岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

赤トンボ(アキアカネ)を思う / 日本人はトンボをどのように見てきたか(4)

2008-11-06 05:48:17 | Weblog
(今日の写真もまたアキアカネである。これはオスだろうか。このくらい接近して写すことが出来るということはこのアキアカネが逃げないからだ。何故逃げないのか、それは恐らく「暖を取っている最中で、瞬時に飛び立って逃げるためのエネルギー」がまだ蓄えられていないからだろう。秋が深まり、気温が下がってくると、よく日溜まりで、じっとして「動かない」アキアカネに出会うことがある。体を温めて18℃ぐらいにしないと、多くの昆虫は活動出来ないのだ。)

 秋になると何故、アキアカネは里に降りて来るのだろう。それは「子孫」を残すためである。オス・メス連翔を続けて「水辺」に卵を産むために里に降りて来るのである。
 「水辺」に卵を産むと書いたが、その水辺の中には「水溜まり」も含まれるということに気づかせられた経験がある。そのことについて書いてみよう。
 私が勤務していた学校の校地の大半は小高い丘になっていた所である。だから元々「平坦な土地」ではなかった。
 だが、学校とは機能として、どうしてもグランド(古くは校庭と呼ばれ、今では競技場と呼ばれている。)を必要とする。だから、まず何をおいても平坦な土地であることが絶対条件なのだ。
 校地としてそのまま使えない地形は、大きな三つの階段の踊り場状に整地されていた。丘を削ってそうしたものだ。一つ目の一番高い階段が野球場、二つ目が競技場で、三つめの一番低い階段上に校舎がある。
 丘の表皮を削いで三面の土地を作ることは、烏賊(いか)の皮を削いで刺身をつくるほどに簡単ではない。表皮(表土)と言ったところで、それが数メートルの厚さとなれば、大工事の自然破壊だ。
 表土を剥いだ。粘土の地面が出来た。この粘土の層は「大和沢粘土層」といって、吸水性は限りなくゼロに近い。地面は、そのままでは競技場になり得ない。
 そこで、表面上は、粘土の表皮を別な物質で覆う厚化粧と、「水捌け」と称した表皮下の工事が行われる。だが、結果は明々白々だ。
 流れて行こうとする雨水は塞き止められ、「粘土層」のため、地下へ潜ることも出来ない。そして、一日雨が降ると三日は使えないという立派な競技場となった。
 トラックもフィルドも水、水、水。氾濫という言葉さながらである。生徒たちはそれを称して「X高沼」「X高湿原」と呼んでいた。
 晴天になると「乾燥」によって水かさは下がるが、あちこちに小さな池塘が出来るのだ。「アキアカネ」が、このグランド上空に多いのは、そこがまさに「水辺」だったからである。
 そして、2匹連翔のアキアカネはその「グランドの水溜まり」にも産卵するのである。ところが、その水溜まりは晴天の日が続くと、「干上がって」しまうのであった。水中に産み落とされた「卵」は、水が枯れてどうなってしまうのだろう。「卵」からかえって幼虫「ヤゴ」として生育する過程では、明らかに「水生昆虫」なのである。
 その「ヤゴ」が水のない「土中」でどのようにして生き抜いていくのだろうか、それとも死滅してしまうのだろうか。それだと、あまりにも悲しい。私には今でも、このアキアカネの行為と結末が不思議でならないのだ。

■ 日本人はトンボをどのように見てきたか・日本人とトンボの付き合い方(4)■

       6.明治期の秋津・日本人の象徴・昭和期

 維新後の日本の近代化は欧米化に他ならず、鹿嗚館に象徴される欧化思想がはびこることになる。それは当然、日本の伝統的な規範や文化の軽視につながるものであった。だが、一方では、天皇を中心とした「国家・社会体制」の再興でもあったのだ。
 そして、明治20年代以降には、またしても「トンボの登場」であった。それはまさに「日本」あるいは「日本人」の象徴としてであった。
 「勝ち虫」の武家社会から再び天皇の統治する国家へと戻った時、トンボはアキツとして再び蘇ったのである。
 「秋津島」は「王政復古の過程」で喧伝され、一般にも広く流布していったものと推察される。
 そのような意味では、「アキツ」は「日本人」の象徴ではなく、「天皇制国家の象徴」と言うべきかも知れない。
 だが、横尾文子によれば、肝心の天皇の詠む歌にトンボは一度も出てこないというのだ。

 明治期以降の「アキツ」の役割はさまざまなものに見て取ることが出来る。
たとえば、関東大震災の折りに緊急に発行された二種類の震災切手の図案が、いずれもトンボであったこともその一つである。
 これもたまたまトンボが選ばれたと言うよりは、国家存亡の危機だからこそ「アキツ」が選ばれたと見るべきであろう。
 「アキツシマ」は国粋的な風潮の中で、自然の秀麗な国の表現として教えられた。だが次第に大きな戦争の中で「アキツシマ」は枕詞として、大和の国を修飾するだけの言葉になってしまった。
 以上は、いわば知識人や支配階級によって培われた観念的自然観に基づく「トンボの見方」と言える。
 そのような「トンボ」の見方とは別に、直接「トンボ」と触れ合ってきた一般庶民(農民)の間には、いわば「体感的自然観」とでもいうべき見方が存在したのではないだろうか。その流れを次に見ていこう。

      7.「秋の季は赤とんぼに定まりぬ」それは季節のシンボル(その1)

 農耕を営む者にとって、もっとも関心の高い事象は季節の推移ではなかろうか。平安時代に作られたとされる国宝「自然粕秋草文人壷」には「ススキ」とおぼしい秋の草とともに、「トンボ」の絵が刻まれている。
 このことは、この時代すでに、秋という季節の象徴として「トンボ」が意識されていたことを示すものであるだろう。
 また、花鳥風月の和歌の中で詠まれずとも庶民にとっては、季節の中の虫として意識されていたことを明白に示すものであろう。
 秋という季節のシンボルとしての「トンボ」は、今に至るまで連綿と続いている。(明日に続く。)