(今日の写真は、自動車を使って林道終点まで行って、そこから「二子沼」へ行くにはどうしても通らなければいけない「道」を塞いでいる「残雪」である。これは5月15日に撮影したものである。)
下見に出かけた私とS幹事は、この手前に自動車を置いて歩くことになった。本会では、この時季の「5月中旬」に数回、二子沼で「自然観察会」を開いているし、そのたびに、その10日か1週間前には事前調査のために、この林道を「自動車」で辿り、二子沼まで行っていた。
それ以外にも「二子沼」には、この時季にしばしば足を伸ばしていたし、特に「鰺ヶ沢スキー場」の「自然に対する取り扱い」を調査するために「残雪のある営業期間が終わったゲレンデ」には毎年のように行っているから、そのついでに「二子沼」まで行くことはそれほど難しいことではなかった。
だけれども、今季のように「林道を塞いでいる」雪に出会ったことは一度もなかったのである。「少雪」「暖冬」といわれている昨今だ。いわれているだけでなく、「少雪・暖冬」は事実である。この事実と未だに「積雪」を残して車道を塞ぐという現実とが「かみ合わない」のである。何故だろう、何故だろうと考えるのだが答えが出てこない。ただ、この現象は「非常に局地的」であるということだ。そこに答えの鍵はありそうである。
これまで、17日に開いた「第42回自然観察会」を含んで「岩木山を考える会」では数回、このルートと「二子沼」で自然観察会を開いている。
その中で、特に参加者の多かったのが第26回自然観察会(西岩木山林道と二子沼)であった。何と、参加者は102名となった。これは、2002年5月6日に実施した。自動車を持たないなど、「集合地スキー場駐車場」までの手段のない人も参加した。会員が自分の車に便乗させたのである。場所は「西岩木山林道と二子沼」であり、「二子沼」だけではない。
参加者を1班20名で5つの班に編制して、会員をそれぞれ班長と講師として、班行動を主体とした観察会であった。もちろん長い距離を「歩く」要素が組み込まれていた。
参加者には「フィールドノート」を配布した。「フィールドノート」は「時」「天気」「気温」「各自出会た花などとその場所」が書き込めるようになっている。もちろん、地図(観察コース図)も書かれてある。つまり、「 時刻・地図対照・フィールドサイン・直接観察・環境」などが記録されていく形式になっていた。
その「フィールドノート」には次のような案内も見える。
… ①が林道の中間地点でここから観察が始まり、二子沼で行きます。出会った花や樹木の名前を下欄からさがして◯に「レ」をつけて、○レとしてみましょう。どのくらいなるでしょう。これら以外にもあるはずですから見つけら記録しましょう。視線は足もとだけではありません。方位的に、耳もすましていろんな音を聴きましょう。…「明日に続く」
「踏み跡を辿る」…踏み跡から何がわかるか。営林署のこと(最終回)
「踏み跡」には、大きく分けると2種類があるようだ。そして、その一つが営林署に関係したものである。
…「営林署」、懐かしい名前だ。今は、「森林管理署」である。農林水産省の外局林野庁の下にあって国有林の管理や造林・伐採、林産品の製造・処分を行っていたところだ。
だが、その懐かしい名前も、平成11年(1999年)から、営林署は「森林管理署」に、営林署を監督していた営林局・営林支局は、「森林局」にと名称が変わった。
林野庁は平成10年(1998年)の時点で、3兆8000億円に上る巨額の累積債務をかかえて経営破綻の状態だった。
そこで、国有林野に14あった「営林局」は7つの森林管理局、全国229(1998年11月現在)の営林署は98の森林管理署と14の支署に再編することになったのだ。
職員数も3分の1にするといっていたが、どうなったのだろう。
その時、国有林野の管理経営の方針も見直された。森林管理署の仕事を定めた「農林水産省設置法」の条文は、営林署時代と比べると、「森林治水や林野保全の側面が強調」されて、「下流域の水を育み、災害を防ぐ」という「森林の公益的な働き」が重視されるようになったのである。
それまで、重視されてきた「木材生産」という側面を、ばっさりと削ってしまったのだ。この辺りから、林野庁は大きくその業務を「変質」させていくのである。
「森を育てる」、「樹木を管理して、間伐など保育をしながら山全体を育てる」、「枝打ちや下草刈など山の手入れ」、「木材の生産をする」ということを放棄してしまったのである。
つまり、「規制緩和」という荒波を受けて「営林署なんて民営化してしまえ」ということにつながっていったのである。
もともと、「署」というところは…
営林署にしろ、森林管理署にしろ、それは「所」ではない。恐れ多くも「警察署」の「署」である。営林署も森林管理署も「山の警察」としての役割も持ち、「盗掘や盗伐から国有林」を守るのである。少なくとも「営林署」時代まではそうだった。
しかし、今は違う。森林管理署の最前線の職員である「現場責任者」は「森林官」だ。昔の呼び名は「担当区主任」である。これは「特別司法警察職員」で逮捕権をもってるのだそうだ。昔の営林署の職員は、「腰に短剣を下げ山を巡回していた」というのである。
「森林官」は、捜査の専門家ではなく、「枝打ちや下草刈など山の手入れ」を作業員にさせ、樹木の調査を行い、林道の点検をする林業の専門家である。
また、森林官が警察官としての役割を果たすのは、樹木の盗伐や山火事など国有林の保全に直接関わることで、しょっちゅう「山を歩いて、見回って、巡視と監視」を続けていた。
その道が「踏み跡」だ。岩木山にも「登山道」の他に、多くの「担当区主任」が巡視するために使った道があるのであった。
若い頃はその道を拝借してよく歩いたものである。よく歩いたのは「錫杖清水」近くから「耳成岩」の下を巻いて、赤倉登山道に出る道であったし、「巌鬼山」から「弥生」に降りる「道」、水無沢左岸尾根に続いて弥生に出る「道」などであった。
しかし、今は「担当区主任」の仕事から「監視と巡視」がなくなり、「担当区主任」の命によって働く作業員もいなくなったらしく、その「道」は標高の高い部分を残すだけで、ほぼ消失している。
そして、今や「踏み跡」の形跡もなくなり「廃道化」しているのである。
下見に出かけた私とS幹事は、この手前に自動車を置いて歩くことになった。本会では、この時季の「5月中旬」に数回、二子沼で「自然観察会」を開いているし、そのたびに、その10日か1週間前には事前調査のために、この林道を「自動車」で辿り、二子沼まで行っていた。
それ以外にも「二子沼」には、この時季にしばしば足を伸ばしていたし、特に「鰺ヶ沢スキー場」の「自然に対する取り扱い」を調査するために「残雪のある営業期間が終わったゲレンデ」には毎年のように行っているから、そのついでに「二子沼」まで行くことはそれほど難しいことではなかった。
だけれども、今季のように「林道を塞いでいる」雪に出会ったことは一度もなかったのである。「少雪」「暖冬」といわれている昨今だ。いわれているだけでなく、「少雪・暖冬」は事実である。この事実と未だに「積雪」を残して車道を塞ぐという現実とが「かみ合わない」のである。何故だろう、何故だろうと考えるのだが答えが出てこない。ただ、この現象は「非常に局地的」であるということだ。そこに答えの鍵はありそうである。
これまで、17日に開いた「第42回自然観察会」を含んで「岩木山を考える会」では数回、このルートと「二子沼」で自然観察会を開いている。
その中で、特に参加者の多かったのが第26回自然観察会(西岩木山林道と二子沼)であった。何と、参加者は102名となった。これは、2002年5月6日に実施した。自動車を持たないなど、「集合地スキー場駐車場」までの手段のない人も参加した。会員が自分の車に便乗させたのである。場所は「西岩木山林道と二子沼」であり、「二子沼」だけではない。
参加者を1班20名で5つの班に編制して、会員をそれぞれ班長と講師として、班行動を主体とした観察会であった。もちろん長い距離を「歩く」要素が組み込まれていた。
参加者には「フィールドノート」を配布した。「フィールドノート」は「時」「天気」「気温」「各自出会た花などとその場所」が書き込めるようになっている。もちろん、地図(観察コース図)も書かれてある。つまり、「 時刻・地図対照・フィールドサイン・直接観察・環境」などが記録されていく形式になっていた。
その「フィールドノート」には次のような案内も見える。
… ①が林道の中間地点でここから観察が始まり、二子沼で行きます。出会った花や樹木の名前を下欄からさがして◯に「レ」をつけて、○レとしてみましょう。どのくらいなるでしょう。これら以外にもあるはずですから見つけら記録しましょう。視線は足もとだけではありません。方位的に、耳もすましていろんな音を聴きましょう。…「明日に続く」
「踏み跡を辿る」…踏み跡から何がわかるか。営林署のこと(最終回)
「踏み跡」には、大きく分けると2種類があるようだ。そして、その一つが営林署に関係したものである。
…「営林署」、懐かしい名前だ。今は、「森林管理署」である。農林水産省の外局林野庁の下にあって国有林の管理や造林・伐採、林産品の製造・処分を行っていたところだ。
だが、その懐かしい名前も、平成11年(1999年)から、営林署は「森林管理署」に、営林署を監督していた営林局・営林支局は、「森林局」にと名称が変わった。
林野庁は平成10年(1998年)の時点で、3兆8000億円に上る巨額の累積債務をかかえて経営破綻の状態だった。
そこで、国有林野に14あった「営林局」は7つの森林管理局、全国229(1998年11月現在)の営林署は98の森林管理署と14の支署に再編することになったのだ。
職員数も3分の1にするといっていたが、どうなったのだろう。
その時、国有林野の管理経営の方針も見直された。森林管理署の仕事を定めた「農林水産省設置法」の条文は、営林署時代と比べると、「森林治水や林野保全の側面が強調」されて、「下流域の水を育み、災害を防ぐ」という「森林の公益的な働き」が重視されるようになったのである。
それまで、重視されてきた「木材生産」という側面を、ばっさりと削ってしまったのだ。この辺りから、林野庁は大きくその業務を「変質」させていくのである。
「森を育てる」、「樹木を管理して、間伐など保育をしながら山全体を育てる」、「枝打ちや下草刈など山の手入れ」、「木材の生産をする」ということを放棄してしまったのである。
つまり、「規制緩和」という荒波を受けて「営林署なんて民営化してしまえ」ということにつながっていったのである。
もともと、「署」というところは…
営林署にしろ、森林管理署にしろ、それは「所」ではない。恐れ多くも「警察署」の「署」である。営林署も森林管理署も「山の警察」としての役割も持ち、「盗掘や盗伐から国有林」を守るのである。少なくとも「営林署」時代まではそうだった。
しかし、今は違う。森林管理署の最前線の職員である「現場責任者」は「森林官」だ。昔の呼び名は「担当区主任」である。これは「特別司法警察職員」で逮捕権をもってるのだそうだ。昔の営林署の職員は、「腰に短剣を下げ山を巡回していた」というのである。
「森林官」は、捜査の専門家ではなく、「枝打ちや下草刈など山の手入れ」を作業員にさせ、樹木の調査を行い、林道の点検をする林業の専門家である。
また、森林官が警察官としての役割を果たすのは、樹木の盗伐や山火事など国有林の保全に直接関わることで、しょっちゅう「山を歩いて、見回って、巡視と監視」を続けていた。
その道が「踏み跡」だ。岩木山にも「登山道」の他に、多くの「担当区主任」が巡視するために使った道があるのであった。
若い頃はその道を拝借してよく歩いたものである。よく歩いたのは「錫杖清水」近くから「耳成岩」の下を巻いて、赤倉登山道に出る道であったし、「巌鬼山」から「弥生」に降りる「道」、水無沢左岸尾根に続いて弥生に出る「道」などであった。
しかし、今は「担当区主任」の仕事から「監視と巡視」がなくなり、「担当区主任」の命によって働く作業員もいなくなったらしく、その「道」は標高の高い部分を残すだけで、ほぼ消失している。
そして、今や「踏み跡」の形跡もなくなり「廃道化」しているのである。