岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

春光を浴びて灰色の陰影の中に佇立する「ブナ」の森、「平沢」左岸尾根

2009-05-09 05:26:47 | Weblog
 (今日の写真は「平沢」と「滝ノ沢」に挟まれた急な尾根にある「ブナ」の森である。登りの時は、夏日という「暑さ」と積雪がほぼ消えていミズナラの繁みと「根曲がり竹」の藪こぎと「ルートファインデイング」のために、早くも疲労困憊で、足下がフラフラしていて、写真を撮る余裕がなかった。これは、降りてきた時に写したものだ。)

 この尾根は南に面しているからであろうか、かなり標高の「高い」ところまで、「ブナ」が「高木」で斜面がきつい割にはそれぞれ真っ直ぐに「立って」いる。
 このように「尾根」の上部から見ると、「ブナ」という天然木の純林、つまり、「ブナ」の原生林が、山麓に向けて末広に続いて、その次にはミズナラ林が続いているのだろうと、思ってしまう。
 本来ならそうなのである。ミズナラ林はさらに、ほかの雑木であるアカマツやコナラ、ホウノキ、アズキナシ、オオヤマザクラなどと混交して「雑木林」を作っているのだ。
 この尾根も確かに、「ブナ」そして、「ミズナラ」までは、本来の「森」を形成している。しかし、「ミズナラ林」帯には「人工林」が「帯をなして」横切っている。
 それは「カラマツ」と「スギ」だ。もちろん、数十年前に、つまり昭和40年代に林野庁が率先して「ブナ」や「ミズナラ」を伐採して、植えたものである。
 その頃は「ブナ」は「役に立たない木」と言われていた。漢字で書くと「ブナ」は「山毛欅」とも書くが「橅」とも書く。
 後者は「木偏」に「無」である。つまり、「木」で無い「木」で、「役に立たない」木とみんなが考えていた。
 弘前には「ブナコ」という「工芸産物」がある。これは、その「役に立たない木」の材を「薄い板」にして、螺旋形に貼り合わせて円錐形の器などにしたものだ。「役に立たない木」をうまく利用したのである。
 『「役に立たない」から「伐採」してしまえ、「伐採」後には「育ち」の速く、「木材」として商品価値の高い、「スギ」や「カラマツ」を植える』を実践したのは、何と「日本の森林を守り育てる」国家機関である林野庁である。
 日本は国土の7割が「山地」である。その山は森林で覆われていた。つまり、日本の国土とその自然を「守る」行政府が率先して、自然林の「伐採」と「人工植樹」を繰り返し、それは今でも続いているのだ。

 何という「知恵」のなさか、軽薄で愚かで、自分たちの職務と責任の真の意義も忘れ、それに誇りも何もないあきれた所業である。
 林野庁にはおそらくキャリヤもいるだろう。東大や京大を終わっても「ブナ」の森林生態系の中での重要な役割と、森林の人に対する生命的な恵みや生化学的、生理的な効用について、何一つ考えることもせずに「伐採」と「針葉樹の植栽」を一途に、検証と反省もせずに続けてきたのである。
 人の「知恵」とは学歴に関係ない。森は中に入ってみなければ分からない。霞ヶ関のビルの中で仕事をしていても、「知恵」が浮かぶわけではない。
 森に入って一本一本の木に触れ、林床を歩いて足裏に枯れ葉の「かそけさ」を感じ、「蚋(ブヨ)」に刺されても、卵を産むために「タンパク質」を恵んでやったのだ思えなければ、森のことは知らないといえる。それは、森や樹木、そして、山という自然に対する「愛」がないということだろう。
 森と一体感を持ち、何よりも森に愛を感じない連中が日本の「森林行政」の中心にいた。これは、「山の樹木」にとっては不幸なことだった。同時に私たち国民にとっても不幸なことだった。もちろん、「岩木山」にとっても同様である。
 「ブナ」を伐採して植えた「カラマツ」も「スギ」も標高の高いところでは、「ひこばえ」や「実生」の「ブナ」の生育に遅れをとっている。つまり、元々、その「場所」に生えていた「ブナ」の方が強靱なのである。
 30数年前に植えられた「カラマツ」などはその樹高が、ブナのそれよりも数m低いのである。さらに、「ブナ」によって間引きされ、「負け」て、どんどんと枯れて「本数」が年を追うごとに少なくなっている。「ブナ」が自然に戻ろうとしているわけである。
 「自然は常に過去に戻ろうとする」を教えてくれているのだ。どうして、このような当たり前のことを、林野庁は気づかなかったのだろうか。 いや、気づかなかったわけではあるまい。「気づいていた。分かっていた」だが、「止められなかった」が事実だろう。組織というものの「怖さ」であろう。だが、私は許さない。
 そう言えば「林野庁」は、あの「農水省(旧農林省)」傘下の役所であった。同質なのだろう。森の木をばさばさと伐っていく姿勢は、農民をばさばさと切っていく姿勢と同じだ。
 「減反」、「休耕田」、「放置水田や放置畑」、「棄農」、「限界集落」、「干拓事業の失敗」、「農地整備」、「ほ場整備」、「業者優先有利な規制緩和」、「農産品の輸入」、「輸入米」、「輸入米の不正販売」など、すべて農民殺しであり、「うまく」いったものは何一つない。
 農水省のやっていることに基本的に欠けていることは「農民を温かい目で見守ること」である。「農民」は山の樹木以下の扱いを受けてきたし、受けている。

  そんなことを考えながら降りてきた。積雪のあるところは「踏み跡」を辿ってきたが、ミズナラ林の中程から、午前中にあった「積雪」が消えていた。
 そのようなこともあろうかと思い、登りに「送り(赤布)」をつけておいた。その「」を頼りに「スギ」林に辿り着いた。
 何という「皮肉」か。植樹されたが成長の遅いスギ林なのだが、常緑針葉樹は「木陰」を作るのだ。その中にはまだ積雪が所々に残っていた。
 そして、その残雪上には午前中に付けた私たちの「踏み跡」がしっかりと残っていたのだった。