岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

月刊「弘前」特集記事について / 岩木山・花の山旅 出版記念の集い

2008-11-15 05:43:47 | Weblog
(今日の写真は月刊「弘前」11月号の2ページである。これからも分かるように月刊「弘前」の特集は拙著「カラーガイド 岩木山・花の山旅 」についてである。2ページから13ページまでという「12ページだて」の配分である。64ページの小冊子なのだが、広告・宣伝に割いているページを除くと35ページがいわゆる「文章」欄である。つまり、全文章ページの3分の2を、拙著の「特集」に充てたのである。
 書き手としては嬉しいことに違いないのだが、これほど「大々的」に取り扱われると「私」と「編集子」Aさんと何か密約でもあったのではないかと疑われそうで、少々気が滅入るのだ。) 

     ●● 月刊「弘前」特集記事について ●●

 ところで、この月刊「弘前」特集記事を見た方から次のようなメールが送られてきた。早速紹介したい。

 『…昨日「月刊弘前」の11月号を見て、特集のあまりの大きさにぶったまげました。月刊弘前があれほどの大特集を組むのは、あまり例をみませんね。
写真がカラーでないのが残念ですが、それにしても、です。編集者が、よほど気に入ったのでしょう。わたしの書評も使っていただきましてありがとうございました。

 「三浦章男先生と山に行ったことがある」と、わたしがいつも相談しながら山道具をひとつ、またひとつ、と買っているモンベルのHさん、という男の店員さんに話したことがあります。
 その人は、「ああ、知ってる。その人、知ってますよ」と言っていました。そういう「ネームのある方」の本の書評をですね、ああいう公の場に出すのに、わたしなんかではおこがましい、申し訳なかったのでは…と、ページを開いてみたときには、恐縮してしまいました。

 これで、またひとしきり、本が売れていくと思います。もう少し買いやすい値段(¥1200くらい)なら、もっと爆発的に売れたのかもしれませんが、400数十種の全てを網羅するには、紙数が足りないのでしょうし、そこは難しいところですね。』

 もっと値段を安くすることについては吝かではない。出版社と相談をして「ハンディ版・岩木山の花々」の新版を出してもいいかもしれない。当然、現在の捌かれ方の推移を見守った上である。

 ●● 昨日は「カラーガイド 岩木山・花の山旅」出版記念の集いだった ●●

 同じ日の同じ時間帯と重なってしまった。私と懇意にしている2つもの「団体や組織」が昨日の18時から、それぞれ「懇親会」付きの会合を開いた。しかも、「出版記念の集い」の日程決定よりも先に「組織的に日程を決めていた」ために、参加できない方々10数名になったという事情を抱えていた。
 それでも、参加者は110名を越えた。色々と書くことは沢山あるが、今朝は「次第」の紹介に留めよう。明日から何回かに分けて報告するつもりだ。
      
 この次第も本会会長が中心になり決めたものである。司会者は岩木山を考える会幹事の葛西拓美さんだ。つがる市森田の在住で「米作農家」である。鰺ヶ沢スキー場拡張反対闘争の先頭に立った「真面目な若手農民」である。

 1.開会のことば
工藤龍雄   (岩木山を考える会幹事)
 2.発起人代表あいさつ
         阿部 東    (岩木山を考える会会長)
 3.お祝いのことば
正木進三 (岩木山を考える会前会長、現顧問・弘前大学名誉教授)

         佐藤 裕     (NHK弘前文化センター前支社長)

         須藤廣志    (岩木山神社禰宜)

 4.乾杯
安藤喜一 (岩木山を考える会会員・弘前大学名誉教授)
 引き続きお祝いのことば

         一戸繁輝 (岩木山環境保全協議会会長・日赤岩木山パトロール隊隊長)

         佐藤吉直 (岩木山を考える会・弘前勤労者山岳会会員・三浦章男の教え子)
 5.スピーチ
三浦協子            (弘前民主文学会員)
間宮久子         (弘前勤労者山岳会会長)
 6.花束の贈呈
        奥瀬初子(NHK弘前文化センター「津軽富士・岩木山」受講者)
        須藤恵美子(NHK弘前文化センター「津軽富士・岩木山」受講者)

 7.著者あいさつ

 8.閉会のことば     竹谷清光
        (岩木山を考える会幹事)
 (この稿は明日に続く。)

今日の写真から何が分かるか・それは全層雪崩発生位置の推移である

2008-11-14 05:47:08 | Weblog
(今日の写真は初冬の岩木山だ。毒蛇沢の山麓部から今月の11日に写したものだ。この写真から分かることがある。
 先ず、初冠雪後、消えないで残っている雪が見えるだろう。白い斑模様の部分がそれだ。それを探して欲しい。分かることとはその「白い斑模様の部分」にあるのだ。これは「全層(または底)雪崩」によって表土「火山灰地」を覆っていた根曲がり竹やダケカンバが「剥がされた」場所なのである。)

 「全層雪崩」は厚さ4~5mの雪層が上から下部へとローリングしながら下部にある根曲がり竹などを剥ぎ取りながら流下するものだ。そして、その痕跡として「根曲がり竹やダケカンバ」の剥離帯を形成するのである。
 この「斑模様」は、その剥離帯に降り積もった初冠雪からの「積雪」と剥がれた表土が示す「模様」なのである。
 写真の左側は鳥海山東斜面である。その中央部に大きな剥離帯と積雪を残す剥離帯が2カ所見えるだろう。これも全層雪崩の痕である。これは2002年4月に発生して毒蛇沢に流下した場所で、年々その剥離した部分が崩落を繰り返して広がっているのだ。
 その右下に見える2カ所の剥離帯は1976(昭和51)年、1986(昭和61)年、近いところでは2003(平成15)年4月22日に発生した全層雪崩の痕跡である。
 1976年4月初旬に、発生したものは焼止り小屋を跡形もなく破壊し、デブリは下方600mに達していた。これはかなり大きな全層雪崩で、西に偏りながら流れたものであった。
 それから10年後の1986年1月には種蒔苗代で雪崩のため4名が死亡した。そして、4月には「土石流に近い形態と大規模な雪崩」が、鳥海山の東尾根で発生したのだ。
 2003年の4月は「異常な高温」だった。足許にまだ数mの積雪を置きながらも、タムシバは咲き出し、例年ならば5月中旬でなければ咲き出さないイワナシがすでに咲いていた。
 私はその年の3月15日に「雪崩発生」について指摘し、注意を喚起していた。それが的中したのであった。
 しかも、その発生地点が今まで発生した場所よりも西(弘前から向かって左)にずれ、流路もその下部で大きく西に曲がって毒蛇沢へと落ち込んでいた。これも季節風の吹き出しの弱さの証明になるであろう。
 今回の雪崩跡をはっきりと視認したのは4月15日の午後である。その日は枯木平から二ッ森に登り、そこから北東のピークを辿り、黒森山(標高887m)を経て、ブナの根開きを辿っていた。まだ根開きが出来ていない高さまで来るとまたジグザグで南東に移動するという緩やかな横ばい移動だった。「イワウチワ」を探していたのである。持っていた気温計は22℃まで上がった。雪面は柔らかく、ツボ足だと埋まってかなわない。雪層が締まっていないのである。このような事象を見越してワカンを背負っていたので、道程の三分の一はワカン歩行となった。
「雪層が密でなく締まっていないこと」「微小な雪粒同士の粘着性が欠如」「凍結による固い雪層の成立とその数層構造がなされていないこと」等に因って埋まるのである。これが「その年の異常な積雪状態と気温異常」を指していたのだ。
 雪崩による雪層の剥離跡が視認されたが、それは、「いびつな心形」をしていて末端は毒蛇沢に流れていた。幅は300~400m。長さは7、800m程度である。
 この形態と流れ方が最近の気象的な特徴である「季節風の吹き出しが極端に弱いこと」「雪層が柔らかく締まっていないこと」「雪層に何重かのアイスバーン形成が見られないこと」「総じて暖冬であること」「3月から4月にかけて特に高温が続いていること」…などを示しているのである。
 さらに、雪崩の「剥離跡」には根曲がり竹が密生していた。99年や86年、それに76年のように根曲がり竹が根こそぎ剥離された部分が殆どないのである。
 これは雪層が「土石流のように大規模にローリングしたものではないく、小規模なローリングと単純に密集している根曲がり竹帯を滑り台にして、崩落した後で滑落した」ことを示しているのではないかと私は推測している。
 鳥海山東面尾根でこれまでに発生した雪崩の遠望される「剥離跡」は、76年のものは三角形(デルタ形)、86年のものは楕円に近い長三角形(デルタ形)、03年のものは上部にくびれを持つ「いびつなハート」形であった。

 さて、目を転じて大沢を挟んだ岩木山山頂尾根の下部を見てみよう。かなり広い範囲で「斑模様」が見えるだろう。これもすべて「雪崩痕」である。根曲がり竹だけでなく「ハイマツ帯」にも剥離部分が見えるのだ。この辺りは今年の春にも雪崩が頻発している。この場所からの剥離物は大沢に流下し、大沢の「登山道」を埋めたことは記憶に新しい。
 実はこの大沢左岸上部で雪崩が発生することは少なくとも1999年まではなかったのである。岩木山東面での「全層雪崩発生」は殆どが鳥海山尾根に集中していた。しかも、その周期が大体10年に一度であり、「暖冬」とされる春に限られていたのである。
 この1999年4月の雪崩発生の起点となった雪層の「亀裂」を、私は3月7日に確認していた。行政等が危険と考え「その場所に近づかないこと」を勧告したのは4月18日であり、その二日後に雪崩は起きてしまった。
 この99年4月20日から21日にかけて大沢上部右岸で発生した全層雪崩は、高位置を起点としたため距離では、76年、86年のものを遙かに凌ぐものであった。
 
 ところで、このようにここ数年、岩木山の東面尾根、特に大沢を挟む両尾根に「全層雪崩」が集中して発生しているのだが、その原因・理由は何だろうか。その答えはすでに以上の文中で「触れて」ある。考えてみて欲しい。ヒントは「暖冬」「季節風の吹き出し」である。もう一つ、「雪の吹き溜まり」である。

赤トンボ(アキアカネ)を探して岩木山へ / 日本人はトンボをどのように見てきたか(最終回)

2008-11-13 05:48:00 | Weblog
(今日の写真は11日に写した岩木山である。岩木山は本当に見る場所によって、その姿を著しく変える。遠目には円錐形で、どこから見ても同じように見えそうだが、実はそうではない。)

 地図上でもそうである。特に50.000分の1地図にあっては、平面的に眺めただけでは、実にのっぺりとして「起伏」があまり感じられない。
 今日の写真にも、この「のっぺり感」は見える。特にこの写真に見える「山頂部」はなだらかな「台形」をなしている。
 「山頂部」と書いたがこれは、岩木山の中央火口丘を指しているものではない。これを撮影した場所からは、本物の「山頂部」は見えないのだ。なだらかな台形を形作る稜線の下部に目をやって欲しいものだ。
 深い切れ込みと岩稜性の地形が見えるだろう。この岩稜性の地形のことを「倉」と呼び、急峻な崖を意味している。
 左側が柴柄(しばから)沢だ。真っ正面が平沢の源頭である。上部のなだらかさとは明らかに違う急峻さと荒々しさである。山麓まで近づくと、明らかに変貌する。
 ところで、近づいて見ると岩木山は極端にその姿を変えるが、その理由は、岩木山の火山性造山運動にある。爆裂火口を11も持っている「複合火山」なのだ。それに寄生火山による「小丘(標高600m程度までの小高い山)」を山麓部に持っていることによるのである。
 この写真を写した平沢は、岩木山の南面に位置している。標高350mから550mにかけて緩やかな斜面が約2㎞に渡って続いている。
 幅も広いところでは150mから200mほどあり、広い川原をなしている。しかし、標高700mから1200mにかけては斜度が、30度を越えるようになる。
 この平沢を東西から挟むように爆裂火口を「谷頭」とする沢、つまり開析谷が流れ下っているのだ。毒蛇沢や「荒川ノ倉」を持つ滝の沢と「柴柄ノ倉」を持つ柴柄沢などがそれである。
 11日の下見の時には、平沢の右岸沿いに進み、途中から柴柄沢の左岸を登り、平沢右岸尾根のミズナラ林の中を行った。
 川原特有のバッコヤナギはまだ葉を落としていなかったが、色はすっかり褪せていた。美しい「紅葉」とは言い難い。
 林道沿いの日当たりのいい場所で「アキアカネ」を探したが、結局はたった「1匹」の「アキアカネ」の発見に終わってしまった。

■ 日本人はトンボをどのように見てきたか・日本人とトンボの付き合い方(最終回)■

 「トンボ」は多くの方言で呼ばれている。その方言から「見えてくるもの」は何だろう。

 柳田國男はトンボの方言を考察して、「方言周囲論」により、「アキツ」が最も古く、「エンバ」は次に古く、「トンボ」が一番新しい語であるとした。

 トンボの一般に呼ばれている名称には次のような「系統」性がある。
 北九州方言の「エンバ・ヘンボ」系と南九州方言の「ボイ」系である。また北陸(新潟県佐渡島)と東北(青森県、秋田県、岩手県)には「ザンブリ・ダンブリ」系の語が分布する。
 富山県・石川県の「ドンボ」、鳥取県の「ドンバ」のように、「トンボ」の頭音が濁音化したような語群は、「ダンブリ」と「トンボ」の習合した結果か、もしくは共通の祖語からの分化であろう。
 ところで、「エンバ・ヘンボ系」、「ボイ系」、「ダンブリ・ザンブリ」系語彙は日本列島で発生した語とは考えにくいのだ。いずれ大陸・朝鮮半島から渡来した人々のもたらした語彙であったのだろうと思われる。
 とりわけ、佐渡島や東北地方に分布する「ダンブリ・ザンブリ」系の語群は、「トンボ」の韓国語「チャムジャリ」と酷似するばかりか、済州島の「トンボ」方言である「パンブリ」が確認されたことにより、朝鮮半島に直接の起源をもつとの解釈が有力である。
 弘前を中心とする津軽では「トンボ」を「ダンブリ」と方言で呼称するが、これは朝鮮済州島にそのルーツを辿ることが出来るのである。「トンボ」はまさに国際的な「昆虫」ということになるのである。

 次に参考までに青森県のトンボの一般的な呼称を挙げてみたい。

    ◆青森県のトンボの一般称◆

    ○アキツ系:・アガンキ 三戸郡五戸町
    ○ザンブリ・ダンブリ系: 
     ・アガダブリ(赤蜻蛉)弘前市・南津軽郡平賀町
     ・アカダンブリ(赤蜻蛉)三戸郡五戸町
     ・イトダンブリ(イトトンボ)弘前市
     ・カナコダブリ(糸蜻蛉)弘前市
     ・カワダブリ(ハグロトンボ)弘前市
     ・ダンブリ 青森市・五所川原市・弘前市・野辺地町・川内町・木造町
     ・ババダンブリ(糸蜻蛉)五所川原市
     ・ヤマダブリ(オニヤンマ)弘前市(ギンヤンマも)・南津軽郡平賀町
     ・ヤマダンブリ(オニヤンマ)五所川原市
     ・ヨメダンブリ(赤蜻蛉)五所川原市

     ◆イトトンボの方言◆

 「イトトンボ」方言としての「トースミトンボ」は「灯心蜻蛉」を意味した。
ランプや電灯が普及する以前の日本社会における「灯心」の果たした重要な役割を考察すると、「イトトンボ」方言としての「トースミトンボ(灯心蜻蛉)」の語はどこで発生しても不思議ではなかったであろう。

     ◆八グロトンボの方言◆

 青森市を中心とした地域では「ハグロトンボ」のことを「カミサマ(神様)トンボ」と呼ぶそうだ。神様としての「トンボ」の主座は、今日では「イトトンボ」類と「ハグロトンボ」が占めているのである。この領域ではアキアカネとは一線を画している。
 「イトトンボ・ハグロトンボ」の類は、前翅と後翅がほとんど同じ形で、前後翅を重ね合わせて休止する種が多い。ただし、「アオイトトンボ」類のように翅を半ば開いて止まる「イトトンボ」類もある。
 少し、西洋と比較してみよう。この仲間の英語名がふるっている。
Damselfly、すなわち「お嬢様蜻蛉」とでも和訳すべき名で呼ばれているのだ。「優しくなよなよ飛ぶ様子」を「令嬢」に讐えたものだろうか。
 英語のdamselflyはフランス語からの借用と思われ、大陸ではドイツでも「水の乙女」と呼ばれているそうである。

 (この稿は今回で終了する。なお、この稿を書くに当たっては「トンボと自然観」京都大学学術出版会刊を参考にした。)

赤トンボ(アキアカネ)を探して / 日本人はトンボをどのように見てきたか(10)

2008-11-12 05:34:38 | Weblog
(今日の写真は茸、ムキタケである。平沢沿いの林道近くのミズナラ林内で、倒木に生えていたものである。)

 昨日16日に開くNHK弘前文化センター講座「津軽富士・岩木山」の野外観察のための下見に行って来た。朝の気温は0.7℃、出発したのは9時である。その頃になるとすっかり気温も上がり、まさに「十月小春」の小春日和になっていた。風は殆どなく、日差しと気温は大体一致していた。これだと観察予定地の「平沢」沿いでは、アキアカネに出会えるかも知れないと密かに期待をしての出発となった。
 確かに「小春日和」だった。暖かい日差しに全身を曝して「暖」を取っている「アキアカネ」は沢山いるだろうという期待は裏切られてしまった。たった1匹しか見つけることが出来なかった。しかも、枯れ枝や枯れ草に止まっているものではなく「林道」に敷かれた平らな石の上にいたものだった。
 別な発見があった。それは今日の写真、キノコだ。キノコの中で、東の横綱はマイタケだそうだ。そして、西の横綱が「ナメコとムキタケ」だと言う。
 同行したSさんが言うには「初秋のキノコ採りに比べると探すポイントがわかりやすいのが、晩秋のキノコ採りである。
 周囲の木々は黄葉が終りに近づき、落葉も始まっていて遠くの方まで風倒木があるかどうか見渡すことができる」ということだった。沢沿いの急斜面の風倒木を探しながら尾根を目指して歩き回るのだそうだ。
 この「ムキタケ」は毒菌の「ツキヨダケ」と形状、発生場所が非常に似てているが、茎の根元を裂いて見ると「黒いシミ」があることで判別出来るそうだ。冷え込んだり、霜が降り始めると、「ツキヨダケ」は傘に黒くシミができる。
 また、「ムキタケ」はシャキッとしているが「ツキヨダケ」は傘から融けてドロッとしているそうだ。
 「ムキタケ」の色はこの写真のように、灰色に近いが「ツキヨダケ」は濃い茶色なのである。何回か見比べて、慣れてくると見た瞬間判別出来るようになるそうである。

■ 日本人はトンボをどのように見てきたか・日本人とトンボの付き合い方(8)■

 日本人はトンボをどのように見てきたか。俳句にそれを探ってみよう。


 俳句で蜻蛉(トンボ)を用いる用法は「トンボ」のみを用いる単純な用法がもっとも多く60.3%を占める。次いで、「アカトンボ」が30.7%、「トンボ各種」が27.5%と続く。
 「アカトンボ」の相対的頻度に時代間で変化は見られないが、「トンボのみ」の用法は時代とともに減り、代わって「トンボ各種」の用法が増える。
 「トンボ各種」には、「オハグロ(お歯黒)トンボ」、「シオカラ(塩辛)トンボ」、「ショウリョウ(精霊)トンボ」、「イト(糸)トンボ」、「カワ(川)トンボ」、「ムギワラ(麦藁)トンボ」、「トウスミ(灯心)トンボ」、「オニ(鬼)ヤンマ」、「ギン(銀)ヤンマ」などが含まれる。
 また、「アカトンボ」や「アキアカネ」などに対して古風な表現として「アキツ」があるが、この用法は時代とともに、むしろ「アキツ」を使用することが増える傾向にあったようだ。
 「アキツ」とは、秋に飛ぶ「アカトンボ(赤蜻蛉)」を指して、古くから使われている用法で、日本を「秋津洲」と呼ぶのは、蜻蛉の雌雄がつながった姿が日本の形に似ているからとも言われている。

 ● トンボを句題にした代表的な俳句 ●


 これらには、武士社会などで蜻蛉を「勝ち虫」として扱うもの、稲作と関連して豊穣のシンボルと扱うもの、先祖の霊など霊的象徴として扱うものなどがある。

  「あたままで目でかためたる蜻蛉かな」 (中村 史邦)
  「尾を曲げて瑠璃の濃くなる糸蜻蛉」 (堀口 星眠)
  「赤蜻蛉夕日を乗せて飛んでをり」 (石井とし夫)
  「あきつ飛ぶ群れてゐること楽しげに」 (森本英津子)
  「稲稔り蜻蛉つるみ子を背負ひ」    (高浜 虚子)
  「掛稲にいつ減るとなく蜻蛉かな」   (籾山 柑子)
  「おはぐろとんぼは水の生みたる悪の華」(田川飛旅子)
  「山里は水子のにほひ盆とんぼ」    (椿 文恵)
  「なき人のしるしの竹に蜻蛉哉」    (高井 几董)
  「父祖の地や蜻蛉は赤き身をたるる」  (角川 源義)
  「いつまでも蜻蛉水うつ法降寺」    (原田 喬)
  「糸蜻蛉水液ぎても幕無し」    (岸田 稚魚)
  「鬼やんま父の御腹を食はんとす」  (栗林 千津)

   蜻蛉の捕獲を忌み嫌う俳句もある。

  「身近飛ぶ精霊蜻蛉誰も捕らず」    (唐沢富貴子)


       ● トンボに関する諺を探ってみよう ●

 ・阿呆の鼻毛で蜻蛉をつなぐ・
(愚かな者が、自分は鼻毛を伸ばして、その先にトンボをつなげることができると誇張した言葉から、何もかも馬鹿らしいことを意味する)
 ・蜻蛉が尻を冷やすよう・
(そわそわと落ち着かないさまの喩え)
 ・蜻蛉の鉢巻で目先が見えぬ・
(頭部に目のあるトンボに鉢巻をすれば目が見えなくなることから、この先どうなるか予測がつかない意)
 ・蜻蛉も種から・
(物事が起こるのはすべて、その理由やきっかけがあるものだという意)
 ・極楽蜻蛉・ 
(のんき者)
 ・蜻蛉返り、蜻蛉を切る・
(宙返り)
 ・蜻蛉に持つ・
(棒の前端に横木をそえ、その両端と後棒を三人でかついで運ぶこと)
                             (明日に続く。)

赤トンボ(アキアカネ)を探して / 日本人はトンボをどのように見てきたか(9)

2008-11-11 05:47:01 | Weblog
 (今日の写真は「秋を彩る枯れ尾花」である。昨日岩木川の土手の上から写した一群れである。南西から射し込む日差しを受けて「暖かそうに」輝いていた。)

 「十月小春、膝小僧出っ張る」という俚諺がある。津軽弁だと「十月小春、ヒジャカブデハル」と言い慣らされている。十月とは当然陰暦の十月であり、現在だと十一月のことだ。
 その十一月にまるで小春のような暖かい日和になることがあり、それを指して言われるのである。暖かくて、それまで誰もが長めの衣類で膝を覆っていたのに「膝小僧」を出しているという訳だ。
 今朝も寒い。外気温は0.7℃だ。昨日はこれほどではなかったがやはり、5℃以下だった。しかし、日中は温度は上がった。まるで、「小春日和」となった。
 家の中にいて外の様子を窺い、昨日はまさに「十月小春、膝小僧出っ張る」というような天気だと思い、久しぶりに3時間30分ほど「加藤川」と「平川」、それに「岩木川」沿いを歩いてみた。
 そのようなお天気に誘われたこともあるが、実はアキアカネ探しに出かけたのである。
 少し歩く汗ばむほどだが、何と東からの風が冷たい。八甲田連山は北の大岳を中心に冠雪して真っ白だし、南の櫛ヶ峰も頂上からのなだらかな斜面を真っ白にしている。
 それにひき換え、西の岩木山は頂上付近を黒々とさせている。雪は消えたのだろう。風は「山背」なのだ。日差しは強い。しかし、風は冷たく「素手」だと指先がかじかむほどである。
 「失敗したかな」という呟きを何回もしながら歩き始めていた。これだと、仮にまだ、「アキアカネ」がまだ川沿いの草むらに生きていたとしても「寒くて」飛ぶことは出来ないだろう。上手く、日差しを浴びることが出来れば「飛び交う」ことも可能だろうが、この冷たさだと無理だろうなどと、思いは脳裏で渦巻く。
 加藤川沿いに、人工の「溜め池」がある。道は両側から枯れ草で覆われている。 「バリバリ、ゴソゴソ」と音を立てながら、それを踏み分けて進んでいくと、微かに飛び立つ「煌めき」があった。それは本当に「数匹」のアキアカネであった。まだ、生きていた。やはり、「アキアカネ」は水辺の「トンボ」なのだ。

■ 日本人はトンボをどのように見てきたか・日本人とトンボの付き合い方(7)■

      11. 赤とんぼの歌の普遍性(その3)
(承前)

 ある大学教授の報告に次のようなことがある。

 …「留学生を相手に話題として虫を取り上げたところ、中国や韓国からの留学生は活発に発言し、虫取りの思い出などを語ったが、アメリカやヨーロッパからの留学生は怪冴な顔をしていただけであった」…。

 「虫愛ずる姫君」以来、日本人の虫好きは世界的に有名であるらしいが、日本だけではなく、少なくとも東アジアには虫好き文化というようなものが存在するかもしれない。
 西洋では775年に、当時のフランク王国のカール大帝によってキリスト教以前の信仰が禁じられ、古い信仰はすべて悪魔に結びつけられる。魔女狩りの始まりだ。
 その結果、女神「フレイヤ」も悪魔とされ、フレイヤの日(金曜日)は不吉な日となり、「トンボ」も不幸を招く虫になってしまったという。

 『日本書紀』に、「国の状を廻らし望みて日はく」「蜻蛉の愕貼の如くにあるかな」と天皇がおっしゃられて、「始めて秋津洲の彼有り」と記述のあることは周知のところである。
 また、同書の雄略四年にも天皇を虻が襲うと「蜻蛉、忽然に飛び来て、虻を噛ひて将て去ぬ」したため、アキヅシマヤマトと命名されたとある。
 この故事からすると、天皇家にトンボは慕われる存在であってもよい筈である。だが明治天皇にはトンボの御製歌はなく、大正天皇にも見当たらない。昭和天皇にも「トンボ詠」はない。今上天皇にもない。ただ、二人の皇后は詠んでいた。

 昭和46年、香淳皇后の歌に「赤蜻蛉」の詞書で…
「あきあかねみやまあかねも高原の空をおほひてとびかはしつつ」がるし、また、美智子皇后には皇太子妃時代の昭和62年に「蜻蛉」の詞書で…
「水の辺の朝の草の光るうへ質斗目とんぼは羽化せしばかり」がある。

 近代以降、歴代天皇、皇后の御集に公表された短歌5176首のうち「トンボ」の歌が2首というのは淋しい気がしないでもない。僅か2首の歌にしても、たまたま目に触れた嘱目の詠であり、近世武家社会で「勝虫」の異名をとり、武人に好まれてきた「トンボ」であるからには、これは近代天皇家における「トンボ」ヘの正当な処遇にちがいない。
 一般民衆の心情には、「トンボ」は多種多様に、活き活きと映像を結んでいる。「泉鏡花」の「輸出用のハンケチに赤蜻蛉のつがいを刺繍」するという象徴的な用い方は圧巻である。
 また、欧米文化と日本文化との狭間に身をおき正負両面から自らを凝視する「大庭みな子」や無政府主義に傾倒した「小野十三郎」の作品にも、トンボは象徴的かつ効果的に描写されている。

 西欧人には「悪魔のかがり針」などと称され忌み嫌われている「トンボ」を、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は「超自然的存在」と神聖視し、注意深く見つめていた。
 「トンボ」の霊的な象徴性は、空前の人気を博したアニメーション映画『もののけ姫』では依然としてトンボは重要な役をにない活躍している。
 テーマ主義から解き放され、潜在意識を含めて「自己」が見詰め直された時、「トンボ」は悠々と日本人の胸中に飛来しなおすのかもしれない。(明日に続く。)

赤トンボ(アキアカネとナツアカネ)を思う / 日本人はトンボをどのように見てきたか(8)

2008-11-10 05:43:24 | Weblog
(今日の写真はトンボ科アカトンボ亜科の「ナツアカネ(夏茜)」である。大きさは4cm前後だろうか。夏の7月に羽化して、普通は10月下旬ぐらいまでは見ることが出来る。北海道から本州、四国、九州にかけて生息している。この写真は私が写したものではない。私はこのように上手くは写せない。それにしてもいい写真だ。
これはWEB[昆虫エクスプローラ]から借用したものだ。
 「アキアカネ」に似ているが、やや小さい。成熟したオスは顔から尾の先まで、この写真のように「全身が真っ赤」になる。名前の由来も、この色具合からのものであろう。平地や丘陵地の池、それに水田などで普通に見られる。しかし、アキアカネほど多くない。
 このように、「アキアカネ」に良く似た「ナツアカネ」は同じように「2匹がつながったまま」で産卵するが、「ナツアカネ」の場合は、尻尾を水面などに叩きつけることはない。何と、空中で連結した状態で上下動をしながら、「卵」を空中からばら蒔くのだ。
 稲刈り前の、稲穂が実った時期の田んぼに、卵を「空中散布」するのである。

 アキアカネは「水辺の水面」に直接産卵するので、産卵場所に学校のプールなどがなる場合がある。学校のプールは冬の間、水が溜められているので、干上がる心配はない。だが、ヤゴが成長し、あと少しで親になるという時期に、「プール開き」に向けて「プールの整備や清掃」が行われるので、せっかく育っていたヤゴはゴミと一緒に洗い流されてしまうのである。
 この地域のプールを持つ学校では、どのように対処しているのであろうか。それとも、ここ数年は「プールに産卵するアキアカネ」が減ってしまい、「対処する必要」もなくなっているのだろうか。)

 ■ 日本人はトンボをどのように見てきたか・日本人とトンボの付き合い方(6)■
      11. 赤とんぼの歌の普遍性(その2)
(承前)

 感動は、この近景と遠景をつなぎ止める接着剤であり、ある種の感動や酩酊、エクスタシーの中で、つまり、個として、観察者としての自分の存在を消した上で(要するに「忘我の境」ということか)、遠景と近景とが一体化し、それが忘れがたい風景として体に刻み込まれる(結晶化する)のだという。津軽では当然、遠景や背景にはかならず「岩木山」がある。「景」としての岩木山は、まさに感動の中心に位置しているのである。

 水田を利用することでもたらされた「アキアカネの普遍性」が、「豊穣のシンボル」である「アキアカネの普遍性」が、実はこの歌を支え、多くの人に共感をもたらしていると考えられるのだ。それは「アキアカネ」を作り出した稲作風景の普遍性といっても良い。

 一方、日本人の根底には「古神道的自然観」がある。「混沌の中から天と地が別れ三柱の神が生まれた」(古事記)のである。その後も「カミ(神」)は次々に生み出され、森羅万象の中にあふれていく。
 「ヒト」と自然の不断の関わりの中から、「カミ」や自然観は形成され、その「カミ」に対する見方や自然観から「ヒトや自然」が見直され、「カミや自然観」も見直されていく。
 そのような「関係の総体としての風景」の中で私たちは生きているということを認識することがまず必要であろう。

 時代を超えて受け継がれてきた日本人における「虫と共感する感性」に注目し、それが芽生えるのは、子どもの頃に自然の中で、虫と遊んでいる時であり、また、その「感性」を得るチャンスは、その時しかないといっていい。
 自己を形成する空間としての「原風景」は重要である。日本人にとって、その「原風景」の主役は「トンボ」であり、「トンボ」を通じて「虫と共感する感性」が育まれてきたと言っても言いすぎではないだろう。

 子供時代を「トンボ」と過ごした大人達にとっても、日々の暮らしの一喜一憂の中に「トンボ」は近景として、また遠景として飛びかっていた。
 「虫と共感する感性」は虫を美しいと思う感性でもある。子供時代に培われた感性は、山の麓を背景に羽をひらめかせながら飛び交う「トンボ」を美しいと見たはずであり、安らぎを感じたはずである。
 そして、人は束の間アニミズムの世界に浸り、ささやかなカミを感じたに違いない。
 秋になれば決まって「アカトンボ(アキアカネ)」が飛び交う。その不変の風景こそ、安心感をもたらすものであろう。
 取り立てて珍しい風景ではなく、見慣れた何気ない日常的な風景こそ、いつか人が回帰してゆく風景であり、心の支えとなりうる。
 それは、国家体制がどのように変わろうとも、不変の風景である。大正期に作られた「赤とんぼ」の歌のもつ意味は、このような構図の中ではじめて理解される。

 このようなトンボの見方はひとり日本人だけのものであろうか。田を作り稲を育てる農民の視線の先をたどると、そこには「トンボ」がいるという構図は海を隔てても同じはずである。
 それゆえに、少なくとも「稲作農民の心意」において、「トンボ」は国を超えて時代を超えて、よく似た役割を果たしていたのではないだろうか。
 朝鮮半島における方言や比較的新しい文学資料などからは、「トンボ」に対して日本とかなり共通した親近感がうかがえるそうだ。
 中国でも、それは同様であり、こと「トンボ捕り」などの遊び方から見ると日本、中国大陸そして台湾と子供達の「トンボ」に対する受止め方に共通点は非常に多いのだそうだ。(明日に続く。)

赤トンボ(アキアカネ)を思う / 日本人はトンボをどのように見てきたか(7)

2008-11-09 05:47:28 | Weblog
 (今日の写真もアキアカネの産卵風景である。刈り取りが終わった稲田の水溜まりにせっせと卵を産み落としている。この場所も、晴天の日が続き、用水堰が閉じられてしまうと、やがて「干上がって」しまうのである。そして、寒い冬、積雪に閉じられてしまうのである。
 水中に産み落とされた「卵」は、水が枯れてどうなってしまうのだろう。死滅してしまうのだろうか。それだと、あまりにも悲しい。
 私は、この「アキアカネの行為と結末」が不思議でならないのだ。そこで今日は「アキアカネの産卵」について先ず書きたいと思うのだ。
 なお、今日の写真は、Web小諸日記2007年10月31日「アキアカネの産卵」から借用したものである。)

         ●●アキアカネの産卵とその不思議●●

 オスは交尾相手のメスを探し、メスを見つけると「尾つながり」となって飛びながら産卵場所を探す。その場所を探しながら交尾をすませ、適当な産卵場所にたどり着くと、オスとメスがつながったまま産卵を始める。
 「アキアカネ」が好む産卵場所は、「泥がむき出しになったごく浅い水辺」であることが多い。
 雨の後のグランドや舗装していない道にできた小さな水溜まり、池の水際、稲刈り後の田んぼで水が溜まった窪みなどが産卵場所となる。これが私にあの「産み落とされた卵は水が干涸らびた後どうなるのだろうという不思議」を与えたのだ。
 連結した「オスとメス」はリズムを取りながら上下動を繰り返し、「メス」は尻尾の先を「水面や泥」に叩きつける。こうして、卵を産みつけるのだ。
 卵を産み終えた「アキアカネ」はやがて力つきて死んでしまう。例年ならば11月半ばにはまったくその姿を見せなくなるのだが、今年は何だかそれよりもずっと早い時季に、見えなくなったような気がする。
 卵を産み落とすことが出来たアキアカネは幸運なものだ。「産卵を終え」て死んでいく前に、野鳥、カマキリ、蜘蛛などに捕食されたり、自動車などの「動体」と衝突するという「人為的」な事故で死んでしまうものは非常に多いのである。

 秋に産みつけられた「卵」は、そのまま越冬し、春になると「卵」から「ヤゴ」がかえる。しかし、晴天が続くと直ぐに干上がってしまうグランドや道に出来た水溜まりに「産みつけられた」卵は、そこが春になって水が溜まらないような場所であると、死んでしまうのである。
 だが、「卵」は乾燥に強いため、田んぼのように冬のあいだは干上がってしまっても、春になると水が入り、初夏まで水が蓄えられている場所では、ヤゴが育つことが出来るのである。
 「卵」からかえったヤゴはミジンコなどの微少な生物を、大きくなるとボーフラやユスリカの幼虫などを捕まえて食べて育つと言われている。2ヶ月ほどで大きくなり、朝早く、水中から出てきて草などにつかまって脱皮をするのだ。

■ 日本人はトンボをどのように見てきたか・日本人とトンボの付き合い方(5)■
(承前)
         11. 赤とんぼの歌の普遍性

「風景としての赤とんぼ」 

 夕焼小焼の、赤とんぼ 負われて見たのは、いつの日か

 山の畑の、桑(くわ)の実を 小籠(こかご)に摘んだは、まぼろしか

 十五で姐(ねえ)やは、嫁に行き お里のたよりも、絶えはてた

 夕焼小焼の、赤とんぼ とまっているよ、竿(さお)の先

 以上が三木露風作詞、山田耕筰作曲の童謡「赤とんぼ」の歌詞である。これを少し分析してみたい。

 「赤とんぼ」は「祖先の霊の化身」だと信じられている。「夕やけ」が醸し出すさびしい気持ち、西方浄土があるといわれる夕焼けの「西の空」などと関連づけて考えると、これだけで私たち日本人は、茫々としたはてしない気分にひきこまれていってしまい、さらに「負われて見たのは/いつの日か」と幼児時代の「いつの日か」わからないところにまで、気持ちが引き戻されてしまうのではないだろうか。
 「まぼろしか」と歌うことで、「かけがえのないはずの思い出さえも、真実であったか幻想であったかわからないものになる」のであろう。
 十五(歳)で姐やが嫁にやらされる封建制を指摘しながら、結局その目が「赤とんぼ」に戻ってしまうのは、自然を生命あるものと信じる日本人の伝統的な自然観によるものだろう。
 この独特な「自然観」闘うべき時にも闘わず諦めてしまう日本文化の典型だとする人もいるのだそうだ。

 あるアンケートで「赤とんぼ」の歌のどういう点が日本人を惹きつけると思うかと質問をしたそうだ。
 大半の人がこの歌の魅力として「風景(光景、情景も含む)を思い描くことが出来ること」だと答えたそうである。
 その風景とは懐かしく感じる過去(少年時代)のもの、すなわち故郷の風景といえるものであるようだ。
 それはまさに「原風景」に他ならない。原風景を懐かしく思い出させ、人々にゆったりとした安らぎをこの歌は与えるのである。しかも、「故郷を持たない都会人」にも故郷のイメージを思い描かせる力がこの歌にはあるらしい。

 「虫と共感する感性」が芽生えるのは、子どもの頃に自然の中で虫と遊んでいる時であり、また、その感性を得るチャンスは、その時しかないかも知れない。
 その感性とはおそらく脳の無意識に機能している部分を中心に形成されるのであり、そして、当然その「感性」は虫に対するものに限られるわけではなく、様々な経験的な要素が折り重なって、いわば「原風景」という感性の核のようなものになるのではないだろうか。

 「原風景」には欠かせない3つの要素がある。それは「遠景」と「近景」、そして「感動」である。
 「近景」とは生活の場の周囲に生起する「生きものと自然」のドラマである。子供の遊び、木立、小川、草原、トンボ、セミなどなどである。
 「遠景」とは空、朝夕の茜色に染まった空。特有の色をした海、波、夜の闇、深緑の森。青くかすむ連山。遠景ないしは「背景」である。「遠景」の向こうにはあの世が、天国があるのだろう。(明日に続く。)

赤トンボ(アキアカネ)を思う / 日本人はトンボをどのように見てきたか(6)

2008-11-08 05:31:39 | Weblog
(今日の写真はオス、メス連結して、下方のメスが水中に産卵している様子だ。今年はこのような「仲睦まじいアキアカネ」を見なかったような気がする。やはり、アキアカネは減っている。激減である。
 温暖化説、病気説、圃場「ほじょう」整備の進行による水田の乾燥化説などなど、その理由や原因は想像として、いくらでも広がるが、私のようなド素人にはその原因はさっぱりわからない。)

■ 日本人はトンボをどのように見てきたか・日本人とトンボの付き合い方(6)■

(承前)
      9.トンボ釣り・トンボは子供の遊び相手だった

 「朝顔やつるべとられてもらい水」の句で有名な加賀の千代女の句に、「トンボ釣り今日はどこまでいったやら」という句がある。
 「トンボ」が子供たちの格好の遊び相手であることは、今も昔も変わらない。しかし、子供たちのトンボ捕りにかける情熱は、今とは雲泥の差があったようで、現在ではまず聞くことの出来ない「トンボ捕り」の囃し歌が数多く残されている。
 「ホタル」やほかの虫のそれが単調であるのに対し「トンボ」は、呼ばれ方や遊ばれ方において抜群の幅を保持しており、雌雄や生態の観察、それを歌い込んでいく際のストーリー性の豊かさは他の追随を許さない。
 古代以来から「トンボ」という対象への親近感が認められる。そして、「トンボ」に対し子供たちは、騙したり驚かしたり煽りたてたり揶揄したり、あらゆる文言を並べ立てる。
 「トンボ」と悪童連との密接な関わりは、知恵に満ち満ちており、当時の子供たちの観察力や言語表現が如何に豊かであったかをも垣間見ることが出来るのだ。
 名付けの名人でもある子どもたちの作品の数々は、今でも方言として日本各地に残されている。

 数多い「トンボ」の中でも、手の届かぬ池の真ん中や空高く飛ぶ「ギンヤンマ」は、子供たちにとって、特に男の子達にとって格別の憧れを抱かせる「トンボ」であっただろう。この傾向は現代にあっても変わっていないと思う。
 子供たちの観察眼や知恵は、その「ギンヤンマ」を捕獲するために高度な「技」を産み出している。
 一つにはギンヤンマの雄を、ひもで結わえた「雌を囮(おとり)」にして捕まえるという方法である。
 もう一つ、もっと手の込んだものもある。細い糸の両端におもりとなる小石を結わえ、高く飛んでいるトンボに向かって投げつけ、餌と間違えて飛びついたトンボを絡め落とすという「高度な技」である。
 「ぶり」とか「とりこ」と呼ばれるこの「技」の起源は古いらしく、江戸時代にその様子を描いた図が残されているとも言われている。
 「藁(わら)しべ長者」の話しは、藁に結わえた「アブ」から始まるが、「トンボ」から始まるバージョンもあるのだそうだ。
 この他にも、「トンボ」との遊びは数多くあったに違いなく、テレビゲームが子供の世界を席巻するごく最近まで連綿と続いていた。
 さらに言えば、その子供の世界のトンボと大人の世界のトンボを結びつける形で、「トンボを捕ることへの戒め」も全国的に広く伝承されてきたのである。

   10.「夕焼け小焼けの赤とんぼ」・これは「日本人の原風景」だ

 あるアンケートの結果による「トンボ」のイメージは、「大きな眼、メガネ、夕焼け・夕暮れ、秋、空、夏休み・少年時代、故郷」であったそうだ。
 ここに取り出したキーワードだけを見ても、ある一つのイメージが浮かび上がってくる。
 それは、「ふるさとや子供時代」への「郷愁」であり、「自己を形成した空間」としての「原風景」のイメージである。
 もちろん、現代人が持つ「トンボ」に対するこのようなイメージの形成に当たっては、三木露風作詞、山田耕筰作曲の童謡「赤とんぼ」の存在が大きいであろう。
 今でも日本人の最も好きな歌とされるこの歌が作り上げた風景は、実際の体験を超えて、普遍的なものとして、私たちの心を支配しているのかも知れない。
 その風景とは、つまり「水田のある農村の風景」である。水稲栽培は大量の水を必要とする。それゆえ「水を確保する工夫」が古くから試みられてきた。水を確保するための「裏山」、「ため池」、そこから「水を引く用水路(小川)」、また、河川に設けられた「堰」などと、新たな水系が次々と作られてきた。
 これがが日本の農業の歴史であり、農村風景とは「水辺の風景」だといっても過言ではない。
 そして、こうして新しく作り出された水系は、「トンボ」にとっても、また格好の生息場所を提供し、多様なトンボ相が保存されてきたと考えられるのだ。
 しかも、その水系は人里近くに作られ、たとえば潅漑用水は生活用水としても人家の庭先を流れるなど、水系の中に家々があるという状態を作り出している。
 それゆえ、その水系にすみついた「トンボ」は人々の暮らしと共にあり、しかも、「昼行性」で、虫の中では休が大きくて目立ち、その羽が透明であることなどから、「トンボ」は愛される「身近かな」生き物となったのである。
 そして、この「身近か」であることが、「トンボ」が特別な虫となるにあたってきわめて重要なことであった。
 水田を利用することで数を増やした「アキアカネ」は村々にあふれ、羽を煌めかせて、微かに飛び交い、生け垣の竹竿の先や電線で羽根を休め、白壁や干した布団に、時には肩や背中に止まることで確実に「私たちの心に住み着いた」のである。

 それは、単なる子どもの遊び相手であるだけではなく、「大人」にとっても心安らぐ存在であり、それゆえに「一つの風景」となったのである。
 童謡「赤とんぼ」は、そのような「意識下の風景」を気づかせてくれた歌なのではないだろうか。
 私たちにとってそれは、原風景としての「ふるさと」の発見であったのだと言えるだろう。(明日に続く。)

赤トンボ(アキアカネ)を思う / 日本人はトンボをどのように見てきたか(5)

2008-11-07 05:18:29 | Weblog
(今日の写真は「コメツガ(マツ科ツガ属の常緑針葉樹)」に止まるアキアカネだ。葉っぱが米粒のように小さいので「米栂」というのだ。
 時季は真夏、7月中旬だ。その日は赤倉登山道を登っていた。暑い日だった。伯母石を過ぎた辺りの岩稜帯からコメツガは出て来るが、直近で見られるようになるのは「鬼の土俵」を過ぎてからのほぼ直線状の登山道である。この辺りになると、まさにコメツガの「トンネル」となる。その辺りで出会ったものだ。もうすでにアキアカネはこの高さまで登ってきていた。)

 以前、この「トンネル」はコメツガ自体が陽光を遮るほど密生していて、内部は薄暗かったが、現在はかなり、「透け透け」である。赤倉講の一信者の「不法整備」のためにかなり伐られてしまったからである。
 この「不法整備」を始めた時から、その過剰で、しかも自然にまったく配慮をしない「仕方」に対して注意し、整備の適正な程合いなどについて、助言をしたが「神のお告げ」という一言を楯にその信者は、耳を傾けようとはしなかった。
 私は国定公園を管理する県自然保護課、「里道」としてこの登山道を管轄している当時の岩木町、それに「コメツガ」伐採ということから森林を管理している林野庁津軽森林管理署に「不法整備」の実態を報告した。
 だが、いずれの行政も「腰」は重かった。実際「不法整備」の実態の調査に入ったのは私が通告してから6年後のことだった。その間何回も私はその信者に「整備の中止」をお願いした。しかし、その信者はそれを無視して整備を続けた。
 整備中止という「行政指導」があった時には、すでに「整備」は「完了」に近い状態になっていた。
 今日のアキアカネはメスだろう。コメツガの柔らかく若い葉はその感触が優しい。その優しさをまるで独占しているようなアキアカネ。登ってきた疲れをとるための「一休み」ということだろうか。
 このような穏やかな生き物のいる情景を見ながらも、私はこのコメツガ林を登る時、いつも悔しい思いに捕縛されてしまう。それは「不法整備」であり、その「不法整備」を「止められなかった」ということなのである。

■ 日本人はトンボをどのように見てきたか・日本人とトンボの付き合い方(5)■

    7.「秋の季は赤とんぼに定まりぬ」それは季節のシンボル(その2)

(承前)
 「秋の季は赤とんぼに定まりぬ(白雄)」という句にあるように、「トンボ」と秋の結びつきは、赤トンボ(アキアカネ)の存在による。
 日本に百八十種余りいるトンボのほとんどは秋に飛ぶことはなく、春から夏の虫である。それにもかかわらず、イメージ的に「トンボ」が秋という季節に結びついたのは、赤トンボ、とりわけ「アキアカネ」に由来することは明らかだろう。

 しかし、「トンボ」のあの直線的でさわやかなイメージは、とくに「カワトンボ(川トンボ)のイメージは、清流と結びつき、夏の季語としても登場するし、扇子や団扇のデザインにも使われる。
 浴衣の柄に花や蝶と共に「トンボ」も多用されるが、このことなどからも「トンボ」は人々の身近な「生き物」であったことがよく分かる。また、「トンボ」は大人びた印象を与える虫であるとする人もいる。
 もちろん、浴衣の図柄に使われるのは、「勝ち虫」すなわち「幸運の虫」としての意味合いも合まれているには違いない。
 さらに言えば、正月の遊びである「はねつき(羽根突き)」の羽根が「蚊を食うトンボを擬したもの」であるという言い伝えもある。その季節柄、「蚊除け」としての意味合いもまた込められているのかも知れない。

     8.「トンボ」は精霊‐霊的な存在である

 「トンボ」をモチーフにした昔話に「だんぶり長者」がある。働き昔の貧しい夫婦が居眠りをしている時に、尻尾に酒をつけた「だんぶり(トンボ)」が飛んできて、寝ている夫婦の口に止まる。その美味しさに目を覚ました二人がだんぶりの後を追って酒泉を見つけ、長者になるという筋書きである。
 言うまでもなく、「だんぶり」は東北地方での「トンボ」の方言であり、東北地方に広く伝承されている昔話のようである。
 おそらく、「トンボ」が腹部を水面に打ち付けて、産卵する様子にヒントを得てこのような昔話が出来上がったのであろうが、その背景には、「霊的」な存在としての「トンボ」の超能力を信じる部分もあったのかも知れない。
 柳田国男が紹介した「奥州南部の田山のダンブリ長者」の話では、この「だんぶり」は眠っていた夫の体から抜け出した魂となっている。
 もっとも、透明な羽を持った「トンボ」の中で唯一黒い羽を持ち、飛び方もひらひらとした「ハグロトンボ」は、神社や寺など薄暗いところを好むこともあって「カミサマトンボ」の呼称のほかに、「ホトケトンボ」、「ユウレイトンボ」などの呼称もあり、むしろチョウのイメージとよく似ている。
 これはトンボについても当てはまるかも知れない。
 死者の霊魂に対し、人々は二通りの受け取り方をする。無気昧さや不吉さを感じる一方で、祖霊として自分たちを守ってくれるもの、敬うものという受け取り方である。
 このような違いは、おそらく御霊(ごりょう=怨霊)信仰に由来する霊魂の二面性をそのまま反映したものと思われるが、同じ霊魂を運ぶとしてもチョウは御霊を、「トンボ」は精霊を運ぶという違いがあるようにも思われる。
 盆の頃の「トンボ」は先祖の霊(精霊)を運んでいるから捕ってはいけないという「禁忌伝承」が西日本を中心に今でも残っており、それに関連した「ショウリョウトンボ(精霊とんぼ)」とその変形した方言も存在する。
 もちろん、盆の頃は一般に殺生を忌む傾向がある。精霊トンボの場合は、旧盆の八月中旬頃に数が多くなる「ウスバキトンボ」に由来する。(明日に続く。)

赤トンボ(アキアカネ)を思う / 日本人はトンボをどのように見てきたか(4)

2008-11-06 05:48:17 | Weblog
(今日の写真もまたアキアカネである。これはオスだろうか。このくらい接近して写すことが出来るということはこのアキアカネが逃げないからだ。何故逃げないのか、それは恐らく「暖を取っている最中で、瞬時に飛び立って逃げるためのエネルギー」がまだ蓄えられていないからだろう。秋が深まり、気温が下がってくると、よく日溜まりで、じっとして「動かない」アキアカネに出会うことがある。体を温めて18℃ぐらいにしないと、多くの昆虫は活動出来ないのだ。)

 秋になると何故、アキアカネは里に降りて来るのだろう。それは「子孫」を残すためである。オス・メス連翔を続けて「水辺」に卵を産むために里に降りて来るのである。
 「水辺」に卵を産むと書いたが、その水辺の中には「水溜まり」も含まれるということに気づかせられた経験がある。そのことについて書いてみよう。
 私が勤務していた学校の校地の大半は小高い丘になっていた所である。だから元々「平坦な土地」ではなかった。
 だが、学校とは機能として、どうしてもグランド(古くは校庭と呼ばれ、今では競技場と呼ばれている。)を必要とする。だから、まず何をおいても平坦な土地であることが絶対条件なのだ。
 校地としてそのまま使えない地形は、大きな三つの階段の踊り場状に整地されていた。丘を削ってそうしたものだ。一つ目の一番高い階段が野球場、二つ目が競技場で、三つめの一番低い階段上に校舎がある。
 丘の表皮を削いで三面の土地を作ることは、烏賊(いか)の皮を削いで刺身をつくるほどに簡単ではない。表皮(表土)と言ったところで、それが数メートルの厚さとなれば、大工事の自然破壊だ。
 表土を剥いだ。粘土の地面が出来た。この粘土の層は「大和沢粘土層」といって、吸水性は限りなくゼロに近い。地面は、そのままでは競技場になり得ない。
 そこで、表面上は、粘土の表皮を別な物質で覆う厚化粧と、「水捌け」と称した表皮下の工事が行われる。だが、結果は明々白々だ。
 流れて行こうとする雨水は塞き止められ、「粘土層」のため、地下へ潜ることも出来ない。そして、一日雨が降ると三日は使えないという立派な競技場となった。
 トラックもフィルドも水、水、水。氾濫という言葉さながらである。生徒たちはそれを称して「X高沼」「X高湿原」と呼んでいた。
 晴天になると「乾燥」によって水かさは下がるが、あちこちに小さな池塘が出来るのだ。「アキアカネ」が、このグランド上空に多いのは、そこがまさに「水辺」だったからである。
 そして、2匹連翔のアキアカネはその「グランドの水溜まり」にも産卵するのである。ところが、その水溜まりは晴天の日が続くと、「干上がって」しまうのであった。水中に産み落とされた「卵」は、水が枯れてどうなってしまうのだろう。「卵」からかえって幼虫「ヤゴ」として生育する過程では、明らかに「水生昆虫」なのである。
 その「ヤゴ」が水のない「土中」でどのようにして生き抜いていくのだろうか、それとも死滅してしまうのだろうか。それだと、あまりにも悲しい。私には今でも、このアキアカネの行為と結末が不思議でならないのだ。

■ 日本人はトンボをどのように見てきたか・日本人とトンボの付き合い方(4)■

       6.明治期の秋津・日本人の象徴・昭和期

 維新後の日本の近代化は欧米化に他ならず、鹿嗚館に象徴される欧化思想がはびこることになる。それは当然、日本の伝統的な規範や文化の軽視につながるものであった。だが、一方では、天皇を中心とした「国家・社会体制」の再興でもあったのだ。
 そして、明治20年代以降には、またしても「トンボの登場」であった。それはまさに「日本」あるいは「日本人」の象徴としてであった。
 「勝ち虫」の武家社会から再び天皇の統治する国家へと戻った時、トンボはアキツとして再び蘇ったのである。
 「秋津島」は「王政復古の過程」で喧伝され、一般にも広く流布していったものと推察される。
 そのような意味では、「アキツ」は「日本人」の象徴ではなく、「天皇制国家の象徴」と言うべきかも知れない。
 だが、横尾文子によれば、肝心の天皇の詠む歌にトンボは一度も出てこないというのだ。

 明治期以降の「アキツ」の役割はさまざまなものに見て取ることが出来る。
たとえば、関東大震災の折りに緊急に発行された二種類の震災切手の図案が、いずれもトンボであったこともその一つである。
 これもたまたまトンボが選ばれたと言うよりは、国家存亡の危機だからこそ「アキツ」が選ばれたと見るべきであろう。
 「アキツシマ」は国粋的な風潮の中で、自然の秀麗な国の表現として教えられた。だが次第に大きな戦争の中で「アキツシマ」は枕詞として、大和の国を修飾するだけの言葉になってしまった。
 以上は、いわば知識人や支配階級によって培われた観念的自然観に基づく「トンボの見方」と言える。
 そのような「トンボ」の見方とは別に、直接「トンボ」と触れ合ってきた一般庶民(農民)の間には、いわば「体感的自然観」とでもいうべき見方が存在したのではないだろうか。その流れを次に見ていこう。

      7.「秋の季は赤とんぼに定まりぬ」それは季節のシンボル(その1)

 農耕を営む者にとって、もっとも関心の高い事象は季節の推移ではなかろうか。平安時代に作られたとされる国宝「自然粕秋草文人壷」には「ススキ」とおぼしい秋の草とともに、「トンボ」の絵が刻まれている。
 このことは、この時代すでに、秋という季節の象徴として「トンボ」が意識されていたことを示すものであるだろう。
 また、花鳥風月の和歌の中で詠まれずとも庶民にとっては、季節の中の虫として意識されていたことを明白に示すものであろう。
 秋という季節のシンボルとしての「トンボ」は、今に至るまで連綿と続いている。(明日に続く。)

赤トンボ(アキアカネ)を思う / 日本人はトンボをどのように見てきたか(3)

2008-11-05 05:38:07 | Weblog
 (今日の写真は「枯れかけている茎頂」に止まっているアキアカネだ。羽が透明で、これが「カギロヒ」の煌めきであり、「カゲロウ」と呼ばれた所以である。何とも美しくもあり、全体として愛らしい。これは、メスだろうか。)

 アキアカネが夏を「高い山」で暮らすのは、「避暑である」というのが定説になっているようだ。しかし、その真偽はよく分からないというのもまた「定説」なのだそうだ。今日の写真のアキアカネに向かって「本当のところはどうなんだね」と訊いてみたいものだ。
 夏休みが終わり、9月に入り「秋の運動会」の頃になると、アキアカネはどんどん山から里へと降りて来る。この頃には「大集団」になることもあるそうである。

 ところで、私に「天空を飛翔する」アキアカネに対して、拘(こだわ)りを持たせる原因となった在職中のある運動会での経験に触れてみよう。
 その日、私の役目は、用具係であった。幸福にも晴天が続いて三日目のその日である。晴れわたり、天高くの秋空だ。その上、風もない。まさに運動会のために選ばれたような日であった。
 プログラムも進み、「パン食い競争」の準備にとりかかる。パンを8個、ロープに吊して、その高さを調整するために、食いつく試技をしてみた。パンが目に飛び込み食いついたものの、私の視線は広がる上空に留まってしまったのだ。
 天空という高みと広さの中に、無数のアキアカネ。一匹で飛んでいるもの、二匹くっついて飛んでいるもの、就中、この二匹連翔が多い。おだやかである。
 ポプラの葉さえも動きがなく、けっこう強い陽射しを受けながらも、その葉にはきらめきがない。
 変温動物のとんぼたちはその陽射しを浴びて、十分に体温を上げて、筋肉運動を軽やかにしているようだ。
 アキアカネの群れは層をなしている。彼等は空一面の平面を完全に掌握していた。それなのにニアミスを起こさないように、それぞれが、上下に、水平に距離を保っている。見事なものだ。しかも二匹連翔とその群れたち。

 飛行機には、操縦士・機関士、地上の管制官、その他、レーダーや無線電話など、多数の人的な、機能的な役組みが関わっている。そのような多くの人的な機能が総合的にかみ合うことでシステム機能として初めて「動き飛行」が出来るのである。しかし、それでも、時にはニアミスやら空中衝突やら墜落がある。そして、人命を奪ってしまうのだ。
 空を飛ぶという人間の科学なぞ、とんぼに比べたら、そのスマートさの点では話にならないし、なんと小回りの利かない上に、野暮でださいものであろう。

 顎を上げたまま、そんな思いを巡らして、ようやく自分の仕事に戻り、食いついたパンを外した。人間の眼とは不自由なものだ。私の姿を水平視点に認めたパン食い競争の準備をしていた生徒は何人かいた。そして、「先生、ごくろうさん」と声をかけてはくれたが、私の真似をして、天空を仰ぐ者はいなかった。
 さらに、その競技が始まってしまうと、生徒の、そのレースヘの夢中は、ますます彼等の近視と「視野狭窄」を助長した。もはや、上空に層を成すアキアカネの群れに気づく者は誰もいない。

■ 日本人はトンボをどのように見てきたか・日本人とトンボの付き合い方(3)■

     4.トンバウの時代
 
 室町中期の国語辞書『下学集』(1444年)は、「蜻艇」の字を充て「トンバウ」と読ませ、「青色で姿が大きいもの」の日本名は「秋津」としている。ここに「トンバウ」の名称が新たに見えてきたことになる。
 江戸時代、貝原益軒の『日本釈名』(1899年)には、「蜻蛉」に「カゲロウ」と振仮名をし、「かける也、飛かける虫也、蜻艇は飛羽也」と記している。
 「トブハ」が訛り、トンバウと呼称されたのであろう。
 寺高良安の図説百科事典『和漢三才図会』(1741年)には、「蜻蛉」に「やんま」「とんばう」と振仮名をし、「ヤンマは総名也」としている。
 新井白石の語学書コ果報』(1719年)には「蜻蛉」の字で「カゲロウ」と読ませ、詳細な記述が施されている。「今俗にトンボウといひで東国方言には今もエンバといひ又赤卒をばイナケンザなともいふ也」としている。

     5.勝ち虫・幸運のシンボル

 鎌倉以降の武士社会にあっては、トンボは「勝ち虫」「勝軍虫」と呼ばれ武運、勝利のシンボルとして武具の装飾に使われるようになる。
 かつての「NHK大河ドラマ」の「利家とまつ」では前田利家の兜の前立てに、トンボが使われていた。矢を収める「えびら」の装飾にも好んで使われたそうである。これには、トンボはまっすぐ飛び、後戻りしないからとの説もあるようだ。
 しかし、「とんぼ返り」という言葉もあるのだから、これはおかしいだろう。当てにはならない。

 「勝ち虫」は、「記紀」における雄略天皇の故事に由来するとされており、一般にもそのように伝えられているようである。だが、「狩りの時の天皇の腕を刺したアブをトンボが食うこと」だけで、どうして「勝利のシンボル」となりうるのか、私には、その論理がよく理解出来ない。
 恐らく、「勝ち虫」の由来は神功皇后の話しにあるのではなかろうか。
神功皇后が三韓征伐の際、幾万とも知れぬ美しいトンボが現れて、船のお供をしたという伝説がある。
 「源氏」の氏神となって「八幡信仰」の対象となった神功皇后にまつわるこの伝説こそが「勝ち虫」の由来に相応しいのではないかと考えている。
                             (明日に続く。)

赤トンボ(アキアカネ)を思う / 日本人はトンボをどのように見てきたか(2)

2008-11-04 05:53:57 | Weblog
 アキアカネ(赤トンボ)、成熟したオスは腹部を中心に赤くなり、メスは腹背が部分的に赤くなる程度だ。さて、今日の写真は四翅を振るわせて飛翔中のものだが、オス、メスどちらだろうか。
 体長は60~70mm、腹の長さは約24から28mm、後翅の長さは29から32mm程度だといわれている。
 「アキアカネ(秋茜)」という名前の赤トンボ、その名前から「秋のトンボ」という印象を持つが、実際、アキアカネが「ヤゴ」から羽化するのは6月末頃で、梅雨時である。他のアカネ属の赤トンボもこの時期に成虫になる。
 アキアカネは、平地や丘陵地にある「田んぼや浅い池」、河川敷などに見られる水貯まりで、また都市部では水抜きをしない貯水池や何と学校の水泳プールなどで幼虫(ヤゴ)が育つのである。
 羽化したアキアカネは全体的にオレンジ色をして、一見軟らかく弱々しい感じを与えるが、飛ぶ力は強く、曇っていて風のない日に「山」を目指して飛び立つ。
 これまで、6月から7月にかけて、無風で曇天の日に、空中を次々と一定の方向に飛ぶアキアカネの姿を何回見たことだろう。今年は、ついぞ、そのような「情景」を目にすることはなかったのである。
 梅雨があけ、真夏の太陽が照りつける頃には、アキアカネは「山」に移動してしまうのだ。アキアカネが暑い夏を過ごすのは、標高1000m以上の「高い山」なのである。

 数年前のことだ。こんなことがあった。…
 アキアカネが里に下りてきた。もう秋だ。それにしても今年は夏があったのだろうか。水稲の不稔が伝えられている。米の輸入も取り沙汰されている。農家の人は元気も出まい。悠悠自適、元気なのはアキアカネだけだ。
 数年前、私は同じようなアキアカネの群れを見た。木造町の北端にある亀ケ岡公園でのことだ。自転車で走ったその疲れをとるべく草地に寝そべって、天空をまともに見た。小一時間ほど見ていたが飽きることはなかった。私はアキアカネの翔ぶことの軽快さとスマートさ、そしてその静かさとに憧れている。
 思うと、そこにも水際があった。平滝沼やその周りの湿原である。

 「蜻蛉を踏まんぱかりに歩くなり(立子)」という俳句がある。この句は視点を低いところに、足元に置いてトンボの数の多さに驚いている。やはり、天空をのどやかに飛翔する、という視点に欠けて、スケールが小さい。
 そこで、ちょっと真似をして「天空」というイメージを加えての、私の駄作を紹介しよう。…
 「蜻蛉につつまれんほどの天女かな(章男)」
 私は天空を飛翔するトンボも大好きなのだ。

■ 日本人はトンボをどのように見てきたか・日本人とトンボの付き合い方(2)■

 2.「アキツ」から「カゲロフ」ヘ・大陸文化の影響

 「秋津島」神話を作り上げた奈良時代の頃からトンボにおける「神性」はきわめて希薄になるようだ。少なくとも文学作品においてはそうである。
 「アキツ」はかろうじて大和に掛かる枕詞「秋津島」としての用例が見られるものの、もはや「稲魂」や「稲の精」としての「アキツ」の用例は見られなくなる。そして、「蜻蛉」の訓みは「アキツ」から「カゲロフ」に変化し、その象徴性は「はかなきもの」に変化する。
 蜻蛉は「トンボ」なのか「カゲロウ」なのか。この問題は国文学などにおいては古くからの関心事であったようであり、後の時代に「カゲロウ」と考証される枕草子や源氏物語のヒヲムシ、さらには大気現象である「陽炎」や子蜘蛛が糸に乗って分散する様子を示す道糸をも交えて、これまでにも多くの議論が重ねられている。
 とはいえ、その「蜻蛉」の読みが「アキツ」から「カゲロフ」に変化し、その象徴性が「豊穣」から「はかなさ」に変化した(少なくとも新しい意味が付与された)ことはやはり重大な問題である。
 それは、そこに大陸文化の影響を見ることができるからである。つまり、当時の中国において、「トンボ」は日本のように特別な虫としての地位を与えられていなかったのではないのだろうか。
 少なくとも歴代の支配者階級にとって「トンボ」に対する関心は中国におけるのと同様に、決して高くはなかったと考えられる。支配者階級に限っていえば、奈良時代以降の「トンボ」の希薄さは大陸の影響によるとみることができる。

 3.「アキツ」から「カギロヒ」に、そして(蜻蛉羽)「トンバウ」(トンボ)

 光にひらめき、きらめく「トンボ」の羽は、まさに「カゲ」であり、飛んでいる時の見えないトンボの羽が光を受けて見えている状態である。これが「カゲの両義性」であろう。
 きらめいて見えるは光の反射であるが、その前の瞬間には光を反射しない状態がなければならない。そのような光と陰の一瞬の交錯のくり返しを「カギロヒ」と呼んだのではないだろうか。
 このように考えてみると「微かに飛びちがふ」とは、トンボが群飛する様を言うのではあろうが、群飛することそのこと自体をいうのではなく、多数のトンボが羽を「ひらめかせている様」にこそ焦点がある言葉ではないかと理解できる。
 その光の一瞬の閃きを言うのでなければ「微かに」とすることの意味がわからないし、『源氏物語』の「かげろふの物はかなげにとびちがふを」における「物はかなげに」を理解することも難しい。
 私がこれまでくり返し見てきた光景、多数の赤トンボが山の麓を背に飛びかい、あちこちで羽をきらめかせている情景・様子こそが「カギロヒ」なのではないかと思っている。広辞苑には、トンボをカゲロウと呼ぶことについて「飛ぶさまが陽炎のひらめくように見えるからいう」とある。トンボは「カゲロウのカギロヒ」なのだ。
 「カギロヒ」と言うとき、それはトンボの羽に限らず、クモの道糸、陽炎、何であっても良い。ひらめいている「サマ」はみな「カギロヒノカゲロフ」なのであろう。「カギロヒ」にはさらに空が夕映えで茜色に染まっている様を表すなど様々な用例もあるという。(明日に続く。)

赤トンボ(アキアカネ)を思う / 私の庭でもめっきりその数が減った

2008-11-03 05:41:59 | Weblog
(今日の写真もトンボ目トンボ科アカネ属の「アキアカネ」だ。「アキアカネ」は九州から北海道、朝鮮半島や中国大陸にも分布する。
 餌はハエやカ、稲の害虫のウンカやヨコバエなどの小さな虫である。この写真のアキアカネは「里に下りて来た頃」のものだろうか。)

 私はトンボは好きだ。あの軽やかな飛翔には人間の「飛行科学」を越えたものがあるように思っている。4枚の羽を自在に操って、ホバーリングしたり猛スピードで飛翔することに、まだ人間の科学技術「文明」は追いついていない。
 トンボと人間との付き合いは長い。その長い歴史から考えると、これほど時間をかけながら、いまだ、「トンボ」の飛翔技術に追いつけないでいるのだ。
 それを見透かしたかのように「トンボ」は私たちの頭上や周囲を「スイスイ」と飛翔している。人間はそれを半ばあきらめ顔で半ば羨望の眼で眺めているしかないのである。
 だから、私はトンボが好きなのだ。「思い上がった」人間を揶揄し打擲してくれるトンボ、そして、ひたすら「我が道を行くトンボ」が好きなのである。今日の写真は私が写したものではない。私が写したトンボの写真は全くないわけではないが、「いいもの」がないので、このシリーズで使わせてもらうものは大体が「借り物」である。) 

      ■ 霜月、今は「アキアカネ」の終焉の季節 ■

 先月の半ば頃まで、庭先に見られたアキアカネたちは、秋天の中での二羽連翔で、水辺に彼等の子孫を確実に残したのだろうか。
 霜月も、つごもりとなり、師走に入る。雪が降ったり、積もったりしないまでも、寒さは厳しい。その頃になると、いくら日溜りで暖をとっても、もはや彼等の筋肉は収斂(しゅうれん)して動かないのだ。
 彼等の終焉は近いのだ。竹垣の竹、その中の一本の先端に停まり、全身に霜を置いている…、いやあるとすべきか…、それは、まるで永遠の生命のように見える。
 内側から、全身に力を入れ、己の筋肉を収縮させ、自ら形作った終焉である。肉が溶け、腐液が流れ、骨が砕けるという弛緩に満ちた生々しい死ではない。

 よく晴れた朝は「放射冷却」が強い。霜はその結晶をますますはっきりさせ、その永遠の生命は「小粒のダイヤ」に包まれたトンボ型のブローチにさえ見えるのだ。
 限りない静寂に出会い、その無言の中に緊張を聞き分け、その緊張さながらの内からの収縮、それには、自然を背負い、自然に没入していく力強さがある。
 霜柱の立つ朝、草むらの先っちょや、「猫じゃらし」の穂先や、垣根のてっぺんに霜を全身に置いた「トンボ」がある。それには、生命がそのままの形で内在しているのではないか、とさえ思うのだ。

 夏、山麓の小道で、羽虫を捕食するために、軽快に、敏捷に、小回りの利く飛び方をするアキアカネ。
 秋、天空に悠々と群れをなす2匹連翔の、堂々たる、しかも子孫を残しえたアキアカネ。
 冬、霜を全身に、弛緩のない永遠の生命を内在させながら、終焉を迎えるアキアカネ。

 私には、人生をかけたところで、アキアカネに学ぶところが沢山あるような気がする。
 駄作ながら「俳句」を作ってみた。
  ・永遠(とわ)を見せ背に霜を置く蜻蛉かな
  ・背に霜し氷河の中のアキアカネ
  ・輝けり生命(いのち)の霜よアキアカネ

 私は「アキアカネ」が好きだ。私は来年の秋を望んでいる。天空の無数の生命に早く会いたい。

■ 日本人はトンボをどのように見てきたか・日本人とトンボの付き合い方(1) ■

 我が国、日本は昔、「秋津島」と呼ばれていた。ここで言う「秋津」とは「トンボ」のことだ。つまり、日本という国は「トンボ」の国なのである。
 まさに、「トンボの国」にふさわしく、日本国内には186種 の「トンボ」がいて、青森にも約「90」種もいるといわれている。

 明治期に来日した小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は『日本雑記』の中に収められた「蜻蛉」では、「トンボ」に対する日本人の見方を次のように言う。

 …幾世紀もの間、昆虫の習性をながめ暮らして、それをこのような形の詩に詠んで、そこに楽しみを見いだしていたような人びとは、必ずやわれわれ西洋人よりも、生きることの素朴な楽しさをよく心得ていた国民に相違ない。
 たしかに彼らは西欧の偉大な詩人たちがしたように、大自然の魔力をつづるということはできなかったにしても、悲しみを超えて、この世の美を感じ、好奇心に満ちた目で、幸せな子どもたちのように、自然の美しさを楽しむことができたのである。…
  ・捨苗の束に生れし蜻蛉かな (碧童)

 西欧においては、悪魔の使いとされ、嫌われる存在であったトンボが、日本人にとってはなぜ好ましく特別な存在となったのだろうか。それについては次項に言及してみよう。

 1.トンボは稲魂・豊穣のシンボルだ

 古事記や日本書紀では神武記と雄略記の中で国号「秋津島(蜻蛉洲)」命名神話の主役として「トンボ」が語られる。この「トンボ」の古名「アキツ」を冠した「秋津島」は、時代が錯綜することになるものの、すでに「記紀の国産み」神話にも登場する。明らかに古代において「トンボ」は「特別な虫」であった。
「秋津島」とは豊穣を予約する国土の霊(国魂「くにたま」)だ。さらに、「アキツ」を「洪水によって運ばれた沃土が堆積し開けた新しい土地」としたり、「トンボ」を「田の神のつかわしめ」とする見方もあったとされている。つまり、稲の害虫を捕食する「トンボ」はまさに「田の神」であり、「豊穣の神」であったのだ。

「アキヅシマ」は文字通り「アキツムシ」すなわちトンボの多い豊穣の国といった意味を持っていたに違いない。「トンボ」を「精霊=祖霊」とし「田の神」とする見方である。稲の精あるいは稲魂そのものとして田の神がおり、トンボをその顕現とみる見方があったのである。
 古代における「トンボ」を稲の害虫の天敵(捕食者)としての役割に求める意見は多い。ある学者が調べた処によると、「トンボ」は一時間に843匹の虫を食べたという。(明日に続く。)

赤トンボなぜ減少 / 私の庭でもめっきりその数が減った

2008-11-02 05:37:08 | Weblog
(今日の写真はミヤマウツボグサに止まっているアキアカネ「雌」だ。これを写したのは7月、盛夏である。場所は岩木山百沢登山道標高1000m付近である。)

 この時季はアキアカネは山で暮らしている。そして、日を追って高いところに移動していく。8月に入るとどんどん彼等は頂上や頂上付近に集まる。多い時などは、山頂で「低空飛行」をして、手をかざしたり振り回したりするとアキアカネを「打ち落とせる」ような状態になる。それほど多いのだ。
 アキアカネがやって来る前は「オニヤンマ」の集団飛翔が山頂では見ることが出来る。この数も多い。何処にこれほどのオニヤンマが隠れていたのだとただただ驚くばかりだ。
 その頃、まだ日が昇らず「放射冷却」の始まる前や「放射冷却」が終わった直後の気温低下時には、彼等は草や木々の枝に止まっていて動かない。こんな時は直近で撮影することが可能となる。

 さて、先月19日、朝日新聞の電子版に「赤トンボなぜ減少 休耕田増加・新しい農薬…指摘も」という一文が掲載されていた。その抜粋を次に掲げよう。

 『赤トンボの姿を見なくなった。そんな声が全国各地で上がっている。特に、水田地帯を中心に繁殖するアキアカネの減少が著しいようだ。稲作の変化が一因として浮上している。
 研究者らでつくる「赤とんぼネットワーク」事務局長の上田哲行・石川県立大教授は昨年、24都道府県64人の会員を対象にアキアカネの個体数に関するアンケートをした。回答した52人のうち40人が「最近、急減した」と答え、うち24人が「00年前後から減少が始まった」とした。
 佐賀市の「佐賀トンボ研究会」の中原正登・副会長も同じ意見だ。00年、同市北部の棚田で7~10月に15回の調査をし、アキアカネなど3種計1644匹を捕らえた。だが、同じ場所での今年7~9月の調査では、7回で計29匹しか捕獲できなかったという。「以前は虫取り網一振りで4、5匹は捕れた。アキアカネは学校のプールでも羽化し、繁殖力は強いはずなのに」

 減少の原因について、研究者の間では「アキアカネを育んできた水田が繁殖に適さない環境になっているからではないか」と指摘されることが多い。
 湿地を好むアキアカネが卵を産み付ける冬場に、農業機械を入れやすくするための乾田化が行われたり、休耕田の増加で荒れ地が増えたりしているのは、その一端だ。
 また、除草剤など既存の農薬には一定の耐性を示していた幼虫(ヤゴ)が、別の害虫駆除用に開発された新しい農薬の作用を受けやすいとする公的機関の報告もある。
「全国トンボ市民サミット」の細田昭博事務局長は「このままでは日本の秋の風景や文化が失われてしまう」と危機感を募らせている。』

 確かに、少ない。少なくなった。今年、アキアカネの「集団飛翔」をこれまでのような強烈な印象で見たという感覚がないのだ。山頂でも確かに少ない。登山道を歩いていても、出会える数は少ない。
 中村汀女の俳句に「とどまればあたりにふゆる蜻蛉かな」というのがある。この句意を実感するような経験を、確かに今年はしていなかった。
 9月、10月になると山のアキアカネは里に下りて来る。私の小さな庭にもアキアカネはやって来た。しかし、その数は非常に少なかった。
 大きな女郎蜘蛛の巣(網)だけが「空しく」張り巡らされて、今年は「網」にかかった「アキアカネ」を見ることがついに、一度もなかった。
 とうとう11月、霜月に入ってしまった。昨日も一匹のアキアカネも見なかった。

 例年、霜月に入るとアキアカネを見かけることは少なくなる。だが、それは、あくまでも「見かけることが少なくなる」ことであって、数が減少して、いなくなるということではない。
 このような経験があった。ある年の11月のことだ。
…私の家の東側に空き地があった。狭い土地で、一戸建の家は建ちそうにない。持ち主が花を植えて手入れしているので、私はその花を楽しませて貰っている。
 遅い秋の太陽も、8時を回ると、南に開いた逆コの字形のその空き地を照らし始める。そうなると、北と西が建物によりさえぎられ、東が数本のさわら椹(さわら)を主とする庭木によって画されているこの空き地は、暖かくなってくる。
 枯れた背高のカンナの花柱や、その大柄な葉っぱの先、今や盛りの小菊の花などが、いま少し陽炎に揺れている。
 見ると、その先ざきに、数匹のトンボが止まっている。もちろん、アキアカネだ。そして、数はとても少ない。しぱらくすると彼等の姿はそこから消えてしまった。不思議に思って、その空き地の南面の人口から覗いてみた。
 私はびっくりするような発見をした。疎(まば)らに見えたトンボたちが、陽光が直接全体に当たる西側の、ブロックの塀や家屋の壁にへばりついている。かなりの数だ。
 夏場は、ひっきりなしに動かしているあの眼も、ほとんど動かさない。ひたすら暖をとっているのである。
 太陽が東から南へと移っていた。そして、その頃になると、アキアカネたちも、その花畑の、枯れた花柱や葉先、そして咲き誇る菊の花や葉先へと戻っていった。十分に体温を上昇させ、静かで優雅な飛翔が可能になったのだ。
 他の羽虫も同じように、空き地の上を、数は少ないが飛び姶めた。アキアカネの目玉の動きは、その速さと頻度を増していったことは、言うまでもない。
 そして、時々羽虫を追って、パッと花柱から飛び立っては「ス~」と戻るアキアカネの姿が多くなった。
 今年はこのような光景にはまったく出会えない。考えてみるとここ数年、何だか出会っていなかったようなのだ。
 当然あるもの、いるものと考えがちな「植物を含めた生き物」は、「いなくなること」で初めて、それに気づくのである。しかし、それでは「すでに遅い」ということになる。私は今、凄く反省してしている。
 その意味からも、明日から「トンボ」についてのシリーズを始めたいと思っている。(明日に続く。)

秋の雑木林(13) / スズメバチに「襲われる」ということ(最終回)

2008-11-01 05:42:45 | Weblog
(今日の写真は神無月の22日に写したものだ。これだと、まだ秋の風情が濃厚である。とても、冬とはいえない。
 場所は岩木山宮様道路で蔵助沢を弥生方向に渡った辺りである。中央の紅葉はヤマモミジ、濃い緑の葉はミズナラであり、その葉陰に見え隠れしている赤い葉はオオヤマザクラである。)

 今日から11月だ。古くは「霜月」といっていた。陰暦11月の異称である。一般的には、霜降月(しもふりつき)の省略だと言われている。
 なお、別には、十月の「十」は満ちた数なので「上月」、それに対して「十一」は「下月」といい、「霜月」と称したという説や十月を「神無月」というが、これを「上な月」として、それに対して「下な月」と称したものが転じて「霜月」となったという説もある。また、古くは11月のことを「食物月(をしものつき)」と呼んだこともあり、それが「しもつき」と略体化されたという説もある。季語としては「冬」である。
 昨日までは「神無月(かんなづき)」と呼ばれた月である。正しくは、これは「神をまつる月」という意味である。「無(な)」は「水無月(みなづき)」と同じく「の」を意味する格助詞である。
 また、十月は全国の神様が出雲に集まるので、諸国から神がいなくなることによるという説もある。私は恥ずかしいながら、若気の至りかも知れないが、後者の説を重視して、結婚式は「神前」でなく「仏前」でしたのだが、今では前者の説に真意があると思っている。

 ところで、この写真の林の中やこの宮様道路の周辺には色々な形をした「建造物」が見られる。それに、共通していることは「物の製造工場」でもなく、「民家、住宅」でもないということだ。さりとて、粗末な「小屋」では決してない。小屋にしては立派過ぎる。
 さらに、敷地の入り口には「鎖」を張り巡らして「侵入禁止」を主張している。もちろん、建造物の入り口は厳しく「施錠」してある。いわゆる、「別荘」と呼ばれるものなのだろう。

 私はふと、「徒然草の第十一段」を思い出した。それに言う。

 …神無月のころ、栗栖野といふ所を過ぎて、ある山里に尋ね入る事侍りしに、遥かなる苔の細道を踏み分けて、心ぼそく住みなしたる庵あり。木の葉に埋もるる懸樋の雫ならでは、つゆおとなふものなし。閼伽棚に菊・紅葉など折り散らしたる、さすがに、住む人のあればなるべし。
 かくてもあられけるよとあはれに見るほどに、かなたの庭に、大きなる柑子の木の、枝もたわわになりたるが、まはりをきびしく囲ひたりしこそ、少しことさめて、この木なからましかばと覚えしか。…

 これらの「別荘」と思える建物は皆、この宮様道路から直ぐのところ、または宮様道路につながっている林道や「農道」に併行した場所にあるのだ。それらは、少なくとも上述の「徒然草」に言う「遥かなる苔の細道を踏み分けて」入っていくような場所には建ってはいない。
 つまり、「自動車を乗り付けることが可能な場所」に建っているということである。この建物までは「歩くことなく」「一気」に自動車でやって来るのだろう。
これでは、吉田兼好が「栖野といふ所を過ぎて、ある山里に尋ね入る事侍りし」時に感得し得たであろう「山里や雑木林の風情、梢を渡る風のそよぎ、野鳥の鳴き声、様々な木々が見せる色彩の違い」などに触れることが出来ないのではないだろうか…。
 しかも、敷地の入り口には「鎖」を張り巡らし、周囲には柵を巡らしている物もある。その上、建物には施錠だ。「誰も入るな」なのである。加えて、建物はみんな立派であり、華美である。どう見ても「森の中の建造物」としては「森」とマッチしないのだ。「森の中の異物」でしかない。
 まさに「高級で高額な住宅」であり、私の目には「豪邸」に見えてしようがない。弘前の街中には、これよりももっともっと貧相な住宅は沢山ある。
 少なくとも、これらの建物は兼好が言う「心ぼそく住みなしたる庵(ひっそりとした佇まいの庵)」ではないし、「さすがに、住む人のあればなるべし(だれか、それなりに教養のある人が暮らしている様子だ)」と感動させるものでもない。
 ただ、その建物には「住人」の顔はなく、「生活感のない孤独な建造物」としか映らない。
 道路から敷地にかけては自動車の轍痕が残り、直ぐ傍の道路は自動車が走り、その音がひっきりなしに聞こえ、「木の葉に埋もるる懸樋の雫ならでは、つゆおとなふものなし(木の葉に埋もれる懸け樋の雫の音以外には、何の音もしない)」ではない。
 私にとっては、まさに「少しことさめて、これらの建物なからましかばと覚えしか」である。もちろん、そこの所有者なり「住人」に会いたいとも顔を見たいとも思わない。

  ■ スズメバチに「襲われる」ということから何を学ぶべきなのだろう ■

(承前)
 
 安全はもちろん大事である。しかし「安全であること」が目標の上に出てしまうと、それに振り舞わされて「野外学習」の真の目標が影を薄くしてしまうだろう。
 教育委員会は「自然の摂理の中で人を含めたすべての生物は、対等な立場で生きているのである。人間も自然の中の一員に過ぎない。」を子供たちに、体験的に学習させる現場の教員に対して、心を砕いた補償的な行政と指導をするべきである。
 管理は不要だ。管理からは何も生まれないと言っても過言ではない。自然がいっぱいの地域だからといって、それにあぐらをかいて、「安全」だけをお題目として唱えているようなことはよもやあるまい。
 また、人が集まる史跡などを管理しているものは、その周辺地域や通路などを日常的に点検すべきである。それが他の生き物と共存・共生していく最初の手立てである。
 スズメバチとその巣の存在を確認したならば、迂回路などの設定をするべきであった。または、観察に来た児童に、静かに行動をするようにとの指導があってしかるべきだったろう。
 14人が刺され、スズメバチは住みかを破壊されたあげくに、皆殺しにあった。このことを無駄にしてはいけない。自然の摂理の中には無駄なことはなにひとつないのである。(この稿はこれで終わりである。)