラが混交している」尾根で出会ったものだ。
 カモシカの横の樹木はブナだ。平年であれば右の沢は、この時季まだ厚い雪に覆われている。今季は底部に少しだけ、右岸には雪庇もない。右岸にはミズナラ林が広がっている。しかし、もう少し登ると「ブナ」の純林に変わる。「カモシカ」は低山から亜高山にかけてのブナ、ミズナラなどが優占する落葉広葉樹林や針葉混交林に生息し、木本類や草本類の葉、ササ類などを採食している。

 これは、雄だろうか、それとも雌だろうか。耳から顔、首にかけて白と黄色い毛だ。前脚も後脚も灰褐色の長い毛に覆われている。これは図鑑で見るものとはちょっと違う。体色には個体変異があるそうだからいいのだ。
 雄も雌も円錐型の角を持っていて、毎年生え換わることなく、加齢とともに伸びて、大人の角は、長さが13cmで雄、雌ともに違いはない。
 体重は30~45kgほどで、頭胴の高さは70~85cm程度である。体の大きさは、生後急速に成長するが、3歳でほぼ停止するそうである。写真でも分かるだろうが、眼の下に黒い部分があるだろう。これが「臭腺」で、縄張りを知らせる「臭いづけ」のためのもので、年齢とともに大きくなる。
 このカモシカ、足が短く見えるだろう。実は「カモシカ」という哺乳類動物は、ウシ科の仲間で、その中では原始的な形態を示しているものだ。その特徴が「四肢は太くて短い」なのである。
 だから「短く見える」のは事実なのだが、この日の「7月並みの気温」によって解けて、軟らかくなった雪面に、足先が約10cmほど埋まっているから、なおさら短く見えるのだ。
 実際はもう少しスマートなのだ。足(脚)が短い分だけ「側蹄」が発達しているという特徴もある。
 カモシカは本州、四国、九州に分布する日本固有種で、国の特別天然記念物に指定されている。最近、東北、中部地方を中心に分布域が広大していると言われているが、岩木山では、その数が非常に少ない。
 単独で生活をすることが多い。3頭以上の群れを作ることはまずないという。私は岩木山で未だに、母親と子供という「親子づれ」を見たことがない。岩木山で「繁殖」しているのだろうか。
 カモシカは、「土地への定着性」が高く、雄雌とも年間を通じて「個体の縄張り」を作る。「縄張り」は「同性他個体を排除する縄張り」である。「縄張り」の面積は10~20haだそうだが、岩木山ではもっと広いような気がする。
 私は、岩木山には全部で「5頭」ぐらいしかいないと考えている。この「カモシカ」は岳と百沢登山道を占める山域を縄張りにしている個体だろう。夏場に鳥海山山頂付近に出てきたり、冬には毒蛇沢の縁で会ったりしている。
 他に、後長根沢から弥生登山道尾根を中心とした縄張りに1頭いる。これにはこれまで、冬登山で、よく出会っている。
 さらに、水無沢と赤倉登山道尾根に1頭いる。これには数回で会っているので「顔見知り」である。初めて写真撮影が出来たのは、この「赤倉の主」だ。
 次は白狐沢尾根と大鳴沢、烏帽子岳稜線部を含め、それに長平スキー場尾根を加えた縄張りだ。
 最後の山域は黒森山から赤沢、追子森にかけた範囲である。標準的な縄張りよりは、かなり「広い範囲」になっている。これは「生息頭数」が少ないことに因るものなのか、それとも「子連れ」を見たことがないという事実から「生息」しているのは「雄」だけということに因るのかは定かではない。縄張りは「雄」の方が、雌よりも広大だとされているのだ。
 「縄張り」が重ね合う「雄と雌」が配偶行動を行い、一夫一妻制の傾向が強く、積雪に強く、長距離の季節的移動は行わないのである。縄張りの主張は「眼下腺の粘液」を木の枝などにこすりつけるマーキング行動で行うのである。
 牛の仲間だから「反芻胃」を持っている。また、タヌキのように「ため糞」をする習性を持っている。
  出産期はこれからだ。一度でいいから「子連れのカモシカ」に会いたい。) 

          ◇◇再び「荒川の倉」をめざす◇◇

 …5月1日に、この「滝ノ沢岩頭(荒川の倉)」を横から眺めてから上部を詰めようとしたが、トラバースが危険すぎて直登を選んだ結果、「上」に出過ぎてしまい「横からの眺め」を諦めていた。ところが、相棒は、どうしてもこの「荒川の倉」を下から見たいらしい。コースを替えて今一度登りたいということをメールで知らせてきた。
 私は旧駒越村から最初に、この「荒川の倉」を眺めた。少し「遠望」である。だが、逆三角形を見せる岩肌の崖はよく見えた。それから、市内に住み着いて、そこからもよく眺めた。相変わらず、逆三角形の「岩の崖」がよく見えた。学生時代になって年間60日以上、岩木山に通うようになると、60日といっても殆どが「百沢登山道の登り降り」だったから、「姥石」辺りから見え始める「崖壁」に対して、傍に行って「直近」で見たいという思いを日々強めていた。
 下山後に、岳方向に歩いて出来るだけ近づいて見たこともあったし、「森山」に登って眺めたこともあった。森山から見える「荒川の倉」は、まるで、「押し出され」「迫り出ている」ように見えた。
 このように場所を違えて、「眺め」ては「荒川の倉」に憧れ、「滝ノ沢」という名前を聞いては憧れ、さらに、昔からの呼び名である「荒川の倉」という名称を「火山カルテ 津軽の岩木山(宮城一男著1971年初版)」で知ってからはますます憧れが強くなった。そして、「荒川の倉」をよじ登ってみたいと考えるようになっていた。果たして、これまで何回、この場所に通ったことだろう。
 このような経過を辿った私である。「荒川の倉」を直近で「見たい」という相棒の気持ちは、この上なく理解していた。(明日に続く)

「滝ノ沢」崖壁(荒川の倉)から、鳥海山、大沢に下り、夏道でカタクリの出迎えを受ける…

2009-05-06 05:29:48 | Weblog
 (今日の写真は「カタクリ」の大群落だ。「カタクリ」は言うまでもなく「春の儚い命(Spring Ephemerals)」とか「春の妖精」とも言われるのだ。)
 これら「春の妖精」たちは、周囲や地上のミズナラなどの高木が葉をつけ出すと、「光合成」に必要な日光が遮られるので、その前に「花を咲かせ」て、花後は次第に茎や葉を枯らし「休眠」して、その年の地上での「生活史」を終わるのである。その「息吹」は「花の美しさ」に比べると余りにも儚(はかな)い。
 岩木山の場合、カタクリは標高400m辺りまでの「ミズナラ」林の林床に生えている。この花は岩木山の南山麓にある、寄生火山「森山(標高404m)」のミズナラ林下にも、群落をなす。何も、ミズナラ林でなくてもいい。いわゆる、ミズナラを主とした「雑木林」であれば、カタクリは生えるのである。
 森山の雑木林にもミズナラの他に、オオヤマザクラ、シウリザクラ、カエデ、ホウノキなど、そして、低木のアブラチャンやオオバクロモジなどが生えている。
 つまり、「カタクリ」が生える場所というのは「ミズナラ」を中心とした「雑木林」なのである。雑木林は昔から人々が「薪炭」の供給場所として、また「落ち葉」を農業の肥料として利用する場所だった。
 だから、人々は手入れを怠らなかった。林が「更新」していくように保守・点検を怠らなかったのである。そのようにして、造られていく「林」なので「二次林」とも呼ばれた。別な呼び方をすれば、いわゆる「里山」である。
 岩木山の周囲には多くの「里山」が存在した。岩木山環状道路県道30号線の下部には高舘山、高長根山、長者森など南から北に向かって延々と続いているのだ。「森山」は「今でも里山の風情を残す」山だった。今も残しているが、昨年から個人所有となり、私たちが「自由に入れなくなった」山でもある。この時点で「里山」という呼称は自動的に消滅してしまった。
 「里山」とは、上述したような「自然的な特性」の他に「誰でも自由に入ることが出来る」という社会的許容性の上に「成り立って」いるものだからである。
 岩木山の山麓や裾野には小高い「丘陵」が多い。噴火にによる破砕流や泥流などが堆積して出来た丘陵である。この「丘陵」群がすべて、春になるとカタクリが咲くミズナラの茂る「里山」だった。
 しかし、その「丘陵」群である「里山」は次第に「園地」へと変貌していった。そして、ほぼ、すべてが「リンゴ園」になってしまったのだ。この津軽地方から「里山」は消えた。
 この「丘陵群」の上部に広がる岩木山の麓は「採草地」であった。標高200m辺りまで、それが広がり、その上部にはミズナラやコナラの生える雑木林が広がっていた。ところによっては採草地の中にも、この種の雑木林が点在していた。
だが、そのうちに、この「採草地」にも「侵略」の手が伸びてきた。もともと、「採草地」は村落単位での管理だった。しかし、いつの間にか「個人所有」に変わり、そこに「畑地」という「開墾」の波が押し寄せた。さらに、リンゴ園地「開墾」という大波も押し寄せた。
 人間の欲望は留まることがない。「採草地」の上部にある「雑木林」も伐られて「リンゴ園」となっていった。そして、今や「県道30号線」の上部は大半が「畑地」や「リンゴ園」になってしまったのだ。
 このようにして、「カタクリ」は自分たちの住む場所を追われていった。だが、追われたからといって、別の場所に移動する術はない。その場所で「絶滅」するしないのである。
 登山道で「カタクリ」に会えるところは「弥生」と「百沢」である。「弥生」は少ない。百沢登山道は、別格であるかのように多い。まず、「岩木山神社」の境内林にも咲いている。毎年必ず、かなりの群落をなして咲く。桜林の縁などにも咲く。だが、その上部に続く「スキー場」ではまったく見られない。当たり前だ。林がない、林床がないからである。
 そして、登山道に入ると、石切沢を渡って「七曲がりの登り」から「数えられないほど株数」で顔を出してくれるのだ。その辺りからは登山道の両側を占めるようになる。
 百沢登山道を持つ尾根には杉の「植林地」もあるが、大半はミズナラなどである。つまり、「里山」としての自然植生が保たれている場所なのである。カタクリは「生態系として自然植生」を如実に示す植物でもあるのだ。
 「カタクリの咲く雑木林」は「豊かな自然に恵まれた場所である」ことを、私たちに教えてくれていることでもある。
 今にして、私は「百沢から岳までの遊歩道などは造るべきではなかった」と思うのである。環状道路に沿って、「里山」としての「雑木林」の再生を図っておけば、今はどうなっているのだろう。道の両側には雑木林が延々と続き、春になるとその林床には数百万株のカタクリが花開くのである。夏はミズナラの「葉」のトンネルになる。秋にはミズナラの実、「ドングリ」を集めるリスの姿も目につこう。
 だが、百沢と岳の間には、そのような「自然」はまったくない。目につくものは「植樹された樹木」であり、「人工的な建造物」や「スポーツ施設」だけである。
 「カタクリ」を失ったということは、言い換えると「私たちは自然を失った」ということになるのだ。)
 
(承前)

  …私たちは午後3時過ぎに、標高450m近くのミズナラ林内を下る百沢登山道にいた。そして、「滝ノ沢」崖頭の沢を登った時よりも、「より慎重に、足許に注意」しながら、下降していたのである。それは登山道にまで「はみ出して」多くのカタクリが咲いていたからである。登山道は「カタクリに占領」されていたのだ。いや、逆だ。登山道が「カタクリ畑」の一部を占領しているのだ。
 この状態は七曲がりを過ぎるまで続いた。朝の登りの時には、まだ開いていないものも多かったからだろう。この数の多さには相棒も私も気づかなかったのだ。
 何も登山道だけではない。登山道周囲のミズナラ林内はカタクリが「敷き詰められ」るように咲いていた。
 最近、観光客を集めている黒石の「雷山」や全国的に名をはせている秋田県仙北市の西木地区「旧仙北郡西木村」のカタクリに匹敵するほどの数であるし、壮大な美しさだ。面積の上からは「それ」以上かも知れない。
 しかも、百沢登山道口から15分も登れば、来ることが可能な場所だ。来訪することが容易なのだ。これは「岩木山の宝」である。
 私は別に賛成する訳ではないが、この「宝物」に「行政」は気づいているのだろうか。弘前市長の公約の一つに「攻めの観光」という項目があったが、それにしては「観光資源の発掘」に腐心しているようには見えない。観光協会なども気づいているのであろうか。(この稿は今日で終わる。)

「滝ノ沢」岩壁(荒川の倉)東端の沢、その急斜面を詰めて大沢に下る…

2009-05-05 05:12:03 | Weblog
(今日の写真は奇妙な「雲」である。「鳥海山」から大沢上部に降りて、そこから「鳥海の大きな斜面」を回るように横切って、私たちが登る時につけた「踏み跡」を探していた。
「姥石」までは積雪があるが、それよりも下部は「積雪」がないので、確実に「夏道」に辿り着く必要があったからである。「姥石」に辿り着けないと、積雪のない「雑木や根曲がり竹」の藪こぎを、百沢口近くまでしなければいけないことになるかも知れないのだ。
 だが、確実な「踏み跡」は、なかなか見つからない。降雪もなく晴れている。真冬ならば、絶対にあり得ないことだが、朝につけた「踏み跡」が解けて、その「形」を崩してしまっていたのだ。気温が高かった。夕方のニュースでは22℃まで、日中は上がったという。
 それなら「解ける」。解けて当たり前だ。その上、風が強かった。風は気化を助ける。気化するということは解けるということだ。
 私たちは「毒蛇沢」の左岸沿いに「踏み跡」を探しながら下降を続けた。ところどころに辛うじて、原形をとどめている「踏み跡」を確認しては、その方向に下る。
 相棒が先を行った。私はザックにしまい込んであるカメラを出して、「その日のルート」を撮影しようとした。
 そして、後ろを振り向いた時に、上空に1本の「飛行機雲」を見た。そしたら、次の瞬間、この「雲」が「飛行機雲」の下に湧き上がり、猛スピードで「飛行機雲」の進むのと反対方向に流れているのが見えた。
 慌てて3連続で、「シャッター」を押した。だが、私の頭上で、突然この「雲」は消えてしまった。
 これは、一体何なのだろう。写っているのだから「幻視・幻覚」ではない。「水蒸気」などいう確実な「物質」が造り出した「雲」であることに間違いがない。「雲散霧消」という言葉があるが、まるでそれを地でいく現象である。
 巨大な白い鳥が「鳥海山」の上空に現れて、大きく羽ばたいたかと思うまもなく、「後長根沢源頭」付近の上空で消えてしまったのだ。
 ふと、「地震雲かな」との一語が口から漏れた。「地震雲」ということについては、詳細は知らない。何か天変地異が起こる前に、上空に「奇妙」な雲が沸き立つということを、何かで読んだことがある。「地震雲」もその一つである。
 私は、背中がぞくぞくしてきた。「大地震」が起きるのではとか、「岩木山が噴火する」のではないかとかを考えたからである。

 相棒はかなり先に行ってしまっていた。この「奇妙な雲」に関わっているうちに、私との距離は大きくあいて、相棒のつけた踏み跡を辿って、追いついたのは7~8分後のことであった。)

 (承前)

 …「滝ノ沢」崖壁の頭、その東端から、私たちは「アンザイレン」をして、登り始めた。これをすると、とにかく時間がかかるのだ。ピッケルを突き刺しながら、一歩一歩、靴先を雪面に蹴り込んで、「小さな階段」を造りながら登る。これを「キックステップ」という。単独で登っている時は、後続する者のことは考えなくてもいい。
 「一歩一歩」が速くなったり、遅くなったり、または「ステップ」の形が歪であろうが、小さかろうが、または「歩幅」があいたり、狭くなったりしようが、「自分」だけを確保出来る「仕様」と「方法」であれば、それでいい。
 だが、「複数」で「アンザイレン」をした以上は、常に「一定」が求められる。例えば「歩幅」だが、これは「脚」の短い者に合わせることになる。登る「スピード」も同じにしなければいけない。その上、「一定」でなければいけない。「速くなったり遅くなったり」ではいけないのだ。
 ザイルで結び合っているのだから、その「間隔」も「一定」に保たれていなければいけない。ザイルが雪面に付くか付かないかという程度の「たるみ」を維持しなければいけないのだ。
 足場の悪い登りである。ザイルに「たるみ」がない時は、ちょっとの「スピード」のずれが「互い」を引っ張り、転倒させることになる。「転倒して滑落すること」を、防ぐための「アンザイレン」が逆に「転倒」の「足枷」になってしまうのだ。
 声を掛け合いながら、「慎重に」「ゆっくりと」「一歩一歩」登っていくわけだから、時間はかかる。

 ピッケルの突き刺さるところは、それが確保の支点になるので、「安心感」が増す。だが、「突き刺さらない」ほどに氷化している場所もある。このような場所では「アイゼン」を使うべきなのだが、私たちは「ワカン」を着けていた。「アイゼン」はそれぞれの「ザック」の中だ。
 「新雪」が4月26日前後に降った。それが、覆っている「吹き溜まり」のような場所の、積もった雪の下面に「氷化」した雪面がよくある。だから、見た目では「氷化」している場所はよく分からない。このような「硬い雪面」で「ワカン」から「アイゼン」に履き替えるということは、「愚の骨頂」だ。「履き替えているうちに滑落してしまう」というものだ。
 「ワカン」を着けていながら「キックステップ」が出来るのかという疑問を持つ人は「初心者」だ。「ワカン」の前部と後部は上下に自在に動くのである。だから、キックステップには全く支障はない。「日本」古来の山道具はすべからく、「ファジー」なのだ。

 「そろそろ、鳥海山山頂間近だろう」と思った時、猛烈な風に見舞われた。しかも、突風だ。それまで、前方から吹いていたものが、突然、背中から押すように吹きつける。
 吹いてくる方向がまちまちなのだ。次は、どの方角から吹いてくるのか分からない。このようになると「耐風姿勢」がとれない。
 「右横からか吹くか」と構えると反対側から吹き付ける。転倒である。または、足下から巻き上がるように吹いてきて、体を浮かせる。「体が浮いた瞬間」に、また別方向からの横風である。こうなると「耐風姿勢」も「しどろもどろ」だ。
 山の風は「現代気象学」では解き明かすことが出来ない色々な要素から生ずるらしい。不思議を通り越して「恐怖」である。(明日に続く)

「滝ノ沢」岩壁(荒川の倉)東端の沢、その急斜面を詰める

2009-05-04 05:18:08 | Weblog
 (今日の写真は鳥海山山頂付近から見た「岩木山中央火口丘」、つまり、山頂本体だ。私が立っている場所よりも163m高いところが山頂だ。平地で標高163mの「山」を見ると、「このくらいの高さを持つ山容に見えるのだろう」と思ったら、妙な気分になった。
 これが「地図」の上では「岩木山」なのである。平野に孤高を保って屹然として鎮座する「岩木山」とは何とかけ離れた容姿だろう。これだと、「泰然自若」、「揺るぎない安定」、そして「広く、美しく端正な裾野」などが、全くない「岩木山」ではないか。
 全く貧相で、岩と雪だけの世界だ。これだと、どうしても「阿弥陀如来」を祀っている「山」には見えない。あまりにも「人間味」がない。無機質に過ぎる山容だ。
 ここ「鳥海山」には「薬師如来」が祀られている。その所為だろうか。そこまで登ってきた時の疲れと緊張に苛まれた体も気持ちもすっかり癒されたように落ち着いていた。
 山頂部山体の右側に見える二つ並んでいる岩を「二神(ふたがみ)岩」という。反対側の大きな岩山が「耳成(みみなし)岩」だ。こちらの方は「火口壁」外輪山である。
 真っ正面の岩稜帯も外輪山の片割れである。鳳鳴小屋から、この岩稜までの急な道を「二ノ御坂(みさか、または、おみさか)」という。時々落石があって死亡事故が起きているところだ。この岩稜から山頂までの道を「一ノ御坂(みさか)」と呼ぶ。
 また、この岩稜帯下部に広がっている「カール」状の積雪帯は「種蒔苗代」と呼ばれる「火口湖」である。噴火・爆裂火口に水が貯まったものだ。周囲の積雪が殆ど消えているのに、ここだけはしっかりした「積雪」で埋まっている。この場所は特別、雪の「吹き溜まり」となる場所で、平年ならば「鳳鳴小屋」下部には巨大な雪庇が出来るのだ。そして、新雪が積もるたびに「崩落」を続け、「雪崩」を起こしている。だから、ここから、下流部にある大沢よりは早いものの、遅くまで「積雪」が残っているところでもある。

 左側の岩稜を「御倉岩」という。大沢を登ってくると次第に、その姿を見せてくれる、いわば「岩木山の案内岩」でもある。
 冬場に、ここを登る人は出来るだけ、この「御倉岩」の縁を登高すると、「雪崩」に巻き込まれることは少ない。私はいつもそのようにしている。
 「御倉岩」の下部は「鳥ノ海」と呼ばれている大噴火口である。だが、雪が積もると浅くなって、普通の噴火口に変貌してしまう。

 このくらい「岩肌」や「岩稜」の出ている方が、岩山の荒々しさを明らかにしてくれて「メリハリ」がある。すっぽりと「雪を纏っている」山頂部は本当に丸みを帯びて優しい。その時には、やはり、私は「阿弥陀様」を山頂に見るのだ。)

(承前)

 夏場に、「滝ノ沢」崖壁の頭に行くには…
 …百沢登山道を辿り、「焼け止り小屋」へと右折する辺りから、斜めに根曲がり竹の「密林」に入る。「毒蛇沢」左岸のかなり高い場所に出るためだ。
 そうしないと「毒蛇沢」は深くてなかなか渡ることが出来ない。「毒蛇沢」を渡るとまた藪だ。その「藪の連続」トラバースを経た後に、ようやく「滝ノ沢崖壁」の頭に出る。
 このような「馬鹿げたこと」をしたのは30代から40代の前半であったが、これで息が上がってしまい、もう「動きたく」なくなってしまったという記憶がある。
 もう二度としたくないし「する意味」もないと思ったから、このルートはその後「残雪期」に限ることになってしまい、現在に至っているのだ。

 私と相棒は「毒蛇沢」をトラバースしたところで「アンザイレン」をしていた。「アンザイレン(Anseilen)」というのは「ドイツ語」で「ザイルで結び合う」ことである。
 「山岳後進国」である日本では「山岳用語」に外国語が多い。ヨーロッパ言語が主だが、「ヨーロッパアルプス」を戴く、イタリヤ、フランス、オーストリア、ドイツ語が入り交じっている。それとは別に英語も多い。イギリスは高山を持たないが「登山」の盛んな国だった。その歴史は古い。高山を持たない国土が「4~8000mの高山」への憧れを掻き立てて「ヨーロッパアルプス」や「ヒマラヤ」に向かわせるようになったのだ。

 単独の時には、もちろん「アンザイレン」はしない。相手がいないのだから「しよう」がない。自分の「体力、ピッケルワークやアイゼンなどの登攀技術、ルート選定力、確保技術」など自力自助と自己責任の世界に自分を置く。
 そして、それらに全神経を集中させながら、雪面に僅かに出ている「ダケカンバ」の梢などを「補助」の手がかりとして登っていく。
 だが、人は「2人」といえども、複数で「組んだ」時から、「互いの責任」つまり、「相互責任」が生ずるのである。それが「互助」であり、ことある時に、1人はもう1人を助けるという行動が求められるのだ。
 だが、これは物理的に絶対でないこともある。2人とも滑落して「死亡」することもある。一方で、心的意識的な面による、1人の手抜きや甘えや「他依存心理」は「互助」という概念を見事に打ち砕いてしまう。そして、遭難する。
 「互助」とは逆に言うと「運命共同体」でもある。この「運命共同体」で、すべての人の遵守すべきことは、「自己の責任を全うする」という強い意識であり、他に対する「責任の転嫁」や「他に対する甘え」ではない。
 「信頼の置けない人とはザイルを組みたくない」という人がいる。だが、これも「責任の転嫁」や「他に対する甘え」であり、間違いだ。
 「信頼」ということが問題なのではない。大事なのは、その時の「自己責任」に対していかに忠実であり、それを確実に実行するかということである。
 「組織」に所属するすべての人にも、この「自己責任」はある。私が所属している「岩木山を考える会」会員1人1人にも、「会」としてのそれがある。
 日本人である以上、「日本国」という組織に所属しているのだから、1人1人に「日本人としての自己責任」はあるのだ。
 それは、先ず、憲法の第9条と25条に掲げられていることである。

第9条
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
第25条 
生存権
1 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する
第9条は、まさに「自己責任」そのものであって解説は不要だろう。25条にあっては「自分以外の人」にも「生存権がある」と認め、それを互助的に保証することが「自己責任」であると考えるべきだ。

 だが、何ということだろう。この「日本人の自己責任」を率先して放棄している国会議員など政治家や企業の何と多いことか。(明日に続く)

毒蛇沢をトラバースして「滝ノ沢」岩壁(荒川の倉)東端の沢を登り「鳥海山山頂」に出る

2009-05-03 05:02:20 | Weblog
 (今日の写真も「デブリ」だ。少しでも、この「デブリ」に近づいて、状態を鮮明に記録したと思い、私と相棒は「ザイル」を右岸のダケカンバに結んで、「セルフビレイ(自己確保)」をしてから、沢の中央部分に出来るだけ「出て」これを撮った。
 この「デブリ」の積み重なった「雪魂」の高さをその前に生えている「ダケカンバ」の樹高と比較して推定してみよう。
 先ず、右手前にあるものの「梢」までは、4mはある。対岸の竹藪に生えているものはそれより高い。それと比べると、「デブリ」ブロックの先端は、その「ダケカンバ」よりも遠方にあるにもかかわらず、高いということが分かる。「遠近法」はより遠くのものを、小さく低く見せるものだ。だが、近いものよりも「遠い」ものの方が高く大きく見えていることは、その「実体」が高く大きいということである。
 この「デブリ」の厚みは5mから7mはあるだろう。立っている「雪ブロック」も大きいものは5mはあるだろう。これら「デブリ」の総量はどのくらいになるのだろう。この重さを下端の積雪帯が、辛うじて「受け止めて」いるという構図だ。
 私たちが登っているこの沢だって、いつこのように「雪層」の崩落が始まるか分からないのだ。今日の写真からは、急な「斜度」も分かるだろう。) 

(承前)

私は「毒蛇沢」に向かって右側に、「焼け止り小屋」を確認していた。標高1100m地点の毒蛇沢左岸の縁にいた。そこから垂直に「焼け止り小屋」を結んだ線から、大体30mほど登ったところである。
 そこから、「毒蛇沢」をトラバースするのだ。だが、鳥海山山頂直下、つまり「毒蛇沢」源頭付近には大きな亀裂が横に2本走っていて、すぐにでも、そこから崩落が始まり、「全層雪崩」となって流下してきそうに思えた。
 そのような恐怖と同時に「驚き」があった。それは、トラバースする「毒蛇沢」が非常に深かったことである。
 私は、これほど対岸まで深く、切れ込んでいる「毒蛇沢」を見たことはなかった。もちろん、「毒蛇沢」の積雪のない時季の「実の形」は「切れ込んでいて深い」のである。ただし、平年並みの積雪であると、この深い切れ込みに雪が貯まり、沢の表面は「上下」という傾きは持っているものの、対岸までは水平で平板なのである。だから、トラバースは容易であった。
 しかし、対岸には大きな「雪庇」が張り出しているので、それを「乗っ越す」にはかなりの難儀を強いられたものだ。その「雪庇」も今季は全くないのだ。
ザイルを結んで、その「深い谷底」に先ず、相棒が降りていった。私は相棒に「雪崩が発生し、どちらかが巻き込まれたら、ザイルをはずせ」と言った。ザイルを握っていたら両方巻き込まれてしまうからである。2人死ぬことはない。死人は少ない方がいい。
 そして、巻き込まれない方が、「ザイルを外して」、「埋まった」場所を確実に把握することが重要なのである。私はザイルを握りながら源頭部の「亀裂」を注視していた。亀裂が崩れ、雪崩となったその瞬間にすぐに合図を送るためだ。
 お互いがその繰り返しをしてようやく「毒蛇沢」を渡った。「深い谷底」形成の理由は単純明快、それは「少雪」ということである。
 私はこれまで、「残雪期」に限っても10数回は、この辺りの沢筋に沿って「鳥海山」に登っている。一つは「毒蛇沢」の左岸と右岸というルートである。
 一つは「滝ノ沢崖壁」の上部にある左右の沢だ。「滝ノ沢崖壁」上部には3本の沢が落ち込んでいる。その「崖壁」の下に立つと、残雪期には「雪解け水」がその岩壁を伝って落ちている。
 それが、まさに「滝」のように見えるのだ。確認はしていないが「滝ノ沢」という呼称の由来も、ここにあるのだろうと最初に見た時に思ったものだ。
 「滝ノ沢崖壁」上部の右端の沢には「平沢」を詰めて、左岸に取り付いて「ミズナラ林」を登ってくることで辿り着くことが出来る。右端の沢には、5月1日に私たちが採ったルートで辿り着くことが出来るのだ。
 しかし、これまで私は「真ん中」の沢を登ったことがなかった。「滑落」したら「滝ノ沢崖壁」をジャンプ台にして、カールに叩きつけられることが間違いないからである。
 「死のジャンプ台」を飛び越える必要はない。だから、まだ積雪期、残雪期にあっては「未踏」のルートでもある。今日の写真の「デブリ」は、その「真ん中」の沢で発生した雪崩のものだ。これを見ても、特にこの「真ん中の沢ルート」がどれくらい危険な場所であるかということが、よく分かるはずだ。
 残雪期に「鳥海山」の山頂から「滑る」に任せて「滑降」したスキーヤーが、この「滝ノ沢崖壁」から墜落して「重傷」を負ったり「死亡」したという話しを、私は現場で確認したわけではないが、聞いたことはある。
 それを裏付けるように鳥海山の山頂付近、つまり、この3本の沢を登り詰めたところには、「岩木山パトロール隊」が設置した「クロス」に交叉された竹竿が数カ所に渡って立てられてある。これらは、すべて『ここからの「滑降」は厳禁・進入禁止』を意味しているのである。
 
 この3本の沢を詰めることは言ってみれば、「夏場」の方が安全である。手がかりや足がかりとなる「ダケカンバ」や「根曲がり竹」、それに上部には「ハイマツ」が十分、生えているからである。それに掴まって、確保しながら登ると「滑落」の心配はまずはない。
 だが、その「手がかりや足がかり」となるものが、逆に「登高」を阻むものにもなる。「ハイマツ」のいわば「這っている幹」が特別、足にまとわりつく。そして、足をすくい転倒を誘う。
 「滝ノ沢崖壁」の先端から上部だけが「登高を阻む」藪ではない。そこまで行くのに、それ以上の「藪こぎ」をしなければいけないのだ。
 だから「厄介」なのである。特別な「調査」等の目的がないならば「何回」も行きたくなるような場所ではない。(明日に続く)

毒蛇沢をトラバースして滝ノ沢上部(荒川の倉)を登る

2009-05-02 04:10:05 | Weblog
 (今日の写真は滝ノ沢源頭部から約300m上部に「貯まって」いる「デブリ(岩や積雪が崩壊した破片や雪崩れや崩落したあとの累々と積み重なっている雪塊)」である。このデブリの上部50mほどのところに高さ約4m、長さが50mほどの「積雪層」が見えるだろう。この上部の「積雪層」とこの「デブリ」となった雪塊は一つながりの「積雪帯」をなしていたものだが、上部「積雪層」の末端に亀裂が入り、そこから崩落がはじまって、全層(底)雪崩となり、この「デブリ」部分で停止したものである。
 平年並みの積雪量であれば、決して、このような位置には「デブリ」を形成しない。上部の積雪層の崩落は一気に滝ノ沢源頭を越えて、なだれ落ちて高さ30m以上の崖壁の末端の小さな「カール(谷が丸みを持って開けている場所で圏谷とも言う)」に「デブリ」となって堆積する。それが、今季は「途中」で一旦停止しているのである。だがこれとて、このままの状態で、「ここに留まっている」という保証は何一つない。
 登りながらそのことを考えていた。この「デブリ」がまた、動き出して「雪崩」となったらどうしよう。
 その「雪崩」に「誘発」されて、今登っている「細くて」「急峻で」しかも、ほぼ直線的な「積雪帯」が動き出したらどうしよう。その時の手立てはあるのか。どのようにしてそれを躱(かわ)せばいいのだろうか…。

 昨日、相棒のTさんと岩木山に行った。相棒は「残雪期」の「ヴァリエーション・ルート」に興味を持っている。「ヴァリエーション・ルート」とは英語で「Variation-route」と書いて「一般ルートと違った、より困難な変形ルート」のことである。
 岩木山では積雪のない夏尾根を辿る登山道が「一般」ルートである。南から北回りで「岳、百沢、弥生、赤倉、長平」がある。この5つの登山道が、いわゆる「一般」ルートだ。だが、残雪期はその途中の一部では十分「ヴァリエーション・ルート」になりうるので、その対応の出来る登山者以外は「残雪」の消えるまで、待つことが大切だろう。
 もちろん、厳冬期は、この「一般ルート」でも、「ヴァリエーション・ルート」となる。夏登山道を4、5回登ったからといって、即、厳冬期登山に挑戦することは「無謀」なことだ。
 夏に登ったら、秋に登る。初冬に登り、雪を体感してから、今度は春の残雪期の登り、これを数年繰り返してたから、初めて「厳冬期登山」という順序を辿る。これが正攻法であり、正当な手順であるだろう。

 相棒のTさんとは2009年に入ってから月に1回のペース、多い時は2回の月もあったが、岩木山に登っている。
 1月は「テント」を持たない1泊登山、つまり、「雪洞」を造り、そこに泊まって山頂に行った。これも「ビバーク」性の強さからいうと「ヴァリエーション・ルート」であるに違いない。
 2月は「テント」持参の1泊登山だったが、「湯段沢」の左岸を詰めたし、日を変えて追子森にも登った。ここも一般ルートではない。
 3月には長平にある鰺ヶ沢スキー場拡張ゲレンデから烏帽子岳を目指した。このルートも「登山道」はないし、積雪期でなければ登ることの出来ない稜線である。
 50cm以上の新雪と、その底部のピッケルが「刺さらない」ほどに硬く凍った「雪面」に、雪崩と滑落の恐怖を十分に感じたルートだった。
 4月には「白狐沢」左岸を詰めて「扇ノ金目山」を抜けて烏帽子岳、1396mピークから、赤倉キレットを辿った。このルートには古い登山道がある。しかし、現在はその道の確認は出来ない。その上、1396mピーク付近は「修験者」の道となっていた。古来から「修験者」の道は「一般ルート」ではない。それこそ、「ヴァリエーション・ルート」なのだ。
 そして、昨日、5月1日には、百沢口から入って、毒蛇沢の右岸を詰めて、標高1100m付近から毒蛇沢をトラバース(横断・横切る)して、さらに名無しの沢を横切って、件の「滝ノ沢」左岸に至って、「滝ノ沢」崖壁本体の東端に出て、そこから「鳥海山」山頂を目指したのだ。これこそ、典型的な「ヴァリエーション・ルート」であるだろう。
 実は、最初の計画では、そこからさらにトラバースして、「滝ノ沢」崖壁を至近距離で確認することにしてあったのだ。
 しかし、急峻な斜面と硬い積雪面なので、それ以上のトラバースは「滑落」のもとになると判断して、ルートを「直登」に近いものにしたために、上部に出過ぎてしまい、「滝ノ沢」崖壁の東端に出てしまったのである。
 そこから下降して「滝ノ沢崖壁」の直近に行くことはすごく危険だったし、そこまで来るのに、かなり時間をロスしていたので、そのまま上部を目指すことにしたのだ。

 私はもう少し残雪があるものと考えていた。少なくとも、標高300m辺りからは「残雪」を辿って登れるものと思っていたのだ。だから、カタクリが咲いている百沢口「七曲がり」を登り切った辺りから、ミズナラ林内を進んで、早めに「毒蛇沢」の左岸に出て、そこから「残雪」を辿りながら、一気に、標高1100m付近まで行こうとしていたのである。
 しばらくは、古い林道を辿っていたのだが、「毒蛇沢」の左岸に拘るあまり、西に寄りすぎてしまい、猛烈な雑木と根曲がり竹の藪に捕まってしまったのだ。
 これで、約1時間ほどのロスになったし、体力もかなり浪費、消耗してしまった。1時間もの「藪こぎ」は「現在の私の体力」では「回復不可能」に近いものだ。
 「残雪」が姿を見せたのは「姥石」付近からであった。(明日に続く)